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最初の一週間
突然のアプローチ
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そろそろ飲むのを止めなきゃと思いながらも、学生時代を思い出す様な楽しい時間についつい調子に乗ってしまう。なんだかお腹一杯になったなぁと思った時にはもう、4本もボトルを空けていた。
「リオー!結構、飲むんだなぁ」
ヴィクターがびっくりした様子で、私の目の前に並ぶ空のボトルを指で数えた。
「意外だよな!見た感じ、飲みそうな女の子には見えないけど、なかなか頼もしいじゃないか」
クリスティアンが笑いながら身を乗り出し、私と乾杯をかわした。そういうクリスティアンは私なんかよりもっと飲んでいるし、ヴィクターだってもう、7、8本くらいは飲んでいる。しかも、二人とも顔色さえ変わってない。
「ヴィクターが飲んでいるの、すごく、濃い色のビールだよね。これ、なんて読むの?」
「Schwarzbier、シュヴィァルツヴィア、その名の通り、黒ビール、って意味」
「ふうん、色からして苦そうな感じ。私がいただいている、こっちのはすごく飲み易いんだけど、ちょっと甘いかな、、?」
「それはね、Berliner Weiße、ベルリーナヴァイセ、っていうの。ラズベリーと甘いシロップが入ってて、アルコール度数も低めだから、私も結構飲むことあるよ」
赤ワインを飲んでいるアナマリーが横から教えてくれたが、彼女はもうほんのり頬が赤らんでいる。
「アナマリー、少し赤くなってるね」
私がそう言って笑うと、アナマリーがちょっと照れた様に首をすくめ、そして私の頬を指でつん、と押した。
「自分もなってるの、気がついてないの?リオも、赤い」
「え、ほんと?私、あまり変わらないって言われるんだけどなぁ?」
びっくりして頬に触れてみると、確かに熱を持っている感じがした。
「久しぶりに飲んだからかも。もう、これで最後にしとく!」
私は手に持っているビール瓶を持ち上げてそう決意を述べた。
「上に泊まっているなら、別にいいじゃないか、こっちも味見してみたら」
クリスティアンが、持っていた黒ビールを私に差し出して来た。彼の隣のマーラの顔が引きつるのを私は見逃すことはなく、丁寧にお断りする。
「結構です。もう、充分飲んだし、明日の予定に響くと困るし」
「なんだ、それは残念!酔っぱらってるの見たかったのに」
クリスティアンは頬にかかっていた髪を雑にかきあげて、どかっとソファの背もたれによりかかり天井を仰いだ。
「リオ、明日、早くから予定が入ってるの?」
マーラに聞かれて、私は笑った。
「昼頃からね。昔からの友人が、私を心配してBBQをしてくれることになって」
「心配してって?」
「うーん、私が、人付き合いが苦手だから……かな?」
曖昧に答えていると、アナマリーが興味深げに聞いて来る。
「人付き合い?とっても話し易くて、全然、人付き合いに苦労しているように見えないけど。ね、ヴィクター?」
「えっ、俺?」
いきなり聞かれて、不意打ちをくらったかのように目を丸くしたヴィクター。
「だって、貴方の友達なんでしょ?」
「そうだけど……まぁ、別に特に人間付き合いが苦手な感じはしなかったけどさ?相手によるんじゃないか?な、リオ?」
「うーん、ま、そうなのかな、あはは、自分でもよく分らない」
答えに困り、ごまかし笑いになってしまった。
簡単に言えば、女友達、男友達相手には全く問題がないのだけど、彼氏となると急にうまく人間関係を構築出来ない、という問題なのだが、それをここで告白したら、単なる恥さらしだろう。
何もここでそんなことをバラす必要はない。
「人付き合いが苦手、といえば、ヴィクターもちょっとその気があるんじゃないの?」
マーラが少しだけ心配そうに眉を潜めてそう言うと、ヴィクターがバツの悪そうな顔で眉をしかめ、その話題はやめろ、と言わんばかりに彼女を睨む。マーラはさりげなくクリスティアンに寄りかりその影に隠れ、ヴィクターの視線から逃れた。
「ヴィクターの、お人好しなところ、友達としては大歓迎なんだけどね」
「マーラ!もうやめろ!これでも食べてろ!」
ヴィクターが牽制するようにポップコーンを掴んでマーラに投げた。雪のようにパラパラと落ちて来るポップコーンが可笑しくて、私達はぷっと笑い出す。クリスティアンがソファにパラパラと落ちたポップコーンを拾って食べながら、悪ガキのような笑みを浮かべて私達全員を見渡す。
「俺も、ヴィクターが怒ってるとことは見た事ないんだ。サビーナの時だって、俺だったら絶対に何かしでかしてたと思うけど、こいつは、黙って、はいそうですか、だからな」
「クリスティアン!余計なことを言うな!」
ヴィクターが声を荒げたら、クリスティアンは何故かちらっと私を見て、冗談ぽく笑いながら話を続ける。
「ま、見方によっては、こいつ自身が、サビーナにあまりこだわってなかったってことかもな。こいつはスペイン人にはめっきり弱いやつなんだ。な、そうだろ、ヴィクター?」
「おいっ!」
身を乗り出して牽制するヴィクターを無視して、クリスティアンは周りを見回し、同意を求めるかのようににやりと笑みを浮かべる。
「なぁ、考えてみろよ?本気で付き合ってたら、浮気した恋人に対してあんな冷静さを保てるとは思えないだろう?まぁ、彼女が、煮え切らないヴィクターに愛想をつかしたってことも多いにありえる。そう考えたら、浮気されても、こいつの自業自得ってことか?」
「え、浮気……?」
アナマリーと私が思わず、二人で顔を見合わせてびっくりしていると、結局全てをばらされてしまったヴィクターが片手で顔を覆い、ずるずるとソファに身を沈める。そして、指の隙間から、恨めしそうにクリスティアンとマーラを上目遣いで睨んだ。
「おまえら、飲み過ぎだ。クリスティアン、それ以上ぺらぺら喋るんなら、窓から放り出すぞ」
「おっ、生ける聖人、ヴィクターもさすがに我慢の限界があるらしい」
クリスティアンが目を細めてクスクスと笑い、さすがにもうそのことについて触れる事はなかった。それからしばらくは、アナマリーとヴィクターが職場のクレーム処理関係のエピソードを話しだして、とんでもないクレーマーのことや、信じられないクレームなど、業界でしかわからないような興味深い話をしてくれた。
気がつけばもう夜の11時を過ぎて、テーブルにあったおつまみも、ポテサラバゲットも空になっていた。
「もうちょっと追加、する?」
聞いてみたら、ジョーとクリスティアンがまだ食べると言ったので、私は残りのバゲットを切ることにしてキッチンへ行く。冷蔵庫に入れてもらっていたバゲット1/2本がふたつあったので、とりあえず両方とも取り出し、ひとつはラップから取り出してカッティングボードの上でスライスする。お皿にスライスしたポテサラバゲットを並べてみると、もうこれで充分じゃないかと思う量だ。
コン、コン、と開いているドアをノックする音がして振り返ると、ドアのところにクリスティアンが立っていた。
「リオ?待てなくて来ちゃったよ」
日本語でそう言われて、やっぱり変な気分で笑ってしまった。どう見ても日本語を話しそうにない顔の人が、あまり訛りを感じさせない発音でしゃべると、映画の吹き替えを見ているような感じがする。
「ごめん、切るのに時間がかかったね」
そう言ってナイフをシンクに置くと、中に入って来たクリスティアンがプレートを片手で取りながら、うっすらと目を細めて怪しく微笑みかけて来た。
「ちがう。これじゃなくて、君が戻って来るのが待てなかった、って意味」
「……あのねぇ……やっぱり、飲み過ぎなんじゃない?」
恋人がリビングルームに居るというのに、日本語を喋れることを利用して、そういう浮ついたセリフをいうクリスティアン。自分がイケている男だと、いかにも自覚している風の態度も、若干苛つく。
「リオ、彼氏いるの」
「えー……」
彼氏はいないはずだが、プロポーズしてきた元彼は、いる。
どう答えたら一番分り易いのか考えつつ、残りの1/2本のバゲットを冷蔵庫へ入れようと手に取ると、クリスティアンがいきなり近づいて来て、意味深な目で私を見下ろした。
「すぐに返事が出ないってことは、いないってことだな?」
「いない、とは言ってないよ」
「俺さ」
クリスティアンは、秘密を打ち明けるように声を潜めた。
「また、来年の春から東京に行くつもりなんだ」
「えっ」
びっくりして彼を見ると、どうやら嘘ではないのか、栗色の目を煌めかせて楽しそうに頷いた。
「東京のドイツ出資の会社で、内定が決まってさ。夏に面接に東京に行ってたんだ。こっちで採用されて、出向という感じで行くから、待遇も結構いいみたいだし」
「ふうん、、、でもそれは、決心するのに勇気が入りそうだね」
「そうでもないさ。川崎に1年居た時、東京にもよく行ってたから、友達もいるし」
「そうだね。もう、住んでた事もあって、現地に友達がいるなら、ゼロからのスタートじゃないし……」
そう言いかけて、リビングから聞こえて来たマーラの笑い声にふと気がついた。
「マーラは知っているの?」
「いや。まだ、言ってないけど、そろそろ言わないとなぁ……」
「……一緒に行けないんだね」
「えっ、一緒に?行けるわけ、ないじゃないか」
「不可能じゃないでしょ」
私は拓海のことを思い出していた。外国に転勤が決まったことも、プロポーズした理由になるって言っていたから、クリスティアンだって、マーラと一緒に居たければ、そういう手だってあるはずだ。
私が想像していることに気がついたらしいクリスティアンが、ちょっとだけきまり悪そうに苦笑いする。
「さっき、言っただろ?彼女とは、トモダチみたいなものでさ……よくわからないうちに、付き合っているみたいな感じになって、俺もなし崩し的に言いなりになってて……それに、まだ3ヶ月くらいの付き合いだから、情みたいなものもないし」
「……それって」
そんないい加減な気持ちで付き合っているなんて!と言いそうになり、はっと気がつく。そういう私だって、人様のことを言えたものじゃない。拓海のことを好きではあったけれど、どこかが違う気がするという疑いの気持ちを持ったまま、しばらく付き合っていたじゃないか。いや、でも、私はちゃんと、そのことを伝えた。
でも……伝えたつもりが、相手はそれを受け入れてなかったから、結局はこの7ヶ月、私が拓海を束縛していたようなものかもしれない。
そう考えたら、私って最低な女だ。
「俺も、マーラにはきちんと言うつもりなんだ。彼女も、俺が真剣に付き合ってないことは気がついているし、驚きはしないだろうけど、ね」
「ふうん」
他に何も言いようがなくて、私は黙り込んだ。
クリスティアンの話し振りを聞いている限り、彼は本当にきっぱりとそのことをマーラに言うに違いない。どんなに泣かれようと、彼はきっと、後を引かないように完全に切り離しそうだ。
でもそれは多分、マーラ自身の為を思えばベストの別れ方かもしれない。
7ヶ月も相手は別れを受け入れていないままと知らずにいた私。
その拓海のプロポーズを保留にしている自分も、また、新たな決断をしないといけない立場だ。こうして返事を待たせている間、拓海だって苦しんでいるに違いない。マーラもきっと、完全には把握しきれないクリスティアンの心を感じて、いつも不安に思っているのだろう。拓海とマーラの立場が似ているような気がして、辛い気持ちになる。
「リオ?」
名前を呼ばれてはっとして顔をあげると、さっきまで苦笑いしていたはずのクリスティアンがとても真面目な顔をして私を見ていた。なんだろうと思って顔を見ていると、クリスティアンがじっと私の目を見つめて、それから、静かに口を開いた。
「俺と、付き合う?」
一瞬、何を言われたのかわけが分らず、目が点になる。
俺と、付き合う?
付き合う、って、何?
「冗談なしで。春から東京に住むつもりだから、現実的に考えてる。リオ、シングルなら、俺と付き合おう。遊びじゃなくて、真面目に」
「……真面目に……とか、現実的に、とか言ってるけど……あまりにも、発想が、軽くない?!?」
思わず声が掠れた。
ナンパ自体に驚いているわけじゃないが、一応、付き合っている恋人が隣のリビングルームに居るのに、こうやって人を口説くなんて、信じられないほどずぶとい神経だ。
軽蔑しそうになって睨みつけていると、クリスティアンは怯む様子もなく、逆にクスッと微笑みを浮かべた。
「タイミングも場所もありえないくらい最低最悪なのは知ってる。でも、さっき、君の職場が、俺が行こうと思っている会社と同じエリアだと気がついて、これになにか運命的なものを感じたんだ。君もあと一週間しかここに居ないわけだし、チャンスは今しかないじゃないか」
「クリスティアン、絶対、飲み過ぎだと思うよ!頭、冷やしてきたほうがいいと思う」
「俺は、酔ってない。完全に頭はクリアな状態」
クリスティアンはそう言うと、テーブルについていた私の左手の手首を掴んだ。びっくりして手を引こうとすると、そのまま引き寄せられ、勢いでどん、と彼の胸に顔がぶつかる。
「……っ」
思い切り顔をぶつけたその胸を押しのけようとすると、クリスティアンが身を屈めて私の顔を覗き込んだ。
「リオ、君はとても魅力的な大人の女性だ。俺は冗談でこんなことを言うほど、暇人じゃない」
「……っ、とにかく、この手を、離してよ」
掴まれている手首を引っ張ると、クリスティアンが悪ガキのように意地悪な笑みを浮かべた。
「キスさせてくれるなら、すぐに離す」
「!」
驚いているといきなり掴んでいた手首を引っ張られると同時に、背中に腕が回るのに気がついた。私は咄嗟に、右手に持っていた1/2本のポテサラバゲットのラップ巻きを振り上げ、彼の頭めがけて思い切り投げつけた。
バシン、と音がして一瞬目を閉じると、直後にドサッと何かが落ちる音がした。
「リオー!結構、飲むんだなぁ」
ヴィクターがびっくりした様子で、私の目の前に並ぶ空のボトルを指で数えた。
「意外だよな!見た感じ、飲みそうな女の子には見えないけど、なかなか頼もしいじゃないか」
クリスティアンが笑いながら身を乗り出し、私と乾杯をかわした。そういうクリスティアンは私なんかよりもっと飲んでいるし、ヴィクターだってもう、7、8本くらいは飲んでいる。しかも、二人とも顔色さえ変わってない。
「ヴィクターが飲んでいるの、すごく、濃い色のビールだよね。これ、なんて読むの?」
「Schwarzbier、シュヴィァルツヴィア、その名の通り、黒ビール、って意味」
「ふうん、色からして苦そうな感じ。私がいただいている、こっちのはすごく飲み易いんだけど、ちょっと甘いかな、、?」
「それはね、Berliner Weiße、ベルリーナヴァイセ、っていうの。ラズベリーと甘いシロップが入ってて、アルコール度数も低めだから、私も結構飲むことあるよ」
赤ワインを飲んでいるアナマリーが横から教えてくれたが、彼女はもうほんのり頬が赤らんでいる。
「アナマリー、少し赤くなってるね」
私がそう言って笑うと、アナマリーがちょっと照れた様に首をすくめ、そして私の頬を指でつん、と押した。
「自分もなってるの、気がついてないの?リオも、赤い」
「え、ほんと?私、あまり変わらないって言われるんだけどなぁ?」
びっくりして頬に触れてみると、確かに熱を持っている感じがした。
「久しぶりに飲んだからかも。もう、これで最後にしとく!」
私は手に持っているビール瓶を持ち上げてそう決意を述べた。
「上に泊まっているなら、別にいいじゃないか、こっちも味見してみたら」
クリスティアンが、持っていた黒ビールを私に差し出して来た。彼の隣のマーラの顔が引きつるのを私は見逃すことはなく、丁寧にお断りする。
「結構です。もう、充分飲んだし、明日の予定に響くと困るし」
「なんだ、それは残念!酔っぱらってるの見たかったのに」
クリスティアンは頬にかかっていた髪を雑にかきあげて、どかっとソファの背もたれによりかかり天井を仰いだ。
「リオ、明日、早くから予定が入ってるの?」
マーラに聞かれて、私は笑った。
「昼頃からね。昔からの友人が、私を心配してBBQをしてくれることになって」
「心配してって?」
「うーん、私が、人付き合いが苦手だから……かな?」
曖昧に答えていると、アナマリーが興味深げに聞いて来る。
「人付き合い?とっても話し易くて、全然、人付き合いに苦労しているように見えないけど。ね、ヴィクター?」
「えっ、俺?」
いきなり聞かれて、不意打ちをくらったかのように目を丸くしたヴィクター。
「だって、貴方の友達なんでしょ?」
「そうだけど……まぁ、別に特に人間付き合いが苦手な感じはしなかったけどさ?相手によるんじゃないか?な、リオ?」
「うーん、ま、そうなのかな、あはは、自分でもよく分らない」
答えに困り、ごまかし笑いになってしまった。
簡単に言えば、女友達、男友達相手には全く問題がないのだけど、彼氏となると急にうまく人間関係を構築出来ない、という問題なのだが、それをここで告白したら、単なる恥さらしだろう。
何もここでそんなことをバラす必要はない。
「人付き合いが苦手、といえば、ヴィクターもちょっとその気があるんじゃないの?」
マーラが少しだけ心配そうに眉を潜めてそう言うと、ヴィクターがバツの悪そうな顔で眉をしかめ、その話題はやめろ、と言わんばかりに彼女を睨む。マーラはさりげなくクリスティアンに寄りかりその影に隠れ、ヴィクターの視線から逃れた。
「ヴィクターの、お人好しなところ、友達としては大歓迎なんだけどね」
「マーラ!もうやめろ!これでも食べてろ!」
ヴィクターが牽制するようにポップコーンを掴んでマーラに投げた。雪のようにパラパラと落ちて来るポップコーンが可笑しくて、私達はぷっと笑い出す。クリスティアンがソファにパラパラと落ちたポップコーンを拾って食べながら、悪ガキのような笑みを浮かべて私達全員を見渡す。
「俺も、ヴィクターが怒ってるとことは見た事ないんだ。サビーナの時だって、俺だったら絶対に何かしでかしてたと思うけど、こいつは、黙って、はいそうですか、だからな」
「クリスティアン!余計なことを言うな!」
ヴィクターが声を荒げたら、クリスティアンは何故かちらっと私を見て、冗談ぽく笑いながら話を続ける。
「ま、見方によっては、こいつ自身が、サビーナにあまりこだわってなかったってことかもな。こいつはスペイン人にはめっきり弱いやつなんだ。な、そうだろ、ヴィクター?」
「おいっ!」
身を乗り出して牽制するヴィクターを無視して、クリスティアンは周りを見回し、同意を求めるかのようににやりと笑みを浮かべる。
「なぁ、考えてみろよ?本気で付き合ってたら、浮気した恋人に対してあんな冷静さを保てるとは思えないだろう?まぁ、彼女が、煮え切らないヴィクターに愛想をつかしたってことも多いにありえる。そう考えたら、浮気されても、こいつの自業自得ってことか?」
「え、浮気……?」
アナマリーと私が思わず、二人で顔を見合わせてびっくりしていると、結局全てをばらされてしまったヴィクターが片手で顔を覆い、ずるずるとソファに身を沈める。そして、指の隙間から、恨めしそうにクリスティアンとマーラを上目遣いで睨んだ。
「おまえら、飲み過ぎだ。クリスティアン、それ以上ぺらぺら喋るんなら、窓から放り出すぞ」
「おっ、生ける聖人、ヴィクターもさすがに我慢の限界があるらしい」
クリスティアンが目を細めてクスクスと笑い、さすがにもうそのことについて触れる事はなかった。それからしばらくは、アナマリーとヴィクターが職場のクレーム処理関係のエピソードを話しだして、とんでもないクレーマーのことや、信じられないクレームなど、業界でしかわからないような興味深い話をしてくれた。
気がつけばもう夜の11時を過ぎて、テーブルにあったおつまみも、ポテサラバゲットも空になっていた。
「もうちょっと追加、する?」
聞いてみたら、ジョーとクリスティアンがまだ食べると言ったので、私は残りのバゲットを切ることにしてキッチンへ行く。冷蔵庫に入れてもらっていたバゲット1/2本がふたつあったので、とりあえず両方とも取り出し、ひとつはラップから取り出してカッティングボードの上でスライスする。お皿にスライスしたポテサラバゲットを並べてみると、もうこれで充分じゃないかと思う量だ。
コン、コン、と開いているドアをノックする音がして振り返ると、ドアのところにクリスティアンが立っていた。
「リオ?待てなくて来ちゃったよ」
日本語でそう言われて、やっぱり変な気分で笑ってしまった。どう見ても日本語を話しそうにない顔の人が、あまり訛りを感じさせない発音でしゃべると、映画の吹き替えを見ているような感じがする。
「ごめん、切るのに時間がかかったね」
そう言ってナイフをシンクに置くと、中に入って来たクリスティアンがプレートを片手で取りながら、うっすらと目を細めて怪しく微笑みかけて来た。
「ちがう。これじゃなくて、君が戻って来るのが待てなかった、って意味」
「……あのねぇ……やっぱり、飲み過ぎなんじゃない?」
恋人がリビングルームに居るというのに、日本語を喋れることを利用して、そういう浮ついたセリフをいうクリスティアン。自分がイケている男だと、いかにも自覚している風の態度も、若干苛つく。
「リオ、彼氏いるの」
「えー……」
彼氏はいないはずだが、プロポーズしてきた元彼は、いる。
どう答えたら一番分り易いのか考えつつ、残りの1/2本のバゲットを冷蔵庫へ入れようと手に取ると、クリスティアンがいきなり近づいて来て、意味深な目で私を見下ろした。
「すぐに返事が出ないってことは、いないってことだな?」
「いない、とは言ってないよ」
「俺さ」
クリスティアンは、秘密を打ち明けるように声を潜めた。
「また、来年の春から東京に行くつもりなんだ」
「えっ」
びっくりして彼を見ると、どうやら嘘ではないのか、栗色の目を煌めかせて楽しそうに頷いた。
「東京のドイツ出資の会社で、内定が決まってさ。夏に面接に東京に行ってたんだ。こっちで採用されて、出向という感じで行くから、待遇も結構いいみたいだし」
「ふうん、、、でもそれは、決心するのに勇気が入りそうだね」
「そうでもないさ。川崎に1年居た時、東京にもよく行ってたから、友達もいるし」
「そうだね。もう、住んでた事もあって、現地に友達がいるなら、ゼロからのスタートじゃないし……」
そう言いかけて、リビングから聞こえて来たマーラの笑い声にふと気がついた。
「マーラは知っているの?」
「いや。まだ、言ってないけど、そろそろ言わないとなぁ……」
「……一緒に行けないんだね」
「えっ、一緒に?行けるわけ、ないじゃないか」
「不可能じゃないでしょ」
私は拓海のことを思い出していた。外国に転勤が決まったことも、プロポーズした理由になるって言っていたから、クリスティアンだって、マーラと一緒に居たければ、そういう手だってあるはずだ。
私が想像していることに気がついたらしいクリスティアンが、ちょっとだけきまり悪そうに苦笑いする。
「さっき、言っただろ?彼女とは、トモダチみたいなものでさ……よくわからないうちに、付き合っているみたいな感じになって、俺もなし崩し的に言いなりになってて……それに、まだ3ヶ月くらいの付き合いだから、情みたいなものもないし」
「……それって」
そんないい加減な気持ちで付き合っているなんて!と言いそうになり、はっと気がつく。そういう私だって、人様のことを言えたものじゃない。拓海のことを好きではあったけれど、どこかが違う気がするという疑いの気持ちを持ったまま、しばらく付き合っていたじゃないか。いや、でも、私はちゃんと、そのことを伝えた。
でも……伝えたつもりが、相手はそれを受け入れてなかったから、結局はこの7ヶ月、私が拓海を束縛していたようなものかもしれない。
そう考えたら、私って最低な女だ。
「俺も、マーラにはきちんと言うつもりなんだ。彼女も、俺が真剣に付き合ってないことは気がついているし、驚きはしないだろうけど、ね」
「ふうん」
他に何も言いようがなくて、私は黙り込んだ。
クリスティアンの話し振りを聞いている限り、彼は本当にきっぱりとそのことをマーラに言うに違いない。どんなに泣かれようと、彼はきっと、後を引かないように完全に切り離しそうだ。
でもそれは多分、マーラ自身の為を思えばベストの別れ方かもしれない。
7ヶ月も相手は別れを受け入れていないままと知らずにいた私。
その拓海のプロポーズを保留にしている自分も、また、新たな決断をしないといけない立場だ。こうして返事を待たせている間、拓海だって苦しんでいるに違いない。マーラもきっと、完全には把握しきれないクリスティアンの心を感じて、いつも不安に思っているのだろう。拓海とマーラの立場が似ているような気がして、辛い気持ちになる。
「リオ?」
名前を呼ばれてはっとして顔をあげると、さっきまで苦笑いしていたはずのクリスティアンがとても真面目な顔をして私を見ていた。なんだろうと思って顔を見ていると、クリスティアンがじっと私の目を見つめて、それから、静かに口を開いた。
「俺と、付き合う?」
一瞬、何を言われたのかわけが分らず、目が点になる。
俺と、付き合う?
付き合う、って、何?
「冗談なしで。春から東京に住むつもりだから、現実的に考えてる。リオ、シングルなら、俺と付き合おう。遊びじゃなくて、真面目に」
「……真面目に……とか、現実的に、とか言ってるけど……あまりにも、発想が、軽くない?!?」
思わず声が掠れた。
ナンパ自体に驚いているわけじゃないが、一応、付き合っている恋人が隣のリビングルームに居るのに、こうやって人を口説くなんて、信じられないほどずぶとい神経だ。
軽蔑しそうになって睨みつけていると、クリスティアンは怯む様子もなく、逆にクスッと微笑みを浮かべた。
「タイミングも場所もありえないくらい最低最悪なのは知ってる。でも、さっき、君の職場が、俺が行こうと思っている会社と同じエリアだと気がついて、これになにか運命的なものを感じたんだ。君もあと一週間しかここに居ないわけだし、チャンスは今しかないじゃないか」
「クリスティアン、絶対、飲み過ぎだと思うよ!頭、冷やしてきたほうがいいと思う」
「俺は、酔ってない。完全に頭はクリアな状態」
クリスティアンはそう言うと、テーブルについていた私の左手の手首を掴んだ。びっくりして手を引こうとすると、そのまま引き寄せられ、勢いでどん、と彼の胸に顔がぶつかる。
「……っ」
思い切り顔をぶつけたその胸を押しのけようとすると、クリスティアンが身を屈めて私の顔を覗き込んだ。
「リオ、君はとても魅力的な大人の女性だ。俺は冗談でこんなことを言うほど、暇人じゃない」
「……っ、とにかく、この手を、離してよ」
掴まれている手首を引っ張ると、クリスティアンが悪ガキのように意地悪な笑みを浮かべた。
「キスさせてくれるなら、すぐに離す」
「!」
驚いているといきなり掴んでいた手首を引っ張られると同時に、背中に腕が回るのに気がついた。私は咄嗟に、右手に持っていた1/2本のポテサラバゲットのラップ巻きを振り上げ、彼の頭めがけて思い切り投げつけた。
バシン、と音がして一瞬目を閉じると、直後にドサッと何かが落ちる音がした。
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