10月2日、8時15分の遭遇(前編)

ライヒェル

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最初の一週間

思い込みと先入観

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森鴎外記念館へは予想以上にスムースに辿り着いた。白磁の建物の壁に大きく「鴎外」描かれているのですぐに気がつく。想像していたよりこじんまりとしていて、来訪者も少なかったけれど、鴎外が当時暮らしていた様子が伺える部屋が再現されていて、100年以上も昔に鴎外がドイツに居たという事実を興味深く感じることが出来た。私は鴎外の「舞姫」という作品が、ベルリンでの生活をもとに書かれたものだと知らなかった。日本へ帰国したら早速本屋で探してみようと思う。
記念館を出た後は、周辺を歩き回って街を観光し、大勢の人で賑わうフリードリッヒ駅に戻る。
今日は夕方、友達の蓮美ちゃん宅で夕食をご馳走になることになっているので、一度準備も兼ねてウィークリーアパートに戻ることにした。
蓮美ちゃんは、私がアメリカ留学していた時に語学学校で知り合った友人だ。
短大を出て、3年間営業事務として働いて留学資金を貯めた私は、23歳になる直前に仕事を辞めて、アメリカのロサンゼルスへ半年間の語学留学へ飛び立った。その時に、同じ語学学校に居たのが蓮美ちゃんだ。
彼女は、その時代に現地で知り合ったドイツ人留学生と恋に落ちて、結局そのまま婚約、そして結婚して、現在はベルリンに住んでいる。
旦那様の名前はペーター、1歳の娘さんはリリカちゃん。
蓮美ちゃんは私の3歳上で、この間31歳になったばかり、旦那様も同じ年齢だ。
私もロサンゼルスの語学学校に通っていた時にペーターに会った事はあるけれど、ペーターが学校に入学してまもなく私は帰国したので、彼のことは詳しくは知らない。
蓮美ちゃんは1年間の語学留学の後、コミュニティカレッジのESLコースを受けて、合計3年間、ロサンゼルスに住んでいた。彼女はその間にペーターと婚約して、日本に一時帰国後はすぐにドイツへ飛び立ち結婚、出産と慌ただしい人生を送っている。
私は半年留学を終えた後は、予定通り帰国して、就職活動を経て現在は某卸会社で国際事業部の職に就いている。もうこの仕事をして3年半、そろそろまた辞めたい虫がうずうずしてきてしまった。
なぜか、仕事をして3年目に入ると、辞めたくなってくる。
職場も居心地がよく、仕事もスムースにこなせるようになり、緊張感に欠けた平和な日々になってくると、もう駄目だ。
スリルがないと生きて行けない?
いや、そこまではないと思うけれど、このままだと、あっと言う間に10年くらい過ぎてしまいそうな、そんな不安に襲われてしまうからだ。
飲み会や合コンだって行ってるし、今は彼氏はいないけれど、それなりに交際した経験だってあるし、遊び相手に困らない程度に付き合いのいい女友達もいる。
そうやって客観的に考えれば、私ってかなり贅沢なのかもしれない。
今回こうやってまた、知らない土地に来て、何か発見出来るだろうか。
私は静かな電車の中をぐるりと見渡してみた。
アメリカと違って、どこか暗そうな、重い雰囲気を感じるのは気のせいだろうか。ロサンゼルスでは、街のどこからでも笑い声や音楽が聞こえてきたのに、この車内は、堅苦しい空気に閉ざされた箱のようだ。
ドイツ人って、あまり笑ったりしないんだろうか。
そんなはずはないだろうが、きっと冗談とかあまり通じない気がする。
ノリの悪さとか、ジョークの通じなさは、考えようによっては日本と似ているかもしれない。いや、日本も関西方面だと全然違うだろうけれど、東京の人間は一概にしてクールだと思う。

最寄りの駅に到着し、表に出て来たところで、お腹が空いている事に気がついた。
よく考えたら、朝ご飯をセルフサービス型のベーカリーカフェで食べたきり。
もう午後の3時になっている。
今朝は、あちこち歩いて回った挙げ句、普通のカフェに入る勇気が出なくって、セルフサービス型のベーカリーカフェ「Back-Factory」というチェーン店に入ってしまった。飲み物も、カップを自分でセットしてボタンを押すだけ。パンやサンドイッチもトングでケースから取り出し自分のプレートに乗せて、それらをレジに持って行って会計するという、社員食堂みたいなシンプルさ。
これだと、ウエイトレスと会話することもなく食事にありつけるわけだ。
確かに味はまぁ、感動を呼ぶものではなかったけれど……
本当は、お洒落なカフェに入って、きちんとメニューを見て、美味しそうな朝食セットでも注文したいけれど、やっぱりまた、1人で入る勇気は持ち合わせていない。
これが、英語圏だったら問題なくこなしていただろうけど……

蓮美ちゃんは仕事をしているので、平日は私1人で過ごすしかないと分って来ているのに、しょっぱなから弱気な自分が情けないけれど、まだまだ滞在期間はあるから、前半くらい無理しないでもいいだろう。
空腹なのは間違いないけれど、今からまた同じBack-Factoryに行くのも面倒だし、1人でカフェに入る気分にもなれないので、そのままアパートに戻る事にして歩き出す。
夕食まで3、4時間くらい、アパートにあるお茶でごまかせばいい!
確か、ハーブティみたいな箱がいくつかキッチンの棚に入っていたはず。
空きっ腹に弱気な自分を自覚したせいか、気がつくと視線が低くなり、足下を見ながらウイークリーアパートのほうへ歩く。道路はよく見ていないと、犬の糞が落ちているから、気をつけて歩かないと靴を汚してしまう。そんことを思っていると、落ち葉をかき集めてあるところでビーグル犬が用をたしているのを目撃した。
確か、フランスのパリも犬の糞が大問題だったのではないだろうか。
昨晩の大雨で濡れた道路に、誰かが犬の糞を誤って踏んづけたらしい形跡があって、思わず目を背ける。
犬は大好きだけど、糞の世話をきちんとしない飼い主は迷惑だ。
日本の私の実家の周辺には、ハトの糞害がひどいところがあって、町内会の人がハト糞害対策会議の回覧板を回して来たことがあったけど、犬だろうと、ハトだろうと、糞害はどこの国でも永遠のテーマかもしれない。
でも、この地球に生きているのは人間だけじゃないから、共に同じ星で生きる権利を持ちながら、人間の快適さを追求するあまり、他の生物に糞のマナーを押し付けるのは図々しいことじゃないだろうか。
……って、私、ベルリンまで来て何を考えているんだ?!
糞のことばかり考えたことに気がついて、自分に呆れる。
なぜ、糞なんかに捕われているんだろう?!
もっと、素敵なことを考えないと!
そう、素敵なこと。
素敵な……?
で、それって何だろう?
堂々巡りになる思考に混乱しながら、アパートの表玄関の柵を開けて中庭に入る。ゴミ置き場、駐輪場のある中庭を通って、ウィークリーアパートの棟のほうへ歩いていると、棟の扉の曇りガラスに人影が見えてドキリとする。
人に会うのにいちいち緊張してしまう、27歳。
この情けない事実。
扉が開いて人が出て来るのが見え、咄嗟にゴミ箱のほうへ方向転換し、バッグの中に入っている空のペットボトルを取り出した。プラスチックの絵が書かれている黄色の大きいコンテナの蓋をあけようと手を伸ばす。
コンテナの蓋を開けようとしたものの、それが尋常じゃない重さで持ち上がらず、ぎゅうと力を込めて押し上げようと踏ん張ってみる。
「それは、不可能」
背後から英語が聞こえ、飛び上がるほどびっくりして振り返ると、彼はコンテナの上のほうを指差した。
「上の丸い穴から入れるんだよ」
「あ、そうなんだ……ありがとう」
見れば、コンテナの蓋には、大きな丸い穴が二つ開いていて、そこから中のゴミも少し見えた。開かないように閉められている蓋をこじ開けようとしていた恥ずかしさに耳が熱くなるのを感じながら、ペットボトルを穴のほうへ転がし入れる。
背後の人の気配がまだある居心地の悪さに、そそくさと踵を返しその場を立ちさろうとすると、またその声が追っかけて来た。
「もしかして、朝、転んだ子?」
「えっ」
転んだ子、というのに驚いて振り返った。
そういえば、どこかで見た様な顔だと思ったら……
カマキリのような緑のシャツを着て床で寝ていたあの泥酔男!
「転んだ、というよりは」
キミに転ばされたんだけどね、と言いそうになって黙ると、彼は急に笑顔になった。
「上のウイークリーに泊まってるんだろ?だから、ゴミの捨て方もわからないんだ」
森鴎外記念館で入場料を払った時以降、誰とも喋っていなかった私は妙に寡黙になってしまい、黙って頷くしか出来なかった。
引きこもりの人の気持ちがわからないでもない。
人と接触することが減ると、ますますコミュニケーションが苦手になってしまうんだろう。これって悪循環だ。
「それで、なにしてるの、今は」
唐突にそんなことを聞かれて、意味が分らずしばらくその顔を眺めた。
「……旅行に来てる」
「それは知ってるけど、聞いているのは今、現在、この瞬間」
「ご覧の通り、帰って来たところ」
ようやくなんとか英語も出て来るようになって、普通に返答する。
「そう。俺、今から近所に食べに行くから、一緒にどう」
「えっ」
思いもしない誘いに驚いて目が点になる。
「転んだの、俺のせいだってわかってるし、飲み物くらい奢らせて」
「あ、わかってたんだ……」
転んだの、自分のせいだって自覚してたらしい。
泥酔していた割に、記憶はきちんとあるんだ。
「すぐそこの角にあるカフェだから。さ、来て」
大きなジェスチャーで手招きされて、一瞬悩んだけれど、私は思い切って、手をかけていた扉のドアから手を離した。
こういう、思い掛けない出来事に抗うことなく、時には気まぐれで行動するのも悪くない。
しかも、すぐそこのカフェだって言うし。
「じゃぁ、ちょっとだけ」
そう答えると、彼は明るい笑顔を見せて先を歩き出した。
それにしても、この人はドイツ人じゃないのだろうか。
英語を話していた。
あ、でも、私がいかにも外国人っぽいと思って、最初から英語で話しているだけかな?
後ろ姿を眺めながらついていくと、表の柵のところで彼が振り返って、私が出るまで柵を開けていてくれた。
朝の泥酔爆睡状態とは違って、至って普通に見えるから、酔いも覚めたということだろう。
特に話す事も無く、ほんの20mほど先にあったカフェに入って行く。
白壁に木製のテーブル、黒いレザーのカウチが並んで、ジャズ音楽が流れる居心地の良さそうな空間だ。あまり客もいなくて、新聞を読んでいるおじさんと、ラップトップを広げている女性、後はカップルが一組いるだけ。
「やぁ、ヴィクター」
カウンターに居たヒゲのおじさんが、笑顔で声をあげた。
この人の名前は、ヴィクターと言うらしい。
おじさんとヴィクターが何やらドイツ語で話している。
落ち着かない気分で後ろに立っていると、ヴィクターが振り返った。
「注文したいの決まってる?」
「えっと、まだ」
「お腹空いてるの?」
「お腹?うん、まぁ、少し……」
歯切れの悪い返事をして、カウンターの後ろのドイツ語メニューを見上げたが、黒板に書かれた流れ文字のドイツ語はほぼすべて、理解不能。
あえて読めるのは、コーヒー、カプチーノくらいか……
視線が浮いている私に気がついたのか、ヴィクターが空席のほうを指差しながら言う。
「じゃ、そのへんに座ってて。俺が選んでおくから」
「……ありがとう」
読めないメニューを見ながら注文するという難儀から解放されて、ほっとしながらカウンターを離れると、窓際に面したテーブル席のほうへ向かった。
ベルリンに来て、初めて本物のカフェに入った。
しかも、玄関マットを枕にフロアで寝ていた、見ず知らずの酔っぱらいと。
いや、今はもう、酔いが覚めた普通の人だけど。
これはある意味、想定外の展開と言っても過言じゃないだろう。
ずっと前弟が、終電の電車の中で口論になったおじさんと、下車した後になぜか意気投合して居酒屋へ行った、と言っていたが、それと同じくらいありえない状況ではないだろうか。
カウンターのほうへ目をやると、ヴィクターとオーナーが何やら楽しそうに笑っている。ここは、彼の行きつけのカフェなのかもしれない。
あのカマキリ色のシャツじゃなくて、今は、ブラックジーンズにグレーのパーカーと、秋の気候に合わせた服装になってる。洗いざらしで殆ど黒に近い茶色の髪は割と短めで、多分、年齢的には私と似た様なものじゃないだろうか。
やがて、ヴィクターが両手に飲み物を持って来た。
私の目の前に、薄い黄色の湯気が立つグラスが置かれ、向いの席には大きいマグカップのコーヒー。ヴィクターは再度、カウンターに戻ると、今度は大きなチャバタのサンドイッチと、ケーキを持って来る。
目の前に置かれたケーキを見下ろすと、それは四角にカットされたキャロットケーキだった。焦げ茶色の生地にオレンジ色の刻み人参と胡桃が見える。ホワイトチョコのコーティングがたっぷり乗せられていて、とても美味しそうだった。
「ありがとう」
お礼を言うと、ヴィクターは向いに腰掛けながら笑顔を見せて頷いた。
「この飲み物はなに?」
熱々のグラスの中を覗き込みながら尋ねると、すでにサンドイッチに噛み付いていたヴィクターがまっすぐにこちらを見た。
その目が、奇麗な青い色だったのでちょっとびっくりする。
口の中のものを飲み込んだヴィクターが、コーヒーのマグカップに手を伸ばしながら答えてくれた。
「知らないの?ハイス・シトローネ。そうだな、英語で言えば、ホットレモン」
「ホットレモン。どうりでこの色」
奇麗な薄いレモン色に納得する。
顔を近づけたら、その湯気と一緒にレモンの香りもした。
「ジンジャーとミントも入ってるのが見える?」
「うん、見える」
スプーンでかき混ぜると、生姜のスライスとミントの葉が表面に浮いて来る。
テーブルに置いてあった蜂蜜を入れてかき混ぜて、一口飲んでみると、とっても美味しかった。レモンの酸っぱさに生姜の辛み、そしてミントの爽やかさと蜂蜜のまろやかな甘みという、4つの風味が見事に融合されている。
ハイス・シトローネというのか。
次回のために、きちんと覚えておこう!
「挨拶はこうやるんだろ?」
突然、ヴィクターは両手を合わせて私を拝むように頭を垂れた。
「……それ、なに?」
その意味が分りかねて、顔を上げたヴィクターに聞くと、彼は驚いたように目を丸くした。
「こうやって、挨拶するんじゃないの?アジア文化ってやつ」
「……アジアも広いから、場所によるよ。それって、タイとかの挨拶じゃないかな?私もよく知らないけど。日本だと、それは食前の礼儀作法、かな」
「え、そう?ってことは、キミは日本人?」
「私?うん、日本」
そう言うと、ヴィクターは持っていたサンドイッチをお皿に置いて、まじまじと私の顔を眺めた。それから、何故か感心したように頷く。
「俺の職場にも日本人がいるけど、キミはどこか違うね」
「そう?」
「それで、名前は?俺は、ヴィクター」
「私は、リオ」
「リオ?」
彼はびっくりしたように聞き返した。
私は苦笑いして、頷いた。
「男の子の名前っぽいよね。語尾がオ、だと」
ロサンゼルスでもやたら男っぽい名前だと言われたので、この反応には慣れている。リオ、がレオ、みたいに聞こえるせいもあるかもしれない。
「貴方はドイツ人なの?英語、奇麗な発音だね」
「俺?国籍はドイツだけど、いろいろ入ってる。ロシア、ポーランド、ドイツ、スペイン、くらいか。俺自身、完全には把握してない」
「ふうん」
「母親はポーランド系ドイツ人だけど、じいさんがロシア。父は、ドイツ人だけどばあさんがスペイン人。他にもどこか入ってるかも」
「すごくややこしいね」
「ま、陸続きのヨーロッパの都会はこんなもんだろ。人種のるつぼ、のアメリカまではいかないけど」
ぱっと見た感じ、町の中はドイツ人か、移民のトルコ人ばかりに見えるけれど、彼らの血は実際はいろいろ混ざっているのかもしれない。
チャバタのサンドイッチを半分くらい食べているヴィクターを見て、目の前のキャロットケーキを思い出しフォークを取る。
「美味しそう!」
思わずそう呟いて、フォークを差してみる。
ほろりとケーキが割れて、生地の中の鮮やかなオレンジ色の刻み人参がたくさん見えた。
コーティングのホワイトチョコと、シナモンの香りがする濃い茶色の生地は、見た目も秋っぽくていい感じ。一口食べて、思ったよりしっとりと濃厚なその味に思わず頬が緩んでしまった。
胡桃の歯ごたえと香ばしさも私の好みに合う。
「リオ?今朝は、悪かった。誰か転んだな、と気づいたけど眠気のほうが強くて」
ケーキを味わっていると、少し低めの声が聞こえて顔をあげると、申し訳なさそうに眉をしかめているヴィクターがこちらを見ていた。
私はケーキを飲み込んで、大きく首を左右に振った。
「いいよ、怪我したわけじゃないし。よほど眠かったんだね。すごく沢山飲んだんだ」
「飲んだ?いや、酒は飲んでないよ」
「え、違ったの?」
びっくりして聞き返すと、ヴィクターが困ったように目を細めて笑った。
「夜のシフト上がりで、朝の5時の戻ったんだ。アパートの鍵が見つからなくて探しているうちに、睡魔に負けて、つい、ね」
「シフト?じゃ、酔っぱらって寝込んでたわけじゃなかったんだ」
「違う。結局、10時くらいに目が覚めて、アパートに入って二度寝したよ」
そう聞くと、急に相手に対するイメージが180度、変わって来る。
泥酔してフロアで爆睡していた、だらしのない男だと思っていたのに、仕事で遅くなり疲れて帰宅したところだったとは。
人を先入観や思い込みで判断してはいけないな、と反省する。
「週に2回、夜のシフトがあるから、あの状態になったのは初めてじゃないんだ」
「だから、皆、驚きもしないで通り過ぎていったんだね」
納得して頷くと、ヴィクターが両手を天井に大きく伸ばして大欠伸をした。
「まだ、眠い。さっき起きたばっかりだから。あー、もうこの仕事、辞めようかどうか、悩む」
そんな独り言ともわからぬ言葉を聞いて、私はつい、聞きたくなってしまった。
「どんな仕事をしてるの?」
会ったばかりの人に失礼かなと思ったけど、ヴィクターは特に気にする事もなく普通に答えた。
「ホテルのオンラインブッキングの会社。24時間、カスタマーサービスやってるから、シフト組んでるんだ。俺は、ロシア語とスペイン語のクレーム処理スタッフやってる。本職探しのつなぎで、バイト気分で始めたんだけど、俺にはシフト制は合わない気がするな。それに、クレーム処理なんて、興味本位でやる仕事じゃないね」
「へぇ……それは、大変そうだね」
「キミは仕事してるの?」
「うん、東京で……輸入関係の会社で、海外取引先とのコミュ担当」
「カスタマーサービスよりはやりがいがありそうだ」
ヴィクターがサンドイッチの最後の一口を食べると、カウチの背もたれに寄りかかって大きく息をついた。
「お腹いっぱいになった?」
そう聞くと、彼は首を振って背後のカウンターを振り返った。
「まだ、足りない。なんか買って来る」
そう言って立ち上がりかけて、私の空になったグラスに目をやり尋ねた。
「飲み物、いる?」
「ううん、もう大丈夫だから」
そう言って、ふと、支払いのことが気になった。
多分、店を出る時に支払うのだろうと思っていたけれど、今、買って来る、と言っていたのがひっかかる。もしかして、ここはカウンターで買うシステムの店なんだろうか?
辺りを見渡すものの、少ない客は皆静かに各々のテーブルに付いているだけで、支払いをしようとしている人はいない。
カウンターのほうを見れば、丁度、ヴィクターがお金を払っているのが見えた。
つまり、この、ホットレモンもキャロットケーキも、彼が支払い済みということになる。
私はバッグから財布を取り出して、彼が戻って来るのを待った。
真っ黒に近いブラウニーを手にして席へ戻って来たところに、早速支払いの件について切り出した。
「カウンターで払うってこと知らなくて。はい、これ」
大体これくらいだろうと思って、5ユーロ札をテーブルに置いて差し出すと、ヴィクターがクスッと笑ってそれを押し返した。
「ここは、転ばせた償いってことで、奢らせといて」
「でも」
テーブルに出した手前、それをもう一度財布に戻すのも格好悪い気がする。
困ったなと思ってテーブルの上の5ユーロを眺めていると、ヴィクターがそれに気がついたのか、ちらりとカウンターに目をやって、もう一度私を見た。
「だったら、それで飲み物を買ってくればいいよ」
「飲み物?」
「ここのチャイラテもおすすめ」
私は少し考えた後、その5ユーロを握りしめて、カウンターのほうを見た。
自分で、注文。
急にドキンドキンと緊張してきたが、私は頷いて席を立った。
「英語も通じるから」
歩き出した私の後ろからそう聞こえて、すっと緊張が緩む。
なんだ、英語も大丈夫なカフェだったんだ。
口ひげのちょっとチャーリーチャップリンぽいおじさんに無事、チャイラテを注文し、ついでにレジの隣に袋詰めで販売されていた型抜きクッキーを買う。今晩、蓮美ちゃんのお宅に伺う時に、日本からのお土産と一緒にこのクッキーも持って行くことにした。
無事に会計を済ませて、テーブルに戻ると、ヴィクターはすでにブラウニーを完食してカウチに寄りかかって携帯を見ているところだった。
勢いで一緒にカフェに来てしまったものの、全くの他人と一緒にこうしてテーブルを共有しているのって変な感じだ。
スパイシーでかなり濃厚なチャイラテの味にびっくりする。多分、チャイティにミルクを入れたんじゃなくて、ホットミルクでチャイティを作ったんじゃないだろうか。まるで、クリームのような濃厚さなのに、スパイスが効いているせいか、しつこく感じないのが驚きだ。
「明日は、早番のシフト。朝の7時から午後の3時半まで。やっぱり俺には向いてない」
溜め息まじりにそう言って、携帯をテーブルに置く。
そして、思い出したようにもう一度携帯を手に取って、私の顔を見た。
「キミの番号は?」
「番号?」
私はヴィクターが携帯を持っているのを見て、私の携帯番号を聞いているのだと気がついた。
「ないんだけど」
「えっ?」
「旅行者だから」
「あ、そうか」
そう言うと、ヴィクターは携帯をテーブルに置いた。
「いつまでここにいるの」
「来週の土曜日」
今日は火曜日で、残り11日というところだ。一昨日の夜に到着して、昨日は時差ぼけと疲れで夕方4時から寝てしまってほとんど何もできなかった。今日はまだ森鴎外記念館に行ったからましだけど、残りの日々はもっと有意義に使わねば。
「1人で来てるの?」
「うん、1人だけど、友達の家族が近所に住んでて、このウイークリーアパートも手配してもらったんだ」
「なるほどね。じゃぁ、基本的には、1人ってことか」
そんな言い方をされると、どこか虚しい響きがあって嫌だなと思いながら頷く。
別に、失恋旅行とかそういうセンチメンタルなものは一切無くって、単純に気分転換に一人旅に出て来ただけのことなんだから。
1人だと気楽でいいというのもある。
誰にも相談しないで、好きな事を好きな時にやれるし、何をするにも、誰の許可も賛同も必要ない。
言ってみれば、こうやって、他人とカフェでお茶することだって、1人じゃなかったらまずありえないシチュエーションだろう。
そんなことを考えながらチャイラテを飲んでいると、テーブルの上で腕組みをしたヴィクターが楽しそうな笑顔を浮かべ、こちらをじっと見ているのに気がついた。
「……なにか?」
遠慮のない視線に居心地が悪くなって思わず身を引くと、逆にこちらへ身を乗り出したヴィクター。
「明日さ、仕事の後は空いているから、観光つきあってあげるよ」
「え?観光?」
突拍子もない申し出に目が点になる。
目の前で明るい笑顔を見せているこの人。
いきなり何を言い出すかと思えば……
一人旅が気の毒だと思って、そんな事を言い出しているんだろうか。
「別に、1人で平気だからいいよ。気楽だし。大体、どこに行くとか全然決めてないし」
「いいね、そういうの!」
ヴィクターが楽しげに頷き笑い出した。
「俺も、気分で行動する派なんだ。いつもと違うことをしてみたくなった」
「いつもと違うこと……?」
面食らっていると、ヴィクターはもう決めつけたようにきっぱりと言った。
「明日の4時、アパートの外で集合。行きたいところがなければ、その時に考えればいいし」
「急にそんなこと言われても、私も都合が」
「都合が、って、さっき、別に何も予定決めてないと言ってたけど?リオ、もっと気楽に考えなよ、気楽に」
「それは、そうかもだけど……」
「行きたいところとか思いついたらそこに案内するし。ま、基本、行き当たりばったりということで」
この話は終わりといわんばかりにそう言うと、ヴィクターがすっと立ち上がった。慌てて私も立ち上がると、彼はちらりと窓の外を見上げた。
「俺、スーパーに行かなくちゃならないんだ。冷蔵庫、空っぽで食べるものがなくってさ。バターとかケチャップだけじゃどうしようもないし」
「バターとケチャップ?」
「そう。調味料だけあっても、食事は出来ない」
歩き出すヴィクターに釣られて私もそのまま後をついてカフェを出る。
「あ、私も後1時間で友達のところに行かなきゃ……」
腕時計を見ればもう、5時になっている。
これから戻って行く準備をしなくてはならない。
すぐにアパートの前に着いたので、私は鍵を取り出した。
「じゃ、私はこれで」
柵を押し開けながらそう言うと、ヴィクターは立ち止まる事無くそのままスーパーへと歩きながらこちらを振り返った。
「4時にその柵のところで。じゃぁ、明日」
結局、わけのわからないうちに約束してしまったらしい。
柵を押して中に入りながら、思わず1人で笑い出してしまった。
今日は二回も、普段の生活からはかけ離れた出来事に遭遇した。
最初は死体と勘違いした、床に寝る人間にすっ転ばされた。
そして午後には、その床に寝ていた人間とゴミ箱の前で遭遇し、カフェでお茶をした。
それだけのことだけど、急に私の日常が新しい色を帯び始めた気がする。
何かが、変わったように感じる瞬間。
私は大きく深呼吸をしてベルリンの夕暮れの空を見上げたのだった。
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