竪琴の乙女

ライヒェル

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八章

混乱のラベロア王宮

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悩んだ挙げ句、竪琴は持って行かないことにした。
もし、カスピアンがこれを壊し、私がもとの世界に戻ることになっても、それはそれで仕方がないと思う。私は、自分の意思でここを去るのだ。それをどう彼が受け止めるかは、私には分からない。
アンリが作ってくれた素晴らしい竪琴にもう触れる事が出来ないと思うと、胸が引き裂かれる気持ちがした。思い出になるものをひとつ、と思い、シルビア様の書庫から借りていた、黄色いカバーの絵本を手に取った。エリオットが、その絵本を布で包み、麻袋に入れてくれる。
あくまでも自然に厩舎へ向かうため、先ほど着替えたドレスのままで扉を開ける。私が部屋を出る予定がなかったため、そこにいた警備の衛兵は、ほんの4人と少ない。エリオットが、言葉少なに私が厩舎のサンダーに会いに行きたがっていると説明すると、予定外のことでやや戸惑った様子の彼等だったが、護衛につくことで話がつく。
エリオット、護衛4人で王宮の裏手にある厩舎へ向かう。今回の騒動の影響か、回廊で見かける人の数がいつもより少ない。広場の片付けもあるだろうし、ハントリー侯爵との面会に出ている人もいるのだろう。
心のどこかで、踏みとどまりたいという声が聞こえていたけれど、ロリアンとの会話を思い出す度に、やはり、この決意は揺るがないと確信する。
頭の中は依然として混乱し、気が狂うほどの悲しみで胸が張り裂けそうだけれど、とにかく一秒でも早く、この残酷な現実から解放されたかった。
全てを忘れてしまいたい。
それだけだ。
彼との記憶も、この想いも、全てが無くなればどんなに楽か。
しかし、初めて心から愛した人を、記憶から消す事なんて出来ないだろう。
捕らえられたサーシャを思い浮かべ、皮肉にも、私達は今、同じように傷つき、涙を流しているのだと思った。
彼女が憎いけれど、憎みきれない。
カスピアンに対しての失望感は計りきれないが、だからといって彼を責めようとは思わない。
それぞれの想いや状況が作り出した悲劇なのだから。
誰も、他の誰かを傷つけようという悪意を持っていたわけではない。
そして、この世に生まれてくるはずだった命が、抹殺されてしまった事実は、あまりにも重かった。
結局、私がこの世界に来た事が原因。
彼等の平和な日々に、不協和音をもたらしたのは、他でもない、この私自身なのだ。
誰も話をすることもなく、静かに厩舎に到着し、藁を食んでいるサンダーを見つける。私を見て近寄って来たサンダーの、つぶらな瞳を見ていると、悲しみで涙が溢れた。あまりにもたくさんの、甘く優しい記憶と、苦く辛い想いが押し寄せて来て、頭の中は滅茶苦茶になっている。ここを出て、これからどうなるのかなんて、全く見当もつかない。
私の気持ちが分かっているのかどうか、サンダーは口に入れた藁をもごもご食みながら、私の手に首をすり寄せてくる。左腕は怪我で力も入らないので、火傷でじんじんする肩をかばいつつ、右手でそっと黄金色のたてがみを撫でてやった。
「セイラ様。これから、衛兵を王宮に返し、馬を放ちます。馬が厩舎から走り出したら、すぐに裏手の小川へ御移動ください」
エリオットが小声で言うので、私は静かに頷いた。にっこり微笑んだエリオットが、厩舎の外に出て、護衛達に声をかけるのが聞こえた。
「セイラ様のご容態がよろしくない。大至急、医師をここへ呼ぶように手配をしてくれ。念のため、輿も準備してくれ。私はここで、セイラ様に付き添って待つ」
「はっ」
護衛達の慌てた声がし、彼等が立ち去る音が聞こえた。エリオットは即座に厩舎に戻ると、手当たり次第に柵を外し、沢山の馬を鞭で追い立てる。慌てふためく馬を厩舎の外へ追い出したエリオットは、激しく鞭を振り回す。馬達が驚いたように嘶いて四方に駆け出した。ぼんやり藁を咥えたままのサンダーの鼻面に別れのキスを落とすと、戻って来たエリオットに連れられ、厩舎を出る。裏手の小川へ行くと、小舟が数艘、水辺の杭に繋がれていた。
「セイラ様、失礼します」
エリオットが遠慮がちに私に手を伸ばし、横抱きにすると、注意深く一艘の小舟に乗り込む。そこに置かれていたクッションの上に私が腰を下ろすと、エリオットはすぐに、杭に繋がれていた縄をナイフで切り離す。
力強く櫂をこぐエリオットは、随分と手慣れた様子だった。
夕焼けのラベロアの空。東のほうが、群青色に染まり始め、僅かながら星が瞬くのが見える。悲しみを堪えるように、私は沈み行く夕日をじっと見つめていた。




ざわめきが広がる謁見の間。
カスピアンは険しい顔で、しばし沈黙した。
マーゴットの報告からするに、サーシャは、己が自分と深い仲にあったとセイラに思い込ませたのに違いない。だから、セイラは、サーシャが自分にとって特別な人だ、殺すのは間違っている、と言ったのだと、今更気がつく。自分を止めようとしたセイラの頬に、涙の後があったのは見たが、その涙の理由までは気が回らなかった。
セイラはあの時、自分に裏切られたと思い、どれほどに傷ついていただろうか。セイラの異変に気がつかなかったのは、あの場で正気を保てなかった自分のせいだと激しく後悔する。サーシャの、あたかも自分とただならぬ関係であったかのような物言いに、怒りに任せ怒鳴り散らしたが、セイラの目には、まるで隠していた事実を暴露され逆上したように映った可能性も高い。サーシャが奥宮へ頻繁に来ていた事実も、セイラは、自分がサーシャと密会していたと思ったのではないだろうか。
婚儀前で緊張感が高まっているこの時に、暗殺未遂、そして怪我まで負ったのだ。挙げ句に、自分に裏切られたと思い込んでいるとしたら、どれほど傷つき、悲しんでいる事か。
一刻も早く、この忌まわしい誤解を解かなくてはならない。
剣を鞘に戻し、セイラのところへ向かおうと踵を返した時、またもや扉が開き、今度はサリーとロリアンが飛び込んで来た。二人とも真っ青になっている。
「何事だ!」
良からぬことが起きたと気づき、カスピアンの顔色が変わる。
蒼白のサリーは跪くのも忘れ、カスピアンの前に走り寄った。
「陛下!大変です!ロリアン様が、セイラ様のご様子が気になるとおっしゃったので、お部屋に伺ったところ、お姿が見えません!」
その言葉に、カスピアンが目を見開く。
サリーの隣にいるロリアンが、激しく取り乱した様子で、カスピアンの足下に跪いた。
「申し訳ございません。お見舞いに伺った時、セイラ様が、サーシャのことを知りたいとおっしゃられるので、私が知っていることを口にしたばかりに……」
「何を言ったのだ!」
カスピアンが詰問すると、ロリアンは泣き崩れた。
「シルビア様亡き後、サーシャが陛下に付き添われていた日々があったこと、そして、サーシャが一年ほど前、私に堕胎の協力を依頼したことです」
絶句しているカスピアンの隣に控えていたエイドリアンが、ロリアンを叱責した。
「ロリアン殿!なぜ、陛下の許しもなくそのようなことを!サーシャの相手は、陛下ではなく、ピエールだ!」
その言葉に、ロリアンが両手で顔を多い、号泣する。
「申し訳ございません!かなり、深刻に思い詰めていらしゃったので、あくまでも事実だけであり、何も、はっきりしたことは分からないと申し上げたのですが、私の判断が間違っていました!」
そこへ、アデロスが駆けつけ、カスピアンに向かって叫ぶ。
「陛下!セイラ様は、エリオットに連れられ、厩舎に向かわれた後、行方がわかりません!厩舎内の殆どの馬が放たれ、周辺は混乱状態となっております!恐らく、エリオットは、何者かの指示に従って、セイラ様を連れ去ったと思われます!」
アデロスの背後では、次々と王宮外へと飛び出して行く大勢の衛兵の姿があった。既に、一斉捜索は開始されている。
カスピアンは心臓を貫かれたかのように、血の気の失せた顔で、アデロスを一瞥すると、無言で奥宮へ向かう。この報告が虚偽であって欲しいと心の中で叫びながら、セイラの部屋がある階へと到着し、その扉が大きく開け放たれているのを見て、愕然と足を止めた。
いつもこの扉の前に来ると、自然と微笑みが浮かび、心が温かくなった。何故なら、この扉の向こうには、セイラが居たのだ。扉を開けばいつも、笑顔で駆け寄ってくる愛しい姿がこの目に映った。その名を呼び、両腕で抱きしめて、狂おしいほどの幸福感に胸を熱く焦がしたというのに。
今、この目に映るのは、室内の至る所を調べている女官と衛兵達の姿。
絶望、という言葉が、心に浮かぶ。これまで感じた事のない、果てしなく深い喪失感が、カスピアンの心を覆い始める。
もう、二度とこの手に取り戻すことは出来ないのだろうか。
事の発端となった、あまりにも残酷な誤解を解く、手だてはないのだろうか。
カスピアンは無言で部屋に足を踏み入れる。その空間はまるで色彩を失ったかのように暗く、冷えきった空気で満たされていると感じた。とりかえしのつかない事態になったことが、まさに悪夢のようで、カスピアンはカウチに腰を下ろし、両手で頭を抱え込んだ。
いまだかつて経験したことのないほどの失望感。
ここまで、頭の中が真っ白になったことはなかっただろう。
何から手を付ければいいのかさえ、考えつかない。
まるで魂が抜けてしまったように、微動だにしないカスピアン。
後を追ってきていたエイドリアンは、黙ってカスピアンの様子を見守る。
全開されていた窓から、強い風が吹き込み、テーブルの上に置かれていた紙がバタバタと激しい音をたててはためく。その紙が飛ばされぬよう手を伸ばした時、カスピアンはその紙の上に、竪琴の調弦に使うレンチが置かれているのに気がついた。アンリが作ったそのレンチには、セイラの名前が刻まれている。
カスピアンは、顔を上げ、暖炉の上に目を向けた。
そこには、いつもの通りに、セイラの竪琴が置かれている。
立ち上がり、竪琴に近寄るカスピアン。
神々しさを纏う竪琴は、以前と何も変わらない。
セイラは、竪琴を置いて出たのだ。
自分と、セイラを繋げた摩訶不思議な竪琴。
セイラはよく、この竪琴は自分の命のようなものだと言って、大切に抱いていた。
竪琴を手に取るカスピアン。
滑らかで美しいクリーム色の木目に触れると、まるで生命が宿っているような温かさを感じた。
果てしない虚無感に埋もれていたカスピアンの心に、変化が生じる。
セイラが、自分のもとを永遠に去りたいと思ったならば、この竪琴を壊しただろう。
あえて、ここに置いて行ったセイラの心を読もうとする。
セイラは、この先の運命を、自分に委ねたのだ。
悲しみに打ち拉がれても、この世に留まることを選んだセイラ。
それはきっとまだ、自分と共に生きることを願う気持ちがあるからだ。
カスピアンは少しずつ、冷静さを取り戻す自分に気がついた。
セイラの心はまだ、ここにある。
手の中にある竪琴は、まるでカスピアンの魂を照らすようにきらきらと輝いていた。
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