竪琴の乙女

ライヒェル

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七章

落ち着かない夜

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竪琴は部屋に置いたまま、落ち着かない気持ちでその日の予定をこなした。出来る事なら、すぐさまその音色を聴きたかったけれど、勉強、乗馬にマナー教育の予定をすっぽかすわけにもいかないため、ありったけの集中力を駆使し、なんとか一日を終えた。
夕食もそこそこに、早々に湯浴みも終わらせてナイトドレスに着替えると、今晩はもう、書物に触れるつもりはなかった。
部屋の片付けをしているサリー達が見守る中、私は緊張と期待でドキドキしながら、ついに、飾り棚の上に置いていた竪琴に手を伸ばした。
美しい曲線を描く、柔らかなクリーム色の木目が美しい竪琴は、以前のライアーよりやや大きく重みがある。枠に刻まれた、金色の唐草模様とラベロア王国の王家の紋章に触れ、この奇跡の瞬間をしっかりと脳裏に焼き付けようと、祈るような気持ちでそっと抱きしめた。
これは、私の命ともいえる竪琴なのだ。
アンリの作ってくれた、魔法の竪琴が、私を愛する人の元へ連れて来てくれた。
この竪琴を抱きしめていると、私が以前持っていたライアーと同じ波長を持っていることがはっきりと分かる。
懐かしい想いに胸がいっぱいになった。
アンリの竪琴は、私の求めている癒しの音色を紡ぎだしてくれる。
私の新しい宝物を大切に抱いて、カウチに浅く腰掛けた。
ひとつ、深呼吸をすると、ピンと張っている弦にそっと指を走らせてみた。
柔らかで、魂に触れるような優しい音色が響いた。
次の弦に、触れてみる。
胸の弾むような明るい音色があたりに広がり、ゆっくりと空気に溶けていく。
もう、何も考えられなくなった。
ずっと待ち望んでいたこの感覚。
この空間を虹色に染めあげる魔法の響きが私の魂を魅了する。目を閉じ、時の経つのも忘れてその素晴らしい世界に浸っていた。
ふと、煙の匂いに気がついて手を止める。テーブルの上に並んでいた、何本かのキャンドルのうち、一本の火が消えていて、白いリボンのような煙が弧を描きながら舞い上がっていた。
「あ」
煙の向こう、向かいのカウチにカスピアンがゆったりと座っていて、びっくりする。
「いつの間に入ってたの?」
彼は目を細め優しく微笑む。
「しばらく前からここにいた」
どうやらすっかり集中していて、周りの様子が見えなくなっていたらしい。サリー達の姿もないことから、かなりの時間が経っていたと気づいた。
少し恥ずかしく感じながらも、私は彼に微笑みかけた。
「こんなに素晴らしい竪琴に巡り会えるなんて、本当に幸せ。ありがとう、カスピアン」
改めてお礼を述べると、彼は満足げに頷き、立ち上がった。
私の隣に座ると、竪琴を手に取り、細部を確認するように眺める。
「確かに見事な出来映えだ。だが、これは、おまえでなければ、このような美しい音色を出せないだろう」
竪琴に限らず、楽器というものは、それを扱う人間の心を表現する力がある。もちろん、その楽器の質や状態も大きく関わってくるけれど、どんな立派な楽器でも、奏者の心と共鳴しなければ、聴く人の魂に響く音は生み出せない。
「この竪琴の音に特別な美しさがあるとしたら、それは、私が今、とてつもなく幸せだということなの。もとの世界に帰っていた時、私が竪琴を奏でると、皆が、その音色は感傷的だと言ってた。それはきっと、私が竪琴を手に取る度に、ラベロアのことを思い出していたから……すべては夢だったのかと思いながらも、もう一度、貴方に会いたいって、ずっと思ってた」
私はあの頃の言いようの無い寂しさや焦燥感を思い出した。
幾度となく思い出していたラベロアでの記憶。
彼の面影を繰り返し探していた日々。
私はカスピアンの胸に身を寄せ、その大きな背に両腕を回した。
彼の側にいることを確かめようと、力強く鼓動している彼の心臓の音を聞く。
「もし、今また夢を見ているのなら、もう二度と覚めなければいいと思ってる」
時折、もしかすると、これは全部夢じゃないかと、未だに不安になることはあった。
「時々、眠るのが怖くなるの。朝、目が覚めたらもとの世界に戻ってて、ラベロアでの記憶は全部夢と消えてしまうんじゃないかって」
正直な気持ちが口から出てくるのは、きっと、竪琴の音色が私を素直にしたからだろう。
彼は私を強く抱きしめ、温かい腕の中に閉じ込めた。
「案ずるな。夢であろうと、現であろうと、おまえは永遠に私と共にある」
力強く響く言葉が心に優しく響いた。
「もう絶対に離れたくない。ずっと一緒にいて……」
祈るようにそう呟いてカスピアンを見上げると、彼がくすりと笑い頷く。慈しみのこもる眼差しが近づいて、彼は、触れるような口づけを落とした。
「婚儀が済めば、そのような不安も消えるだろう。おまえは毎夜、私の腕の中で眠りに落ち、朝を迎えるのだから」
耳元で囁くカスピアンの低く優しい声に胸が高鳴る。
「おまえを必ず幸せにする。私を信じろ」
ドキドキする胸を抱えて頷くと、カスピアンの手が私の髪に絡み付いて、そのままゆっくりと視界が横転していく。背が柔らかなクッションに沈み、熱を帯びた強い眼差しが近づいてくる。引き寄せられるように唇が重なって、私は目を閉じた。
全身にのしかかる彼の体の重みと体温に、激しい動悸が止まらなくなる。大きな手のひらが私の肩から腕を伝い落ちていく。温かなその手が、ナイトドレスの薄い生地越しに、背中から腰の線をなぞるように滑っていく感覚にぞくぞくした。
「まだ10日も待たねばならぬのが、どれほど堪え難いことか」
押し殺すような声が甘く響いて、全身に鳥肌が立つ。熱に浮かされたように私を見つめる彼が愛しくて堪らなくなる。その日が待ち遠しいのは彼だけではない。
「私……私も、その日を、心待ちにしてる……」
自分で口にした言葉に頬が熱くなっていく。
彼は目元を薄く染めると、せきたてられるように唇を重ねた。
お互いの気持ちがひとつの炎になるような、熱く情熱的な口づけに、すべての憂いが掻き消されていく。幾度となく繰り返される愛の囁きに夢心地になって、体中の力が抜けてしまう。今からこんなに骨抜きにされているというのに、10日後は一体どうなってしまうのだろうか。
私の首筋に顔を埋めた彼が、至る所に口づけを落としていく。彼の頭を抱いてその柔らかな髪に指を絡ませながら、甘く幸せな時に浸っていた。
静寂の中に突然、扉をノックする音。
驚いてそちらの方を見ると、すぐに扉が開いて、ユリアスが姿を現した。
「……!」
予想だにしない展開に唖然とする。
カスピアンの頭を抱きしめたまま凍り付く私を見て、ユリアスはくすりと笑いを零す。
「取り込み中に悪い」
二人してカウチに倒れ込んでいるという、この、際どい状態のところに、いきなりの訪問。ユリアスが、全く悪びれる様子もなく、そのまま室内に入り扉を閉めたのを見て、私は仰天した。
普通の神経の持ち主なら、ここは引き返し、出直すのではないだろうか?!
この人はなぜ、平然と入ってくるのだ!
顔から火が出るかと思うくらいの恥ずかしさに襲われ、パニックに陥る。
未だに私を押し倒したままのカスピアンが、ものすごい形相でユリアスを睨んでいたが、当のユリアスは平然と、向かいのカウチに腰を下ろす。
未だかつて経験したことのないほどの羞恥に、慌ててカスピアンの胸を押し返すと、彼は腹立たし気に舌打ちし、ようやく身を起こした。
彼に手助けされながらカウチに座り直し、燃えるように熱い頬を冷やそうと、両手で頬を触ったが、到底熱は引きそうにない。
「ユリアス!何故、この夜更けに、おまえがここに来るのだ!理由の如何によっては許さんぞ!」
カスピアンの、今にも掴み掛かりそうな剣幕と凄みを効かせた声にも動じず、ユリアスはにやりと微笑んだ。
「そう怒るな。無粋な真似をしたかったわけではない。急ぎの用があったからに決まっているだろう。おまえが執務室にいないからここへ来たのだ」
そう言うと、テーブルの上に、一枚の書状を置く。
「アンカールのマルシオ国王からの親書だ」
アンカール国と言えば、アンジェ王女の縁談相手、ウォルシュ公爵が思い浮かぶ。その公爵の兄である、マルシオ国王からの書状と聞き、カスピアンの顔から怒りの色が引いた。
ウォルシュ公爵からの連絡がなく、例の縁談がどうなったのか気がかりだったのは言うまでもない。
カスピアンはすぐに親書を手に取り、文面に目を走らせる。
どういった内容なのだろうと気になっていると、ユリアスがこちらを見て、何か目配せをしている。なんだろうと思っていると、ユリアスが、含み笑いを浮かべて自分の鎖骨あたりを指差す。
何気に自分を見下ろすと、鎖骨の下あたりに数カ所赤らんでいるところがあるのが見える。慌てて近くにあったクッションを掴み寄せ胸元を隠して俯いた。
ユリアスは絶対に、この状況を面白がっているに違いない。
性格悪い!
あぁ、穴があったら入りたいほどの恥ずかしさで、耳が焼けるように熱い。
隣のカスピアンに目を向けると、ものすごく険しい顔になっていたので、一体何が書かれていたのかと心配になる。
「……真意が見えんな」
独り言のように呟き、眉間に深い皺を寄せたカスピアン。
どうしたのかと不安に思っていると、向かいのユリアスが苦笑いして、私のほうを見た。
「アンジェと君の二人を、アンカールに招待したいという申し出だ」
「えっ?」
驚いて聞き返すと、カスピアンが親書をテーブルに投げた。
「これには、縁談のことには一切触れておらぬ上、セイラを招く理由も漠然として曖昧だ」
ユリアスが親書を手に取り、文面に目を落とす。
「アンカールには、ビアンカという王女がいる。これが、全く表に出てこない故に、深窓の王女と呼ばれているが、一説では、産まれた時から不治の病をかかえているという噂もある」
「ビアンカ王女……?」
「そのビアンカ王女のたっての願いが、君に会うということらしい。そのため、ラベロア王国との親交を深めるため、アンジェだけではなく、君も一緒に招きたいと」
私は困惑し、首を傾げた。
「どうして、私に会いたいのか、その理由は書かれていないの?」
ユリアスが首を振る。そして、腕を組み、少し考えるように黙っていたが、やがて小さく笑いを零した。
「恐らくだが、シーラ公国のナタリア妃と似たような感じだろう。君の名は広く知られている。特に、カスピアンとエティグスのルシアが君を巡って競い合ったという話は、多くの姫君が憧れる恋物語になっているらしい。きっと、ビアンカ王女は、君がどれほど魅力的な姫君か興味があるのだろう」
私は困惑した。
そんな、誇張された噂話で、なにかすごい人物を期待されてるとしたら、とんでもないことになる。
「……実物の私に会ったら、すごくがっかりされると思うんだけど……そういう噂話は、事実とは全く別のものになっていると思うし……」
控えめながら私自身の意見を述べて、隣のカスピアンを見る。
「笑止千万も甚だしい!ビアンカ王女のくだらぬ好奇心を満たすために、わざわざ国王がセイラを呼びつけるなど、到底正気の沙汰とは思えぬ」
カスピアンが忌々し気に吐き捨てると、苦笑いしたユリアスが肩をすくめた。
「確かに私もそう思うが、断りをいれる前によく考える必要がある。ビアンカ王女が仮に不治の病を抱え、我が儘を言っていたとしよう。セイラが出向き、恩を売る事で、アンジェの縁談がまとまる可能性は高いだろう。逆に、この招待を断れば十中八九、縁談はなかったことになるのは間違いない」
カスピアンは眉間に深い皺を寄せ、ユリアスをじっと見据える。
「アンカールに行くとしたら、婚儀が終わり、一段落した頃になるだろう。だが、この招待を受けるかどうかは、早々に判断しなくてはならない。このまま縁談の話が宙に浮いた状態が続くのは、アンジェには酷な事だろう。それに、ウォルシュ公爵との縁談がどうなるかにより、新たな縁談相手を探す必要も出てくる」
カスピアンははっきりとは言わなかったが、アンジェ王女は、ウォルシュ公爵との縁談に前向きで、彼に好意を持ったらしいのは確かだった。それだけに、公爵の滞在中に婚約に至らず、帰国後も現在まで返事がないため、アンジェはかなり落ち込み、部屋に閉じこもっているという。
もし、この招待を受けるかどうかで、縁談の行方に大きな影響を及ぼすとしたら、慎重に考えなくてはならないだろう。
でも、新米王妃として初めて外国を訪れ、どういった理由で私に会いたがっているのかわからないビアンカ王女に面会するのもかなり不安だ。それに、私の野蛮で品位に欠けた行動を公爵に見られたこともあるし、アンカールで何か粗相があってはという懸念もある。その一方、今ここで優先すべきなのは、アンジェの未来ではないだろうかという気もした。
「カスピアン。私は、貴方の判断に従うから……」
私がそう言うと、カスピアンとユリアスが目を合わせる。
そして、私達は三人揃って、テーブルの上の親書に視線を落とし、沈黙した。
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