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六章
アンカール国 ウォルシュ公爵
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森の離宮から王宮への帰り道、私は馬車ではなくカスピアンの白馬に同乗していた。
訪問時間を終え、エスタス、レテシアとカオリンに挨拶をして、サロンを出てみると、サリー達が居ない事に気がついた。確認すると、カスピアンの指示で3人は馬車で一足先に王宮へ帰ったらしい。ユリアスはもうしばらく離宮で過ごし、今晩の客人をもてなす夜宴までには王宮へ戻るとのことだった。
カスピアンはしばらく馬を駈歩させ飛ばしていたけれど、半分くらいの距離を過ぎたところでスピードを落とした。一番速度の遅い常歩だと、揺れも前後の軽いものになる。
肩の力を抜いて深呼吸をする。
ようやく景色を楽しむ余裕が出てきた。
まだ日暮れまで時間があり、西の空がほんのり赤みを帯びて来たくらいだ。
カスピアンの愛馬の名前はジーク。
国軍の総指揮官に就任した時に、エスタスから賜った名馬だそうだ。どっしりと一際大きく強い雄馬だが、純白の身体に、銀色に輝くたてがみと長い尾が神秘的な、際立った美しさを持つ馬。ジークは、カスピアンの命令だけに従うよう調教されており、軍馬同様、危機的状況では、敵を蹴ったり噛み付くなど攻撃する訓練も受けているらしい。
後ろのカスピアンの胸に背を預け、ゆったりとした気持ちでジークの背に揺られる。
カスピアンと一緒にいると、すっかり安心してしまう。それに、護衛達も少し離れた後方にいるので、まるで、二人きりのような錯覚を覚えて更に気が緩む。森の中を乗馬デートしているような浮かれ気分を楽しみつつ、周りの景色を見ていたが、やがて記憶に残る場所が近づいた事に気がついた。
「このあたりで襲われたと思う」
そう言いながら地面を見下ろすと、私が投げた果物が方々に散らばっているのが見えた。
カスピアンは辺りの様子を観察するように見渡す。
「おまえたちに加勢し曲者を捕らえたのは、アンカール国のウォルシュ公爵だ」
「ウォルシュ公爵?」
「アンカール国の国王マルシオには、双子の弟達がいる。その双子の兄はブランドン公爵。今回、我が国に来ているのは、弟のウォルシュ公爵のほうだ」
そんな偉い人だったのだと驚く。
「私、名乗りもせず、ちゃんとした挨拶もしなかった」
後悔したが、今更遅い。
「あちらも名乗らなかったのだろう。気にするようなことではない」
「そうかな……それで、ウォルシュ公爵は、どうしてラベロアに?」
「縁談だ。アンジェを嫁がせようと思っている」
「アンジェ王女を?」
こちらの常識では、良家のご令嬢の適齢期といえば、17歳から20歳らしいから、20歳のアンジェもそろそろ結婚しなくてはならないのだろう。
「ウォルシュ公爵ならアンジェの伴侶として不足はない。父もカオリンもこの縁談を認めている」
「つまり、アンジェ王女と、ウォルシュ公爵、本人達次第になるの?」
「そういったところだ」
うまくいけばいいね、と言いかけたが、本人同士がお互いをどう思うかなんて、他人があれこれ期待するのも失礼だろう。気が合えばいいけれど、嫌なのに、周りが勧めるからと無理矢理結婚なんてのもひどい話だ。
「ウォルシュ公爵は親切で、人間的にも信頼出来そうな人だと思う。少なくとも、私はそういう印象を受けたよ」
あんな修羅場に居合わせたのは不運だったけど、咄嗟に判断し加勢してくれたのは本当に助かった。
「王家の私道に曲者が現れた事実は、直ちに精査しなければならない。内部の者の仕業か、あるいは、外国の間者の仕業かはまだ判断がつかぬが、おまえの予定を把握出来る、王宮内の何者かが関与しているのは確かだ」
カスピアンが険しい顔でそう呟くと、私を抱いている片腕に力をこめた。
「既にエイドリアンが曲者の取り調べを始めている。日々の警護は一層強化するが、おまえも油断するな」
「わかった。周囲にもっと気を配ります」
安心させようと、出来るだけきっぱりと返事をした。
近くに居る誰かが関わっていたのが確かだという今回の奇襲。思い出すだけでぞっとするが、とにかく、敵に隙を見せない事が一番有効な対策だろう。
マゼッタ女官長も、婚儀が執り行われ、最後に王妃の冠を頭上に授かるその瞬間までが、最も危険度が高いと繰り返し言っていた。
婚儀まであと、二週間。
何事も無く、その日を迎えられるよう、私も気を緩めてはならない。
ずっとこれからも、こうして彼の側にいたい。
無事に、婚儀の日を迎えられますように。
心の中でそう祈りながら、心地よい揺れに身を任せた。
奥宮で待つサリーのところまでセイラを送り届けた後、カスピアンは上階へ急ぐ。扉の前で待機していたエイドリアンを連れて国王の間に入る。
「取り調べはどうだ」
マントと剣を取り外したカスピアンの足下に跪くエイドリアンが返答する。
「現在までに判明していることを申し上げます。捕らえられているのは、全員、王都で悪さをしていた荒くれ者の集団でした。昨晩遅く、酒場で声をかけられたとのこと」
もともとの予定では、カスピアンもセイラと共に森の離宮へ向かうはずだったのだが、昨晩、急に予定が変更となり当日は別行動となったのだ。つまり、直前の変更を知る事が出来た人物が関与しているのは疑う余地もない。カスピアンが同行していれば、恐らく、奇襲をかけてくることはなかっただろう。
「セイラ様と従者一人を捕らえ、町外れの指定場所まで連れてくれば、巨額の報酬を受け取る話だったと。また、セイラ様に怪我を負わせるなど不手際があった場合、報酬が大幅に減額されるという条件つきだったそうです。目的は、セイラ様のお命ではなく、誘拐ということで間違いございません」
「セイラと従者一人という指定だったのか」
「推測になりますが、従者を殺すと脅せば、セイラ様が指示に従うという裏を読んだ策と思われます」
カスピアンは奥歯を噛み締めた。
つまり、セイラの性格を把握している何者かが企てた奇襲だったのだ。セイラが、従者を見殺しに出来るような人間ではないと知って、その弱みに付け込もうとした。案の定、その狙い通りに、セイラは従者を庇おうとし、危うい事態に陥りかけたことから、危機的な状況だったのは間違いない。
「はっきりとしたことは申し上げられませんが、取引をもちかけてきた人間は、ラベロア王国の人間ではなかった可能性が非常に高いと思われます。何故なら、待ち合わせの地名を正式名で呼んでいたらしいのです。落ち合う場所は、サンリート、ですが、ラベロアの者は皆通称の、霧の谷、と呼びます」
カスピアンの脳裏に、ある人物が浮かび上がる。
セイラを王妃と認めない勢力の企みであれば、真っ先にその命を狙うはずだ。多額の報酬を準備した上での誘拐、更に国外の人間によるものとなると、今回、最も首謀者として疑わしいのは、やはりあの男。
「エイドリアン。ルシアの周囲を調べるよう手配しろ。王宮内にエティグスの間者がいるのは間違いない」
「はっ」
指示を予測していたらしいエイドリアンは直ちに国王の間を後にした。
沸き上がる激しい怒りを持て余しているところに、女官のマーゴットが部下を連れて入って来た。
「陛下、謁見のお時間となります。お召し替えのご準備を整えて参りました」
外出着から正装に着替えたカスピアンは、退室しようとしたマーゴットに指示を出す。
「セイラを謁見の間へ連れてくるようサリーに伝えろ。ウォルシュ公爵へ挨拶させる」
「かしこまりました」
足早に階下へと向かうマーゴットから目を離し、カスピアンは深くため息をした。
縁談という本題に入る前に、今回の奇襲についての話が出るのは必至である。
ウォルシュ公爵の助力が無ければ、最悪の事態に陥っていた可能性も否定出来ない。今後のことを考えれば、やはり、セイラ本人からも謝辞を述べねば礼を欠く。まだセイラを正式に公けの場に出してはいないものの、今回はやむを得ないと判断した。
護衛を引き連れ謁見の間へ向かいながら、直立不動の衛兵、お辞儀をする女官達や通りがかりの貴族に目をやる。この王宮のどこかに今回の奇襲の発端となる間者がいるのだと注意深く目を光らせながら、苛立ちを腹の底へと押し込む。
謁見の間に入ると、すでに、アンカール国の一行がカスピアンの到着を待っていた。
アンカール国に外交で訪れているのはユリアスであるため、カスピアンがウォルシュ公爵に対面するのはこれが初めてのことだった。
アンカール国軍は、陸軍と海軍と分かれており、双子の片割れのブランドン公爵が海軍の総督、ウォルシュ公爵が陸軍の総督。マルシオ国王は政治と外交を主に取り仕切っているらしい。
ウォルシュ公爵は陸軍の総督らしく、立派な体格の堂々たる青年。ユリアスによると、温厚で落ち着きがあり、人望の厚い切れ者との話。
ゆっくり歩みよりながら、お互いの腹を探るように視線を交わした。
目を逸らす事も無くじっくりと視線を返すウォルシュ公爵は、少々のことでは動じない肝の据わった男らしい。
初対面のカスピアンに対し、特に対抗心や敵意のある視線を向けない様子から、友好的な関係を結ぼうという姿勢であるのは確かだと判断する。
お互いの護衛を後方に控えさせた後、歓迎の意を伝え、礼儀に則り、握手を交わし、マルシオ国王からの親書を受け取る。カスピアンは王座に腰を下ろし、再度、目の前のウォルシュ公爵に目をやった。
「こちらへの道中の件だが、騎士団の報告では、我が王家の者が奇襲を受けた際、貴殿の助力あって危機を脱したとのこと。私からも礼を言わせてもらう」
公爵はふっと微笑みを浮かべ、にこやかに答える。
「身に余るお言葉でございます。偶然とはいえ、深い感銘を覚える場面に遭遇し、大変光栄に存じます。従者を守るために身を挺するとは、まことにお心優しい姫君でいらっしゃいますね」
その言葉に、カスピアンは苦々しい思いで薄い笑みを浮かべたが、ウォルシュ公爵がくすりと笑いを零したのに気がついた。何を笑ったのかと不審に思い、じっと公爵の顔を見る。自分を見るカスピアンの訝し気な視線に気がついた公爵は、ひとつ咳払いをした。
「男どもの顔面に果物が次から次へと命中していたのですよ。潰れた果物の汁が目にしみて、大の男が慌てている様子は、それはそれは滑稽でした」
「果物?」
どういうことだと驚いて聞き返したカスピアンに、公爵が説明する。
「姫君は投球の名手ですね。あのようにたおやかなお方が、まさか曲者と対峙し、抗戦されるとは。侍女の手渡す林檎やプラムを投げ命中させていたのはお見事でした」
カスピアンは絶句した。
捕まった従者を守ろうと、馬車から降りたとは聞いていたが、それどころか、果物を投げつけ対抗しようとしていたとは。
セイラが敵を更に激高させるような行動を取った事実が、報告から抜けていたことにも腹が立つ。
これは、後で本人にしっかりと問いたださねばならない。
「あのように美しくも勇ましい姫君がこの世にいるとは、まことに驚きました」
ウォルシュ公爵の未だに笑いを堪えきれないという様子に、カスピアンは深いため息をついた。
その時、扉がノックされる音がした。
エイドリアンが即座に扉のほうへ行く。
扉が開くと、護衛に囲まれたセイラが現れた。
モーブピンクに純白のレースを重ねた細身のドレスを纏っている。透き通るような薄いベールを背に流したその姿は、まるで高貴な百合のように清らかだった。
息を呑むようなその艶やかさに心を奪われる。
サリーの手を放すと、セイラは優雅にお辞儀をしてみせた。
どこからか感嘆のため息が漏れるのが聞こえた。
美しい蝶が舞うような優麗な所作に、自分だけではなく、アンカール国の一行も目を奪われているのに気がつき、カスピアンは強い不快感を感じたが、セイラが王妃になればこういった場面は毎日のように繰り返されるのだと自分に言い聞かせる。
ゆっくりと顔をあげたセイラは、自分に集中している視線に怯む様子を見せる事もなく、淡く微笑む。
曲者相手に果物で応戦していたとはにわかに信じがたい、気品に溢れた美しさだ。
セイラはゆっくりとカスピアンに視線を移す。
カスピアンが手で入室の許可をすると、セイラはひとつ瞬きをした。
そしてまっすぐにウォルシュ公爵のほうへと歩く。美しい姿勢を保ち、滑るように歩く様子は、お妃教育がしっかりと身に付き始めていることを証明していた。
セイラは柔らかな微笑みを浮かべたまま、公爵の前まで来ると、再度、お辞儀をした。
満面の笑みを浮かべた公爵が恭しくセイラの手を取り、挨拶の口づけを落とす。
「ウォルシュ公爵閣下。セイラと申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。今日は、危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
セイラが澄んだ声で挨拶と謝辞を述べると、公爵が眉をひそめ、セイラの顔を眺めた。なにか納得がいかないというような表情で、セイラに訊ねる。
「恐れ入ります。もう一度、お名前を伺ってよろしいですか」
「はい。セイラと申します」
セイラがにっこり微笑んで答えると、ウォルシュ公爵は面食らったように目を見開き、一瞬落胆の色を浮かべた。しかしすぐに、気を取り直したように笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「大変失礼をしました、セイラ様。どうぞ、ダニエルと御呼びください」
「閣下のお名前はダニエル様ですね。今後とも、よろしくお願いします」
セイラは花の咲くような華やかな笑顔で小さく頷いた。
カスピアンは眉間に手をやり俯くと、静かに後悔のため息をついた。
なんということだ。
手の陰から、隣に控えるエイドリアン、サリーに視線を流すと、二人とも顔が強ばっている。公爵の後ろにいる従者達も、こっそりと顔を見合わせたりと落ち着かない様子だ。
恐らく、この場にいる者で状況を分かっていないのは、セイラだけだろう。
公爵は、曲者に襲われていたのは、自分の縁談相手だと思っていたのだ。セイラが王家の馬車に乗っていたことから、ラベロア王家のただ一人の王女、アンジェだと思い込んだのも無理は無い。しかも、今の公爵の落胆ぶりを見れば、セイラをいたく気に入っており、縁談を進める心積もりだったのだろう。だが、ここで、自分の縁談相手だと思い込んでいた姫君が、まもなくラベロア王妃になると伝わっているセイラだと知り、自分の勘違いに気づいたわけだ。
これから肝心のアンジェを紹介しなければならないというのに、既に、この縁談には暗雲が立ち込め始めてしまった。
公爵はいまだにセイラの手を取ったまま、放そうという素振りさえみせない。この男は温和な雰囲気があるが、軍人に有りがちな押しの強さを隠し持っている。セイラが何者であるか判明してもなお、饒舌に話を続けるこの厚かましさを見ればそれは明らかだ。
アンジェの縁談相手でなければ、とうに王宮から追い出していた。
この男に横恋慕されてはたまらない。
脳裏に、憎っくきルシアの記憶が蘇る。
目の前の男が抱く好意に気がつかず、無邪気に微笑んでいるセイラにも怒りを感じた。
ともかく、これ以上、この男の前にセイラを出しておく訳にはいかない。
カスピアンは、サリーに目配せし、指示を送る。
楽しそうに話をしている公爵とセイラのもとへ、サリーが行く。
カスピアンはやりどころのない怒りを紛らわそうと、マルシオ国王からの親書に目を落とした。
訪問時間を終え、エスタス、レテシアとカオリンに挨拶をして、サロンを出てみると、サリー達が居ない事に気がついた。確認すると、カスピアンの指示で3人は馬車で一足先に王宮へ帰ったらしい。ユリアスはもうしばらく離宮で過ごし、今晩の客人をもてなす夜宴までには王宮へ戻るとのことだった。
カスピアンはしばらく馬を駈歩させ飛ばしていたけれど、半分くらいの距離を過ぎたところでスピードを落とした。一番速度の遅い常歩だと、揺れも前後の軽いものになる。
肩の力を抜いて深呼吸をする。
ようやく景色を楽しむ余裕が出てきた。
まだ日暮れまで時間があり、西の空がほんのり赤みを帯びて来たくらいだ。
カスピアンの愛馬の名前はジーク。
国軍の総指揮官に就任した時に、エスタスから賜った名馬だそうだ。どっしりと一際大きく強い雄馬だが、純白の身体に、銀色に輝くたてがみと長い尾が神秘的な、際立った美しさを持つ馬。ジークは、カスピアンの命令だけに従うよう調教されており、軍馬同様、危機的状況では、敵を蹴ったり噛み付くなど攻撃する訓練も受けているらしい。
後ろのカスピアンの胸に背を預け、ゆったりとした気持ちでジークの背に揺られる。
カスピアンと一緒にいると、すっかり安心してしまう。それに、護衛達も少し離れた後方にいるので、まるで、二人きりのような錯覚を覚えて更に気が緩む。森の中を乗馬デートしているような浮かれ気分を楽しみつつ、周りの景色を見ていたが、やがて記憶に残る場所が近づいた事に気がついた。
「このあたりで襲われたと思う」
そう言いながら地面を見下ろすと、私が投げた果物が方々に散らばっているのが見えた。
カスピアンは辺りの様子を観察するように見渡す。
「おまえたちに加勢し曲者を捕らえたのは、アンカール国のウォルシュ公爵だ」
「ウォルシュ公爵?」
「アンカール国の国王マルシオには、双子の弟達がいる。その双子の兄はブランドン公爵。今回、我が国に来ているのは、弟のウォルシュ公爵のほうだ」
そんな偉い人だったのだと驚く。
「私、名乗りもせず、ちゃんとした挨拶もしなかった」
後悔したが、今更遅い。
「あちらも名乗らなかったのだろう。気にするようなことではない」
「そうかな……それで、ウォルシュ公爵は、どうしてラベロアに?」
「縁談だ。アンジェを嫁がせようと思っている」
「アンジェ王女を?」
こちらの常識では、良家のご令嬢の適齢期といえば、17歳から20歳らしいから、20歳のアンジェもそろそろ結婚しなくてはならないのだろう。
「ウォルシュ公爵ならアンジェの伴侶として不足はない。父もカオリンもこの縁談を認めている」
「つまり、アンジェ王女と、ウォルシュ公爵、本人達次第になるの?」
「そういったところだ」
うまくいけばいいね、と言いかけたが、本人同士がお互いをどう思うかなんて、他人があれこれ期待するのも失礼だろう。気が合えばいいけれど、嫌なのに、周りが勧めるからと無理矢理結婚なんてのもひどい話だ。
「ウォルシュ公爵は親切で、人間的にも信頼出来そうな人だと思う。少なくとも、私はそういう印象を受けたよ」
あんな修羅場に居合わせたのは不運だったけど、咄嗟に判断し加勢してくれたのは本当に助かった。
「王家の私道に曲者が現れた事実は、直ちに精査しなければならない。内部の者の仕業か、あるいは、外国の間者の仕業かはまだ判断がつかぬが、おまえの予定を把握出来る、王宮内の何者かが関与しているのは確かだ」
カスピアンが険しい顔でそう呟くと、私を抱いている片腕に力をこめた。
「既にエイドリアンが曲者の取り調べを始めている。日々の警護は一層強化するが、おまえも油断するな」
「わかった。周囲にもっと気を配ります」
安心させようと、出来るだけきっぱりと返事をした。
近くに居る誰かが関わっていたのが確かだという今回の奇襲。思い出すだけでぞっとするが、とにかく、敵に隙を見せない事が一番有効な対策だろう。
マゼッタ女官長も、婚儀が執り行われ、最後に王妃の冠を頭上に授かるその瞬間までが、最も危険度が高いと繰り返し言っていた。
婚儀まであと、二週間。
何事も無く、その日を迎えられるよう、私も気を緩めてはならない。
ずっとこれからも、こうして彼の側にいたい。
無事に、婚儀の日を迎えられますように。
心の中でそう祈りながら、心地よい揺れに身を任せた。
奥宮で待つサリーのところまでセイラを送り届けた後、カスピアンは上階へ急ぐ。扉の前で待機していたエイドリアンを連れて国王の間に入る。
「取り調べはどうだ」
マントと剣を取り外したカスピアンの足下に跪くエイドリアンが返答する。
「現在までに判明していることを申し上げます。捕らえられているのは、全員、王都で悪さをしていた荒くれ者の集団でした。昨晩遅く、酒場で声をかけられたとのこと」
もともとの予定では、カスピアンもセイラと共に森の離宮へ向かうはずだったのだが、昨晩、急に予定が変更となり当日は別行動となったのだ。つまり、直前の変更を知る事が出来た人物が関与しているのは疑う余地もない。カスピアンが同行していれば、恐らく、奇襲をかけてくることはなかっただろう。
「セイラ様と従者一人を捕らえ、町外れの指定場所まで連れてくれば、巨額の報酬を受け取る話だったと。また、セイラ様に怪我を負わせるなど不手際があった場合、報酬が大幅に減額されるという条件つきだったそうです。目的は、セイラ様のお命ではなく、誘拐ということで間違いございません」
「セイラと従者一人という指定だったのか」
「推測になりますが、従者を殺すと脅せば、セイラ様が指示に従うという裏を読んだ策と思われます」
カスピアンは奥歯を噛み締めた。
つまり、セイラの性格を把握している何者かが企てた奇襲だったのだ。セイラが、従者を見殺しに出来るような人間ではないと知って、その弱みに付け込もうとした。案の定、その狙い通りに、セイラは従者を庇おうとし、危うい事態に陥りかけたことから、危機的な状況だったのは間違いない。
「はっきりとしたことは申し上げられませんが、取引をもちかけてきた人間は、ラベロア王国の人間ではなかった可能性が非常に高いと思われます。何故なら、待ち合わせの地名を正式名で呼んでいたらしいのです。落ち合う場所は、サンリート、ですが、ラベロアの者は皆通称の、霧の谷、と呼びます」
カスピアンの脳裏に、ある人物が浮かび上がる。
セイラを王妃と認めない勢力の企みであれば、真っ先にその命を狙うはずだ。多額の報酬を準備した上での誘拐、更に国外の人間によるものとなると、今回、最も首謀者として疑わしいのは、やはりあの男。
「エイドリアン。ルシアの周囲を調べるよう手配しろ。王宮内にエティグスの間者がいるのは間違いない」
「はっ」
指示を予測していたらしいエイドリアンは直ちに国王の間を後にした。
沸き上がる激しい怒りを持て余しているところに、女官のマーゴットが部下を連れて入って来た。
「陛下、謁見のお時間となります。お召し替えのご準備を整えて参りました」
外出着から正装に着替えたカスピアンは、退室しようとしたマーゴットに指示を出す。
「セイラを謁見の間へ連れてくるようサリーに伝えろ。ウォルシュ公爵へ挨拶させる」
「かしこまりました」
足早に階下へと向かうマーゴットから目を離し、カスピアンは深くため息をした。
縁談という本題に入る前に、今回の奇襲についての話が出るのは必至である。
ウォルシュ公爵の助力が無ければ、最悪の事態に陥っていた可能性も否定出来ない。今後のことを考えれば、やはり、セイラ本人からも謝辞を述べねば礼を欠く。まだセイラを正式に公けの場に出してはいないものの、今回はやむを得ないと判断した。
護衛を引き連れ謁見の間へ向かいながら、直立不動の衛兵、お辞儀をする女官達や通りがかりの貴族に目をやる。この王宮のどこかに今回の奇襲の発端となる間者がいるのだと注意深く目を光らせながら、苛立ちを腹の底へと押し込む。
謁見の間に入ると、すでに、アンカール国の一行がカスピアンの到着を待っていた。
アンカール国に外交で訪れているのはユリアスであるため、カスピアンがウォルシュ公爵に対面するのはこれが初めてのことだった。
アンカール国軍は、陸軍と海軍と分かれており、双子の片割れのブランドン公爵が海軍の総督、ウォルシュ公爵が陸軍の総督。マルシオ国王は政治と外交を主に取り仕切っているらしい。
ウォルシュ公爵は陸軍の総督らしく、立派な体格の堂々たる青年。ユリアスによると、温厚で落ち着きがあり、人望の厚い切れ者との話。
ゆっくり歩みよりながら、お互いの腹を探るように視線を交わした。
目を逸らす事も無くじっくりと視線を返すウォルシュ公爵は、少々のことでは動じない肝の据わった男らしい。
初対面のカスピアンに対し、特に対抗心や敵意のある視線を向けない様子から、友好的な関係を結ぼうという姿勢であるのは確かだと判断する。
お互いの護衛を後方に控えさせた後、歓迎の意を伝え、礼儀に則り、握手を交わし、マルシオ国王からの親書を受け取る。カスピアンは王座に腰を下ろし、再度、目の前のウォルシュ公爵に目をやった。
「こちらへの道中の件だが、騎士団の報告では、我が王家の者が奇襲を受けた際、貴殿の助力あって危機を脱したとのこと。私からも礼を言わせてもらう」
公爵はふっと微笑みを浮かべ、にこやかに答える。
「身に余るお言葉でございます。偶然とはいえ、深い感銘を覚える場面に遭遇し、大変光栄に存じます。従者を守るために身を挺するとは、まことにお心優しい姫君でいらっしゃいますね」
その言葉に、カスピアンは苦々しい思いで薄い笑みを浮かべたが、ウォルシュ公爵がくすりと笑いを零したのに気がついた。何を笑ったのかと不審に思い、じっと公爵の顔を見る。自分を見るカスピアンの訝し気な視線に気がついた公爵は、ひとつ咳払いをした。
「男どもの顔面に果物が次から次へと命中していたのですよ。潰れた果物の汁が目にしみて、大の男が慌てている様子は、それはそれは滑稽でした」
「果物?」
どういうことだと驚いて聞き返したカスピアンに、公爵が説明する。
「姫君は投球の名手ですね。あのようにたおやかなお方が、まさか曲者と対峙し、抗戦されるとは。侍女の手渡す林檎やプラムを投げ命中させていたのはお見事でした」
カスピアンは絶句した。
捕まった従者を守ろうと、馬車から降りたとは聞いていたが、それどころか、果物を投げつけ対抗しようとしていたとは。
セイラが敵を更に激高させるような行動を取った事実が、報告から抜けていたことにも腹が立つ。
これは、後で本人にしっかりと問いたださねばならない。
「あのように美しくも勇ましい姫君がこの世にいるとは、まことに驚きました」
ウォルシュ公爵の未だに笑いを堪えきれないという様子に、カスピアンは深いため息をついた。
その時、扉がノックされる音がした。
エイドリアンが即座に扉のほうへ行く。
扉が開くと、護衛に囲まれたセイラが現れた。
モーブピンクに純白のレースを重ねた細身のドレスを纏っている。透き通るような薄いベールを背に流したその姿は、まるで高貴な百合のように清らかだった。
息を呑むようなその艶やかさに心を奪われる。
サリーの手を放すと、セイラは優雅にお辞儀をしてみせた。
どこからか感嘆のため息が漏れるのが聞こえた。
美しい蝶が舞うような優麗な所作に、自分だけではなく、アンカール国の一行も目を奪われているのに気がつき、カスピアンは強い不快感を感じたが、セイラが王妃になればこういった場面は毎日のように繰り返されるのだと自分に言い聞かせる。
ゆっくりと顔をあげたセイラは、自分に集中している視線に怯む様子を見せる事もなく、淡く微笑む。
曲者相手に果物で応戦していたとはにわかに信じがたい、気品に溢れた美しさだ。
セイラはゆっくりとカスピアンに視線を移す。
カスピアンが手で入室の許可をすると、セイラはひとつ瞬きをした。
そしてまっすぐにウォルシュ公爵のほうへと歩く。美しい姿勢を保ち、滑るように歩く様子は、お妃教育がしっかりと身に付き始めていることを証明していた。
セイラは柔らかな微笑みを浮かべたまま、公爵の前まで来ると、再度、お辞儀をした。
満面の笑みを浮かべた公爵が恭しくセイラの手を取り、挨拶の口づけを落とす。
「ウォルシュ公爵閣下。セイラと申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。今日は、危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
セイラが澄んだ声で挨拶と謝辞を述べると、公爵が眉をひそめ、セイラの顔を眺めた。なにか納得がいかないというような表情で、セイラに訊ねる。
「恐れ入ります。もう一度、お名前を伺ってよろしいですか」
「はい。セイラと申します」
セイラがにっこり微笑んで答えると、ウォルシュ公爵は面食らったように目を見開き、一瞬落胆の色を浮かべた。しかしすぐに、気を取り直したように笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「大変失礼をしました、セイラ様。どうぞ、ダニエルと御呼びください」
「閣下のお名前はダニエル様ですね。今後とも、よろしくお願いします」
セイラは花の咲くような華やかな笑顔で小さく頷いた。
カスピアンは眉間に手をやり俯くと、静かに後悔のため息をついた。
なんということだ。
手の陰から、隣に控えるエイドリアン、サリーに視線を流すと、二人とも顔が強ばっている。公爵の後ろにいる従者達も、こっそりと顔を見合わせたりと落ち着かない様子だ。
恐らく、この場にいる者で状況を分かっていないのは、セイラだけだろう。
公爵は、曲者に襲われていたのは、自分の縁談相手だと思っていたのだ。セイラが王家の馬車に乗っていたことから、ラベロア王家のただ一人の王女、アンジェだと思い込んだのも無理は無い。しかも、今の公爵の落胆ぶりを見れば、セイラをいたく気に入っており、縁談を進める心積もりだったのだろう。だが、ここで、自分の縁談相手だと思い込んでいた姫君が、まもなくラベロア王妃になると伝わっているセイラだと知り、自分の勘違いに気づいたわけだ。
これから肝心のアンジェを紹介しなければならないというのに、既に、この縁談には暗雲が立ち込め始めてしまった。
公爵はいまだにセイラの手を取ったまま、放そうという素振りさえみせない。この男は温和な雰囲気があるが、軍人に有りがちな押しの強さを隠し持っている。セイラが何者であるか判明してもなお、饒舌に話を続けるこの厚かましさを見ればそれは明らかだ。
アンジェの縁談相手でなければ、とうに王宮から追い出していた。
この男に横恋慕されてはたまらない。
脳裏に、憎っくきルシアの記憶が蘇る。
目の前の男が抱く好意に気がつかず、無邪気に微笑んでいるセイラにも怒りを感じた。
ともかく、これ以上、この男の前にセイラを出しておく訳にはいかない。
カスピアンは、サリーに目配せし、指示を送る。
楽しそうに話をしている公爵とセイラのもとへ、サリーが行く。
カスピアンはやりどころのない怒りを紛らわそうと、マルシオ国王からの親書に目を落とした。
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中華後宮ラブコメディ。

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