30 / 78
六章
闘技場
しおりを挟む
「姿勢はそのまままっすぐに保ってください。そうです、よろしい。では、鞭を入れてください」
乗馬を教えてくれているエリオットの指示に頷き、手に持った鞭を振り上げサンダーのお尻にあててみたが、サンダーは気持ち良さそうに明後日の方向を見ていて動きもしない。
隣に馬を寄せているエリオットが失笑する。
「サンダーは若い馬ですから、もう少し強めに入れないと動きません」
「そうみたいね……でも、痛いと嫌がるかと思って」
どうしても力加減が分からず、未だにこの最初の鞭がうまく入らない。
もうこれで5回目の乗馬だが、一発で動き出した事は一度も無い。
私が乗っているのは、サンダーという、黄金色の美しい雌馬だ。性格が柔和で扱いやすいという話だが、どうも私はなめられているらしく、嫌がらずに背中には乗せてくれるものの、なかなか言う事を聞いてくれない。
エリオットが空中で一度、鞭を振り回し、ヒュンという音を出した。
「これくらいの勢いです」
「わかりました」
覚悟を決めて、鞭を振り上げ、さっきより強めに鞭を入れてみた。
すると、首を上下に振ったサンダーがようやく、ポコポコと歩き始める。
やる気のなさそうな歩き方ではあるが、とりあえずホッとする。
「よしよし、有り難う」
思わずそう呟いて、キラキラと輝く美しいたてがみを撫でてやる。
乗馬といっても、私の場合、全速力で野山を駆けさせるような馬術を学ぶわけではなく、単に、こんな感じで散歩する程度に乗りこなせればいいらしい。基本的に外出は箱馬車移動の生活になるらしいが、保養などで各地の離宮へ行く時など、護衛をつけず自分で野山や海岸を散歩するのに、ある程度一人で乗れたら便利だからということだ。
保養地では、離宮の敷地周囲を警護しており、離宮内の女官も護衛も最小限になるため、一旦中に入れば、かなり自由気ままに過ごせるらしい。
カスピアンの話だと、婚儀が終わり祝賀ムードが一段落したら、休暇を取って、海岸沿いの離宮へ保養に行く予定らしい。それを聞いたら、何が何でも乗馬は身につけておかねばと気合いが入った。
離宮で保養って言うけれど、言い換えればそれは、新婚旅行!
王宮では一日中、女官や護衛に囲まれ、人目のない時間なんて殆どないから、カスピアンと二人きり、それぞれ馬に乗って並んで海岸を散歩する、なんて考えただけでドキドキしてくる。
離宮に行く頃は、きっともう寒くなっているだろう。
初冬の海岸を想像してみる。
小雪が舞う、幻想的な波打ち際だったり。
冷たい海風が吹く、夕焼け色に染まる砂浜だったり。
温かく着込んで、カスピアンと二人、ゆっくりと馬でお散歩。
きっと、時間もゆっくりと流れることだろう。
離宮に戻ったら、燃え盛る暖炉の前で、温かいハーブティを飲みながら、夜が更けるまで二人で沢山話をして……
頭の中は完全にホリデーのイメージで埋め尽くされていく。
「セイラ様、前方を見てください。しっかり手綱を持って」
「あっ、はいっ」
にやけてつい、下を向いていたことに気がつき、慌てて顔を上げ前方へ目を向ける。
カスピアンの事を思い浮かべるだけで集中力が欠けてしまうので、レッスン中は意識して、極力、頭から排除しなくてはならない。
「手綱をもっと短く持ってください。そこで右へ曲がります」
言われた通りに、裏門のほうへ向かうため、手綱の右側を引き、すぐに右足でサンダーのお腹を軽く蹴ってみる。
今度はすんなりと右へ方向転換してくれたサンダー。
「エリオット、今、見てくれた?ちゃんと、曲がれました!」
一発で右に曲がれたことが嬉しくて振り返る。
「あっ、前を見てください!」
「えっ」
前を見ようとして、小枝が顔面にぶつかる。
「いたっ」
かろうじて結い上げていた髪は崩れなかったけど、頬がちょっと切れたようにヒリヒリする。
「馬は自分の障害物は避けますが、人間の障害物までは気配りできません。ちゃんと前を見て、必要に応じて背を低くするなど対応してください」
「はい……」
せっかく一回の指示で右に曲がれたというのに、この様だ。
まだまだ一人で乗れると言えるレベルにはほど遠い。
爽やかな初秋の風に吹かれながら、静かな林道を進むのはとても心地よかった。
朝から晩まで本の虫状態になっている私にとって、課外授業といえば乗馬ぐらいなので、いい気分転換になっている。
お妃教育が始まってみて、本当に助かったのは、アンリから読みの基本を学んでいたことだった。異世界から来たとはいえ、なぜか言葉は普通に話せているのが不思議だったが、さすがに文字までは違った。読みは出来ても書く事は練習していなかったので、筆記の練習は毎朝の日課になっている。
ちょっとだけホッとしたのは、さすがに歴史や地理は全く知らないことばかりだけれど、数学や科学、政治に関する内容は、言って見ればこれまで既に学んだ常識的なことだったので、特に勉強する必要がなかったことだ。逆に、私の得意とする料理などの家事、趣味の裁縫などは、姫君がするようなことではないと言われ、残念ながら、全然役に立たないらしい。でも、そのうち落ち着いたら、久しぶりに料理もしたいので、カスピアンに相談してみるつもりだ。やっぱり、自分の手料理を好きな人に食べてもらいたいと思うのは、極自然なことだと思う。もしかしたら、保養先の離宮の厨房なら使わせてもらえるのではないだろうか。
あっ、また、彼のことを考えている!
気を取り直して前方を見る。
私の悪い癖だ。
乗り物に乗ると考え事をして注意散漫になる。
通勤電車に乗っている時も、ぼんやりして、自分の下車駅を通り過ぎたなんてことは数えきれない。
しかも今は電車どころか、馬という、自分が指示を出さなければならない生き物に乗っているのだ。
めくれそうになっているドレスの裾を手早く直して、手綱を握り直す。
私が一番気疲れしているのは、やっぱりこの、マナー全般だ。
歩き方、姿勢、動き方のみならず、表情、視線の動かし方、声の出し方、言葉使い、食事の食べ方、飲み方……とにかくきりがなく、一瞬たりとも気が抜けない。どこに居ても視線を感じるから、くしゃみひとつ気ままにできやしない。サリー達だけが近くに居る時や、カスピアンと二人きりの時はリラックスして素の自分でいられるけれど、そんな時間はあまりない。
でも、カスピアンの恥になるような振る舞いはしたくないし、彼と一緒にいるために必要なもので、努力で補えるものならなんとしても身につけたいと思っている。顔を変えろとか年齢を変えろとか、無理難題を要求されているわけじゃないのだから。
こうして乗馬をしている今でも、真後ろにいるエリオットだけではなく、後方に4人も馬に乗った護衛がついてきて、私の一挙一動を見ている。
エリオットは初日からとても話しやすく、初対面であることを忘れるくらい気疲れしない相手だが、逆に、私の気が緩んでしまうという難点もある。
集中しなければ。
手綱を短く持ち直し、のんびり闊歩するサンダーの背中に揺られながら、林道を進む。
心地よい揺れと爽やかな秋風でリラックスしすぎて、今度は欠伸が出そうなのを必死で堪える。
せせらぎの音が耳に心地よい小川の石橋を渡ると、生い茂る木々の向こうで何やら騒がしい音が聞こえてきた。
「あちらは闘技場です。4万人を収容出来る規模で、通常は騎士団の訓練場となっておりますが、剣闘士と猛獣の戦いを開くこともあります」
いわゆるローマのコロッセオのような場所らしい。
剣闘士と猛獣の戦いなんて、血なまぐさくて恐ろしいし、何故そんなことをするのか私には到底理解出来ない。
こういったことも、いずれ、カスピアンと話をするだろう。
でも今はまだ、私がいろいろ意見をすべきではない。
なんといってもまた、この世界どころか、この国のことさえよく知らないのだから。
しっかりとした討論が出来ない状態で自分の意見をごり押しするなんて、説得力もない。
異世界に居たら、私の常識感覚が正しいとは言い切れないことも当然あるということを、いつも念頭に置かなければならないのだ。
「今日は、闘技場の中にも入ります」
「中に?」
「陛下より、セイラ様をお連れするようにとの指示がございました」
「では、カスピアンも闘技場に?」
「陛下は軍の総指揮官でいらっしゃいますし、直々に鍛錬のご指導いただいております」
「そう……直々に……」
あの大きな剣をブンブン振り回すところを想像してビビる。
「我が国の騎士団で、陛下の右に出る者はございません。陛下は、18歳の頃、剣闘士として猛獣と戦い、見事に仕留めた褒美として、総指揮官に任命されたと伺っております」
「カスピアンが、猛獣と……?」
そういえば、王子の間に何体もの猛獣の剥製があったことを思い出し、彼が猛獣と戦う様子を想像してぞっとした。
「猛獣を仕留めた後に兜を脱がれて、それが当時世継ぎ王子だったカスピアン様だと判明した時、前国王は激怒されたそうです。シルビア様が亡くなられてまもない頃でしたし、世継ぎ王子に何かがあったらそれこそ国にとっての一大事ですから」
「では、前国王の許しもなく、隠れて出場してたのね……」
その話を聞いて、なんとなく、当時のカスピアンは、母を失った悲しみや苦しみに打ち勝つために、危険な猛獣との戦いに挑戦したのだろうと思った。
過去の話とはいえ、世継ぎ王子の立場でよくそんな無謀なことをしたものだ。
でも、それを言えば、ヴォルガの河を一人で渡って私を助けに来てくれたことも、危険極まりない行動だった。
いくら不死身に見えても、カスピアンも血の通った人間。
彼がこの世からいなくなったら、なんて考えただけで不安で気が狂いそうになる。
彼を守るために、私は一体、何が出来るのだろう。
「セイラ様、私の後を付いて来てください」
エリオットが私の前のほうへと馬を進めた。
サンダーの背中に揺られ、闘技場の入口に入り、高い壁の間の通路を進むと、やがて前方に巨大な観客席が広がる円形闘技場が見えてきた。金属がぶつかり合う激しい音が耳に響き、緊張しながら、先へと進む。
闘技場の土煙の向こうには、いくつかのグループに分かれて剣術の鍛錬を行っている様子が見え、数はざっと見て、2、3千人ほど。
「本日ここに居るのは、軍事パレードの前列に出る選りすぐりの兵士のみ、およそ2500人ですが、当日のパレードの行進に出るのは1万です。我が騎士団は、王都には2万、全国各地に配置している者を含めれば通常時で8万です。必要に応じ、最大で15万から20万の規模になります」
「そんなにたくさん……」
「ラベロア王国は世界でも最も国力のある大国の一つです。国を守るにはそれなりの軍事力が必要です。現国王が総指揮官になられてから5年、軍事力もさらに強化され我が国も安泰しております」
「そうね。確かに、侵攻を企む国が恐れるほどの軍事力があれば、戦そのものを起こさずに平和を維持出来ますね」
私の居た世界のように、核保有など全世界滅亡に繋がるような軍事力を持つのとは違い、ここは、実際に生身の体を使っての戦いをする世界。
戦争自体が避けられないのなら、戦争をしなくていいように、それだけ自国は強いと周りに知らしめることも、平和を守る方法のひとつではあるだろう。
私がエティグスに連れて行かれた事件が発端となり、実際に戦が起きたという。恐らく死者も出たであろうと考えると、胸が痛んで罪悪感で苦しくなる。だからこそ、これからのラベロア王国の平和のために、人の血を流さずに国を守れるよう貢献出来たらと思う。
「セイラ様、あちらに陛下がいらっしゃいます」
エリオットが指差す方向へ目を向ける。
土煙でぼやけてはいるが、このだだっ広い闘技場の中央あたりのグループで、カスピアンらしき姿を見つけた。周りは皆、鎧だけではなく兜を被っているのに、カスピアンは鎧だけで、頭部は髪を後ろで束ねただけの無防備な状態だ。
兵士達が3、4人、揃って剣を構え、一斉にカスピアンのほうへ向かっていくのを見て、心臓が縮み上がりそうになる。
思わず両手で目を覆い、指の隙間からハラハラしながら見ていると、あっと言う間に兵士達が突き飛ばされたりなぎ倒されカスピアンの前から消える。次の兵士達がまた、カスピアン目がけて向かって行くが、同じく次から次へと足下に落ちて行く。
見るからにして、腕力が違うようだ。
どの兵士も皆当然、立派な体格をした若者のようだが、それでもやはり、カスピアンが一番大柄でがっしりしているように見える。
あまりに次から次へと、いとも簡単に兵士達がはじかれている様子に、目を覆うのを忘れて呆気にとられてしまった。
重そうな鎧がぶつかる音、剣のぶつかり合う激しい音に混じり、カスピアンの怒号が飛ぶのも聞こえる。
「あれは、木製の剣で、鍛錬に真剣は使いません」
エリオットの言葉に少しホッとするが、それでも、危険を伴う鍛錬には違いないのは確かだ。よく見れば、真剣ではないといっても、けが人は出ている様子だった。腕を押さえてうずくまっている者や、出血しているのか鎧の隙間が赤く染まっている者もいるし、ぱっと見た感じは殺し合いにしか見えない。
「本日は、指揮官100名に加え、総指揮官の陛下が、鍛錬の指導をされています。今日はこの後、軍事パレードの演習も行われる予定になっています」
「では、鍛錬はもうすぐ終わるのね」
もともとプロレスやボクシングなどの格闘技を見るのも苦手なので、こういった場面は出来れば見たくない。でも、ラベロア王国を守る重要な役割を持つ騎士団を知らずにこの国で生きていくわけにもいかないだろう。
苦手だとか怖いからなど言い訳をして目を逸らしたりせず、きちんと理解しなければ。
ハラハラしながら、もくもくとした土煙の向こうで、あちこちで吹っ飛ばされる兵士の様子を見ていると、しばらくしてようやく鍛錬が終わったようだった。
指令のもと、一斉に兵士が整列する素早さにびっくりする。
真っ黒い軍馬が投入され始め、その数およそ3~400頭だろうか。
一部の騎士が軍馬に乗り、残りの兵は整列し、敬礼のポーズを取る。
規則的に正確に動く軍馬の美しさに息をのむ。
林道をのんびり歩くサンダーとはまるで別の生き物のようだ。
深紅の国旗がついた槍を掲げた兵士達や、列をなした兵士達の規則正しい動きや行進を、指揮官達が厳しくチェックし、指導している。
「当初は、鎧を着用しての軍事パレードの予定でしたが、婚礼前日の祝賀パレードを兼ねることになったため、当日は、正装の軍服での行進となります」
「本当に、一糸乱れぬ正確な動きで、奇麗ですね」
総勢1万人が街を行進するということだから、それはものすごい迫力だろう。
パレードと名のつくものは、テレビでしか見た事がないから、こんな大規模のパレードをこの目で見る事になろうとは、我ながら信じられない思いだ。
「セイラ様。あちらから、陛下がいらっしゃいます」
乗馬を教えてくれているエリオットの指示に頷き、手に持った鞭を振り上げサンダーのお尻にあててみたが、サンダーは気持ち良さそうに明後日の方向を見ていて動きもしない。
隣に馬を寄せているエリオットが失笑する。
「サンダーは若い馬ですから、もう少し強めに入れないと動きません」
「そうみたいね……でも、痛いと嫌がるかと思って」
どうしても力加減が分からず、未だにこの最初の鞭がうまく入らない。
もうこれで5回目の乗馬だが、一発で動き出した事は一度も無い。
私が乗っているのは、サンダーという、黄金色の美しい雌馬だ。性格が柔和で扱いやすいという話だが、どうも私はなめられているらしく、嫌がらずに背中には乗せてくれるものの、なかなか言う事を聞いてくれない。
エリオットが空中で一度、鞭を振り回し、ヒュンという音を出した。
「これくらいの勢いです」
「わかりました」
覚悟を決めて、鞭を振り上げ、さっきより強めに鞭を入れてみた。
すると、首を上下に振ったサンダーがようやく、ポコポコと歩き始める。
やる気のなさそうな歩き方ではあるが、とりあえずホッとする。
「よしよし、有り難う」
思わずそう呟いて、キラキラと輝く美しいたてがみを撫でてやる。
乗馬といっても、私の場合、全速力で野山を駆けさせるような馬術を学ぶわけではなく、単に、こんな感じで散歩する程度に乗りこなせればいいらしい。基本的に外出は箱馬車移動の生活になるらしいが、保養などで各地の離宮へ行く時など、護衛をつけず自分で野山や海岸を散歩するのに、ある程度一人で乗れたら便利だからということだ。
保養地では、離宮の敷地周囲を警護しており、離宮内の女官も護衛も最小限になるため、一旦中に入れば、かなり自由気ままに過ごせるらしい。
カスピアンの話だと、婚儀が終わり祝賀ムードが一段落したら、休暇を取って、海岸沿いの離宮へ保養に行く予定らしい。それを聞いたら、何が何でも乗馬は身につけておかねばと気合いが入った。
離宮で保養って言うけれど、言い換えればそれは、新婚旅行!
王宮では一日中、女官や護衛に囲まれ、人目のない時間なんて殆どないから、カスピアンと二人きり、それぞれ馬に乗って並んで海岸を散歩する、なんて考えただけでドキドキしてくる。
離宮に行く頃は、きっともう寒くなっているだろう。
初冬の海岸を想像してみる。
小雪が舞う、幻想的な波打ち際だったり。
冷たい海風が吹く、夕焼け色に染まる砂浜だったり。
温かく着込んで、カスピアンと二人、ゆっくりと馬でお散歩。
きっと、時間もゆっくりと流れることだろう。
離宮に戻ったら、燃え盛る暖炉の前で、温かいハーブティを飲みながら、夜が更けるまで二人で沢山話をして……
頭の中は完全にホリデーのイメージで埋め尽くされていく。
「セイラ様、前方を見てください。しっかり手綱を持って」
「あっ、はいっ」
にやけてつい、下を向いていたことに気がつき、慌てて顔を上げ前方へ目を向ける。
カスピアンの事を思い浮かべるだけで集中力が欠けてしまうので、レッスン中は意識して、極力、頭から排除しなくてはならない。
「手綱をもっと短く持ってください。そこで右へ曲がります」
言われた通りに、裏門のほうへ向かうため、手綱の右側を引き、すぐに右足でサンダーのお腹を軽く蹴ってみる。
今度はすんなりと右へ方向転換してくれたサンダー。
「エリオット、今、見てくれた?ちゃんと、曲がれました!」
一発で右に曲がれたことが嬉しくて振り返る。
「あっ、前を見てください!」
「えっ」
前を見ようとして、小枝が顔面にぶつかる。
「いたっ」
かろうじて結い上げていた髪は崩れなかったけど、頬がちょっと切れたようにヒリヒリする。
「馬は自分の障害物は避けますが、人間の障害物までは気配りできません。ちゃんと前を見て、必要に応じて背を低くするなど対応してください」
「はい……」
せっかく一回の指示で右に曲がれたというのに、この様だ。
まだまだ一人で乗れると言えるレベルにはほど遠い。
爽やかな初秋の風に吹かれながら、静かな林道を進むのはとても心地よかった。
朝から晩まで本の虫状態になっている私にとって、課外授業といえば乗馬ぐらいなので、いい気分転換になっている。
お妃教育が始まってみて、本当に助かったのは、アンリから読みの基本を学んでいたことだった。異世界から来たとはいえ、なぜか言葉は普通に話せているのが不思議だったが、さすがに文字までは違った。読みは出来ても書く事は練習していなかったので、筆記の練習は毎朝の日課になっている。
ちょっとだけホッとしたのは、さすがに歴史や地理は全く知らないことばかりだけれど、数学や科学、政治に関する内容は、言って見ればこれまで既に学んだ常識的なことだったので、特に勉強する必要がなかったことだ。逆に、私の得意とする料理などの家事、趣味の裁縫などは、姫君がするようなことではないと言われ、残念ながら、全然役に立たないらしい。でも、そのうち落ち着いたら、久しぶりに料理もしたいので、カスピアンに相談してみるつもりだ。やっぱり、自分の手料理を好きな人に食べてもらいたいと思うのは、極自然なことだと思う。もしかしたら、保養先の離宮の厨房なら使わせてもらえるのではないだろうか。
あっ、また、彼のことを考えている!
気を取り直して前方を見る。
私の悪い癖だ。
乗り物に乗ると考え事をして注意散漫になる。
通勤電車に乗っている時も、ぼんやりして、自分の下車駅を通り過ぎたなんてことは数えきれない。
しかも今は電車どころか、馬という、自分が指示を出さなければならない生き物に乗っているのだ。
めくれそうになっているドレスの裾を手早く直して、手綱を握り直す。
私が一番気疲れしているのは、やっぱりこの、マナー全般だ。
歩き方、姿勢、動き方のみならず、表情、視線の動かし方、声の出し方、言葉使い、食事の食べ方、飲み方……とにかくきりがなく、一瞬たりとも気が抜けない。どこに居ても視線を感じるから、くしゃみひとつ気ままにできやしない。サリー達だけが近くに居る時や、カスピアンと二人きりの時はリラックスして素の自分でいられるけれど、そんな時間はあまりない。
でも、カスピアンの恥になるような振る舞いはしたくないし、彼と一緒にいるために必要なもので、努力で補えるものならなんとしても身につけたいと思っている。顔を変えろとか年齢を変えろとか、無理難題を要求されているわけじゃないのだから。
こうして乗馬をしている今でも、真後ろにいるエリオットだけではなく、後方に4人も馬に乗った護衛がついてきて、私の一挙一動を見ている。
エリオットは初日からとても話しやすく、初対面であることを忘れるくらい気疲れしない相手だが、逆に、私の気が緩んでしまうという難点もある。
集中しなければ。
手綱を短く持ち直し、のんびり闊歩するサンダーの背中に揺られながら、林道を進む。
心地よい揺れと爽やかな秋風でリラックスしすぎて、今度は欠伸が出そうなのを必死で堪える。
せせらぎの音が耳に心地よい小川の石橋を渡ると、生い茂る木々の向こうで何やら騒がしい音が聞こえてきた。
「あちらは闘技場です。4万人を収容出来る規模で、通常は騎士団の訓練場となっておりますが、剣闘士と猛獣の戦いを開くこともあります」
いわゆるローマのコロッセオのような場所らしい。
剣闘士と猛獣の戦いなんて、血なまぐさくて恐ろしいし、何故そんなことをするのか私には到底理解出来ない。
こういったことも、いずれ、カスピアンと話をするだろう。
でも今はまだ、私がいろいろ意見をすべきではない。
なんといってもまた、この世界どころか、この国のことさえよく知らないのだから。
しっかりとした討論が出来ない状態で自分の意見をごり押しするなんて、説得力もない。
異世界に居たら、私の常識感覚が正しいとは言い切れないことも当然あるということを、いつも念頭に置かなければならないのだ。
「今日は、闘技場の中にも入ります」
「中に?」
「陛下より、セイラ様をお連れするようにとの指示がございました」
「では、カスピアンも闘技場に?」
「陛下は軍の総指揮官でいらっしゃいますし、直々に鍛錬のご指導いただいております」
「そう……直々に……」
あの大きな剣をブンブン振り回すところを想像してビビる。
「我が国の騎士団で、陛下の右に出る者はございません。陛下は、18歳の頃、剣闘士として猛獣と戦い、見事に仕留めた褒美として、総指揮官に任命されたと伺っております」
「カスピアンが、猛獣と……?」
そういえば、王子の間に何体もの猛獣の剥製があったことを思い出し、彼が猛獣と戦う様子を想像してぞっとした。
「猛獣を仕留めた後に兜を脱がれて、それが当時世継ぎ王子だったカスピアン様だと判明した時、前国王は激怒されたそうです。シルビア様が亡くなられてまもない頃でしたし、世継ぎ王子に何かがあったらそれこそ国にとっての一大事ですから」
「では、前国王の許しもなく、隠れて出場してたのね……」
その話を聞いて、なんとなく、当時のカスピアンは、母を失った悲しみや苦しみに打ち勝つために、危険な猛獣との戦いに挑戦したのだろうと思った。
過去の話とはいえ、世継ぎ王子の立場でよくそんな無謀なことをしたものだ。
でも、それを言えば、ヴォルガの河を一人で渡って私を助けに来てくれたことも、危険極まりない行動だった。
いくら不死身に見えても、カスピアンも血の通った人間。
彼がこの世からいなくなったら、なんて考えただけで不安で気が狂いそうになる。
彼を守るために、私は一体、何が出来るのだろう。
「セイラ様、私の後を付いて来てください」
エリオットが私の前のほうへと馬を進めた。
サンダーの背中に揺られ、闘技場の入口に入り、高い壁の間の通路を進むと、やがて前方に巨大な観客席が広がる円形闘技場が見えてきた。金属がぶつかり合う激しい音が耳に響き、緊張しながら、先へと進む。
闘技場の土煙の向こうには、いくつかのグループに分かれて剣術の鍛錬を行っている様子が見え、数はざっと見て、2、3千人ほど。
「本日ここに居るのは、軍事パレードの前列に出る選りすぐりの兵士のみ、およそ2500人ですが、当日のパレードの行進に出るのは1万です。我が騎士団は、王都には2万、全国各地に配置している者を含めれば通常時で8万です。必要に応じ、最大で15万から20万の規模になります」
「そんなにたくさん……」
「ラベロア王国は世界でも最も国力のある大国の一つです。国を守るにはそれなりの軍事力が必要です。現国王が総指揮官になられてから5年、軍事力もさらに強化され我が国も安泰しております」
「そうね。確かに、侵攻を企む国が恐れるほどの軍事力があれば、戦そのものを起こさずに平和を維持出来ますね」
私の居た世界のように、核保有など全世界滅亡に繋がるような軍事力を持つのとは違い、ここは、実際に生身の体を使っての戦いをする世界。
戦争自体が避けられないのなら、戦争をしなくていいように、それだけ自国は強いと周りに知らしめることも、平和を守る方法のひとつではあるだろう。
私がエティグスに連れて行かれた事件が発端となり、実際に戦が起きたという。恐らく死者も出たであろうと考えると、胸が痛んで罪悪感で苦しくなる。だからこそ、これからのラベロア王国の平和のために、人の血を流さずに国を守れるよう貢献出来たらと思う。
「セイラ様、あちらに陛下がいらっしゃいます」
エリオットが指差す方向へ目を向ける。
土煙でぼやけてはいるが、このだだっ広い闘技場の中央あたりのグループで、カスピアンらしき姿を見つけた。周りは皆、鎧だけではなく兜を被っているのに、カスピアンは鎧だけで、頭部は髪を後ろで束ねただけの無防備な状態だ。
兵士達が3、4人、揃って剣を構え、一斉にカスピアンのほうへ向かっていくのを見て、心臓が縮み上がりそうになる。
思わず両手で目を覆い、指の隙間からハラハラしながら見ていると、あっと言う間に兵士達が突き飛ばされたりなぎ倒されカスピアンの前から消える。次の兵士達がまた、カスピアン目がけて向かって行くが、同じく次から次へと足下に落ちて行く。
見るからにして、腕力が違うようだ。
どの兵士も皆当然、立派な体格をした若者のようだが、それでもやはり、カスピアンが一番大柄でがっしりしているように見える。
あまりに次から次へと、いとも簡単に兵士達がはじかれている様子に、目を覆うのを忘れて呆気にとられてしまった。
重そうな鎧がぶつかる音、剣のぶつかり合う激しい音に混じり、カスピアンの怒号が飛ぶのも聞こえる。
「あれは、木製の剣で、鍛錬に真剣は使いません」
エリオットの言葉に少しホッとするが、それでも、危険を伴う鍛錬には違いないのは確かだ。よく見れば、真剣ではないといっても、けが人は出ている様子だった。腕を押さえてうずくまっている者や、出血しているのか鎧の隙間が赤く染まっている者もいるし、ぱっと見た感じは殺し合いにしか見えない。
「本日は、指揮官100名に加え、総指揮官の陛下が、鍛錬の指導をされています。今日はこの後、軍事パレードの演習も行われる予定になっています」
「では、鍛錬はもうすぐ終わるのね」
もともとプロレスやボクシングなどの格闘技を見るのも苦手なので、こういった場面は出来れば見たくない。でも、ラベロア王国を守る重要な役割を持つ騎士団を知らずにこの国で生きていくわけにもいかないだろう。
苦手だとか怖いからなど言い訳をして目を逸らしたりせず、きちんと理解しなければ。
ハラハラしながら、もくもくとした土煙の向こうで、あちこちで吹っ飛ばされる兵士の様子を見ていると、しばらくしてようやく鍛錬が終わったようだった。
指令のもと、一斉に兵士が整列する素早さにびっくりする。
真っ黒い軍馬が投入され始め、その数およそ3~400頭だろうか。
一部の騎士が軍馬に乗り、残りの兵は整列し、敬礼のポーズを取る。
規則的に正確に動く軍馬の美しさに息をのむ。
林道をのんびり歩くサンダーとはまるで別の生き物のようだ。
深紅の国旗がついた槍を掲げた兵士達や、列をなした兵士達の規則正しい動きや行進を、指揮官達が厳しくチェックし、指導している。
「当初は、鎧を着用しての軍事パレードの予定でしたが、婚礼前日の祝賀パレードを兼ねることになったため、当日は、正装の軍服での行進となります」
「本当に、一糸乱れぬ正確な動きで、奇麗ですね」
総勢1万人が街を行進するということだから、それはものすごい迫力だろう。
パレードと名のつくものは、テレビでしか見た事がないから、こんな大規模のパレードをこの目で見る事になろうとは、我ながら信じられない思いだ。
「セイラ様。あちらから、陛下がいらっしゃいます」
0
お気に入りに追加
314
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。

アンジェリーヌは一人じゃない
れもんぴーる
恋愛
義母からひどい扱いされても我慢をしているアンジェリーヌ。
メイドにも冷遇され、昔は仲が良かった婚約者にも冷たい態度をとられ居場所も逃げ場所もなくしていた。
そんな時、アルコール入りのチョコレートを口にしたアンジェリーヌの性格が激変した。
まるで別人になったように、言いたいことを言い、これまで自分に冷たかった家族や婚約者をこぎみよく切り捨てていく。
実は、アンジェリーヌの中にずっといた魂と入れ替わったのだ。
それはアンジェリーヌと一緒に生まれたが、この世に誕生できなかったアンジェリーヌの双子の魂だった。
新生アンジェリーヌはアンジェリーヌのため自由を求め、家を出る。
アンジェリーヌは満ち足りた生活を送り、愛する人にも出会うが、この身体は自分の物ではない。出来る事なら消えてしまった可哀そうな自分の半身に幸せになってもらいたい。でもそれは自分が消え、愛する人との別れの時。
果たしてアンジェリーヌの魂は戻ってくるのか。そしてその時もう一人の魂は・・・。
*タグに「平成の歌もあります」を追加しました。思っていたより歌に注目していただいたので(*´▽`*)
(なろうさま、カクヨムさまにも投稿予定です)

男と女の初夜
緑谷めい
恋愛
キクナー王国との戦にあっさり敗れたコヅクーエ王国。
終戦条約の約款により、コヅクーエ王国の王女クリスティーヌは、"高圧的で粗暴"という評判のキクナー王国の国王フェリクスに嫁ぐこととなった。
しかし、クリスティーヌもまた”傲慢で我が儘”と噂される王女であった――

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる