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一章
黒い森で起きた超常現象
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「園田さーん、そろそろ準備はいいですか?」
テントの向こうから声をかけられて、私はハァとため息をついた。
「すみませーん、あと5分くださーい」
なるべく陽気な声で威勢良く返事をした。
そして大きなスタンドミラーに映る己の姿を見て、がっくりと肩を落とす。
一体どうしてこんなことになったんだろう。
またひとつ、大きなため息をついた。
私、園田セイラは、慌ただしい都会の喧騒を離れ、この歴史あるドイツの街へ、ある重要な目的を果たすためにやってきたのだ。
ケースから出した私の竪琴、ライアーをそっと抱きしめて、再度、盛大なため息をつく。
幼い頃から始めたライアー、これで何台目だろうか。今使っているライアーは、22歳の誕生日プレゼントとして、1年前に両親が買ってくれた、私の一番の宝物。
前々から個人レッスンを受けたかったライアー奏者とアポが取れたから、仕事を休んで遠路はるばるドイツまでやってきたというのに。
事の発端は本当にひょんなことだった。
ドイツに到着した翌日、時差ボケ解消にと古い街並みを堪能しながら散策していた時に、たまたま通りかかった日系サロン。レッスンを受ける前に、この際ヘアカットしようと思い立ち、立ち寄って見たら、この先2週間は予約がいっぱいで無理だと断られた。ここまでは予測できる範囲のことだった。
ヘアカットは諦めてサロンを出て、向かいのお土産屋のウインドーディスプレイを眺めていたら、さっきのサロンの方が呼びにきて、てっきり空きが出たのかと思ってサロンに戻ったところ、思いもしない展開が待っていた。
このサロンは、東京のウエディング専門雑誌の現地撮影のヘアメイクを請け負っているが、昨日、肝心のブライダルモデルが成田空港で盲腸になってしまい、モデルは日本に残して、撮影チームだけが現地に来てしまったとのこと。
大急ぎでアジア人のモデルを現地手配しようと、地域の日本人ネットワークを駆使して探していたのだが、なかなか適任な人材が見つからずに苦戦していたらしい。それで、たまたま立ち寄った私に白羽の矢が立ったということだ。
人選に重要だったのは、色白、小柄で細身、長いストレートの黒髪の3点が揃っていることだったとか。
「顔はメイクでどうにでもなるけど、この3点だけはさすがにアタシの技術でもカバー出来ないからね!」
サロンの柿谷店長の言う、顔はメイクでどうにでも、という失礼な言葉に多少は傷ついたし、モデルなんてやったこともないから断ろうとした。だが、彼らがあまりに困っている様子だったし、モデル代は出す上、撮影後は豪華ディナー招待、しかも営業時間外で無料ヘアカットまでしてくれるという甘い言葉に乗せられて、つい頷いてしまった。
翌日の昼前、彼らが私の滞在しているホステルに、撮影機材がいっぱい詰まった大型バン2台で迎えにきたのを見た時は、事の大きさに驚いて腰が抜けそうになった。
動揺している間に、誘拐されるようにバンに押し込まれ、黒い森の奥へと連れ去られる。バンから降りて呆然と立ち尽くす私を尻目に、ドイツ人スタッフ達が慣れた様子で大きなテントをあっという間に組み立てた。日系サロンのスタッフさん達にテントの中に押し込まれたかと思うと、さっさと手際よく服は脱がされ、下着姿であれよあれよといううちに、気がつけばクラシックなオフホワイトのウェディングドレスに身を包んでおり、メイクも完了していたという状態だ。
他人に服を脱がされるというのが、物心ついてからでは実はこれが人生初めての経験だったことも何気にショックである。
それに、結婚どころかこのところは彼氏もいないのに、まさか己のウエディングドレス姿を見る羽目になるとは、極めて異様な気分だ。物語の中のお姫様が身に纏うような、上質な美しいレースに、数えきれないほどのパールやクリスタルが散りばめられた、滑らかな光沢のある細身のドレス。髪はロングのまま後ろに流していて、頭には、透き通るようなベールをかけられ、そして、グリーンとホワイトを基調にした生花で丁寧に編み込まれた花冠を乗せてもらっている。ベールで顔ははっきりと映らないからということで、メイクはナチュラルメイクを施されている。
ベール越しに自分を見ているせいか、鏡に映る自分は人間というよりは無機質なドールっぽい気がする。
とりあえず撮影するまでは、ベールで視界を遮る必要もないので、そっと両手でベールを上にめくりあげた。
「園田さん?」
声がしたとのと同時にテントが開いて、柿谷店長が中をのぞく。
「うん、いいわね。森の妖精っぽい雰囲気出てる」
「あのー、一応、私が返事してからテント開けてもらえますか?!」
もし着替え中だったら大変なことじゃないかと思って苦情を言うと、柿谷さんがびっくりしたっように目をぱちくりさせた。
「あら、ごめんなさい。でも、アタシ、女の子に興味ないわよ」
「そういう問題じゃないと思いますけど……」
「ふうん?」
全然気にしていない素振りで、無邪気な笑顔をみせる髭面の柿谷さん。
これはもう、さっさと仕事を終わらせて、ギャラ、豪華ディナーと無料ヘアカットのご褒美をもらうしかない。
覚悟を決めると、ライアーを抱き裸足でテントから出た。
今回の衣装には靴はない。テーマが精霊の宿る森での婚礼だからだそうだ。
初夏の森の中はひんやりとして、大きな木々が茂るその隙間から差し込む太陽の光がまるで天然のスポットライトのように芝生のあちこちを照らしていた。
幻想的な景色の向こうにある、スタッフが忙しく動き回っている広場が現場となるので、様子を見に行こうと、ゆっくりと歩いてみる。広場では、撮影スタッフの方々が何やらあちこちで光の加減を調べる機器を使ったり、いくつもの反射板の角度を変えたりと右往左往していたのだが、今は湖畔の湿気のせいか若干霧がかかっている感じなので、もう少し待ってから試し撮りをしようということになる。
私がライアーを持っていることを知った柿谷さんのアイデアで、竪琴を膝に抱いたカットなども試すことになっている。これは私にとっても宝物のライアーと一緒の写真を撮れるいい記念になると思い快諾した。
どのようなカットを取るか大体の説明を撮影チームから聞いた後、喉が乾いたのでお水を取りに行く。バン二台の間に開けたスペースに、キャンプ用の組み立て式のテーブルが置かれていて、スナック類に飲み物もたっぷりあった。プラスチック製のお皿やカップだろうと思いきや、ちゃんとした陶器のお皿やグラスが準備してあって、陳列されたクッキーやアップルパイなどが美味しそうに並んでいて、かなり豪華な雰囲気だ。
ワインまで準備しているのかと驚いてボトルを見たら、アルコールフリーのワインだった。
せっかくなので、コーヒー用のマグカップではなく、キラキラするワイングラスに、ボトルのお水を注ぎいれた。
ちょっとだけ炭酸でピリピリするミネラルウォーター。
うん、不思議な気分だ。
ドイツの黒い森で、裸足でウエディングドレス着て、湖畔に立ち炭酸水を飲んでいる私。
かなり、非日常的。
なんだか滑稽なことになっちゃったなぁ。
片腕にライアーを抱いたまま、グラス片手に湖畔のほうへ歩いていると、風でふわりと髪が舞い上がり、ひんやりした空気が首筋を通り抜けた。空を見上げようとしたら花冠を落としそうになり、あわてて手持ちのグラスごと頭を押さえる。
水を飲もうとグラスを見ると、水の表面に鮮やかな緑色の小さな葉が一枚浮いていた。
肩にかけていた厚手のショールを芝生に敷いてその上にライアーを置き、指でグラスの中の葉の茎の部分をつまんで取ろうとしたのだが、葉っぱが逃げるように水の表面をくるくると動き回る。なかなか取れないので、これはお水ごと捨てるしかないなと思った時、グラスの縁に指が触れ小さな音が響いた。
一瞬、なんの音だろうと思ったがすぐに気がついた。
濡れた指がワイングラスの縁に触れたことで音が出たのだ。
これはグラスハープ。
グラスの形や、注ぎいれた水の量で音が変わる、グラスの楽器だ。
子供の頃、いくつもワイングラスを並べて音を出して遊んでいたことを思い出した。毎日毎日それをやっている私を見兼ねた両親が、ライアー教室に私を連れて行ってくれたのだった。
懐かしくなり、ゆっくりとグラスの縁の曲線を指でゆっくりと撫でると、あたりいっぱいに大きな高い音が広がっていく。グラスが振動しているのがわかるくらい、とても大きな音となり、遠くでバサバサと鳥が飛び立つ羽音が聞こえた。
じんじんと頭に響くような強い音。
何か、違う……
ショールの上に置いているライアーが、まるで共鳴するかのように振動し僅かな音を立てたのが聞こえた。
これは心地いい音ではない。
あぁ、この波動は、癒しの音ではない。
急に、こめかみに痛みが走った。
急いでグラスを両手で包み振動を止めると、その不快な音が消えた。
天使と悪魔の楽器と呼ばれるグラスハープの周波数は、ガラスの素材により異なる。その響きは耳にする人との相性にもよるが、心理的に悪い影響を与えるということもあるそうだ。残念ながら、このグラスが奏でる音はどうやら私には合わない。
寒気がしてきたかと思うと、こめかみの血管がズキンズキンと波打ち始め、偏頭痛のような痛みになっていく。頭を押さえているうちに、あたりが異常に眩しく感じるようになり、目眩を覚え思わずしゃがみこむ。
早く、財布の中にいつも入れている頭痛薬、取りに行かなきゃ。
そう思うのに、頭の痛さはますます強烈さを増し、もう身動きが出来ない。
撮影チームも少し離れたところに集まっているせいか、私の様子など気がつくよしもなかった。
割れそうな頭を抱えているうちに、意思に反して猛烈な睡魔に襲われる。
やがて意識が遠のき始め四肢も麻痺していく。
そして本当に文字通り、ぷつりと記憶が切れ、私は1人、真っ暗な暗闇の中に落ちて行った。
どれくらいの時間がたっただろうか。
体を揺さぶられる感覚にゆっくりと意識が戻ってくる。
まるで温泉に入った後のように全身が熱く、筋力が失われたかのように体が重い。
頭はどーんと重いが、あの激しい痛みは消えていた。
ぼやける視界が徐々にクリアになってきて、自分を見下ろしている二つの目に気がつく。
「ん…?」
瞬時に、なぜ自分がこんなところに倒れていたのか思い出す。
そうだ、ブライダルモデルの仕事をひきうけて、森の奥深くにきて、ガラスハープの音を聴いた後、急に具合が悪くなったんだった。
偏頭痛なんて、数年ぶりのことで、すっかりノックアウトされてしまった。
どれくらい眠っていたんだろう?
もうあたりが夕暮れ時のように薄暗くなっているのに気づき、ハッとする。
撮影は?!
重い体をなんとか起こそうそしたら、そばに座っていた初老の小さな女性が背中を押して支えてくれた。視線を感じて見上げれば、目の前にはとても小柄で同じく初老の男性が立っていて、目を丸くして私を見ている。
二人ははるか昔の時代から来たかのような服装だった。
何かが普通と違う雰囲気の二人を交互に見て、その理由に気がついた。
二人は、どうやら小人症の方々らしい。
「あ、すみません。もう大丈夫です」
そう言ってお礼を言うと、二人はホッとしたように顔を見合わせた。
「今、何時くらいですか?あの、撮影は?」
二人もモデルで、きっと今回の撮影ためにこういった衣装を着ているんだろうと思いつつ、そう尋ねると、二人は困ったように顔を見合わせた。
「一体どうしたんだね、若い娘が一人でこんなところに……」
やや甲高くしわがれた声のお爺さん。
「え?一人で…?」
何か様子が変だと思って周りを見渡したら、撮影チームが陣取っていたあたりには何もなく、周辺はただ鬱蒼と茂った森だった。
「えっっ?」
慌てて立ち上がり、さっきまでバンやテントがあったはずのあたりに駆けつけたが、本当に全て無くなっていた。
「えええええっっっっ!!!」
思わず絶叫し、頭を抱えた。
何?
消えてる?!
どうして誰もいないの?
こんな森の奥に私を置いて帰っちゃったの?
なにかのドッキリとか?
まさか!?
激しく動揺している私の様子を気の毒そうな眼差しで見ていた二人が、蒼白になって同じ場所を行ったり来たりと、ただ右往左往している私を押しとどめた。
「このあたりには熊ぐらいしかいないよ」
「もう暗くなって危ないから、とにかく我が家においでなさい」
手持ちのランプの蓋を開けて、中のキャンドルに火を灯したお爺さん。
アンティーク雑貨のような、年代物っぽいランプの中にゆらめくキャンドルの火に、こくりと息を飲んだ。
キャンドルのランプ使うの?
……電気はないの?
もしや、まさかのタイムスリップとか。
明らかにここは私がいた所と違う。
絶望感で、がっくりと首をうなだれた。
一体何が起きたのだろう。
リアルな夢を見ているのだろうか。
途方に暮れて空を見上げる。
群青色とオレンジ色が混じり始めた空。
夜が近づいているのは確かだった。
冷静になろうと深呼吸したところで、名案が沸くわけでもなく、とにかくその場は二人の親切な誘いを有り難く受け入れるしか選択肢はなかった。
テントの向こうから声をかけられて、私はハァとため息をついた。
「すみませーん、あと5分くださーい」
なるべく陽気な声で威勢良く返事をした。
そして大きなスタンドミラーに映る己の姿を見て、がっくりと肩を落とす。
一体どうしてこんなことになったんだろう。
またひとつ、大きなため息をついた。
私、園田セイラは、慌ただしい都会の喧騒を離れ、この歴史あるドイツの街へ、ある重要な目的を果たすためにやってきたのだ。
ケースから出した私の竪琴、ライアーをそっと抱きしめて、再度、盛大なため息をつく。
幼い頃から始めたライアー、これで何台目だろうか。今使っているライアーは、22歳の誕生日プレゼントとして、1年前に両親が買ってくれた、私の一番の宝物。
前々から個人レッスンを受けたかったライアー奏者とアポが取れたから、仕事を休んで遠路はるばるドイツまでやってきたというのに。
事の発端は本当にひょんなことだった。
ドイツに到着した翌日、時差ボケ解消にと古い街並みを堪能しながら散策していた時に、たまたま通りかかった日系サロン。レッスンを受ける前に、この際ヘアカットしようと思い立ち、立ち寄って見たら、この先2週間は予約がいっぱいで無理だと断られた。ここまでは予測できる範囲のことだった。
ヘアカットは諦めてサロンを出て、向かいのお土産屋のウインドーディスプレイを眺めていたら、さっきのサロンの方が呼びにきて、てっきり空きが出たのかと思ってサロンに戻ったところ、思いもしない展開が待っていた。
このサロンは、東京のウエディング専門雑誌の現地撮影のヘアメイクを請け負っているが、昨日、肝心のブライダルモデルが成田空港で盲腸になってしまい、モデルは日本に残して、撮影チームだけが現地に来てしまったとのこと。
大急ぎでアジア人のモデルを現地手配しようと、地域の日本人ネットワークを駆使して探していたのだが、なかなか適任な人材が見つからずに苦戦していたらしい。それで、たまたま立ち寄った私に白羽の矢が立ったということだ。
人選に重要だったのは、色白、小柄で細身、長いストレートの黒髪の3点が揃っていることだったとか。
「顔はメイクでどうにでもなるけど、この3点だけはさすがにアタシの技術でもカバー出来ないからね!」
サロンの柿谷店長の言う、顔はメイクでどうにでも、という失礼な言葉に多少は傷ついたし、モデルなんてやったこともないから断ろうとした。だが、彼らがあまりに困っている様子だったし、モデル代は出す上、撮影後は豪華ディナー招待、しかも営業時間外で無料ヘアカットまでしてくれるという甘い言葉に乗せられて、つい頷いてしまった。
翌日の昼前、彼らが私の滞在しているホステルに、撮影機材がいっぱい詰まった大型バン2台で迎えにきたのを見た時は、事の大きさに驚いて腰が抜けそうになった。
動揺している間に、誘拐されるようにバンに押し込まれ、黒い森の奥へと連れ去られる。バンから降りて呆然と立ち尽くす私を尻目に、ドイツ人スタッフ達が慣れた様子で大きなテントをあっという間に組み立てた。日系サロンのスタッフさん達にテントの中に押し込まれたかと思うと、さっさと手際よく服は脱がされ、下着姿であれよあれよといううちに、気がつけばクラシックなオフホワイトのウェディングドレスに身を包んでおり、メイクも完了していたという状態だ。
他人に服を脱がされるというのが、物心ついてからでは実はこれが人生初めての経験だったことも何気にショックである。
それに、結婚どころかこのところは彼氏もいないのに、まさか己のウエディングドレス姿を見る羽目になるとは、極めて異様な気分だ。物語の中のお姫様が身に纏うような、上質な美しいレースに、数えきれないほどのパールやクリスタルが散りばめられた、滑らかな光沢のある細身のドレス。髪はロングのまま後ろに流していて、頭には、透き通るようなベールをかけられ、そして、グリーンとホワイトを基調にした生花で丁寧に編み込まれた花冠を乗せてもらっている。ベールで顔ははっきりと映らないからということで、メイクはナチュラルメイクを施されている。
ベール越しに自分を見ているせいか、鏡に映る自分は人間というよりは無機質なドールっぽい気がする。
とりあえず撮影するまでは、ベールで視界を遮る必要もないので、そっと両手でベールを上にめくりあげた。
「園田さん?」
声がしたとのと同時にテントが開いて、柿谷店長が中をのぞく。
「うん、いいわね。森の妖精っぽい雰囲気出てる」
「あのー、一応、私が返事してからテント開けてもらえますか?!」
もし着替え中だったら大変なことじゃないかと思って苦情を言うと、柿谷さんがびっくりしたっように目をぱちくりさせた。
「あら、ごめんなさい。でも、アタシ、女の子に興味ないわよ」
「そういう問題じゃないと思いますけど……」
「ふうん?」
全然気にしていない素振りで、無邪気な笑顔をみせる髭面の柿谷さん。
これはもう、さっさと仕事を終わらせて、ギャラ、豪華ディナーと無料ヘアカットのご褒美をもらうしかない。
覚悟を決めると、ライアーを抱き裸足でテントから出た。
今回の衣装には靴はない。テーマが精霊の宿る森での婚礼だからだそうだ。
初夏の森の中はひんやりとして、大きな木々が茂るその隙間から差し込む太陽の光がまるで天然のスポットライトのように芝生のあちこちを照らしていた。
幻想的な景色の向こうにある、スタッフが忙しく動き回っている広場が現場となるので、様子を見に行こうと、ゆっくりと歩いてみる。広場では、撮影スタッフの方々が何やらあちこちで光の加減を調べる機器を使ったり、いくつもの反射板の角度を変えたりと右往左往していたのだが、今は湖畔の湿気のせいか若干霧がかかっている感じなので、もう少し待ってから試し撮りをしようということになる。
私がライアーを持っていることを知った柿谷さんのアイデアで、竪琴を膝に抱いたカットなども試すことになっている。これは私にとっても宝物のライアーと一緒の写真を撮れるいい記念になると思い快諾した。
どのようなカットを取るか大体の説明を撮影チームから聞いた後、喉が乾いたのでお水を取りに行く。バン二台の間に開けたスペースに、キャンプ用の組み立て式のテーブルが置かれていて、スナック類に飲み物もたっぷりあった。プラスチック製のお皿やカップだろうと思いきや、ちゃんとした陶器のお皿やグラスが準備してあって、陳列されたクッキーやアップルパイなどが美味しそうに並んでいて、かなり豪華な雰囲気だ。
ワインまで準備しているのかと驚いてボトルを見たら、アルコールフリーのワインだった。
せっかくなので、コーヒー用のマグカップではなく、キラキラするワイングラスに、ボトルのお水を注ぎいれた。
ちょっとだけ炭酸でピリピリするミネラルウォーター。
うん、不思議な気分だ。
ドイツの黒い森で、裸足でウエディングドレス着て、湖畔に立ち炭酸水を飲んでいる私。
かなり、非日常的。
なんだか滑稽なことになっちゃったなぁ。
片腕にライアーを抱いたまま、グラス片手に湖畔のほうへ歩いていると、風でふわりと髪が舞い上がり、ひんやりした空気が首筋を通り抜けた。空を見上げようとしたら花冠を落としそうになり、あわてて手持ちのグラスごと頭を押さえる。
水を飲もうとグラスを見ると、水の表面に鮮やかな緑色の小さな葉が一枚浮いていた。
肩にかけていた厚手のショールを芝生に敷いてその上にライアーを置き、指でグラスの中の葉の茎の部分をつまんで取ろうとしたのだが、葉っぱが逃げるように水の表面をくるくると動き回る。なかなか取れないので、これはお水ごと捨てるしかないなと思った時、グラスの縁に指が触れ小さな音が響いた。
一瞬、なんの音だろうと思ったがすぐに気がついた。
濡れた指がワイングラスの縁に触れたことで音が出たのだ。
これはグラスハープ。
グラスの形や、注ぎいれた水の量で音が変わる、グラスの楽器だ。
子供の頃、いくつもワイングラスを並べて音を出して遊んでいたことを思い出した。毎日毎日それをやっている私を見兼ねた両親が、ライアー教室に私を連れて行ってくれたのだった。
懐かしくなり、ゆっくりとグラスの縁の曲線を指でゆっくりと撫でると、あたりいっぱいに大きな高い音が広がっていく。グラスが振動しているのがわかるくらい、とても大きな音となり、遠くでバサバサと鳥が飛び立つ羽音が聞こえた。
じんじんと頭に響くような強い音。
何か、違う……
ショールの上に置いているライアーが、まるで共鳴するかのように振動し僅かな音を立てたのが聞こえた。
これは心地いい音ではない。
あぁ、この波動は、癒しの音ではない。
急に、こめかみに痛みが走った。
急いでグラスを両手で包み振動を止めると、その不快な音が消えた。
天使と悪魔の楽器と呼ばれるグラスハープの周波数は、ガラスの素材により異なる。その響きは耳にする人との相性にもよるが、心理的に悪い影響を与えるということもあるそうだ。残念ながら、このグラスが奏でる音はどうやら私には合わない。
寒気がしてきたかと思うと、こめかみの血管がズキンズキンと波打ち始め、偏頭痛のような痛みになっていく。頭を押さえているうちに、あたりが異常に眩しく感じるようになり、目眩を覚え思わずしゃがみこむ。
早く、財布の中にいつも入れている頭痛薬、取りに行かなきゃ。
そう思うのに、頭の痛さはますます強烈さを増し、もう身動きが出来ない。
撮影チームも少し離れたところに集まっているせいか、私の様子など気がつくよしもなかった。
割れそうな頭を抱えているうちに、意思に反して猛烈な睡魔に襲われる。
やがて意識が遠のき始め四肢も麻痺していく。
そして本当に文字通り、ぷつりと記憶が切れ、私は1人、真っ暗な暗闇の中に落ちて行った。
どれくらいの時間がたっただろうか。
体を揺さぶられる感覚にゆっくりと意識が戻ってくる。
まるで温泉に入った後のように全身が熱く、筋力が失われたかのように体が重い。
頭はどーんと重いが、あの激しい痛みは消えていた。
ぼやける視界が徐々にクリアになってきて、自分を見下ろしている二つの目に気がつく。
「ん…?」
瞬時に、なぜ自分がこんなところに倒れていたのか思い出す。
そうだ、ブライダルモデルの仕事をひきうけて、森の奥深くにきて、ガラスハープの音を聴いた後、急に具合が悪くなったんだった。
偏頭痛なんて、数年ぶりのことで、すっかりノックアウトされてしまった。
どれくらい眠っていたんだろう?
もうあたりが夕暮れ時のように薄暗くなっているのに気づき、ハッとする。
撮影は?!
重い体をなんとか起こそうそしたら、そばに座っていた初老の小さな女性が背中を押して支えてくれた。視線を感じて見上げれば、目の前にはとても小柄で同じく初老の男性が立っていて、目を丸くして私を見ている。
二人ははるか昔の時代から来たかのような服装だった。
何かが普通と違う雰囲気の二人を交互に見て、その理由に気がついた。
二人は、どうやら小人症の方々らしい。
「あ、すみません。もう大丈夫です」
そう言ってお礼を言うと、二人はホッとしたように顔を見合わせた。
「今、何時くらいですか?あの、撮影は?」
二人もモデルで、きっと今回の撮影ためにこういった衣装を着ているんだろうと思いつつ、そう尋ねると、二人は困ったように顔を見合わせた。
「一体どうしたんだね、若い娘が一人でこんなところに……」
やや甲高くしわがれた声のお爺さん。
「え?一人で…?」
何か様子が変だと思って周りを見渡したら、撮影チームが陣取っていたあたりには何もなく、周辺はただ鬱蒼と茂った森だった。
「えっっ?」
慌てて立ち上がり、さっきまでバンやテントがあったはずのあたりに駆けつけたが、本当に全て無くなっていた。
「えええええっっっっ!!!」
思わず絶叫し、頭を抱えた。
何?
消えてる?!
どうして誰もいないの?
こんな森の奥に私を置いて帰っちゃったの?
なにかのドッキリとか?
まさか!?
激しく動揺している私の様子を気の毒そうな眼差しで見ていた二人が、蒼白になって同じ場所を行ったり来たりと、ただ右往左往している私を押しとどめた。
「このあたりには熊ぐらいしかいないよ」
「もう暗くなって危ないから、とにかく我が家においでなさい」
手持ちのランプの蓋を開けて、中のキャンドルに火を灯したお爺さん。
アンティーク雑貨のような、年代物っぽいランプの中にゆらめくキャンドルの火に、こくりと息を飲んだ。
キャンドルのランプ使うの?
……電気はないの?
もしや、まさかのタイムスリップとか。
明らかにここは私がいた所と違う。
絶望感で、がっくりと首をうなだれた。
一体何が起きたのだろう。
リアルな夢を見ているのだろうか。
途方に暮れて空を見上げる。
群青色とオレンジ色が混じり始めた空。
夜が近づいているのは確かだった。
冷静になろうと深呼吸したところで、名案が沸くわけでもなく、とにかくその場は二人の親切な誘いを有り難く受け入れるしか選択肢はなかった。
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