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待ち受けていた景色

禁じられた恋

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牧場でレオナと会った後、彼女の案内で今は閉鎖されているラベンダーファームを見て回ることが出来た。ショップのほうも店内は商品が奇麗に陳列されていて、ラベンダーのエッセンス入りのシャンプー類、キャンドルなど様々な商品を見せてもらった。とても興味深かったのは、種類の違うラベンダーのエッセンシャルオイルの香りが、それぞれ違っていたこと。今までラベンダーという花をひとくくりに見ていた私にとっては、種類によって顕著な違いがあるということは、とても大きな発見だった。ショップの中で、どうしても私が欲しくなってしまったのは、ラベンダーと小麦のウァーマー。ラベンダー色の、ビロード織コットン生地のクッションの中に、小麦とラベンダーが詰められていて、電子レンジで温めるとまるで、カイロや湯たんぽのように使うことが出来るらしかった。電子レンジで温めなくてもほんのり香るということは、高温になれば更に香ばしいはずだ。
でも、これを買うということは、ラベンダーファームへ行った事実を公開するようなもの。
しばし、悩んだ挙げ句、私は決心してそれを買った。実際にそれをどうするかは後で考えることにして……
レオナは私に、ラベンダーのキャンドルやポプリをプレゼントしてくれた挙げ句、最終的にはBath Spa駅まで車で送ってくれたのだった。車の中でも牧場やラベンダーの商品、併設されているカフェの話など、話題は尽きない。レオナはとても明るくて、そのチャーミングな人柄にはすっかり私も惹かれてしまい、別れ際には涙ぐんでしまったほど、後ろ髪を引かれる思いで電車に乗り込んだ。
プラットフォームから、私の乗る電車を見送ってくれるレオナの姿がどんどん小さくなって行くのを見つめながら、私の中で新たな決意が芽生える。
私は、自分のした事をクラウスに告白すると心に決めた。
その理由はたったひとつ。
レオナは、素晴らしい女性だからだ。
ユリウスを幸せに出来る、たった1人の女性だと、確信したから。
クラウスは私の勝手な行動に、どんな反応を示すだろう。
もしかすると、嘘を付いた私に幻滅するかもしれない。
そう思うと怖い。
でも、クラウスならきっと私の気持ちを分ってくれるかもしれない。
ひたすらそのことを考えているうちに、私が乗ったFirst Great Westernはロンドン市内へ近づいて、市内での乗換後、夕方の5時半、予定より少し早く、ケンジントン駅に到着していた。
ケンジントン駅から地上に出て、ショッピング街であるハイ・ストリートを歩けば、すぐにケンジントン・パークに辿り着き、その向いが私達が予約しているThe Milestone Hotelだ。この近辺は、スーパーやベーカリー、しかも日本のユニクロやMUJIまであって沢山の人が買い物を楽しんでいる。どこかベルリン市内と似ている雰囲気だけれど、赤の柱にガラス張りの電話ボックスなどはやっぱり英国っぽい雰囲気があった。
そして、The Milestone Hotelの前に到着。
赤煉瓦のクラシックなホテルで、大きさもいわゆるチェーンホテルよりもっとこじんまりしているけれど、歴史感のあるとても素敵な建物だ。1人で中に入るのは少し緊張したけれど、少なくともここは、英語圏。
私は一度深呼吸をして中に入った。
ピカピカに磨かれた、黒と白のタイル模様のフロアと、ボルドー色のクラシックな壁が、格式の高さを感じさせる。
フロントで予約している旨を告げると、先に部屋に案内してくれると言われたけれど、まもなくクラウスも到着するはずなのでこのままロビーで待つと伝える。係の人が、フロントの隣にあるロビーに案内してくれたので、そこのソファに腰掛けて一息をつく。
格子柄のカーペットに、光沢のあるラピスラズリ色のカウチは、本物のアンティーク家具だと一目で分るくらい歴史感のあるデザインだ。まだ火は入っていない暖炉の上には、どっしりとした大きな木製の彫刻壷に、巨大な薔薇のドライフラワーアレンジメントが飾られて、重厚感に溢れた空間を演出している。
これほどハイクラスなロビーにも関わらず、緊張もなくリラックス出来るのはきっと、色合いが落ち着いたブラウン、オフホワイトにブルーで統一されているせいだろう。色彩が与える心理的効果はかなり強力なのかもしれない。
ソファの背もたれに寄りかかって、物思いを始めるとすぐに、先ほどまでいたラベンダーファームのことで頭がいっぱいになる。
ほんの数時間だったけれど、いろんな話をしたから、思い出そうとすると永遠に続きそうなくらい、次から次へと彼女の言葉が蘇って来た。
レオナとの会話を回想しているうちに、あっと言う間に時間が経って行く。
静まり返っていたフロントのほうが少し騒がしくなったな、と思ったら、タイルのホールを歩く足音が聞こえて、ドキリとしてロビーの入り口を見た。
「あっ」
そこに彼の姿を見つけて即座に立ち上がる。
「クラウス!」
思わず大声をあげて、慌てて口を手で覆う。辺りを見渡して、今は他に客が居ないことを確認してほっとする。
もう一度彼に目を戻す。
バーガンディブラウンのパンツにスモーキーグレーのシャツを着て、いつもよりリラックスした感じの彼が立っていた。右腕に脱いだブラックのジャケットを掛けて、こちらを見てその美しい目を細めて微笑んだ。
「待たせてすまない」
私が笑顔で駆け寄ると、手に持っていたジャケットを側のカウチに置いて、両腕で抱きしめてくれた。
「着陸が予定より20分遅れたから、携帯に連絡したんだが通じなかった」
「あ、ごめん!スーツケースの中に入れっぱなしだった」
電車の中ではずっと考え事をしていたので、一度も携帯のチェックをすることもなく今の今までスーツケースの中に入れっぱなしだった。
クラウスがぎゅっと私を抱きしめて、いつものようにそっと髪を撫でて、それから少し何か考える様な表情で私の顔を覗き込んだ。
私の髪を撫でていた手も、ぴたりと止まっている。一度、私の後ろのほうへ目をやり、何かを確認するように視線を動かし、やがてピクリと眉が動く。
まるで、何かに気がついたような鋭い目つきで何かを見ている。
そして、ゆっくりとその目を私に戻した。
澄んだ彼のブルーグレーの瞳が、私の目をまっすぐに見ている。
心の中もすべて読み取ろうとしているかのような、私の邪念もすべてかき分けて突き進んで来る強い視線。
彼は、感づいている。
私が何か、隠していることを。
私はもう、その視線から目を逸らすことは許されない、と直感した。
私は口を開いた。
まだ、言葉は出ない。
クラウスは、黙ってじっと私の目を見つめている。
ドキン、ドキンと心臓が早鐘を打つ。
でも、この緊張に私が臆することはなかった。
覚悟はとうに決まっている。
私はすうっと空気を飲み込んで、そして再度、口を開いた。
「……話が、あるの」
すると、まっすぐに私の目を見たまま、クラウスは小さく頷いた。僅かに微笑みを浮かべた彼は手に持っていたルームキーを私に渡し、後ろに置いてあったスーツケースを取ると、彼のスーツケースの上に乗せる。
「まずは、部屋にいくことにしよう。話はそれからだ」
「……」
私は頷いて、鍵を握りしめ、歩き出した彼の後についた。
エレベータに乗って、ジュニアスイートの階へ到着し、ヴェネチアン・スイートの部屋の扉を開ける。私の誕生日を過ごした、初夏のヴェネチアを彷彿とさせるヴェネチアン様式のエレガントな内装の部屋。色合いも運河と同じ深みのあるグリーン、滑らかなクリーム色、光沢を押さえたアンテーィクゴールドで統一されていて、懐かしさを感じる空間だった。
ガラスのコーヒーテーブルにルームキーを置くと、クラウスが若草色のカウチに置かれていたクッションをどけて、ゆっくりと腰掛けた。
側に近づくと、彼は優しい微笑みを浮かべて私の手を取り引き寄せる。彼の膝に腰掛けるように座ると、クラウスがじっと私の顔を覗き込んだ。
そして、少し困った様な顔をしてクスッと笑う。
「さぁ、話してご覧。君が、ラベンダーの牧場あたりまで行って、何をやらかしたのか」
「ええっ?!」
ラベンダーの牧場、と言う言葉に驚いて私はクラウスを見た。
「……どうして!?」
動揺して聞くと、彼は苦笑しながら私の背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめると、私の髪に唇を寄せる。
「全身からラベンダーの香りがするし、あのスーツケースの車輪に牧草が絡まっている」
「あ……」
呆然として彼の顔を見つめる。
そして、部屋の入り口に置かれたスーツケースを見れば、クラウスの言う通り、車輪に牧草と乾いた土が少しこびりついているのが見えた。
完全にお見通しだ!
驚きと同時に、証拠を丸出しにしていた事実にショックを受け、同時に、やっぱり彼を騙すなんて不可能なのだと知る。
下手な言い訳もしないで、正直に全てを言うしかないと思い、一番、罪悪感を感じていることから言うことにした。
「私、嘘、ついてて……」
嘘、という重い言葉を口にして、今更ながら、深い後悔に苛まれて口をつぐむ。
嘘をついた私を彼はどう思うだろう。
不安になって、恐る恐るクラウスのほうを見る。
彼はとても冷静な様子で、怒っている様子はなかった。
「……怒らない、の?」
予想していなかった反応に、不思議に思ってそう尋ねると、彼は首を振って微笑んだ。
「それなりの理由があったんだろう。少なくとも、俺を裏切るような嘘じゃないことくらい、わかっている」
その言葉に、心のつかえが取れたように気持ちが軽くなり、同時に、そう信じてくれる彼の想いが嬉しくて胸がいっぱいになった。
両腕を彼の首に回してしばらくぎゅっと抱きしめて心を落ち着けようと目を閉じる。静かに私の背中を抱きしめてくれるクラウスの腕の温かさが、これまで罪悪感でずっしりと重かった私の心を、その重荷から解放してくれるのを感じた。
「……美妃と、海斗くんが来ている時にね……」
私は事の始まりから語り始めた。
レオナ・ローサらしき人をネットで発見し、UKに行って、それがあのレオナ、本人なのかを確認したかったということ。
彼女に会いに行きたくて、フーゴに頼み込んでニットデザイナーの取材を取り付けたこと。
本当は、金曜日に取材を済ませて、今日、ラベンダーファームでレオナ・ローサに会って来たこと。
すべてを、話した。
レオナの名前を出した時も、クラウスは顔色を変える事も無く黙って聞いていた。
話し終えると、肩の荷が下りて急に呼吸が楽になる。
クラウスは静かに黙って私を見ていたが、やがてクスクスと笑い始めた。
「……全く、君には本当に振り回されて、退屈しない」
さすがに反論するわけにもいかず、黙ってうな垂れる。
言われてみれば、UKに来る直前には、エミールの日本語レッスンのことで叱られ、今度はこうして嘘を付いたことを白状している私は、確かにクラウスの困ることばかりしているとしか思えない。
「ごめんね……反省、してる」
我ながら情けなくなって、他に言葉も出なかった。
「結局、レオナも事情があるから、なんの約束もしてもらえなかったし……でも、私は、会えてすごく嬉しかった……とても、素敵な人で、また会いたいなって思う」
自分の膝を見下ろしながらそう言うと、クラウスが大きく溜め息をついた。
「俺に相談をしなかった罰は、覚悟していたほうがいい」
「えっ」
「だが、レオナを見つけたということは、感謝している」
クラウスはそう言うと、優しい微笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「今後、何がどうなるかは不透明だが、彼女の居場所がわかったことで、これからのことを新たな方向へ考え直す可能性も出て来たと言えるだろう」
「新たな、方向?」
「まずは、ベルリンに戻ってからだ。このことは、ニコルとヨナスにも俺が話してみることにする」
少なくとも、私が勝手にやったことが、何かしら役に立つかもしれないということらしい。そう分ると、私もほっとしてようやく緊張で強ばっていた体が緩むのを感じた。
「昨日、君が出発してまもなく、カールからヨナスに電話があって、ダニエラがまたミュンヘンに戻ってしまった、と連絡が来た」
「え、そうだったの?」
「何があったのかは知らないが……近いうちに、一度実家へ様子を見に行くことをヨナスと話しているところだ」
「そうだったの」
ユリウスとダニエラの間で、なにかがあって決裂したのだろうか。
いや、でも、ダニエラはユリウスの看病をすると言ってドレスデンへ戻っていたのだから、体調の芳しくないユリウスと大喧嘩するということはないような気もする。
他に何か急な用事が出来てミュンヘンへ戻ったのだろうか。
どちらにせよ、体調が著しくないユリウスは大丈夫なのかと心配になる。今はとにかく静養に専念して、しっかりと回復してほしい。
ユリウスだけの為でなく、周りの全ての人の為に。
「そろそろ出ないと、まずい」
クラウスが腕時計を見て、小さく舌打ちをした。
「食事の時間に遅れたら、ニコルの雷が落ちる」
「私の話が長過ぎたせいだね、ごめんね!」
私は慌ててクラウスの膝から下りた。
本来なら、チェックインしてすぐにタクシーでニコルの家へ向かう予定だったのに、予定外に私の話が長引いたせいで、完全に遅れ気味になっている。
クラウスが立ち上がり、ソファに置いていたジャケットを羽織ると、スーツケースを開けて甥っ子達へのプレゼントが入った紙袋を取り出した。
私もハンドバッグを片手に、ガラスのテーブルに置いていたルームキーを持って出口へ急ぎ、扉を開けた。
ガチャン、と部屋が自動締鍵された音を確認して、二人でエレベーターホールへ急ぐ。ボタンを押すとすぐにエレベーターが止まり、ドアが開いたので中へ乗り込んだ。暖色系のやや控えめな明るさのガラスのシャンデリアに、ダークブラウンの壁、ゴールドの縁取りの大きな鏡でまるで小さめの部屋のようなエレベーター。
ロビーのボタンを押し、扉が閉まり始めたら、後ろから肩を引かれた。振り返ると、私を見下ろしているクラウスの目と目が合う。
優しくて、熱っぽく静かに煌めくその瞳。
その目に魅せられまるで吸い寄せられるように近づくと、彼がゆっくりと身を屈めてキスをしてくれた。エレベーターで下りていくことで重力が軽くなり、まるで空に浮いているような錯覚を感じる。エレベーターが降下していく静かな電動音が、一瞬にして聞こえなくなった。そっと目を閉じて、全身に広がって行く熱と胸の高鳴りに身を任せると、温かな幸福感で私の世界が満たされて行く。
口づけを緩めて息をついたクラウスが、私の頬に唇を寄せて溜め息をついた。
「昨晩は、夜中に何度も目が覚めて君を探した」
その言葉に、少しドキリとする。
私は、ジンジャーと散々遊びまくって、お腹いっぱいになってぐっすり寝てしまった。レオナ・ローサのことを考える間もないくらい、疲れ切ってあっと言う間に夢の中だったことを思い出してしまう。
私の様子を見ていたクラウスが、眉を潜めて不機嫌そうに私を睨んだ。
「君は、俺が居なくても平気で寝ていたということか」
「えっ、ううん、ちがう!勿論、貴方のことを考えてた!ほんとだから」
確かに、クラウスに会いたいと思いながら眠りについた。
ただ、朝まで一度も目覚めることなく、ぐっすりと熟睡してしまったけれど……
クラウスが片腕でぐいと私の腰を抱き寄せ、眩しそうに目を細めて私を見下ろした。
「今晩は、そうは簡単に眠らせるわけにはいかない」
「……クラウス」
ドキンとして思わず瞬きをする。
彼の、低く響く甘い囁きに胸が締まるようなざわめきを感じ、その目を見つめた。優しい光の中に走る力強い情熱に囚われる。
「君にもう一度、知らしめる必要がある」
そう独り言のように呟いて、彼は私の耳もとに唇を寄せた。
「俺が、どれほど君を愛しているかを」
ドキンとして彼を見上げると、いたずらっ子のように目を煌めかせて微笑んだ。その瞬間、チン、と音がしてエレベーターが開く。
「さぁ、急ごう」
ドキマギしている私の手を取り、楽しそうにそう言ってクラウスは歩き出した。



ニコル宅では上から下への大騒ぎだった。
ご主人のアンドリューは麻酔科医で、一度帰宅したにも関わらず、緊急オペが入ったため呼び出しがかかり、病院へとんぼ返りしたとかで不在だった。なんでも、麻酔科医は、手術前に麻酔を投与するだけでなく、手術中もずっと待機して患者の様子を見守る必要があるらしく、手術が終るまでは病院から出る事は出来ないらしい。
甥っ子の7歳のショーン、姪っ子の3歳のマリアンは、元気いっぱいの子供達だった。アンドリューが居なかったせいもあり、クラウスは到着直後からショーンに掴まって、テーブルサッカー、キッズビリヤードなどゲームの相手に忙しく、私はマリアンの案内で屋根裏部屋のプリンセスルームで彼女のままごとに付き合ったり、ビーズ通しをしてアクセサリーを作ったりと、賑やかで楽しい時間は途切れる事はなかった。
ニコルはブロンドのショートヘアに明るいブラウンの目をした、背の高い美しい女性だった。ヨナスよりも短気だとクラウスが言っていたけれど、とても明るくてエネルギッシュで、乗馬の先生をしているというのも頷けた。
私達がそれぞれ子供達の相手をしている間に、ニコルがご馳走を準備してくれた。前菜に鮭のルイベ風刺身、メインは手作りのローストビーフ、じゃがいものクネーデル、クレソンのサラダ、それからハロウィーンを意識したパンプキンのキッシュ、締めくくりのデザートは苺のムースと、お腹がはち切れるくらいたくさんいただいた。ニコルがクラウスに何か見せたいものがあるとかで、地下室のほうへ行き、私はちょうどベッドタイムだった子供達と一緒にキッズルームへあがり、一緒に絵本を読んだりした。薄暗い部屋で本を読んでいるうちに寝付いた子供達を見ていたら、ついうたた寝してしまっていたが、クラウスが起こしに来て、その後はまたリビングでしばらく3人でいろいろ話をして、夜の11時半にタクシーでホテルへ戻ったのだった。





画面いっぱいに広がる、San Francisco Bay Area Art & Performanceのイベント用特設HPのランディングページ。
美しい朝焼けの壮大な海は、神聖なる朝日を受けて静かに煌めく。波しぶきがそれぞれ美しい彩りの鳥や蝶、花となり空へ舞い上がってゆき、大空を埋めつくしていく、夢のような世界が描かれていた。
天空を覆う朝焼けの雲は、まるで柔らかい筆で空を撫でたように優しい跡を残し、それはよく見ると大きな翼を広げた天使のように見えた。もしかしたら地球のどこかに存在するのかもしれない、永久の天国へと繋がる空間を描いたような、夢のような風景。静かながらも見た者の目と心を釘付けにするその絵こそ、アダムが創り上げた作品だった。
「これがインターネットでしか見れないなんて、残念すぎる!本物をこの目で見たい……でも、実物はもうアメリカに送られちゃったし、あぁ、いつか見れるかなぁ……」
私が大きな溜め息をついてそう漏らすと、モスグリーンのジャケットを羽織りながらクラウスがスクリーンを覗いた。そしてしばらく眺めたあと、満足そうに微笑んで私の頭を撫でる。
「フーゴに会わせて大正解だったようだ。アダムの本来の才能を引き出す最高のプロジェクトになったらしい。今までの作品とはまるで違うが、アダムの真の姿を知るやつから見たら、これこそあいつらしいと言える」
「そうなの?アダムって、いつも冷静沈着で、感情的にならないと思っていたけど……」
「解りづらいやつだから、大抵の人間にはそう見えるだろう。人は、与える印象が必ずしも本来の性格と一致するとは限らない。その点、君は解り易いけれど」
後半、笑いを含んだ言い方をしたクラウスに、少しムッとなるが、否定しようもない事実なので言い返すこともなく苦笑いする。
でも、確かに、受ける印象と実際の性格が異なることはあるだろう。
クラウスだって、とても大人びて多少のことでは動じないくらいの切れ者という印象だけど、時々、少年のように冗談を言ったり、甘えて来たりと、仕事上でしか付き合いのない人が見たら驚く様な一面を持っている。マリアは、その点、見た目そのままの性格。明るくて元気一杯、そして大人っぽいセクシーな一面を持った魅力的な女性。でも、ヨナスは、貴公子然とした印象にも関わらず、激高したら多少の事じゃ止められない暴れ馬のような性格。
アナも……美しい音楽を奏でる時はまるで天使のような神聖さをまとっているのに、舞台裏ではお転婆でイタズラが大好きな一面を持った普通の女の子だ。彼女の純真さはどんな時も変わらないけれど。
そこまで考えて、ふと、スクリーンの油絵の画像に目を戻した。
天空に舞う、天使を思わせる薄く広がる雲。その周りを埋め尽くすのは、波しぶきから変化していく美しい鳥や蝶、花。
これはもしかしたら、アナの姿なのかもしれない。
アダムの心の中で見える彼女の姿を、描いたもの……?
そう思ってよく見ると、本当にその天使が、純白の衣を羽織ったアナの影のように見えた。
きっと、そうなんだ。
だから、この絵はとても力強い感情を見るものに与えるのだろう。
そう確信すると、胸が熱くなってきて、またいつものように視界が歪んで来てしまった。でも、嬉しさや感動でじーんとすると、全身に幸福感という色が広がって行くような心地よさがあって、私はこういう瞬間が大好きだ。生きている、幸せを感じる事が出来る、と強く実感するからだろう。
どれだけ見ても飽きないその絵をじっと見つめていると、キッチンでコーヒーを注ぎに行ったクラウスの携帯電話が鳴る音がした。昨晩、ロンドンから帰宅したのが遅かったので、今朝は出社の時間が遅れている。もう10時過ぎだから、オフィスからの連絡かもしれない。私も起きれなくて結局ドイツ語クラスは、次の休憩時間から入る予定で、思い切り遅刻だ。
いつもまでも絵を見ているわけにもいかないので、また帰宅後ゆっくりと眺めることにしてラップトップを閉じ、学校へ行く準備を始める。
キッチンでは注いだコーヒーをカウンターに置いたまま、眉間に皺を寄せ、いつになく難しい顔をしたクラウスが携帯を耳にあてて外に目をやっている。キッチンのカウンターに置いてあった200mlのミネラルウォーターのボトルをバッグに入れると、私はクラウスに向かって手を挙げて合図をした。
先に学校へ行く、という意味でバッグを見せると、クラウスが少し微笑んで手を挙げた。微笑んではいたけれど、普段より随分と難しい顔をしていた気がして、少し気になったものの、時間もないのでそのままアパートを出ることにする。玄関でブーツを履いていると、リビングのドアが開く音がしてクラウスが出て来た。
「カノン」
振り返ると険しい顔をしたクラウスがこちらへ来るところだった。
「どうしたの?」
さっきの電話で何かあったのかと心配になって聞くと、彼は私の目の前に来て腕組みをし、大きく溜め息をつく。黙って見上げていると、クラウスが重い口を開いた。
「クララが、1人でベルリンに来ている。俺に会って話がしたいと」
「えっ」
私は驚愕して、手に持っていたバッグを思わず落としそうになり慌てて持ち直した。
「驚くのも無理はない。俺自身、最初は名前を聞き間違えたかと思ったくらいだ」
「クララが、1人でって……」
クララはいつもダニエラに連れ回されているイメージがあったので、彼女が単独行動を取っていること事体が意外だ。
そして、同時に私の心がチクリと痛む。
そうなのだ、彼女はミュンヘンのユリウスの病室で、はっきりとクラウスへの好意を表していた。もしかして、彼女はクラウスに会いに来たのだろうか。
嫉妬や不安に近い嫌な気持ちが確かにあるけれど、心のどこかで彼女を憎めないという、相反した感情に襲われる。私の複雑な表情を見たクラウスが、腕組みしていた手をほどき私を抱きしめた。
「君が不安になることは何もない。ただ俺は、クララがここに1人で居るということと、ダニエラが急にミュンヘンへ戻ったということに、何か関係があるような気がしている」
「あ、そう言われてみれば、タイミング的には確かに……」
大体、クララのように母親に従順そうな女性が、いきなりクラウスに会いに来ているのは、ダニエラの差し金でないとすると、何かがあったのではと思わずにはいられない。それが、単に、クラウスに会いたくて来たということも可能性としてはあるかもしれないけれど……
それとも、これもダニエラの指示で?
「母親が母親なら、娘も娘だ。性格は真逆に見えたが、実際はやはり間違いなく血がつながった親子らしい。どちらも、何の前触れもなく突然やってくる」
独り言のようにそう呟いて、クラウスは私の顔を覗き込み、穏やかな微笑みを浮かべた。
「話を聞くことは無駄にはならないだろう。話をしたらすぐに帰るとのことだったから、夕方にオフィスの近くで会うことにした」
「……うん、そうだよね、もしかしたら、お父さんにも関係することかもしれないし」
心の底では、本当は嫌だと言いたかった。なぜか、昔付き合った女性と仕事で会うという時よりも、クララと会うと聞かされた今のほうが、嫌な気分。
どんな話をするのか、ものすごく気になる。
二人の様子を、見たいような見たくないような……
でも、その場に自分も居たいわけじゃない。
何故なら、きっと、嫉妬にかられて嫌な女になってしまう。
クララは、美しく上品な外見であるだけでなく、物腰も話し方もすべてを含めて、周りの誰と比較しても格段にレベルの高い女性。ユリウスの病室で、クラウスの手を取って微笑んだ彼女は、とても気高く堂々とした態度で、その手を振り払われても動揺せず微笑み続けていた。
騒々しいダニエラとは全く真逆の清楚な女性だけど、芯の強さはダニエラを上回るのかもしれない。
認めたくなくても、同性の私から見ても素晴らしい女性。
きっと、普通に見たら、クラウスに相応しい女性は私ではなく、彼女ということくらい、私だって解っている。
知らず知らずのうちに、ぎゅっと唇を噛み締めていると、私の顔を見ていたクラウスがクスッと笑う。
「……妬いているのか?」
「え……う、うん、やっぱり、、どうしても」
流石に否定は出来ず、小さく頷いた。
「なるほど」
何故か満足そうに微笑みを浮かべるクラウス。人が嫉妬して嫌な気分になっているのに、一体どういうことなんだと恨めしく思って見つめていると、彼は楽しそうに笑いながら私の頬に触れた。
「君のこういう顔を見るのは、随分久しぶりだ。いや、あの、市内の逃走劇の時以来かもしれない」
「クラウス!面白がるなんて、ひどい!」
「いや、なかなかいい気分だ」
冗談ぽく笑いながらそう言う。
私は全然楽しくはないので、ご機嫌な様子の彼をじーっと見つめる。
最初は嫌な気分だったけれど、こうして楽しそうに笑っている彼を見ているうちにそんな気持ちも和らいでいくのに気がつく。
私は本当にクラウスのことを世界中の何よりも愛しているんだと強く感じた。
クララに嫉妬している私を見て楽しんでいる彼も、やっぱり愛しくてたまらない。優しいブルーグレーの瞳を細めて微笑む彼はとても幸せそうに見えて、少しだけトゲトゲしたものが芽生えていた私の心は平穏さを取り戻して行き、気がついたら自分も可笑しくなって笑い出していた。
「カノン、だったらこうしよう」
笑いが収まったクラウスが私の手を取りながら顔を覗き込む。
「君とはオフィスの近くで7時に待ち合わせだ。デパートのKaDeWeの前にしよう。クララとは5時半に会うことにしたから、長くても1時間くらいだろう。彼女と別れたら、すぐに君と会うことにする。」
「仕事に、戻らなくても大丈夫なの?無理しなくても、私、アパートで待っていられるよ」
勿論、いつだって出来るだけ早く会いたいけれど、私のつまらない嫉妬のせいで、仕事を切り上げてまで時間を作ってもらうのも悪い気がする。
「やることが残っていたら今日は持ち帰ることにしよう。ご機嫌斜めの君を放っておくわけにはいかない」
からかうように目を煌めかせてそう言うクラウスに、思わず恥ずかしくなる。28歳の立派な大人といえる年齢にもなって、小さい事にぐずぐず不満をいう子供のような気がして来た。
「もう、平気だよ。最初はちょっと嫌だったけど、でも、確かにお父さんにも関わって来ることかもしれないし……」
強がりとバレないように、落ち着いた様子を装ってそう言うと、クラウスがまるですべてお見通し、とでも言いたげに余裕の微笑みを浮かべた。
「君の場合は、しっかり監視しておかないとまた逃亡する可能性がある。アパートに戻ってみたら、もぬけの殻になっているなんて状況は、何が何でも回避したい」
「そ、そういうことは、もう、しないと約束をしたし」
「さぁ、どうだか。現に今、視線が定まっていない」
図星だったので、言葉に詰まる。
全然、逃げるとかそういうことは考えていなかったけれど、クラウスとクララが一緒にいる所を見なければいけないなんて状況になったら、一目散に逃げ出しそうになるだろう。勿論、きっと実際にはなんとか理性を駆使してその場に踏みとどまるだろうとは思うけれど、気持ちはそれくらい、逃げ腰だ。
「俺を相手に強情をはる必要はないだろう?」
まるで幼い子を諭すように優しくそう言われて、私は思わず彼に抱きついた。
本当は、胸が一杯になるほど嬉しい。
私が妬いていることを知って、例えその不安が小さいものだとしても、それを少しでも早く取り除いてくれようとこうやってアイデアを出してくれる彼の優しさ。
私の気持ちを一番に考えてくれていると感じて、嬉しくてたまらない。
すぐに素直になれないのは、きっと照れだけじゃなくて私が意地っ張りだからだろう。
そんなところまで分ってくれて、先回りして待っていてくれるクラウス。
温かい背中を抱きしめて、彼の心臓の鼓動を聞いていると、荒れていた海のような心が、静寂さを取り戻して行く。
「……わかった。じゃぁ、7時に、待ってるから」
一度遠慮した手前、恥ずかしさもあってぼそっとそう呟くと、頭の上でクスクスと笑う声が聞こえた。ちょっぴり気恥ずかしくてこっそりと彼を見上げると、とても優しい目で私を見下ろしていた。
私を恋の虜にする、澄み切った夜空のような美しい瞳がふたつ、私だけを見つめている。
「ありがとう、クラウス」
素直さを取り戻して、笑顔でそう言うと、彼は頷いてぎゅっと私を抱きしめてくれた。
「Mein Schatz」
秘密の言葉のように耳元で囁かれる呼びかけに、大きく弾む私の胸。
一瞬にして幸せの世界へ飛び込んだように幸福感に包まれる瞬間。私がつま先立ちすると彼が自然に身を屈めてくれる。そして私も、彼の耳元で同じようにその言葉を囁いた。
「Mein Schatz」
彼が目を細めて微笑む。
そっとキスを交わしてもう一度ぎゅうと抱き合った。
「また後で。夜は冷えるから、温かくして来るように」
「うん、ありがとう。じゃぁ7時にね」
笑顔で微笑み会うと、私は一足先にアパートを出た。




学校の帰りに買い物をして、私は一度アパートへ戻っていた。
ロンドンから戻ってきて、今晩はゆっくりと家で過ごしたかったので、クラウスに会う前に夕食の支度をしておくことにした。今日は、アジア系スーパーに行ってみたら、真空パックで新鮮そうな蓮根があったので、鶏肉のミンチを使って甘辛ソースの蓮根バーグを作る。栗ごはんを下準備もして、後は、アーモンド入りのキャロット・ラペを作り、クレソンのサラダ用のドレッシングを混ぜて冷蔵庫で冷やした。
ベルリンで栗ごはんを作るなんて考えたことは無かったけれど、有機の剥き栗が真空パックで販売されていたのを見つけ、アジア系スーパーで餅米も買うことが出来たので、ネットでレシピを探して挑戦してみることにした。
久しぶりに自分で料理をすると、やっぱり気分が上がって来る。
彼と一緒に住むアパートで、一緒に食事をして、一緒にソファでくつろぐ。
なんて贅沢な幸せなんだろう。
もっと、料理のレシピだけでなく、栄養のことも考えて、体に良いものを作れるようになりたい。
ふと、この間クラウスと話していたことを思い出す。
近いうちにまた、ここで皆で集まろうという話をしていたのだった。
どういったメニューにするか、アナと相談してみようと思って、メールを送信しておく。
夕食の下準備を終えて、キッチンを片付けているともう時刻は6時半。
帰宅した時は、クララとクラウスの待ち合わせ時間の5時半、という時刻が気になっていたのに、料理をしている間にすっかり忘れてしまって、もうこんな時間になっていた。もう、話も終ってクラウスはオフィスに戻っている可能性もあるかもしれないと思ったけれど、携帯のほうには何も連絡が来ていないところを考えたら、まだ、クララと話をしているという状況だろう。
窓を見るとガラスが曇っているところがあるので、外の気温が急低下中ということだ。
黒のダッフルコートをクローゼットから取り出す。袖の折り返し部分が奇麗な赤色で、襟の周りはふわふわのブラックフェイクファーが付いている。ロンドンのCamden Lock Marketにあったヴィンテージファッションのお店で、クラウスが見つけてくれたものだ。丈も膝上でちょうどよくて、ロンドンっぽい雰囲気が私もとても気に入ったから、試着してすぐに購入した一品だった。
クラウスを迎えに行って、すぐにアパートへ戻るだけの予定なので、バッグは持たずに、携帯と財布、鍵をコートのポケットに入れて、手ぶらで外出した。
散歩に行く時くらいしか手ぶらで出歩かないので、バッグを持ってないことで逆に落ち着かなかったけど、バスから降りて電車に乗り換えた時はもう、その気楽さにすっかり慣れる。
男の人はよく、手ぶらで出歩いている。財布と携帯さえあれば彼らは充分だからだ。でも、女性はそうはいかない。ハンドタオルやティッシュは勿論、メモ帳やペン、コスメ、冬場はハンドクリームなども持ち歩くし、キャンディやチョコをバッグに忍ばせていることだってある。
賑やかな通りに到着して、ファッションブランドの立ち並ぶ街に入る。新しいコンクリート作りのショップも、誰でも知っているような有名なブランドが多く、夕方も買い物客で賑わっている。やがて、巨大で重厚感のある建物が視界にはいる。これが、あの有名な、老舗デパートKaDeWeだ。日本で言えばきっと、銀座三越とかそういう格式高い、ヨーロッパでも屈指のデパートだ。
時計を見ればもう、7時を少し過ぎていた。
まさか待たせてしまったかと気になりながら、早足でKaDeWeの前に行ってみるが、まだ彼の姿はなかった。クラウスが遅れることは滅多に無いけれど、仕事帰りだと10分くらい遅れることもたまにあって、でも10分以上遅れる時は必ず電話かSMSで連絡をよこしてくれる。
今晩は冷たい風が吹いて、吐く息も少し白い。
デパートやショップもハロウィーンの飾り付けを片付けて、少しずつ街全体がクリスマスに向けて準備を始めているらしく、ちらほらと、クリスマスムードのデコレーションがされたショーウインドーが見えた。やっぱり、こういうクリスマスムードの景色は心が躍るものがある。
寒さもまた、クリスマスを連想させるものとなって、冷たくなった頬を両手で触れてまた、冬の訪れを確認した。そろそろ、手袋も必要になってくる時期になったらしい。まだまだ、マイナスにはいかないけれど、一桁台の気温になるとさすがに寒さが身にしみてくる。
両手をポケットに突っ込んで、再度時計を見ると、7時10分。
携帯も受信なし。
もう、現れるころだろう。
ポケットに両手を入れて、辺りをぐるりと見渡してKaDeWaの出入り口のほうへ目をやり、私は文字通り石のように固まった。
目に映ったのは、クラウス。そして、クララも一緒だ。
しかも、クラウスが彼女の肩を抱くようにしてゆっくりと歩いていて、彼女はうつむくように顔を彼に肩に寄せている。
目を疑う二人の様子に、もはや動揺を通り越して呆然となる。
クラウスがクララの顔を覗き込んで何か言って、彼女がそれに応えるように小さく頷いている。
訳のわからない状況に、狐につままれたようにただ、目を見開いてその様子を眺める。
人間は、本当に驚くと時間が止まってしまったように思考が働かなくなるのだとその時知った。
あまりにも信じられないこの状況に、我が目を疑う。
目をこすって、何度か瞬きをして、もう一度よく見ようと目を開く。
やっぱり、本当に二人はぴったりくっついていて、それもどちらかというと、クラウスが彼女を抱き寄せているような感じだ。
一体、何がどうしてこんなことになったのか。
全く状況が理解出来ないけれど、それよりも先に出た感情は、
ここから逃げ出したい。
こんなの、見たくない。
なのに、驚きのあまりに足が完全に固まって、前にも後ろにも動かない。
自分の意思なんて通じない、神経が通っていないように固まっている自分の足に、だんだんパニックにお陥りそうになり始めた。
クラウス達がこちらに気がつく前に、どこかに隠れたい。
隠れてどうするかなんて知らないけれど、とにかく早く……
どこかに、身を隠したい。
思うように動こうとしない足に苛立ち、力任せにとにかく体の向きを変えようと動いたら、丁度前から来ていた集団にぶつかって、あっと思ったら転んでしまった。きっと、足がしびれたように固まっていたせいもあるだろう。
びっくりしたけれど、それほどひどくは転ばなかったので、道路に膝と手をついて、恐る恐るさっきまで見ていた方向を見ると、クラウスがこちらを見ていた。
名前を呼ばれたような気がしたけれど、目の前を多くの人が往来するので、騒々しさで声は聞こえないし、姿もよく見えない。
「だいじょうぶ?」
通りかかりの女性に声をかけられて、はっとして立ち上がる。手を貸してくれた女性にお礼を言って、嫌な動悸がする胸を押さえながら、彼らのほうを見た。
クラウスは、まだ彼女の肩を抱いたままこちらを見ていて、口の動きからすると私を呼んでいるようだった。私の心の中に、ものすごく嫌な感情が広がって行く。
あんな二人の側に行くなんて、嫌だ。
どんな理由があるのかなんて、知らない。
ただ、嫌。間近で、見たくなんかない。
きっと、私の視線を見て私の気持ちなんて彼は手に取るように解っているはずだ。
彼らと私の間を、多くの人が往来し、まるで壁のように境を作っている。
私は知らず知らず、少しずつ後退していた。
逃げてはダメだ。
約束したのに。
彼を、信じると決めたのに、どうして逃げようとしているのだろう。
でも、やっぱり近くには行きたくない。
クララに会いたくはない。
なぜ、あんなに寄り添っているのかなんて、知りたくない。
二つの感情が押し合いを続けて、一歩後退しては立ち止まり、また少し後退するという、自分の中での複雑な戦いが続く。
往来する人々の向こうのクラウスが、私が少しずつ遠ざかるのに気がついた様子で、顔色を変え、厳しい視線でこちらを見ている。そして、彼の口が動いて、私の名前をゆっくりと呼ぶのが見えた。
私は呼吸が止まる様な思いで彼を見つめた。
そして、後ろへと下がりそうだった左足をなんとか留める。
そして、こんなに弱い自分に気がついて情けなさで涙が出そうになった。
どうして、彼を信じることが出来ないのだろう。
他の誰よりも信頼している、たった1人の愛する人なのに。
何があっても、信じるって決めたのに。
約束も守れないほど、私の決意は弱かったんだろうか。
そんなはずはない。
私は、こんなことで彼を失いたくない。
弱い自分の心を奥底に封印すべく、両手に力を込めてぎゅっと握りしめる。
そして、私は勇気を振り絞るように深呼吸をすると、後退し続けていた歩みを無理矢理前進させた。
人の流れの隙間を縫うようにして、なんとか彼らの近くへ歩み寄る。
そんな私を、まるで励ますかのようにじっと見つめているクラウス。
近づくにつれて、クララが少し顔をあげてこちらを見た。気のせいか、少し顔色が悪いように見えて、それに気がつくと、一気に私の理性も戻る。
もしかすると、具合が悪いから、クラウスはこうやって支えてあげているのかもしれない。
そうでなければ、クラウスが、私が居るとわかっている所へ、こんな様子で現れるはずがない。
変に勘ぐって勝手に嫉妬したり、クラウスを疑ったりしていた自分の醜さにぞっとして、頭から血の気が引く思いで早足に近寄った。
「あの、クララ……具合が悪い、の?」
近寄ると彼女の顔色が本当に青ざめていたので私もうろたえて、どうしたらいいのかわからなくなる。
クラウスは少しだけ私に微笑みかけると、通りの方を指さした。一台のタクシーがウインカーを出して止まっている。
「タクシーを呼んでおいた。さぁ、乗るんだ」
「えっ」
「勿論、君もだ」
追い立てるように言われて、私は慌ててタクシーのほうへ向い、助手席と後部座席のドアを両方開けた。
「クララ?乗れるか」
クラウスが優しい声でそう聞くと、彼女は力なく頷いて、よろめくように後部座席に近づいた。足下がおぼつかないので、私も慌てて両手で彼女を支える。危うく、顔面をドアの淵にぶつけそうなくらい不安定な動きをしていた。
「カノン、君が付き添ってくれ」
「うん」
私は頷いて、クララの体を支えながら一緒に後部座席に乗り込んだ。彼女はもう、意識も朦朧というような感じで、私に目を向けると力なく瞬きをした。
多分、お礼を意味した瞬きなのだろう。
醜い嫉妬だけに捕われていた罪悪感と、彼女の様子がただ事でないという事実に、どうしたらいいのかわからないほど混乱していた。
ぐったりとウインドーに寄りかかって目を閉じているクララ。長い睫毛が固く閉じられて、顔色は彼女が着ているグレーのワンピースと同じくらい、生気がない。
気品のある美しい顔立ちが、いつにもまして無表情で、まるでマネキンのように見える。
気のせいか、前に見た時よりも少し痩せたようにも見える。
だらりと座席に落とされた手に触れてみると、とても冷たい。
もしかしたら、熱があるのかもしれない。
注意して顔を見たら、呼吸も荒いような気もする。
まるで眠っているようなクララの額に触れてみると、案の定、燃えるように熱い。
私は急いでダッフルコートを脱いでクララにかけた。
「クラウス?」
助手席の彼に呼びかけると、クラウスがこちらを振り返り、クララの状況を確認した。
「熱があるの。かなり、高いと思う」
ただの風邪とかじゃなくて、インフルエンザとかそれくらいひどいのじゃないかと思うほど弱った様子に、私も不安と心配で動揺し始めていた。
「もうすぐ病院に着くから、そのまま様子を見ていてくれ」
「今、病院に向かっているのね」
ほっとして胸をなで下ろす。
彼女が滞在しているホテルに行くのかと思い込んでいたから、行き先が病院だと知って安堵した。
やがて、少し静かな通りでタクシーが止まり、窓から見たらややこじんまりとした建物が見えた。どうやら大病院でなくて、個人病院らしい。
クラウスが運転手に支払いをしている間、私がクララの肩に触れると、彼女は目を開いて小さく頷いた。そして、なんとか自力でドアのほうまで動いたので、降り口で私が彼女に肩を貸そうと近寄ると、彼女は躊躇いもなく私に寄りかかるようにして立ち上がった。
彼女にかけていた私のダッフルコートが落ちたので、クラウスがそれを拾ってクララに掛け直すと、すぐに病院のブザーを押した。名前を言うとすぐに解錠されて、クラウスが扉を開け、私達はゆっくりと中に入る。ホールには階段が3段あって、クラウスも私の反対側に回り、二人で彼女を支えて階段を登り、ようやく待合室に着いた。
もう診療時間外だったらしく、患者は誰もいなくて、帰り支度をしていたらしい受付の人と、看護士らしい女性がすぐにクララを支えるようにして奥の診療室へと連れて行った。
とりあえず、お医者様に診てもらえるとほっとして、待合室のソファに腰掛けた。
まだ診断がおりた訳でもないので、安心は出来ないけれど……
歩くのもままならない状態で、ベルリンまで来たのだろうか。
一旦座ったものの、やっぱり診療室のほうが気になって立ち上がると、隣にいたクラウスが疲れたようにソファにどさりと音を立てて座った。
思わず振り返って、彼を見た。
「クラウス?クララは、最初からあんなに具合が悪かったの?」
落ち着かない思いでそう聞くと、クラウスは大きく溜め息をして、困ったように苦笑いをした。
「まずは、君のほうからだ」
「えっ」
その言葉に、何か悪さがバレたような気まずさを感じて無意識に後ずさりした。
説教される予感で、ビクビクしながら彼を見ると、案の定、クラウスは少し怒った様な顔をして私を見つめていた。
何か言いたげな様子でしばらく黙って私の様子を見ていたけれど、やがて小さく溜め息をして両手を広げた。
「さぁ、おいで」
叱られるのかとドキドキしていたけれど、そうではない様子に少しほっとしてその隣に腰掛ける。彼がゆっくりとその腕の中に抱きしめてくれた。
あれだけ醜い嫉妬にかられていた自分を恥じつつも、それが思い込みだとわかってかなり落ち着きを取り戻していた。
「倒れかけているクララを抱えている時に、まさか君が逃亡するのかと思って、あの時はさすがに気が動転した」
「ごめん……ごめんなさい、ただ、びっくりして、もう、病気だって気がつかなくて……」
言い訳をすると、クラウスがじろりと私を見下ろした。
「理由なしに何故俺が彼女を抱える必要があるんだ。しかも君の目の前で」
「それは……」
もしかして彼女のことを好きになったから、なんて言おうものなら、それは完全に、彼を信じていないと告白するようなものだ。
口が裂けても、そんなことは言えない。
「君が人にぶつかって転ぶのを見て、クララから手を離して君のところへ行けば、彼女が倒れてしまう。あんな状況はもう懲り懲りだ」
クラウスはそう言いながら私の膝に手を触れた。ジーンズを履いていたので怪我はしていないけれど、よく見たら少し刷れて破れている。
「こんなの全然平気だから。それより、具合が悪い時にクラウスが居たのは、本当によかった。1人でいる時に倒れたりしてたら、大変だった」
本当にそうだ。クラウスが居たから病院にも来れたし、きっと大事には至らないだろう。
「ダニエラに、連絡したほうがいいのかな?」
ふと、彼女の母親のことを思い出してそう聞くと、クラウスは難しい顔をした。
もしかすると、ダニエラとクララの間で何か問題があったのだろうか。
そう思いついて、私は黙ってクラウスの顔を見つめた。
彼はじっと私の目を見つめながら、しばらく黙って私の髪を撫でていた。何か考え事をしている時によく彼はそうやって私の背中を抱いて髪をそっと撫でていることが多い。
心地よいその手の感触にすっかり落ち着いて、私は彼の胸に身を寄せて目を閉じた。
ほんの少し前は、まるで世界が終ったかのように思えたのに、こうして彼の温かさに包まれていると、その短い悪夢の記憶が煙の如く薄れて行く。
心が、温かい幸福感で満たされていくのを夢心地で感じていた。
しばらくじっとしていると、クラウスの手が止まった。
何かを言うのだと気がついて、顔を上げると、彼はいつものように優しい目で私を見下ろして、そしてゆっくりと思い掛けない事を告げた。
「クララは、妊娠している」
「……?」
何を言われたのか全く理解出来なくて、目が点になる。
そして、今聞いた言葉を頭の中で復唱する。
クララは、妊娠、している。
妊娠?
それって、お腹に赤ちゃんがいるということ……?
クララが?
「え、ええっ!?」
数秒遅れて、私は驚きの声をあげた。
「ど、どういう、こと……?!」
どうしてそういう状況になっているのかと、頭の中が大混乱する。
クラウスは片手で髪を掻き揚げながら、大きく溜め息をついた。
「つまり、病気じゃない。あれは、悪阻の一種だと本人が言っている」
「え、悪阻……」
私は呆然とクラウスを見つめた。
彼は苦笑いして、少しだけ意地悪な微笑みを浮かべた。
「念のために言っておくが、俺は勿論、無関係だ」
「え?あ、そ、それは、うん」
さすがにまさかクラウスが相手だとは思っていなかったけれど、彼は万が一のことを予測して、私が勘違いしたり誤解しないように、前もって先手を打ったらしい。私の単純な思考回路と、思い込みの激しさを指摘されたようで恥ずかしくなりながらも、そういう気遣いをしてくれる彼の気配りと優しさに胸がいっぱいになる。
「クララが、ミュンヘンの父親の元から家出したと聞いて、それでダニエラが急遽、ドレスデンからミュンヘンへ戻ったということになるらしい」
「じゃぁ、クララがここに居る、というのは……」
「そうだ。ダニエラは、知らない。そして、クララの今の状況も、当然、知らない」
きっぱりとそう言ったクラウス。
予想もしなかった展開に、呆然となる。
その時、診察室のドアが開く音が聞こえた。
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