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復活祭と華麗なるベネチアングラス

絡み合う思惑の先に

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あれからまた規則正しい日々が始まり、毎日があっという間に過ぎて、もう5月の終わり。
お茶屋のアルバイトが予測以上にとてもやりがいのある仕事になっていた。当初は、火曜日と木曜日の夕方、オーナーが開くティーセレモニー教室の間の店番という話だったのだが、少し前にオーナーが、オンラインショップの注文受付に発送の手配、日本の取引先とのやりとりも私に任せてくれるようになった。
もともと、スーパーなどと違って頻繁にお客が訪れるわけではなく、定期的にいらっしゃるお得意様相手の仕事だったから、接客の合間は暇を持て余していたので、その時間を活用してお店のラップトップでデスク業務をしている感じだ。
日本のお茶農家とメールでやりとりしたり、茶器販売会社への商品注文などの業務をこなすことで、少しずつ知識も増えていった。勿論、お茶の世界は奥深くて私は今まだ入門編のあたりの知識レベルだが、少なくとも扱っている商品の名前は大体覚えたし、頻繁に来るお客様であればお好みのお茶の種類なども覚えている。
Tee Tea Ochaのオンラインショップには、お茶に関する専門知識やオーナーのこだわりについて投稿記事が定期的にアップされていて、オーナーの希望でその投稿を日本語と英語に翻訳したりもしている。店番ですることがなく、ただじーっとお客様が来るのを待つのはしんどかったので、そういう時間を利用しつつ、お茶の世界を知ることができるのは願ったり叶ったりの好条件だ。
オーナーに制服代わりにいただいた藍染めの前掛けも、最近は我ながらとても似合っているんじゃないかと思うくらい気に入っている。仕事があまりに楽しすぎて、帰宅してもネットでオンラインショップにログインして管理ページを開いたりしちゃうので、私がこの仕事にかなりハマっているのは明白だ。

学校のほうは相変わらずだが、気の合った数人でドイツ語会話の練習も兼ねて、学校帰りにカフェに行ったり食事をしたりと出歩くことも増えた。私の交友関係も少しずつ広がって、当初は寂しさもあって頻繁に会ってもらっていたマリア達とも会う頻度が少し減ったように思う。
マリアとヨナスは2週間の予定でギリシア旅行に出かけているので、このところ会っていない。詳しくは知らないけれど、ヨナスの仕事の関係であちらに行くとかで、せっかくなのでマリアも同行し、新しい作品のインスピレーションになるものを探しに行って来るとのことだった。一昨日、ギリシアから絵はがきが届いて、アテネの遺跡を訪れてとても充実した日々を送っている様子が書かれていた。

少し前には、日本のはるから取材記事が載った見本誌が送付され、取材したお店に伺って再度お礼を伝え見本誌をお届けした。お店のオーナーやスタッフの方々も見本誌にとても喜んでくれたし、すっかり顔なじみになったのでたまに行くと特別サービスと言ってクッキーをくれたり、飲み物一杯をご馳走してくれたりする。
このライフスタイル雑誌は季刊なので、次の〆切は7月半ば。6月の半ばくらいにはまたはると相談して取材先を決める予定だ。
なんだか、毎日がとても充実しているので、ふとしたときに急に不安になる。
この日々が終る日が少しずつ近づいているということが、頭のどっかにあるから。でも普段はそのことを頭の隅に押しやってまあり考えないようにしている。
『カノン~!久しぶりにお茶しようよー』
アナから電話がかかってきたのは土曜日のお昼。
アナも音楽関係の集まりで先週末はベルギーのほうへ行ってたりして、もう2週間くらい会ってなかった。
「もちろんだよー。私もお茶屋のバイトがない日なら基本的にいつでもオッケーだよ!」
『本当は今日でも会いたいんだけど、月曜日のテストの準備があるからなぁ……来週の水曜日なんかどう?私は英語クラスの日なんだけど、5時半に終るからお茶して夜ご飯に行く?』
「行く行く!じゃ、私は学校のカフェテリアで待ってる』
私のドイツ語クラスは3時半までなので、アナの英語クラスが終るまで2時間ほどある。その間、自分の宿題や勉強をやれば丁度いい。
『了解!じゃぁ、水曜日、カフェテリアでね』
「うん、楽しみにしてるー!」
ルンルン気分で携帯を切ると、同時にメールを着信。
それは仕事でベルリンから離れているニッキーからだった。
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心に浮かぶ色は?
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相変わらずの突飛な質問に思わず笑ってしまう。
ニッキーは時折メールや写真を送ってくれるけれど、その内容は大概、予測出来ないことばかりだ。
昨日は、クロワッサンにカプチーノが置かれた朝食中のテーブルの写真。よく見ると、開かれたラップトップのスクリーンの上に、雀が一羽。首を傾げていてこちらを見ている写真だった。どうやら、雀がパン屑をねだりに来た瞬間だったらしく、とても可愛らしい1枚だった。
私はしばし、最近気になった色を考えてみる。
やがて、頭に思い浮かんだ色がいくつかあった。

今が一番美しい、可憐なドイツすずらん、Convallaria majalis。
そして今日初めて買った、店頭に並び始めたばかりのチェリー、Kirsch。

キッチンの小さいテーブルの上に、すずらんの真っ白い花が濃い緑の葉の中で鈴なりに咲いていて、とても奇麗だ。
フルーツかごの隣には、買ったばかりの新鮮なチェリーの山。ピカピカと光沢があり色は深みのある濃い赤。
この前アンティークマーケットで一目惚れして入手したシルバーの小皿に、ずずらんの花を一束、そしてチェリーをいくつか置く。
お日様の光が差し込む窓辺にそれを置いて、携帯で写真を撮るとニッキーに送信した。


火曜日の夜、聡君からメールが来た。
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かのん、またまたお願いがあるんだ!
水曜日の午後、時間ある?
oxoxox さとし
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聡君のお願いごとの内容にもよるが、その日は5時半からアナとの先約があるので、時間が取れるとしても私のクラスの後からアナとの待ち合わせ時間までの2時間。

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聡君、
お願いごとの内容にもよるけど?
3時半から2時間くらいは空いているけど、5時半からアナと約束してるから、学校の近辺にいる予定。
話を聞くとかなら、3人でご飯行く?
かのん
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やがて、聡君から電話がかかってきた。
『すっごい簡単なことなんだよ。僕と一緒に写真撮るだけ。アナもベルギーから戻ってたんだ?だったら、アナも一緒のほうが尚更都合いいんだけど』
なんだ、そんなことかと拍子抜けする。
「なーんだ、そんなこと?じゃ、3人で写真撮ればいいね。ご飯行く?」
『そうさせてもらう!5時半だった?学校の近くに着いたら電話する』
「了解」
じゃ明日、と電話を切ろうとすると、聡君が声を張り上げた。
『あっ、カノン、スカート穿いて来て』
「スカート?なんで?」
変なことを言うなと思って聞き返すと、聡君が、
『会ったら説明するから!じゃぁよろしくー』
と機嫌良く電話を切った。
よく意味がわからないが、何やら理由があるらしい。彼には彼なりの複雑な事情があったりするので、私達には理解できない問題や悩みを抱えてることもある。まさかとは思うが、レディスファッションに興味が出て来たとか、そういう方向もありえなくはない。

翌日は天気も良く気温も上がりそうだったので、イースター休暇中におばぁちゃんに買ってもらった、See By Chloeのミニワンピースを着ることにした。ベルリンに戻って来てからずっとクローゼットに入れっぱなしだったけど、季節的にもぴったりだ。
黒のストラップサンダルと合わせて学校へ行くと、クラスの皆がびっくりしていた。
いつもジーンズやパンツだったので、まさか私がスカートを穿くとは思っていなかったらしい。
久しぶりのワンピースで気持ちも弾んでいたが、オフホワイトカラーなので汚れを付けないようやたら気になってしまい、ランチの時もオレンジジュースは飲まずに水を飲んだ。今晩の夕食も、カレーとかトマトソースを付けないよう気をつけなくてはならない。
ホワイトは奇麗な色だけど、染みが気になって落ち着かないものだ。
予定通り、3時半から2時間くらい、カフェテリアで宿題と文法の復習をして、アナがやって来た所で外へ出ると、なぜだか前髪を逆立てていつもより随分男の子っぽい姿の聡君が待っていた。
「おーっ!!!」
聡君が私を見るなり、上から下まで舐める様にじーっと凝視する。
「なーに、その反応!ちょっと驚き過ぎじゃない?なんか失礼な感じ」
文句を言うと、アナもクスクス笑って聡君に同調した。
「私も初めて見た、女の子っぽいカノン。一応、ワンピなんて持ってたんだー!」
「やだなぁ、アナまでそんなこと言うの?」
少しがっかりしたが、確かに二人も私のワンピ姿なんて初めて見たんだから、こんな反応も仕方ないかもしれない。
「それより、なんでスカート着用希望だったのよ?」
聡君に聞くと、彼はふふーん、と笑って私とアナを交互に眺めた。
「アナはいつもスカートだからわざわざ言わなくてもよかったんだけどね。カノンは違うじゃん?ちょっと、理由があってさ」
「だから、その理由はなんなの」
「まーまー、食べに行ってから話すから」
聡君が私とアナのど真ん中に割り込むように体をねじ込むと、意気揚々と腕を組んで歩き出した。

私達は駅近のカフェレストランに入り各自注文を済ませると、早速聡君の話を聞くことになった。
相変わらず話が長くて、登場人物も多いので全てをフォローするのは難しかったが、最終的に一言でまとめると、こういう事だった。
聡君がたまにデートしている新しい彼氏が、最近どうも冷たい感じなので、聡君が女の子と一緒にいる写真をSNSでアップして彼の嫉妬心を煽りたい、というわけだ。
「そんなことして、ゲイ止めて女の子に走るとか勘違いされたら逆に困らない?」
アナがペンネパスタの穴に詰まったエンドウ豆をフォークで突きながら言う。
聡君は、とんでもない!というように首を振った。
「僕を良く知る人は絶対にそんな風に思わないから平気」
「ふーん。でも、その彼が嫉妬しないで逆切れしたら、完全にふられちゃうんじゃない?」
私もその最悪の結果を懸念して、一応そのことを指摘してみる。
聡君は少し考えるように黙っていたけど、やっぱり決心は固いようだった。
「とにかく、二人に挟まれた写真を撮ってもらう」
そう言って、通りかかった店員さんに声をかけた。
聡君は親切な店員さんに携帯を預け、両脇を私とアナに挟まれるように密着した満面笑顔の写真や、二人交代で、腕を組んだり肩を組んだりしている写真を撮ってもらった。
データを確認し、その出来に満足したらしい聡君が携帯を片付けると、今度は急に私のほうを向いて座り直した。
「なによ」
殺気を感じて嫌な予感に眉を潜めると、聡君がぐいっと顔を近づけて来た。そして、じーっと私を見る。
「で、カノンは最近どうなわけ?男と付き合ってるんだって?」
いきなりそんなことを聞かれ、じろりとアナを睨む。アナは首をすくめて苦笑いした。
「ごめーん!聡君がすっごくしつこく聞くから、ちょっとデートしてるみたいって言っただけなんだけど」
「もー……」
恋バナが三度の食事より好きだという聡君には感づかれたくなかったが、この狭い人間関係での秘密ごとは難しいらしい。
ニッキーとは大体週に1、2回の頻度で会っている。天気が良い日は運河や湖を訪れたり、勿論ベルリンにある数多くの美術館にも行く。この間はサプライズで夜の野外クラシックコンサートにも連れて行ってくれた。
彼は仕事の関係でベルリンにはいないことも多く、頻繁に会えるわけではないけれど、出張先からも一日に一回は何かしら連絡をくれる。
「付き合っているっていうか、なんて言えばいんだかよくわかんない関係なんだけどね」
私は答えに困ってそう言ったのだが、聡君が露骨に驚いた顔をした。
「ハァ?ありえないじゃん、それって!自分でもわからないって、もろ、おバカ?」
「バカ?ちょっと、いくらなんでもその言い方、ひどいと思うけど?」
むっとして私も聡君を睨んだが、彼はひるむどころか、悪びれる様子もなく罵詈雑言を続けた。
「デートしてんなら、つきあってるにきまってるじゃん?本気だろうと遊びだろうとさ?それをどういう関係がわからない、とか、頭の中、花畑?もう、ボケでも始まった?」
「うわー、ひどっ」
さすがにアナが非難の声をあげた。
聡君の恋愛観と、私の恋愛観はまた全然違うものだし、理解してもらうのは難しいのかもしれない。
私はむっとしながら、なんとか説明しようとした。
「一緒に居て楽しいし、デートといえばデートらしいことしてはいるけど、別に約束っぽいこととか話題に出ないし。まだ、なんていうのかな、いわゆる友達以上、恋人未満ってやつ?」
「ハァ!?友達以上、恋人未満?うわっ、古っ!昭和?!」
聡君は、気の抜けた声をあげて、私の顔を見る。それからしばらく沈黙し、やがて押し殺した声で言った。
「まさか、まだヤッてないとか、ありえないこと言う?」
「なっ、なんつーことを言うの、あんたは!」
私は中腰になって聡君の口を手で覆った。
レストランで、こんなことを平気で言うなんて、変態!変質者っ!
聡君は私の手をむしりとると、くわっと目を見開いて声を荒げた。
「日本語なんだから誰もわかんないじゃん!っていうか、そのまさかなわけ?!チューは?ハァ?それもまだ?!うわっ、ドン引きっ」
「こらっ」
いいかげんにしろっ!!!
私はテーブルの下で聡君の足を思い切り踏みつけた。
「あいたっ」
聡君が顔を歪めて、一瞬、痛みを耐えるように歯を食いしばる。
これ以上、この変態男に言いたい放題させるわけにはいかない。流石にアナも冷たい目で聡君を一瞥した。
「もっとデリカシーのある大人になったらどう?カノンを傷つけてるってわかんないの、あんた」
「はぁ?」
聡君は今度は自分が侮辱されたとでも言うように鼻息が荒くなり、イライラしたように私を睨んだ。
「カノン、あんた、17歳の女子高生じゃないんだよ?27歳!わかってる?もう、アラサーってやつ!!!」
「だから、なんだってのよっ」
やぶれかぶれで私も声を荒げて言い返すと、聡君がビールを一気飲みして、ふんっと鼻で笑う。
「だから、時間の無駄ってわからないわけっ?大バカじゃん?!」
「なにがっ」
「最初に体の相性をチェックしないで、その年でプラトニックラブなんて、もう喜劇ってか、いや悲劇?!さっさとヤッて、合否を決めなって!」
「ギャーッ!!!」
私は必死で聡君の口を手で塞ぎ、片腕で首を締めて黙らせた。
もう、いやだ、こいつ!!!
縄でぐるぐる巻きにして、レストランの外に放り出したいっ!
アナもうんざりした様子でハァーとため息をついて天井を見上げた。
「聡君、不毛。人間失格」
がっちりと口を完全封鎖されて、聡君が諦めたのかようやく静かになる。
どっと疲れが出て、もう何も食べたくなくなった。
「カノン、あのさ、僕はカノンのためを思って言ってんだけど?」
少し冷静になった様子で、聡君がぶつぶつと呟く。
「わかってる。悪気がないのはわかってるって。でも」
私は苦笑いして、聡君とアナを見た。
「年末にはベルリン滞在も終っちゃうし、あまり深入りすると別れが辛くない?だから、逆にこれくらいがいいとも思うんだよね」
この二人は、アーティストビザと学生ビザなのでまだ当分、ドイツに住むことが出来るけど、私は違う。1年限定で取り直しが出来ないワーホリビザだ。
「確かに、それを考えてしまうのは私もよく理解できるよ」
アナが頷く。1人の同意を得て少しほっとする。
聡君が納得いかないというように反論した。
「そんなの、後から考えればいいじゃん?好きならさっさと」
「それ以上言ったら友達やめるよ」
私はまた暴走しそうな彼をじろりと睨みつけた。
この脅迫はかなり効いたらしく、聡君は口をつぐんだ。
「まぁ、まぁ、人には人の事情があるんだからさ、ね?カノンも彼に持て遊ばれているわけじゃないし?結構、紳士っぽい感じみたいだよ?」
アナがそう言って聡君の肩を叩いた。そういうアナもそれなりの事情があって現在まだシングルなわけだが、それを聡君は知らない。
納得したのかどうかはともかく、とりあえず聡君はそれ以上追求するのは諦めたらしい。
3人ともなんだか疲れてしまい、デザートとして注文したアップルパイを静かにシェアする。
そろそろレストランを出ようかとなった時、私のバッグの中から電話の着信音が聞こえる。取り出してみたら、ニッキーだった。
アナは荷物をまとめ始めていて、聡君はトイレに行ったところだ。
さっき話題に出たばかりの人だったので、一瞬躊躇したが、とりあえず応答した。
「ハロー?」
『カノン、今どこにいる?』
「学校の近くで友達とご飯食べたの」
私は正直に答えた。
彼は、私が誰かと一緒にいると邪魔はしないし、ヨナスみたいに、マリアが居る所なら、いつでもどこでも勝手に押し掛けて来るやつとはまるで違う。
ところが、今回は違った。
『もう帰る所なんだろう?近くにいるから迎えに行く』
「えっ?」
驚いて聞き返したら、もう電話が切れていた。
急いでかけなおすが、もう留守電モードに切り替わっている。
「どうしたの?まさか、ついに噂のニッキー、ご登場とか?」
冗談まじりにアナが声をかけてきた。
いや、そのまさかみたいなんだよね……
黙ってアナを見返すと、えええっ、とアナが目を大きく見開いた。
「うっそー!!!ほんと?ついに本物、見れるんだ?!」
「……いつベルリンに戻って来るのか知らなかったんだけど、帰ってたみたい。でも、タイミング、悪いなぁ……」
私はちらりと、こちらへ戻って来る聡君のほうを見た。
アナだけだったら全然問題なかったけど。
こいつにバレないように、なんとかうまくヤツを撒いて逃げられないだろうか。
こういう時の聡君はものすごく勘が良い。ただならぬ雰囲気の私とアナにすぐさま気がついて、しつこく何があったのか聞いて来て、言うまで絶対に帰さないとか無茶苦茶なことを言い出した。
困っているとまた、電話が鳴り、SMSが入っていた。
駅前にいるらしい。
きっと、辺りがもう暗くなっているから私をアパートへ送り届けようと思ったんだろう。そう思った時にはもう、聡君が後ろから私の携帯を覗き込んでいた。
一気にテンションのあがりまくる聡君と、そんな彼を落ち着けようとなだめるアナ。
私は困って、ニッキーに「友達がついて来そうで手こずってる」とSMSしてみた。これまでも、私の友達の話は興味深く聞くものの、会ってみたいとかそういう感じは一切なかったので、なんとなく自分の友人には会わせないほうがいいのかと思っていた。すると、『俺はかまわない』と返信が来た。あれ、連れて行ってもいいんだ? 少し意外だったが、このままレストランで揉め続けるのもなんだし、ニッキーが気にしないと言うのなら……
「でも、絶対に変なこといわないんだよ?言ったら、その瞬間に友達やめる。永遠に。これ、本気だからね」
私は何度も、聡君にそう念を押した。
「わかった、わかってる、絶対何もいいません、こんばんは、の挨拶だけっ」
そう誓いを立てる聡君を100%信用は出来なかったので、何かあったらアナにヘルプを頼むことにして、3人でレストランを出た。
「うわー、なんだかドキドキしてきた」
アナが胸を押さえながらそう言う。
「ほんと、ほんと」
聡君がウキウキした様子でアナと腕を組んで私の後ろを歩いている。
やがて、駅前の広場へ来てみたら、apriliaのバイクに乗っているニッキーが見えた。
あれ、あのバイクで来てる?
いつも、二人で移動する時は、電車かバスなのに?
「えっ、あの人?!」
「うわー、すっごいでっかいバイク」
背後で2人がこそこそと騒いでいる。ニッキーがこちらに気がついて手を上げた。
3人で歩いて彼の近くに行く。ニッキーはフルフェイスのヘルメットを被っていたが、グラスの部分を上にあげて私を見た。
「どうしたんだ?」
「え、なにが?」
なんのことだか分からず聞き返すと、後ろでアナがぼそっと言う。
「ワンピだからじゃないの」
あっ、そうか。
すっかり忘れていたが、こんな格好はニッキーも見たことないので驚いたのかもしれない。
「とある事情があって、いつもと違う格好」
私はそう言って、後ろにいる聡君をちらっと見た。
「ニッキー、アナとサトシ」
紹介すると、ニッキーはちょっと手を上げて「ハロー」と言った。アナと聡君がそれぞれ挨拶をすると、ヘルメットの向こうでニッキーは微笑んでいた。数日ぶりに見た彼の奇麗な目が、そっと優しく細められたのを見て、切ないような温かい気持ちになる。
「カノン」
「うん?」
ニッキーがバイク本体の反対側にかけていたらしい何かを右手で取り、私の前に差し出した。
「……これ」
私はそれを両手で受け取り、ものすごく驚いて目が点になった。
レディスの、フルフェイスヘルメット。
光沢のあるブラックのベースカラーに、ワインレッドとシルバー、ホワイト、そしてダークグリーンのアラベスク模様が流れるように絡み合う、見たことの無いオシャレなヘルメット。
「あ、この色は」
街灯に照らされるアラベスク模様の色が、この間私が送った写真と同じものだと気がつく。
すずらんのホワイトに、その葉のダークグリーン。チェリーの赤。そして、アンティークシルバー。
あれは、ヘルメットを買ってくれようとして色を聞いて来たんだ。
ものすごく感動して、なんだか泣きそうになった。
「ありがとう……」
なんでこんなに優しいんだろう。
両手でヘルメットを抱きしめて、じっとニッキーを見つめていると、彼が両手をバイクのハンドルから離し、黒のジャケットを脱いだ。
「そのまま乗るわけにはいかないだろう」
言われて、確かにそうだと気がついた。
ワンピのままバイクにまたがったりしたら、走り出すなり風に煽られて大変な状態になってしまう。
渡されたジャケットを羽織ると、丈は膝の少し上まであるし、生地がずっしりとしているので重みでワンピが広がらないようだ。ついに、このバイクに乗るんだと思うと、なんだか緊張でドキドキしてきた。
ニッキーが私の持っているヘルメットを取り、ゆっくりと私の頭に被せた。
「ここに足をかけて乗って」
言われたとおりに、車体のサイドにあるでっぱりに足をかけて、ニッキーの肩を掴むようにして後ろに乗ってみる。かなりの高さがあって、驚く。バッグは、ニッキーと自分の間に置いた。
「うわーっ、カノン、すっごいかっこいいっ」
アナと聡君が同時に声を上げた。
「しっかり掴まって」
ニッキーが後ろの私を振り返ってそう言うと、フルフェイスヘルメットのガラスを下し、両手でハンドルを掴む。地響きがするようなエンジン音と激しい振動に、ぎゅっとニッキーにしがみついた。
「チャオ!」
彼の声が聞こえアナと聡君の叫ぶ声が聞こえたかと思うと、バイクは一気に夜の闇へ走り出していた。

大型バイクの威力を生まれて初めて体験して、その魅力に取り憑かれる人の気持ちが少しわかったような気がした。振動と一体化する体、魂が、吹き抜ける風と共に宇宙へ飛んで行くような感覚は、日常から超越したものだった。このまま自分がバイクの一部になってしまうような、そんな不思議な錯覚。
やがてアパートに近づくにつれてスピードを落とす。
そしてニッキーはゆっくりと路肩に停車すると、エンジンを切った。
「おりれる?」
少し、心配そうな声でそう聞かれたが、以前の暴走自転車の時よりも意外と車体が安定していたので膝がガクガクというわけでもなかった。
「うん、平気。すごかった!」
ゆっくりとバイクから降りると、続いてニッキーもバイクから降り、勢いよくヘルメットを外した。見れば、ゆるやかなウェーブがかかっていた髪が前よりも短くなっていて、更に研ぎ澄まされたようなシャープな顔だ。太陽の光に焼けたのか、髪の色も以前より少し明るく見える。
「髪、切ったんだね。夏っぽくて似合ってる!」
ニッキーは少し笑って、それからゆっくりと私のヘルメットを外した。そして、右手で私の乱れた髪をそっと撫でた後、私に向かって両腕を広げてみせる。
「おいで」
とっても優しい目をして、私を見下ろす彼。
吸い寄せられるように私はその胸の中へもぐりこみ、彼の背中に腕を回して息を潜めた。
私の背をぎゅっと抱きしめる力強い腕が、私を無口にする。温かくて、ものすごく安心する場所だ。夢の中にいるような、非現実的な気持ちになる。文字通りこのまま時間が止まればいいと願ってしまう。私は目を閉じて、聞こえて来る彼の心臓の鼓動に耳を傾けた。
時折私の髪をゆっくりと撫でて、まるで幼い子をあやすように私を甘やかしてくれる。
私は、ニッキーが好きだ。
きっと、説明出来ないくらい、惹かれているということを、心の奥底ではわかっている。
でもなぜか、いろんな思惑がからみあって、それは言ってはいけないことだと感じてしまう。
「カノン?」
呼ばれてやっと現実の世界に戻る。顔をあげて、真上にきらめく優しい目を確認して嬉しくなった。
「おかえり、ニッキー。いつ帰って来たの?」
「2時間前くらいだ」
戻って来て、すぐに来てくれたんだと思うと幸せな気持ちになる。
「来てくれてありがとう。嬉しい」
素直にそう言うと、彼はじっと私の顔を覗き込んで面白そうにクスッと笑った。
「運良く、めずらしいものも見れた」
「めずらしいもの?」
そう聞き返して、すぐにそれがこのワンピースのことだと気がついた。やっぱり意外だったんだなと思って自分のワンピースを見下ろすと、ニッキーが私の耳元に口をよせて、内緒話をするようにそっと囁く。
「たまには刺激的でいい」
「えっ」
ドキンとして思わずカッと頬が熱くなった。時々、ニッキーのこういうセリフに不意打ちされてものすごく動揺してしまう。ニッキーは、ちょっとからかうように笑って私の腰を引き寄せ、じっと私を見下ろした。
「俺のために着てたわけじゃないというのは癪に障るけど」
それは、聡君の恋愛をサポートするためだったんだけど、言い訳として説明が難しい。
「次回に期待しておこう」
そしてニッキーはちょっとため息をつき、私の両手の上にその新しいヘルメットを乗せた。
「今晩はもう時間がない。次は日曜日に会おう。丸一日、時間がとれそうだ」



土曜日のお昼すぎ、私とアナは聡君に呼び出されて、またもや3人で会っていた。
今日は、Steglizという郊外エリアなのだが、ここには大きなショッピングセンターがいくつも立ち並び、買い物を楽しむ若者や家族連れで休日はとても賑やかだ。ここで会うことにした理由のひとつは、聡君と別れた後にアナと一緒に買い物をする予定だからだ。
お客さんで騒々しいカフェで3人、丸いテーブルを囲んで座る。
「呼び出しの理由は、やっぱりこないだのご報告ってやつ?」
アナがそう聞くと、聡君は若干、やつれ気味の顔で力なく頷く。
「そう。それがさ」
そして大きなあくびをしてコーヒーを一口飲んだ。
「彼、想像以上にキレちゃったんだよねー」
それみたことか。
言わんこっちゃない。でも既に後の祭り。
「写真を投稿したのは昨晩だったんだけど、夜中に電話がかかってきて」
聡君はコーヒーにどばどばとオーガニックシュガーを大量に投入し、がちゃがちゃと音を立てスプーンでかき混ぜる。
「ごめん、もう、カフェインと砂糖なしじゃだめかも」
また、はぁーと大きく口を開けてあくびをした。
「目の下、真っ黒。くまがすごい」
私も聡君のあまりの疲れように驚いて、彼の目の下の黒ずみを見た。聡君は目をシバシバさせてこくりと頷く。
「だってさ、寝てないんだよ。ずーっと朝まで電話。んでもって、今度のライブ用の楽譜の手直し期限が昼の12時だったから、一睡もしてない。もう昨日の朝6時から今まで完全不眠不休」
それはしんどそうだ。
一体どんな電話内容だったんだろう?
「で、なにをそんなに話してたわけ?」
アナがチョコレートクロワッサンを食べながら聞く。私も自分のバニラクリーム&チェリーのデニッシュに手を伸ばし、聡君のほうを見た。
聡君はけしの実とシナモンを使った焼き菓子、モーンクーヘンにフォークをぶすぶすと突き指しながら話を続ける。
「彼がさ、僕は本当はバイなんじゃないかって疑って、だったらもう別れるって言い出してさー。十分、嫉妬を煽る意味では成功したから、あの写真の女友達は二人ともただの友達だって説明したんだけど、それにしてもべったりしすぎているって信じないんだよ。僕が嘘を言っていないと証明しろとか言ってきたけど、証明するもなにも、真夜中にどうしろってんだって感じじゃん?僕も嫌になっちゃってさ、ウザイからもういいやって思って、信じないなら別れていいって言ったんだけど、そうすると、じゃぁやっぱりバイなのかって。同じ会話を延々と続けてた感じ。ちょっとあいつ、思ってたのとは違う性格みたいで、最後はもう、イライラして電話切った」
どうやら、電話でけんか別れをしたらしい。
ちょっと気の毒になって私もアナも黙っていたら、今度は聡君が携帯を取り出して、ネットでSNSを開くと1枚の投稿を私達に見せる。
「これ、彼のページ」
見れば、二人の男性ががっしり抱き合ってチューをしている写真が載っていた。
どっちがその「彼」なのかはわからないが、この写真は聡君に対するあてつけのために投稿されたらしい、と説明されるまでもなく理解する。
聡君ははぁーとため息をして携帯を片付けた。
「僕が投稿した写真は、もっと普通だったし、僕たち、結構かわいく映ってたけどさ、これはエグい」
「ふーん……そう?あ、でもそういえば、この間の写真、私達にも送ってよ。私も、カノンと一緒の写真、1枚も持ってないから欲しい」
アナが思い出したようにそう言うと、聡君が大きなあくびをしながらもう一度携帯を取り出した。
「今、二人に送ったから」
私もアナも、自分の携帯を取り出してメールをチェックする。
「カノン、ごめん、エスプレッソ注文してきて。僕、全然覚醒出来ない」
聡君が頭をかかえてテーブルにつっぷした。
「わかったよ。アナは、なんか他にいる?」
アナはううん、大丈夫と答えた。
私は辺りを見渡してスタッフが見当たらないので、席を立ってカウンターのほうへ行き、エスプレッソと自分用にミントティーを注文した。ここのミントティはフレッシュなミントの葉がたくさん入っていて、たっぷりの蜂蜜と一緒に飲むとものすごく爽快感がある。
席に戻って来ると、アナは電話中でなにかメモを取っていて、その横の聡君が私の携帯をいじっているのに気がつきあわててその手から取り返した。
「やめてよね、人の携帯!何を見てたの?覗き見なんて、趣味悪いっ」
じろりと睨みつけると、彼はニヤニヤして私を見た。
「人聞きわるいなぁー。僕、なにも見てないしー」
疑わしい目を向けると、彼はうふふっと怪しく笑った。
「見てないけど、メールしちゃったー」
「はぁっ?」
どういう事だと思って携帯のメールの送信済みBoxを急いでチェックし驚愕した。
ニッキー宛になんか送ってる!!!
さっきの写真でも送付したのかと思ってそれを開くと、添付ファイルはなく、英語で書かれたた短い文が一行。
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ご飯つくろうか?
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「なななななな、なにやってんのよっ、ばかっ」
怒りに震え、私は聡君に詰め寄った。なんだってこんな勝手なことをするんだ!!!お節介にもほどがある!
聡君は全然びびった様子もなく、けらけらと笑い声をあげた。
「カノンが奥手だから、チャンスを作ってあげたんじゃん?これでアパートに連れ込めるわけ。僕の、無料メール代行サービス、いけてるよねー」
「ばかっ」
私は携帯を握りしめたまま、頭を抱えた。
いきなりこんなメールを送ったら、明らかに変と思われるじゃないか!!!
余計なお世話どころじゃない、そんな代行サービス、ものすごい迷惑だっ!
電話を終えたアナが状況を理解したらしく絶句している。
私はぎりぎりと歯を食いしばり、飄々とした様子でウエイトレスからエスプレッソを受け取る聡君を睨んだ。
もう、こいつとは友達付き合いをやめたほうがいいかもしれない。
金輪際、関わったらダメだ。
真剣にそう思った時、私の手の中でメール受信の音がした。
ああっ、もう返信が来たんだ!
急いで携帯を開くと、聡君もアナも立ち上がって私の手元を覗き込む。
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ランチ?
ディナー?
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「ほらっ、乗って来たーっ!もっちろん、ディナー、そしてデザートは、ア、タ、シ、ってのが模範的回答」
横で聡君がまた余計なことを言う。
「うるさいっ」
私は肘で聡君を押しのけて、携帯を凝視した。
どうしよう?
今さら、私が送信してませんとは言えない。
……でも、いつもご馳走になっているし、一度くらい、彼のために料理するのもいいかも……
でも、そうなると、明日のことだ。
メニューを決めて、材料も準備しなくてはならない。
ディナー、ディナーとうるさい聡君を無視して、私は「ランチで」とニッキーに返信をしたのだった。

聡君の突飛な行動から発生した一世一代の大イベント。
あの後、しつこく「感謝しろー、感謝しろー」と言い続ける聡君と別れ、私はアナと一緒にSteglizの街を駆けずり回った。
もともと、アナと一緒に夏物のサマードレスを物色するつもりだったけれど、それに加えて明日のランチの材料も揃えなければいけなかった。
私はメニューをどうするかしばらく考えを巡らし、この間、おばぁちゃんの所でラザニアを作る手伝いをさせてもらったことを思い出した。
材料は一緒に二人分をスーパーで買ったから覚えている。料理の手順は記憶が一部曖昧だけど、今晩おばぁちゃんに確認すればいいことだ。
明日のランチは、ラザニアとサラダを主軸に決行することになった。


日曜日の朝、私は朝食もそこそこにランチの準備に取りかかっていた。
昨晩、帰宅してまもなく雨が降り始め、朝11時の今も外はどんより薄暗い雨雲が空を覆っている。時折、吹き付けるような雨が窓ガラスを叩く音がした。
朝から雨というのは随分久しぶりのような気がする。
この天気だと、蚤の市も屋内で開かれるもの以外は開催されてないかもしれないし、気持ちよく外を歩くというわけにもいかないので、考えようによってはこうやってランチに呼ぶのも結果オーライだったのかもしれない。
私は最初はてっきり、ニッキーはCafé Bitter-Süßのスタッフの一人かもしくはオーナーなのかと思っていたけれど、どうやらこういうビジネスを複数経営しているようで、Café Bitter-Süßのほうには基本的に月初の週末1回くらいしか来ないらしい。

ラザニアの作り方は昨晩おばぁちゃんに電話して確認したので、大丈夫なはずだ。おばぁちゃん的には、普通のレシピ本よりも脂身の少ない挽肉を使うことがこだわりポイントだそうだ。オランダで一緒にお肉屋さんに行った時、店主が「もっと脂身の多いミンチがラザニア向きだ」といい顔しなかったが、その脂身が控えめな挽肉を使ったラザニアはしつこくなくて私は断然好きだ。レストランで脂身が多い肉を使ったラザニアを食べた夜は、夜中に喉が乾いて何度も起きてしまうことがあるが、おばぁちゃんのラザニアだとそういうことは一切ない。
挽肉を固まりにしていくつかにばらしてフライパンで焼く。少し焦げ目をつけたらひっくり返し、タマネギと人参を入れる。少しずつお肉の形を崩していき、全体に火が通ったら、バジル入りのトマトソースを入れて煮込む。その間に、小麦粉とバターを炒めて、生クリームと牛乳を少しずつ加えて泡立器で丁寧に混ぜ、ホワイトソースを作って行く。最後は、ラザニア用の耐熱ガラス容器に、ミートソース、ホワイトソースそしてラザニアパスタ、の順番でレイヤーを重ね、最後に残りのホワイトソースとチーズをたっぷりかけて、ようやくオーブンに入れる準備が出来た。
見た感じはおばぁちゃんの作るラザニアとそっくり。
オーブンの中のラザニアの様子を時折のぞきながら、サラダの準備を始める。
時計を見ると、12時15分。
ニッキーには、12時半くらいに来てもらうよう連絡しているので、まだ少し時間がある。
表の扉のブザー音が鳴ってから、こちらに到着するまで1分そこそこなので、その間に今着ている普段着から、買ったばかりのサマードレスに着替えようと思って、ベッドの上に置いてある。
料理中はやっぱり動き易い普段着が一番いいし、なんといっても新しい服だと水はねとか気になって落ち着かないものだ。
またまたおばぁちゃん直伝のバルサミコのドレッシングをシェイカーで作って、洗ったサラダ用の野菜をボウルに入れていたら、玄関のブザーがなった。
もう来たんだ?あ、もうあと数分で約束の時間。
あれっ、でも……
この音は、表の共同扉のブザーじゃなくて、私の部屋の玄関ブザー。
おかしいと思って玄関にかけよって覗き穴を見てみると、もう外にニッキーの姿が見え、驚いてドアを開けた。
「ニッキー!」
目の前には、真っ白なシャツにネイビーブルーのコットンパンツ姿のラフな服装で彼が立っていた。
「ちょうど中から人が表に出て来たから、俺が入れ替わりで中へ入ったんだ。驚かせた?」
ちょっといたずらっこそうな顔で笑うと、大きなカサブランカのブーケを差し出す。
純白で大輪がラッパのような、高貴なユリの女王。両手にあまるほどのブーケにびっくりしながらカサブランカに顔を近づけると、甘い香りがあたりを埋め尽くすようだった。
「ありがとう。こんな大きなブーケ、もらったの初めて!」
なんだかプリンセスになったような気分。年齢なんて関係なく、美しい花束を受け取ることは女性にとっては特別な瞬間だと思う。
キッチンに戻って、棚からガラスの壷を出してカサブランカの花を生けながら、重大なミスに気がついた。
私、着替えてないっ!!!
完全に普段着のまま、出迎えてしまった!
今日の私は、ペールピンクのノースリーブシャツに、ホワイトデニムのショートパンツ。頭なんてお団子でまとめている。
今から、着替えるなんて絶対に怪しすぎるよね……
やっぱり、早めに着替えておくんだった。
美しく咲き誇っているカサブランカの前で、ありえない失敗にショックのあまり立ち尽くしていると、靴を脱いだニッキーがキッチンに入って来た。
「カノン?」
せっかくもらったお花の前なのに、あきらかにテンションの下がった様子がバレバレだったらしい。
カサブランカの前で落ち込んだ姿を見せたのは失礼だ。言い訳じみているとは思ったが、私は正直に説明した。
「あのね、たいしたことないんだけど、着替えるつもりがすっかり忘れてて、あはは、思いっきり普段着……」
この間ニッキーに「次回に期待している」と言われたから、バカ正直だとは思ったけど、少しは女性らしい姿で出迎えようと思っていたのに。
しょっぱなからこんなミスじゃぁ、我ながらがっかりだ。
私の心を読んだらしいニッキーがおかしそうにクスクス笑った。
「リラックスした姿の君ははじめてだ」
そう言うと、後ろからぎゅっと私を抱きしめる。剥き出しの腕が絡み、彼の体温が私を包み込んで、その瞬間また時間が止まったような気がした。私の心臓がドキドキと弾む音だけが、やたら大きく頭の中で響く。
ニッキーが私を抱きしめたまま、まるで船に乗っているかのようにゆっくりと左右に揺れながら聞いた。
「そろそろ出来上がるころ?」
「うん、オーブンのほうは後15分もかからないと思う。サラダが終ってないから、ニッキーはあっちで待っていてもらっていい?」
そうだ、サラダのほうも、アボカドを切ったり、トッピングのクルミを割ったりとかやることがあった。
「わかった」
ニッキーはそう答えて、一度ぎゅっと私を抱きしめてからリビングのほうへ行った。
はぁー、とため息をつく。
ニッキーがキッチンい居たら、料理に集中なんて絶対出来ない。
ドキドキするし、視線が気になって絶対になにかありえない失敗をしてしまうだろう。
深呼吸をして、私は最後の仕上げに集中した。

おばぁちゃんのおかげと言うべきだが、ランチは満足のいくものだった。
ニッキーもきっと、私の料理の腕なんて半信半疑だっただろうと思うけど、とても喜んでくれて、全部食べてくれた。おしゃべりも弾んで、ダイニングであれこれ話して、こんなに楽しいんだったら、アパートに招くのを悩むこともなかったなと思った。
お腹もいっぱいになり、食後にコーヒーと小さなティラミスアイスを食べた頃には、もう4時近くになっていた。私が席を立つと、ニッキーも立ち上がってテーブルを片付けようとしたので、あわてて止めた。
「ニッキーは座ってて!お客様なんだから!」
「そう?」
少し考えるような様子を見せたけれど、ニッキーはちょっと笑って頷き、手に取りかけていた皿を離した。
キッチンで片付けをすませて、ミントティのポットとグラスを持ってリビングに行くと、ソファーでニッキーがひっくり返っていた。
あまりのくつろぎぶりにちょっと笑ってしまったが、よく見たら眠っているように見える。
近づいてみると、規則正しい呼吸音がかすかに聞こえて、本当に眠っているようだった。
疲れているのかな……
でも、こうやってニッキーがソファーでうたた寝しているなんて、なんだかとてもくすぐったい気持ちだ。
自分の好きな人が、いつもは自分がくつろぐ場所でリラックスしているなんて、とても幸せな気持ちになる。

そっとコーヒーテーブルにお茶のポットとグラスを置き、私はちょうどニッキーの足下の側に座ってラップトップを開き、横に置いてあったパスポートを手に取った。
昨晩、おばぁちゃんと電話した時に聞いたのだが、1ヶ月後くらいの7月半ばに、バンクーバーに住む従兄弟のフーゴがヨーロッパに遊びに来ることになった。まずオランダのおばぁちゃん宅で私とフーゴが合流し、それから二人でベルリンへ戻るという感じでスケジュールを組みたいらしい。フーゴは、アムステルダムからベルリンまでを空路で行くつもりらしく、私の分のフライトも一緒に予約するので、パスポート番号をメールで送ってくれとのことだった。
おばぁちゃんは、孫が二人同時に来ることになってかなり喜んでいる。日本の美妃も、仕事の休みが取れたら同時期にこちらへ来たいと言っているので、もしそれが実現すればさらに楽しい再会になりそうだ。
私は静かな空間の中で、フーゴや美妃にメールを書く。
それから、昨日届いたカードを開いてみた。
日本の両親から送られて来たバースデーカードだ。
私の誕生日はもう来週。カードの到着が遅れないように、気を利かせて早めに送ってくれたようだが、まだ5日先のことだ。
もうすぐ、28歳になるんだ……
昨年オランダに行った時は、27歳になってまもない頃だったな、とこの一年を振り返ってみる。
なんだか、いろんなことがたくさんあった。
しばらく思い巡らした後、ラップトップを閉じてそっと後ろを振り返ると、ニッキーと目が合いものすごく驚いた。
「起きてたの?!いつから?」
ぼーっとラップトップの画面を見ていた自分を見られたのかと思い、恥ずかしくなる。
「さっきから」
「えー、だったら声かけてくれてもいいのに!ミントティ、あるよ。まだ温かいと思うけど、飲む?」
照れを隠すべく話題を変え、ポットに手を伸ばしてグラスにお茶を注いだ。保温が聞くポットなので、まだ熱そうな湯気が舞い上がる。この間マーケットで買ったクリーム色の蜂蜜をスプーン一杯分入れてからニッキーに差し出すと、彼はゆっくりと身を起こした。
それから自分のミントティに蜂蜜を入れていると、ニッキーが無言で私の腕をとってゆっくりとソファのほうへ引いた。
ちょっとドキドキしながら彼の隣に腰掛けた。
二人でソファに並んで座る。ただそれだけの事なのに、やたら緊張している自分がいて、自然な会話さえ不可能な気がしてしまう。
もうすぐ28歳になる、大人の女性なのに!
一体私はどうしちゃったんだろう?!
そう思いながら、いまだにニッキーの年齢を知らないことを思い出した。
あまり個人的な質問するとからかわれることが多かったので、聞きそびれていたのだが、時間が経つに連れて今更聞くのも逆に不自然な気がして今に至る。まさかとは思うけど、年下、とか?いや、でも、20代前半でこれほど仕事が忙しいことはないはず。もしかすると、同じくらいか、2、3歳上くらいじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、ニッキーが空になったグラスをコーヒーテーブルに置いた。
「あ、おかわりする?」
そう聞くと、ニッキーは黙ったまま、まだミントティが半分くらい残っている私のグラスを取るとテーブルに置いた。
その瞬間、キーンと音が聞こえそうなくらいの緊張が走り、私は微動だに出来ず、右腕を掴んだニッキーの手を見下ろした。
こんな時に、あの聡君の余計な一言が頭に蘇る。
デザートは、ア、タ、シ……?
いや、まさか、この流れで?!?
ど……どうしよう?!
ドキン、ドキンと自分の心臓の音が頭に響き始めて、緊張のあまりにもうすぐ体が震えだすんじゃないかと思った時、ニッキーがクスッと笑った。
「少しは君もリラックスしたらどうだ?ずっと何かしてる」
「え、あ、そ、そうかな」
気が抜けたような、ほっとしたような気持ちで、思わずつられて笑った。
あぁ、びっくりした。
ほんとに、心臓が飛び出るかと思うくらい緊張したっ!!!
急に落ち着きを取り戻し、私の肩を抱き寄せるニッキーに身を任せた。お団子にまとめていた私の髪を彼の指がそっと振りほどいて、いつものように、私の背中を抱きしめる。彼の胸の中は温かくてとても居心地がいい。こんな幸せに満たされている時、時折、これまで何人の女性が彼の胸に抱かれたのだろうと思い、醜い嫉妬で胸が苦しくなることがある。そして、あと何回、こうやって抱きしめてもらえるのだろうと考えて、悲しくてたまらなくなる。幸せなのに、悲しい。真逆の二つの想いが複雑に絡み合い、説明のしようのない切なさが、まるで岸壁に叩き付ける大波の如く、私の胸に何度も何度も繰り返し押し寄せて来る。
その残酷な嵐のような大波に、今のこの瞬間を邪魔されないよう、私は必死で意識を集中する。いつまでも鮮明に思い出せるように、今のこの瞬間を永遠の記憶にしたい。
ゆっくりと背中を撫でるように髪を梳いていたニッキーの手がふと止まって、テーブルの上にあったカードを取った。
「あ、それは」
慌ててカードを取り返そうとしたがすでに彼はそれを開いていた。
カードの中には、私の誕生日の日付と"Happy 28th Birthday"の文字、そして日本語のメッセージが書いてある。
……バレた。
いや、別に隠していたわけじゃないけど、なんだか気まずくなり、沈黙した。
ニッキーはじっとカードを見つめていたが、やがて私の顔を見た。
「誕生日、来週の金曜日?」
「……うん」
頷くと、ニッキーがしばらく何か考え込むように私の顔を見つめていた。
誕生日のプレゼントとか欲しいものとか聞かれちゃうのかもしれない。こんなことで逆に気を使わせてしまうようなことになったら嫌だ。
「あのね、本当に気にしないで。そのうち、ケーキを焼いてみるから、一緒に食べてくれる?」
思いつきで言ったものの、我ながら結構いい提案だと思った。
ニッキーはにっこりと優しく微笑み、私の頬を右手でそっと撫でて頷く。
「もちろんだ」
それから、私のラップトップに目を向けて聞いた。
「少し使わせて」
「ん?ネット?」
私はラップトップを手前に引き寄せて、彼の方へ向けた。
すっかり冷めてしまったポットとグラスを片付けにキッチンへ戻り、時計を見上げるともうすぐ5時半。
ニッキーはまだ、時間は大丈夫なのだろうか。丸一日時間があると言っても、夕刻から出張先へ向かうということもよくあって、特に日曜日の夜はその確率が高い。
そう思って、キッチンから彼に声をかけた。
「ニッキー、時間大丈夫?また出張だったりする?」
少し間が開いてから、彼がキッチンのほうへやって来て、壁の時計を見上げた。
「残念ながら、そろそろタイムアップだ」
やっぱりそうなんだなーと思ってがっかりした時、私の携帯のメール着信音がした。キッチンの窓辺に置いていたので、携帯を手に取ってみると、それはニッキーからのメールだった。
「あれ?」
当の本人が目の前にいるので、変だなと思ってニッキーを見上げると、なんだか楽しそうな顔で私の様子を見つめている。
なんだろう……?
不思議に思いながら受信箱を開いてみると、件名が「Your E-Ticket sent by SkyDreams」と旅行会社からのメッセージ。
えっ……
E-Ticket? オンライン搭乗券?!?
驚いてメールを開くと、来週の金曜日の、ベルリン・テーゲル空港ーヴェネツィア・テッセラ空港間のフライトの搭乗券だった。
ヴェネツィア!?
「俺は今晩から1週間ヴェネツィアの予定だ。金曜日に、空港に迎えにいくから」
「え……」
あまりのことに言葉を失い、じっとニッキーを見上げた。
彼は両手で私を引き寄せるとじっと私の顔を覗き込んだ。こんなに激しい光を放つ眼は見たことがない。彼の眼が、燃えるように強く輝いて私の心を魅了し、私はその眼に釘付けになる。ニッキーは右手で私の顎を掴み、そしてそっと指で私の唇に触れた。ゆっくりと何かを確かめるように、その指が私の唇の上を滑る。私は身動きも出来ず、そして彼の眼から自分の眼を逸らすことも出来ない。触れられた唇は火が点いたようにどんどん熱を帯びていく。少しずつ距離が縮まって、彼の顔が私の視界を埋め尽くし、鼻と鼻がくっつくほど接近した。もう、彼の美しい瞳が眼の前にある。まっすぐに私の心を射抜くその眼が、完全に私の意識を支配していた。
彼の息づかいが聞こえ、彼の唇の温度さえ空気を介して感じる。そこにはもう、紙一枚ほどの隙間しかなかった。
「帰りは、日曜日の午後……俺も同じ便だ」
ニッキーはかすれるような声でそう呟くと、ぎゅうっと力強く私を抱きしめた。
耳元で聞こえた、その日最後の言葉。
「ヴェネツィアで待っている」
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