23 / 24
23 もう一度一緒に
しおりを挟む
水曜日のピアノの帰り道。
電子ピアノは美園先生に返した。
空良が弾いてくれないのに、持ってる意味がない。
練習は辛うじてこなした。
美園先生は電子ピアノを返した理由を聞きたいだろうに、私の気持ちを察してか何も聞いてこなかった。
やっぱり、美園先生は大人の素敵な女性だ。
その優しい気づかいに甘えて、私は黙って美園先生の教室を出た。
あらゆる感情が、消えてしまったように、虚ろだった。
世界は、こんなに静かだったのだろうか。
何も感じない。
ただ、空良に会いたい。
心が死んでしまいそうだった。
いないとわかっていても、私はあそこに行くだろう。
ずっと、空良をあそこで待ち続ける。
それしかできないから。
待っていれば、いつか戻ってきてくれるという儚い望みにすがるしかないから。
「――」
神社へ曲がる道の前に、誰かが立っている。
背の高い、三十代ぐらいの男の人だ。
警察だろうか。
その人は、歩いてくる私に気づいてこちらを向いた。
不意に、私は気づいた。
空良に、少し似ている。
不思議だった。
空良のお父さんを見ても、そんな風に思わなかったのに。
「たかもり、かのん、さん、ですよね?」
その人は、私を呼んだ。
空良の叔父です。
そう言って、その人は名刺をくれた。
でも、天野ではなかった。
「あ、空良の母親の弟なんで。天野じゃないんだ」
私に会いに来たと言うことは、空良が話したのだろう。
お母さんのほうの弟なら、空良を守ってくれるはずだ。
「そ――天野くんは、どうしてますか?」
一番聞きたかったことを、私は聞いた。
「警察に保護された前日に、父親にひどい暴行を受けていて、肋にひびが入っていたんです。今は入院していますが、合間に事情聴取を受けたり、児童相談所の方が来たりとちょっと慌ただしいんです」
「入院してるんですね……よかった」
私はほっとした。
学校を休むくらいだ。
すごく我慢していたんだろう。
それに、保護と言った。
逮捕じゃない。
空良のことが新聞に載らないのは、お父さんの虐待のこともあるからだろう。
まだ未成年だから、きっと表沙汰にはならないのだ。
「救急車は空良が呼びました。自分のためじゃなく、父親のために。ちょうど担任が家庭訪問に来てて、天野さんが病院に搬送された後、付き添っていた空良も殴られた痕があったので診察を受けて、それで警察が来たんです。空良は自分が父親を殴ったとしか言わなかったけど、空良の体には日常的な虐待の証拠があったので、死んだ母方の家族の僕らに連絡が来て、急いで此処に来たんです」
そうか。
三日も休んだから、担任が様子を見に空良の家に行ったのだ。
戻った空良と父親に何があったのかは、一目でわかっただろう。
事情を知っているから、学校側は表立って騒がないのだ。
「退院したら、空良は僕が引き取ります」
どこか予想していた結末に、身体が震えた。
叔父さんはいい人そうだった。
話す口調も穏やかだし、何より、空良の家族だ。
この人に引き取られるなら、空良にとっては良いことなのだ。
もう、殴られる心配も、夜中に独りで家を出て行くこともない。
嫌な思い出を忘れて、この町から離れて、幸せになれる。
そしてそこに、私はいないのだ。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
「――病院に、行っちゃだめですか? 引き取るって、どこに、行かれるんですか? すごく、遠いんですか? もう、会っちゃ、だめなんですか……」
「落ち着いて、高森さん」
矢継ぎ早に問う私を、叔父さんは宥めるように片手をあげた。
「お見舞いは、今はダメです。警察の方や児童相談所の方以外にも学校の先生方もいらしてるから、あなたのことがバレると、空良も困った立場になる。せっかく、いじらしいぐらい必死で隠してるのに」
「私のこと、話してないんですか? じゃあ――」
どうして、この人は、私のことがわかったんだろう。
私の疑問を見透かしたように、叔父さんはスーツの胸ポケットから折りたたまれた紙を出した。
「走っていく空良と女生徒を見たという近所の人がいたので。それに、君の楽譜が、空良の部屋にあったからね。警察の方が気づく前に空良の着替えを取りに行った僕が隠しちゃったけど」
「――」
私が、空良にあげたものだ。
筆記体で書いた、私の名前が残っている楽譜。
「父親の方は酔いが覚めても自分に都合の悪いことは何も話しません。怪我の治療もありますが、重度のアルコール依存症のようですので、隣町の大学病院の方に移送されました。申し訳ないけど、虐待の証拠も多く出ているから、彼の親権は取り上げられるでしょう――血も繋がっていないし」
「え?」
「もともと、姉には婚約者がいたんです。結婚直前に、婚約者が事故で死んで、すでにその時、姉は妊娠していました。天野さんは、姉と婚約者の共通の友人だったんです。それを承知で結婚したんですが、やはり、空良が産まれてからはぎくしゃくしたみたいで姉からは相談を受けてました。その矢先に、姉も病気であっという間に亡くなって、葬儀が済んでから、天野さんは空良を連れて逃げるようにいなくなってしまって」
天野さんにしてみたら、空良への仕打ちは、結婚してもうち解け合えなかった姉への仕返しみたいなものだったんじゃないかな――独り言のように、叔父さんは締めくくった。
「そのこと、空良も……?」
「話しました。気が抜けたみたいに聞いてましたよ。血が繋がってなかったんなら、仕方ないって言ってました。そういう事でもないんですけどね。自分の子どもじゃないと愛せないなら、結婚するべきじゃなかった。姉が死んだ後、連れていくべきじゃなかった――僕はそう思います」
「――」
叔父さんの言葉には、怒りがにじんでいた。
空良への仕打ちが許せないんだろう。
でも、それは所詮私と同じで他人事なのだ。
お父さんと空良の中にあった思いは、彼らだけで、昇華しないといけないものだ。
暴力を震いながらも空良を手放せなかったお父さんの思いも。
暴力を震われながらも逃げられなかった空良の思いも。
そこに私達は入れない。
外から見ているものには関われない思いなのだ。
結局は、『仕方ない』――その一言でしか空良はお父さんを許せない。
空良を思って、私はまた泣いた。
空良、空良が、悪いんじゃなかったよ。
本当の、お父さんじゃなかったんだよ。
何かが、どこかでずれただけだった。
それは、誰が悪いとか何のせいだとかで判断できないものだから。
だからもう、答えの出ない問いを、解こうとしなくてもいいんだよ。
「参ったな、僕がいたいけな中学生を泣かせている悪者みたいだ」
「す、すみません」
「いいえ。これからももしかしたら甥っ子のことで君に相談することになるからよろしく」
「え?」
「空良が退院したら、引っ越します。といっても僕の仕事上駅に近いとこになるけど、学区は越えないから今までと変わらず、空良と仲良くして下さい」
「え?」
馬鹿みたいに、私は繰り返した。
てっきり、空良は転校してこの町を離れてしまうと思っていた私には、本当に驚きだった。
「空良も君のことは最後まで何も言いませんでした。ただ、ここに、この町に、いたいと」
「ここに――?」
「ええ。ここには、君がいるからでしょう――空良が、それだけを望んでいるので」
「いてくれるんですか?」
「ええ」
涙が、また零れた。
主よ、人の望みの喜びよ。
その時初めて、私は神様に心の全てで感謝した。
電子ピアノは美園先生に返した。
空良が弾いてくれないのに、持ってる意味がない。
練習は辛うじてこなした。
美園先生は電子ピアノを返した理由を聞きたいだろうに、私の気持ちを察してか何も聞いてこなかった。
やっぱり、美園先生は大人の素敵な女性だ。
その優しい気づかいに甘えて、私は黙って美園先生の教室を出た。
あらゆる感情が、消えてしまったように、虚ろだった。
世界は、こんなに静かだったのだろうか。
何も感じない。
ただ、空良に会いたい。
心が死んでしまいそうだった。
いないとわかっていても、私はあそこに行くだろう。
ずっと、空良をあそこで待ち続ける。
それしかできないから。
待っていれば、いつか戻ってきてくれるという儚い望みにすがるしかないから。
「――」
神社へ曲がる道の前に、誰かが立っている。
背の高い、三十代ぐらいの男の人だ。
警察だろうか。
その人は、歩いてくる私に気づいてこちらを向いた。
不意に、私は気づいた。
空良に、少し似ている。
不思議だった。
空良のお父さんを見ても、そんな風に思わなかったのに。
「たかもり、かのん、さん、ですよね?」
その人は、私を呼んだ。
空良の叔父です。
そう言って、その人は名刺をくれた。
でも、天野ではなかった。
「あ、空良の母親の弟なんで。天野じゃないんだ」
私に会いに来たと言うことは、空良が話したのだろう。
お母さんのほうの弟なら、空良を守ってくれるはずだ。
「そ――天野くんは、どうしてますか?」
一番聞きたかったことを、私は聞いた。
「警察に保護された前日に、父親にひどい暴行を受けていて、肋にひびが入っていたんです。今は入院していますが、合間に事情聴取を受けたり、児童相談所の方が来たりとちょっと慌ただしいんです」
「入院してるんですね……よかった」
私はほっとした。
学校を休むくらいだ。
すごく我慢していたんだろう。
それに、保護と言った。
逮捕じゃない。
空良のことが新聞に載らないのは、お父さんの虐待のこともあるからだろう。
まだ未成年だから、きっと表沙汰にはならないのだ。
「救急車は空良が呼びました。自分のためじゃなく、父親のために。ちょうど担任が家庭訪問に来てて、天野さんが病院に搬送された後、付き添っていた空良も殴られた痕があったので診察を受けて、それで警察が来たんです。空良は自分が父親を殴ったとしか言わなかったけど、空良の体には日常的な虐待の証拠があったので、死んだ母方の家族の僕らに連絡が来て、急いで此処に来たんです」
そうか。
三日も休んだから、担任が様子を見に空良の家に行ったのだ。
戻った空良と父親に何があったのかは、一目でわかっただろう。
事情を知っているから、学校側は表立って騒がないのだ。
「退院したら、空良は僕が引き取ります」
どこか予想していた結末に、身体が震えた。
叔父さんはいい人そうだった。
話す口調も穏やかだし、何より、空良の家族だ。
この人に引き取られるなら、空良にとっては良いことなのだ。
もう、殴られる心配も、夜中に独りで家を出て行くこともない。
嫌な思い出を忘れて、この町から離れて、幸せになれる。
そしてそこに、私はいないのだ。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
「――病院に、行っちゃだめですか? 引き取るって、どこに、行かれるんですか? すごく、遠いんですか? もう、会っちゃ、だめなんですか……」
「落ち着いて、高森さん」
矢継ぎ早に問う私を、叔父さんは宥めるように片手をあげた。
「お見舞いは、今はダメです。警察の方や児童相談所の方以外にも学校の先生方もいらしてるから、あなたのことがバレると、空良も困った立場になる。せっかく、いじらしいぐらい必死で隠してるのに」
「私のこと、話してないんですか? じゃあ――」
どうして、この人は、私のことがわかったんだろう。
私の疑問を見透かしたように、叔父さんはスーツの胸ポケットから折りたたまれた紙を出した。
「走っていく空良と女生徒を見たという近所の人がいたので。それに、君の楽譜が、空良の部屋にあったからね。警察の方が気づく前に空良の着替えを取りに行った僕が隠しちゃったけど」
「――」
私が、空良にあげたものだ。
筆記体で書いた、私の名前が残っている楽譜。
「父親の方は酔いが覚めても自分に都合の悪いことは何も話しません。怪我の治療もありますが、重度のアルコール依存症のようですので、隣町の大学病院の方に移送されました。申し訳ないけど、虐待の証拠も多く出ているから、彼の親権は取り上げられるでしょう――血も繋がっていないし」
「え?」
「もともと、姉には婚約者がいたんです。結婚直前に、婚約者が事故で死んで、すでにその時、姉は妊娠していました。天野さんは、姉と婚約者の共通の友人だったんです。それを承知で結婚したんですが、やはり、空良が産まれてからはぎくしゃくしたみたいで姉からは相談を受けてました。その矢先に、姉も病気であっという間に亡くなって、葬儀が済んでから、天野さんは空良を連れて逃げるようにいなくなってしまって」
天野さんにしてみたら、空良への仕打ちは、結婚してもうち解け合えなかった姉への仕返しみたいなものだったんじゃないかな――独り言のように、叔父さんは締めくくった。
「そのこと、空良も……?」
「話しました。気が抜けたみたいに聞いてましたよ。血が繋がってなかったんなら、仕方ないって言ってました。そういう事でもないんですけどね。自分の子どもじゃないと愛せないなら、結婚するべきじゃなかった。姉が死んだ後、連れていくべきじゃなかった――僕はそう思います」
「――」
叔父さんの言葉には、怒りがにじんでいた。
空良への仕打ちが許せないんだろう。
でも、それは所詮私と同じで他人事なのだ。
お父さんと空良の中にあった思いは、彼らだけで、昇華しないといけないものだ。
暴力を震いながらも空良を手放せなかったお父さんの思いも。
暴力を震われながらも逃げられなかった空良の思いも。
そこに私達は入れない。
外から見ているものには関われない思いなのだ。
結局は、『仕方ない』――その一言でしか空良はお父さんを許せない。
空良を思って、私はまた泣いた。
空良、空良が、悪いんじゃなかったよ。
本当の、お父さんじゃなかったんだよ。
何かが、どこかでずれただけだった。
それは、誰が悪いとか何のせいだとかで判断できないものだから。
だからもう、答えの出ない問いを、解こうとしなくてもいいんだよ。
「参ったな、僕がいたいけな中学生を泣かせている悪者みたいだ」
「す、すみません」
「いいえ。これからももしかしたら甥っ子のことで君に相談することになるからよろしく」
「え?」
「空良が退院したら、引っ越します。といっても僕の仕事上駅に近いとこになるけど、学区は越えないから今までと変わらず、空良と仲良くして下さい」
「え?」
馬鹿みたいに、私は繰り返した。
てっきり、空良は転校してこの町を離れてしまうと思っていた私には、本当に驚きだった。
「空良も君のことは最後まで何も言いませんでした。ただ、ここに、この町に、いたいと」
「ここに――?」
「ええ。ここには、君がいるからでしょう――空良が、それだけを望んでいるので」
「いてくれるんですか?」
「ええ」
涙が、また零れた。
主よ、人の望みの喜びよ。
その時初めて、私は神様に心の全てで感謝した。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
幼馴染と子作り温泉に間違えて行ったらそのままエッチしてしまった
紅
恋愛
大学で再会した幼馴染と昔行ったことがある故郷の温泉に二人で行った。
しかし、その温泉は子作りの温泉になっていた。温泉を躊躇した俺たちだったが身体が勝手に動いてしまい....
完結【R―18】様々な情事 短編集
秋刀魚妹子
恋愛
本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。
タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。
好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。
基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。
同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。
※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。
※ 更新は不定期です。
それでは、楽しんで頂けたら幸いです。
慰み者の姫は新皇帝に溺愛される
苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。
皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。
ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。
早速、二人の初夜が始まった。
【完結】Mにされた女はドS上司セックスに翻弄される
Lynx🐈⬛
恋愛
OLの小山内羽美は26歳の平凡な女だった。恋愛も多くはないが人並に経験を重ね、そろそろ落ち着きたいと思い始めた頃、支社から異動して来た森本律也と出会った。
律也は、支社での営業成績が良く、本社勤務に抜擢され係長として赴任して来た期待された逸材だった。そんな将来性のある律也を狙うOLは後を絶たない。羽美もその律也へ思いを寄せていたのだが………。
✱♡はHシーンです。
✱続編とは違いますが(主人公変わるので)、次回作にこの話のキャラ達を出す予定です。
✱これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。
幼馴染の婚約者ともう1人の幼馴染
仏白目
恋愛
3人の子供達がいた、男の子リアムと2人の女の子アメリアとミア 家も近く家格も同じいつも一緒に遊び、仲良しだった、リアムとアメリアの両親は仲の良い友達どうし、自分達の子供を結婚させたいね、と意気投合し赤ちゃんの時に婚約者になった、それを知ったミア
なんだかずるい!私だけ仲間外れだわと思っていた、私だって彼と婚約したかったと、親にごねてもそれは無理な話だよと言い聞かされた
それじゃあ、結婚するまでは、リアムはミアのものね?そう、勝手に思い込んだミアは段々アメリアを邪魔者扱いをするようになって・・・
*作者ご都合主義の世界観のフィクションです
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる