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2 マサト

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 マサトは、ベッドの上で本を読んでいた。
 ユカの姿をとらえると、本を閉じる。
 ユカは壁に備え付けられた監視カメラの映像を切って、音声のみにしてから近づいた。
「気分はどう?」
「いいよ」
「食事は?」
「まだだよ。ユカを待ってた」
 マサトの顔色を見て、ユカはもう一度微笑む。
 一日に一度、ユカは必ずマサトのところに行く。
 生まれた時から病弱なマサトは、いつも居住区の自分の部屋と研究区の医局を行き来していた。
 他人やクローンに触れられることをいやがるマサトのために、ユカはマサトにつき従い昼夜を問わず看病した。
 それは、義務ではなかった。
 息をするより当たり前のことだった。
 ユカが伴侶を迎えるまでは、それこそ、彼女の生活の全てはマサトのためにあったのだ。
「何を読んでいたの」
「神話を」
「神話?」
「そう。面白いよ。昔の人間達は。彼らは本当に、神の存在を信じていたんだろうか」
「神? そんな概念、もう何の意味もないわ」
「意味があるかどうかは、重要じゃないんだよ。遠い昔、まだ僕らの祖先が獣に近かった時代、彼らは最も弱い種族だった。宗教は人間のために創られた大いなる物語だからね。いわば人間の一番純粋な欲望が反映されている」
「純粋な欲望――なら、なぜ、神は意味をなくしたの? 欲望を切り放すことなんてできないのに」
 自分達は、もう神に祈らない。
 必要とさえしない。
「簡単なことだよ、ユカ。自分の身勝手な欲望を正当化する手段としての神しか、必要じゃなくなったからさ」
「そしてもう、欲望を取り繕う必要さえなくなったというのね」
「そう。神は死んだ。僕らが、必要としなくなったから」
 ユカ達の中に、すでに神という概念は存在していなかった。
 行き着いてしまった科学力は、実証のない抽象を永遠に排除したのだ。
「信じられるかい、ユカ? その昔、この大地には人間がひしめき合っていたんだよ。至る所に存在し、夜通し食べたり飲んだりで眠らなかったそうだよ」
 ユカはマサトの言葉に肩を竦める。
「無意味だわ」
「なぜ?」
「だって、そうでしょう? そうして行き着いた先が、こんな未来だってことよ。無駄に遊び惚けている暇があったら、子作りにでも励めばよかったのよ」
 あからさまなユカの言葉に、マサトは苦笑した。
 マサトが夢見るように語ることを、ユカは現実的に否定する。
 それは、はたから見たら冷たいようでいて、けれども彼らはそんな議論を楽しんでいた。
「どうして、こんな未来になってしまったのかしら」
「それを決めたのは、僕等じゃないことは確かさ」
「考えなかったのかしら。過去の人間は。愚かさのつけを払うのが、私達未来の人間だと」
「さあ。考えなかったのか、考えても無駄だと思っていたのか」
 マサトは不意に、遠くに目を向ける。
「でも、そんな世界だったら、僕らは何をしていたのか興味があるな」
「義務も、使命も必要のない世界で?」
「そう」
「決まってるわ。別の義務や使命を背負って生きていくのよ。どの時代に生まれようと、それからは逃れられずに。人間とは、そういう生き物だから」
「別の義務、別の使命か――そうかもしれないな。人間なら」
 そうだ。
 社会を構成していくなら、大なり小なり義務や使命が存在する。
 自分達のように追いつめられた者、逃げ場のない者には、重責過ぎるだけだ。
「そして、これはあなたの義務よ」
 手に持ったいつもの薬を振ってみせる。
 途端、マサトは渋面をつくる。
「それ、重要なの?」
「ええ、最優先でね」
 苦いから嫌だなと、むくれてみせるマサトに微笑んで、ユカはベッドサイドの水差しの横に置いた。
 そして、届けられていた二人分の食事の用意をした。




 マサトは美しい所作で、ゆっくりと食事を口に運ぶ。
 それを傍らで見つめているのが好きだった。
「ユカ、手が止まってるよ」
「あら」
 慌てて自分もご飯を口に運ぶ。
 おかずを口に運ぶ間にも、視線はマサトへ戻る。
 目が合えば、自然とマサトは少し困ったように笑みを返す。
 自分を見つめる無言の笑みに、ユカはまた箸を動かす。
 そして、また見つめては動きを止め、微笑まれては続きを促される。

 穏やかな時間が流れていく。

 目の前で食事をするマサトを見て、正直美しいと思う。
 箸を持つ指も。
 伏し目がちに汁物を啜るのも。
 咀嚼する頬の動きでさえ。
 もう何度も見ているのに、見飽きることがないのはなぜなのだろうとユカはいつも自問する。
 それでも、答えなど出ない。
 ただ、見つめていたいだけだ。
 心ゆくまで。
 それが、ユカにとってはかけがえのない時間なのだ。
「ごちそうさま」
 ユカが食事を終えても、マサトの食事は残っていた。
 これもいつものことだ。
「もうだめ?」
「もう十分だよ。これ以上入れたら吐く。無駄に体力を消耗したくない」
 食べないことより、吐くことのほうがマサトの体力を奪うことはわかっていたから、ユカはそれ以上は進めなかった。
 どうせ点滴で必要最低限の栄養はまかなえる。
 それが、マサトのいつもの科白だ。
 薬包を破いてマサトに渡す。
 それから、水差しからグラスに移した水を渡す。
 薬包を傾け、口に入れる。
 それから、少しずつ、水を飲む。
「味が違う。今回は少しましかな」
 でも、薬を飲む時の顔は、いつもどおり。
 眉根が寄せられて、端正な顔が少し歪む。
 そんな表情も、ユカは好きだった。
 グラスをトレイに置くと、ユカはそれを片づける。
 ドアの外のワゴンにトレイを置くとマサトのそばに戻る。
 マサトはリクライニングしたベッドに背中を預け、目を閉じていた。
「マサト、寝たの?」
「寝てないよ。ユカ、続きを読んで」
 目を閉じたまま、マサトはベッドの脇に置いた本を指先で叩く。
 ユカは本を手に取ると、ベッドの脇に座り、斜めに起き上がった部分に背中の半分を預ける。
「駄目だよ、もっと近くに来てくれないと聞こえない」
「はいはい」
 ベッドに手をついて、もう一度深く腰掛ける。
 マサトの肩と、自分の腕が触れる。
 マサトが首を傾けると、ユカの肩にほんのりと体温が感じられる。
「聞こえる?」
「うん」
 ユカは本を開いた。
 しおりを抜いて読み始める。
 それ以上マサトは動かなかった。
 ユカは本を読みながら、ずっとマサトを盗み見ていた。
 同じ血が流れる、唯一の存在。
 クローンではない、血の絆。

 自分の家族。

 そんな当たり前のことさえ、失われてしまったこの世界で、唯一の、血を繋ぐ二人だ。
 ヒロセは、自分達を似ていないという。
 だが、ユカにはそうは思えなかった。
 自分達は、同じ魂を分け合ったのだ。
 だからなのだろうか。
 こんなにも離れがたく、惹きつけられるのは。
 触れると、互いの気持ちが読めるのは。

――ユカが生まれた時、僕にはわかったんだ。
  僕は、お前と一緒に生きていくために生まれたのだと。

 マサトはまるで夢を見ているように美しい言葉を紡ぐ。
 そして心の中でだけ語られる言葉は穏やかな波となって、触れているユカに偽りなく伝わる。
 その伝わる想いをユカは愛した。
 ユカは、マサトを愛していた。
 この世の誰よりも。
 その存在を、目がとらえることも、気配を感じるだけでさえ、幸せだった。
 それ以上は、全て瑣末なことだ。
 義務も、使命も。
 そんなものは一つも重要ではない。
「マサト」
 名前を呼ぶことさえも心地よかった。
「マサト、寝たの?」
「寝てないよ。続きを読んで」

――ユカの声を聞いてるんだ。やめないで。

 声のない言葉が、触れた部分から伝わる。
 見下ろせば、目を閉じた顔が斜めに見える。

 青白い肌。
 細い腕。
 削げた頬。

 生まれたときから、死ぬことが当然のように決められた身体。
 死ぬ日を数えるためだけの生。
 それでも、マサトは生きなければならない。

 死を許されるその日まで。

 ユカは静かに読み続けた。
 本が読み終わっても最初に戻って読む振りをし続けた。

 そこは、誰にも邪魔されない二人だけの世界だった。





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