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18 新たな欲望
しおりを挟む苦しくて、苦しくて、胸が痛かった。
朦朧とする意識の中でも、苦しみだけは鮮明だった。
苦しみ以外の感情を思い出せないほど、打ちのめされた心。
シイナは心底疲れていた。
この感情から逃れたい。
こんな苦しみをずっと抱えていくなら、いっそ死んでしまいたい。
そう思った。
不意に、そんな感情を遮る優しい声がする。
愛してる。
何度も繰り返される言葉。
そう言いながら背中を撫でてくれる。
その手の温もりが嬉しかった。
苦しみしかなかった心に、徐々に流れ込んでくる別の感情がある。
シイナは無意識に手を伸ばす。
それに縋り付いた。
温かな温もりに包まれ、シイナは朧気にフジオミが抱きしめてくれたのだと悟った。
温かな身体に抱きしめられて、大きな手に背中を撫でられて、安堵する。
意識は混濁したり覚醒したりを繰り返していた。
そんな曖昧な微睡みの中、不意に意識が戻っても、優しい言葉と温もりは消えない。
先程までの苦しさが嘘のようだった。
これは夢――?
夢なら、どうか覚めないで。
この温もりを、奪わないで。
ずっとこうしていたい。
だから、シイナは目を開けなかった。
目を開けたら、この温もりは消えてしまう。
そんな風に思えた。
この胸に抱かれて、この手に抱きしめられたままでいられたら、もう、きっと怖いことも苦しいことも哀しいことも起こらない。
死んでしまいたいなんて、そんなことも思わない。
覚醒しきらない意識は、唯一の温もりにしがみつく。
だから、目を開けてはいけない。
このまま、夢を見ていたいから。
苦しいことは何も考えたくないから。
目を閉じて、苦しいだけの現実に戻らないように。
朧気な意識で、それだけは確信した。
次に意識が戻った時は、身体が眠っているのに意識だけがぼんやりとある半覚醒のような不思議な感覚だった。
時折、額や頬、唇や首筋に降りてくる熱が、心地よかった。
眠っている自分に、フジオミがくちづけている。
夢現だからか、恐怖や嫌悪は微塵も感じなかった。
もっと触れて欲しい。
そんなことさえ思う。
だが、熱は、もどかしいような疼きを残して、終わってしまう。
口移しで水を飲ませてくれた時のように、舌を絡めたい。
感触を思い出し、なぜか下腹が疼いた。
背中を撫でる手の感触が、疼きに拍車をかける。
指先が肩胛骨の辺りに触れると、下腹の疼きはもっと強くなる。
初めての感覚にシイナは戸惑ったが、気持ちとは裏腹に、身体は身動ぎ一つしない。
背中を撫でる手の動きに、高まっていく疼き。
疼きが最高潮に達した時、きゅっと下腹の襞が痙攣した。
じんわりと広がる不思議な解放感。
小刻みな痙攣が、下腹だけで何度か繰り返される。
背中を撫でる手の動きは変わりない。
そして、呟かれる言葉も。
自分も愛していると、嘘でも言いたかった。
そう言えたら、フジオミが喜んでくれる気がした。
だが、自分には言えない。
現実にそう言っても、フジオミは嘘だと気づく。
だが、今感じているこの感情は、愛に似ているような気がした。
これも、自分の勘違いなのだろうか。
愛するとは、どういう感覚なのだろう。
今のこのわき上がる感情は、何なのだろう。
不思議な余韻に浸りながら、シイナの意識はまた途切れた。
奇妙な違和感で、シイナは目を覚ました。
ぼんやりとした明かりに、自分の寝室の壁。
ベッドに横たわっている自分。
「……」
鈍い頭痛と、口内には、アルコールの苦さと辛さが僅かに残る。
そうだ、シロウの話を聞いて、部屋へ逃げ戻ったのだ。
思い出して、ゆっくりと身動ぎし、壁に掛かっているデジタル時計の表示を見る。
まだ一日も経っていない。
夜になっただけだ。
だが、アルコールと睡眠薬のせいでひどく長い間眠っていたような気がしていた。
サイドテーブルには、睡眠薬の包み紙と洋酒の瓶とグラスが置いたまま。
何も変わっていない。
自分が戻った時のままだ。
「フジオミ……?」
返事はない。
違和感の正体はこれだ。
フジオミが、いない。
「フジオミ」
今度は、強く呼んでみた。
だが、やはり返ってくるはずの声はない。
まだ、第二ドームから戻ってきていないのか。
あれは、夢だったのか。
「――」
ぞくりとした。
そんなはずはない。
あれが夢だったなんて。
抱きしめてくれたあの温もりも、背中を撫でる優しい感触も、みんな夢だなんて。
シイナはすぐにベッドを出た。
だが、立ち上がった途端、足がよろけて床に倒れ込む。
膝と肘を打ったが、立ち上がり、寝室を出る。
だが、やはり薄暗い部屋に人の気配はない。
「フジオミ、いないの?」
洗面所にも、バスルームにも、トイレにも、どこにもフジオミの姿はない。
シイナは一人だった。
シロウの言葉のように。
――愛されながらも愛し返さない傲慢なあなたは、全てを失い、何も残さず、僕らのように死ぬだろう。それが運命だ。
「……」
孤独感と恐怖感が押し寄せてくる。
身体が震え、呼吸がうまく出来ない。
「……嘘よ……」
フジオミは、傍にいてくれる。
ずっと傍にいると、約束してくれた。
あれは夢なんかじゃない。
必死でそう言い訳をしても、現実に、彼女は一人だった。
自分の中で言い訳をすればするほど、静まりかえった空間が全てを否定する。
ここにフジオミはいないと。
全てが夢だったのか。
身体に残る温もりの名残も、全て。
苦しむ自分をフジオミが救ってくれるという、都合のいい夢を見ただけか。
「違う……」
シイナは、一人きりの空間にいることが耐えられなくなり、追い立てられるように部屋を出た。
そのまま、フジオミの部屋へ走る。
誰もいない廊下さえ、恐ろしかった。
まるで、世界でたった一人、取り残されたように。
部屋に入って、バスルームから漏れる明かりと人の気配を感じた時は、泣き叫びたいほどだった。
「フジオミっ!!」
「――うわっ!!」
ドアを開けた瞬間、シャワールームから出ようとしたフジオミを見、シイナはぶつかるようにしがみついた。
勢いで壁にぶつかったフジオミの手がパネルに当たり、二人の上に適度な温水が降り注ぐ。
「どうしたんだ、シイナ!?」
しがみつくシイナに驚いて、フジオミが問う。
「あなたこそ、どうしていないの!!」
「――え? ああ――急いで戻って、真っ直ぐ君の部屋に行ったら、君は死んだようにベッドに倒れ込んでいるし、何だかバタバタしていたから、身支度を調える暇がなくて」
「シャワーなら、私の部屋を使えばいいじゃない」
「着替えがなかっただろう? それに、君はよく眠っていたから、すぐ戻るつもりだったよ」
フジオミの話はもっともだ。
慌てて戻ってきてくれたのに、戻るなり、今度は自分の面倒をみさせたのだ。
着替える暇などなかっただろう。
それでも、シイナは納得できなかった。
一人にされた恐怖で、おかしくなりそうだったのだ。
「離れないって、言ったじゃない……」
「――シ、シイナ、とにかく、放してくれないか? 君までずぶぬれだ」
シイナは首を振り、ますますフジオミに縋りつく。
頬に触れたフジオミの肌が、暖かい鼓動を伝える。
意識した途端に、熱いものが、胸の内にわきあがる。
同時に、下腹の疼きも。
「――」
シイナは素直に認めた。
自分は、彼を欲している。
彼に触れられたい――抱かれたいと思っている。
でも、どうすればいいのかわからない。
自分から求めたことは一度もない。
いつもは彼が求め、自分は嫌々従ってきたからだ。
彼はいつも、こんな苦しみを抱えていたのだろうか。
苦しくて苦しくて、どうにもならない感情を、常に内包していたのだろうか。
「とにかく出よう。僕はもともと濡れていたから構わないけど、君は服のままだ。気持ち悪いだろう?」
それでも、首を振ってシイナは拒絶の意を示した。
「シイナ? どうしたんだい? 何だか子どもみたいだよ。僕としては嬉しいかぎりなんだが、こんな状況にいては君にとってよくない事態になりかねない」
その言葉の意図することを汲み取り、シイナは顔を上げた。
フジオミの頬を両手で捕らえ、引き寄せる。
そのまま、唇を重ねた。
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