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12 冷たいくちづけ
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シイナはベッドから起き上がった途端、激しい目眩に襲われた。
「――」
床に倒れる音が、やけに大きく聞こえた。
起き上がろうとしても、視界が廻り、吐き気がする。
「シイナっ!?」
倒れた音に駆けつけたフジオミが、驚いて近づいてくる。
両手で口元を押さえているシイナに、察したように抱き上げ、バスルームに向かうと、手前の洗面所に下ろす。
シンクに寄りかかるように嘔吐するシイナ。
昨日の夜口に入れたものは全て吐き出された。
それでも、吐き気が止まらず、何度も嘔吐いた。
吐くものが何もなくなり、ようやく口を濯いだが、目眩で己の身体を支えることさえできずに、床に崩れ落ちた。
フジオミが、もう一度彼女を抱き上げ、寝室に連れていくのが、目を閉じていても回る視界の中、感じられた。
昼を過ぎる頃には、熱さえ上がった。
今度は微熱ではなかった。
目眩に加えて、高熱にシイナの意識は朦朧としていた。
だが、それも内心ありがたかった。
身体は苦しかったが、心は楽だった。
これは罰なのだ。
罰を受けている。
熱に浮かされながら、そんなことを思った。
フジオミは、恐ろしかった。
四十度を超える高熱で荒い呼吸を繰り返すシイナが、このまま死んでしまうような気がしていた。
自分の手に負えないと判断したフジオミは、医局のクローンを一人だけ呼び寄せてシイナを診させた。
だが、いくら解熱剤をうっても熱が一向に下がる気配はなかった。
クローンの診断では、この高熱も、目眩も、嘔吐も、全て精神的なものだろうと言うことだった。
きっと、おぞましい事実を知ったせいだ。
過去の傷が、再びシイナを傷つけていた。
昔を思い出して、苦しみを追体験している。
「――」
今更ながらに、フジオミは悔やんだ。
あの日、シイナに義務を強いたことを。
苦痛を与えずに、優しく抱くこともできたはずだった。
抱かないという選択肢もあった。
真実を告げて、シイナに警戒するよう忠告するだけでも良かったのだ。
だが、自分はそうしなかった。
自分の欲望を優先したのだ。
脅えて泣き叫ぶシイナに、愉悦さえ覚えた。
彼女に思い知らせたかった。
こんな風に他の男達に奪われることがあってはならないのだと。
彼女は、自分のものなのだからと。
そんなエゴが、こんなにも彼女を傷つけていたのに、ずっと気づかないふりをし続けてきた。
全て割り切って、愛して欲しいだなんて、彼女にとってはさらなる苦痛でしかないのではないか。
それでも。
シイナが愛しかった。
すでに、手放すことなどできない。
こんな不安定な状態なら尚更だ。
苦しみを与えたのが自分なら、それを取り去るのも自分でありたい。
「……」
熱に浮かされて、苦しんでいるシイナに目を向ける。
薄く開いた唇からは、荒い息が漏れている。
その唇が、僅かに動いていた。
顔を近づけると、何かを話しているが、声になっていない。
水を欲しがっているのだ。
グラスを唇に当てるが、仰向けに寝ているせいで、上手く飲み干せない。
大半が頬を伝って、首筋に流れてしまう。
タオルで首筋を拭うと、こめかみを伝って流れる涙に気づいた。
苦しんでいるシイナに、胸が痛んだ。
「……許してくれ、シイナ……こんなになっても、手放せないんだ」
グラスの中の冷たい水を口に含むと、フジオミはシイナの唇を覆うように己の唇を押しつけた。
身体が、燃えるように熱かった。
自分の身体を包んでいるシーツをはねのけたかったが、腕さえ持ち上がらない。
喉が渇いていた。
水が欲しい。
口に出したが、言葉にならなかった。
喉の奥が乾いて、声が出せない。
それでも、必死で声を絞り出した。
水を。
唇に硬質な感触がした。
そこから流れ込んでくるのは待ちに待った水だった。
だが、横たわっているせいなのか、水は唇の横を滑り、大半が喉ではなく肌を伝って耳元に零れていった。
タオルの感触が、頬から首筋までを優しく拭ってくれたが、今してもらいたいのは、水を飲ませてくれることだ。
悔しくて、閉じた目から、涙がこめかみに伝った。
うっすらと目を開けると、涙でかすむ視界の中に、フジオミがグラスを持っているのが見えた。
表情までは見えず、虚ろな意識のまま、もう一度シイナは唇を動かした。
水を。
影が、自分の顔に降りてきた。
先程とは違う、柔らかな感触が、シイナの薄く開いた唇を覆った。
そして、待ちに待った冷たい水が口内に流れ込んできた。
シイナが嚥下すると、柔らかな感触が離れ、同時に影も離れる。
強く目を閉じて、もう一度開けると、朧気な視界がさっきよりははっきりした。
フジオミが、グラスを煽っているのが見えた。
そうして、再び顔が近づく。
そのまま唇が触れ合った。
口移しに、冷たい水が流れ込んでくる。
シイナは餌を求める雛のように、フジオミが与える水を飲む。
もっと。
離れていく唇に、そう告げた。
熱のこもった身体には、到底足りない。
ねだるシイナの願いに応えて、フジオミの唇が重なった時は、伸ばした舌が、触れ合った。
冷たい舌の感覚が気持ちよかった。
逃したくなくて、自分の舌を絡めて、吸った。
最初は逃れようとしていた舌が、抵抗をやめて絡みついてくる。
シイナは夢中で、その感覚を味わった。
こんな感覚は、初めてだった。
否――似たような感覚は、前にもあった。
フジオミが、髪を洗ってくれた時だ。
だが、今はその感覚は強く、鮮明だった。
気持ちいい。
あの時は朧気だった感覚が、今は明確にシイナに感じられる。
それを、逃したくなかった。
もっと。
声にならない呟きは、届いたようだ。
唇が重ねられ、冷たい水が流れ込んでくる。
飲み干すと、また、舌を絡める。
シイナが満足するまで、それは続いた。
熱に浮かされたまま、シイナは意識が途切れるまでその心地よさを求めた。
高熱で意識が朦朧とする状態が続いた。
目を開けると横になっていても視界が回り、吐き気が込み上げてくるので、ずっと目を閉じていなければならなかった。
だから、今自分が起きているのか眠っているのかもわからなかった。
様々な感情が浮かび上がっては消え、夢なのか、実際に感じているのかさえわからない状況だ。
時折、額に当てられているタオルが取り替えられる。
冷たいタオルの感触が嬉しかった。
汗でべとついた身体を何とかしたい。
そんなことを朧気に考えていたら、首筋にこもる熱が別の冷たいタオルで拭われる。
上掛けの下で、今度は腕が拭われる。
胸元の汗が拭かれたときは、一時不快さが消えてくれた。
胸を優しく拭いてくれる感触は、すぐに終わった。
熱に浮かされながらも、残念に思う。
もっと触れて欲しい。
冷たいタオルはそのまま下に降りて、腹部が拭かれ、それから一度出て行く。
身体の向きが変えられ、俯せにされると、今度は、背中が優しく拭かれていく。
その時、初めて上掛けの下の身体は、下着以外何も身に付けていないことを悟った。
それでも、そんなことはどうでもよかった。
汗で不快だった感覚が消えていく。
こんなことは初めてだった。
身体に触れられて気持ちいいだなんて。
熱のせいで、自分はおかしくなっているに違いない。
そう思いながらまた意識が途切れた。
次に意識が戻った時、シイナはゆっくり目を開けてみた。
まだ視界が回るが、吐き気を催すほどでないことにほっとした。
腕に力を入れてみるが、まだ動かすのは億劫だった。
ようやく腕を上掛けから出した時、タオル地のバスローブの袖が見えた。
何も身に付けていないと思ったのは、錯覚か。
それとも、誰かが着せた?
フジオミが?
「シイナ? 目を覚ました?」
視線を向けると、開いた寝室のドアからフジオミが足早に近づいてくる。
「フジオミ……」
額に触れる手が、心地よかった。
「よかった、まだ微熱があるけど、もう熱が上がる様子はないね」
「私、どのくらい眠ってた?」
「一週間だよ。最初の三日は熱がひかずに、四日目からようやく熱がひいてきて、それでもまた夜にあがったりで。昨日の夜は微熱のままで、ようやく安心したよ」
「一週間……」
一週間も続いた高熱で、シイナの体力はあからさまに落ちていた。
「フジオミ、起こしてくれる? トイレに行きたいわ」
「ああ」
まず、フジオミが肩を抱いて起こしてくれた。
体勢が変わったことで、目眩がしたが何とか我慢できる。
だが、足を床に着ける前に、フジオミがシイナを抱き上げる。
「運んだ方が早いね」
そうしてそのまま洗面所横のトイレに運んでくれた。
「ありがとう」
「終わったら呼んで。僕はバスルームの方にいるよ。お湯をはってある。いつでも入れるから」
「ええ」
ドアが閉まると同時に、シイナはゆっくり歩いた。
ふらつきながらも用を済ませるが、下着を持ち上げるのでさえ億劫だった。
何とか歩いて外へ出ると、開けっ放しのバスルームからは白い湯気が出ていた。
「フジオミ?」
声をかけると、フジオミがバスルームから出てくる。
「湯船に入る? それともシャワーだけにする?」
「シャワーでいいわ」
手すりに掴まりながらバスルームに近づくと、壁に備え付けてある介護用の椅子が出ていた。
リクライニングでき、しかも脇に付けられたパイプからシャワーが出るようになっている。
「先に髪を洗うかい? もしよければ、前のように僕が洗うよ」
「……お願いしてもいい?」
「喜んで」
バスローブのまま、シイナは椅子に座った。
リクライニングが少し倒される。
以前と同じように、フジオミは優しい手つきで丁寧にシイナの髪を洗ってくれた。
指が髪を滑っていく感触が気持ちよかった。
だが、今回も物足りないような感覚を残してそれは終わった。
「新しいバスローブは外に出しておくよ。今のは濡らしても構わないから」
「ええ。ありがとう」
フジオミが出ていった後、一度シイナはリクライニングを起こした。
そうして、下着を脱いで、バスローブから腕を抜いた。
もう一度リクライニングを倒してからパネルを操作すると、横たわった素肌に、温かなシャワーが降り注ぐ。
「――」
我知らず息をつく。
身体が洗い流され、余計な物思いも洗い流されていくような気さえした。
この心地よさに身を任せたまま、眠ってしまいたかった。
目を閉じると、夢の中のあの感触が甦ってくる。
口移しで水を飲んだ時の心地よさ。
そして、身体を拭かれた時の心地よさが。
熱がひいてもこの感覚が消えないなんて、どうかしている。
だが、朦朧とした意識の中でも、あの二つは今も思い出せる。
本当に現実だったのか?
夢ではないのか?
熱のせいで、どこまでも記憶は曖昧だった。
強烈な感覚でさえ夢だとしたら、きっと自分はおかしくなりかけているのだ。
あんなに触れられるのが嫌で堪らなかった自分が、それを気持ちいいと感じるなど、有り得ない。
有り得ないはずなのに、現にフジオミに触れられて心地いいと感じている。
わからない。
自分に何が起こっているのか。
自分は一体どうなってしまったのか。
めまぐるしく変わる現実を受け入れられない。
心も、身体も。
怖い。
温かなシャワーを浴びているはずなのに、身震いした。
「――」
パネルに触れ、シャワーを止める。
リクライニングを起こす。
手すりに掴まりながらバスルームを出ると、フジオミの言葉通り新しいバスローブとタオルが置いてあった。
また座り込んで簡単に身体と髪を拭いて、バスローブを身につける。
壁に凭れながらバスルームを出ると、洗面台の鏡に、青ざめて痩せこけた自分の顔が見える。
この惨めな顔をした女は誰なのか。
これが自分の顔なのか。
「――」
ぞっとした。
振り切るように洗面所を出ると、フジオミが駆け寄ってくる。
「シイナ、呼んでくれれば良かったのに」
また抱き上げられて寝室へ運ばれる。
「何か食べる?」
「何も食べたくない。私が休んでいる間の仕事はどうなった?」
「僕が出来ることは済ませておいたよ。君でなければわからないものは端末にメールする様に言っておいた。そこに置いてある」
ベッドサイドにはシイナが使っている端末が確かに置いてあった。
「シイナ、髪を乾かさないと。ドライヤーをとってくるよ」
「ええ」
フジオミが出て行くと、シイナは端末を起動させる。
自分の受信フォルダを開くと、いくつかの報告とシロウからのメールも来ていた。
だが、開く気にはなれなかった。
シロウのメールなら、再クローニングの件に間違いないからだ。
今は何も考えたくない。
シイナは新しく替えられた上掛けを捲り、横になった。
そのまま目を閉じる。
「シイナ? 眠ったの?」
戻ってきたフジオミを無視できずに答える。
「いいえ、でも疲れたの」
「そのままでいいよ。熱かったら言って」
フジオミがドライヤーをつける。
温風と優しい指先が髪を払う。
それだけのことなのに、泣きたくなって、慌てて強く目を瞑った。
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