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6 不安と孤独
しおりを挟む目を覚ましたとき、一番初めに気づいたのは、心配そうなフジオミの眼差しだった。
「シイナ、気がついたのか」
「フジオミ、どうして……」
医局のベッドで寝ている自分に気づき、シイナは訝しげに周囲を見回す。
「資料倉庫の前で倒れたんだよ」
そう言われて、シイナの脳裏に倉庫での出来事が思い出される。
ぞくりとした。
のしかかる身体の重み。
這い回る手の感触。
それが意味するものは――
「――」
「一体どうしたんだ。突然あんなふうに倒れて、具合が悪いのならどうして休まなかったんだ」
フジオミの最後の言葉は、すでにシイナの耳に入っていなかった。
言えない。
誰かに襲われかけたなど。
クローンには性欲などないはずなのに。
だが、確かめたわけではない。
そう言われてきただけのことだ。
シロウが特別なクローンであるように、もしかしたら、普通の人間のように性欲を持つクローンがいてもおかしくない。
そうして、自分はここ最近、クローンに関わりすぎた。
仕事の効率を上げるために、クローンへの態度も変え、優しい振りまでした。
クローンに隙を見せたのは自分だ。
優しい振りをして勘違いさせたのなら、自分が悪い。
それを、フジオミには言いたくなかった。
フジオミ以外の誰かが、自分に触れるなど、今の彼は許さないだろう。
シロウのことを褒めただけで、嫉妬したくらいなのに。
「シイナ? 聞いてる?」
訝しげなフジオミの声音に、シイナは視線をフジオミに戻す。
その表情は、怒っているような、心配しているような、今まで見たことのない表情だった。
それともどちらでもあるのか――確かに、あんな風に倒れたことは一度もないのだから驚かれて当然だろう。
「何でもないの。本当に、疲れただけ」
「本当に?」
納得していないフジオミの視線に、安心させるように無理に笑ってみせる。
「ええ。ごめんなさい。迷惑をかけたわね」
「違う、シイナ」
「え?」
「迷惑をかけたんじゃない。心配を、かけたんだ」
それは、何がどう違うのだろう。
「――」
応えを探せないシイナに、フジオミは息をついて、その手を取った。
「君がこのまま目を覚まさないんじゃないかと思ったんだ」
「それは、大げさよ……」
「そうかもね。でも、心配だったんだ。本当に」
フジオミの手が、少し強くシイナの手を握った。
いつも温かい彼の手が、少し冷たかった。
だが、それは不快ではなかった。
「疲れているなら、明日は仕事を休んではどうだろう? 熱もあるようだし」
言われて、初めて自分の身体が熱を帯びていることに気づいた。
確かに、怠いし、鈍い頭痛もする。
フジオミの手が冷たいと感じたのもそのせいか。
「そうね、それがいいかもしれない。体調が悪いから部屋に戻るわ」
「――送らせてくれるかい? 君がちゃんと休んでくれるか気になってしまうから」
「ええ」
正直、一人になるのが怖かった。
自分を襲った者が誰なのかわからない今、フジオミだけが信じられる唯一の人間だった。
クローンでなければ、ここにいる人間――カタオカ達が?
それこそ考えにくかった。
彼らとの接点はほとんどなかったし、今更だ。
有り得ない考えを追い払い、フジオミの手を支えに、シイナはベッドから起き上がった。
熱のせいか目眩がしてよろける。
「シイナ!?」
咄嗟にフジオミが空いている手でシイナを抱くように支えた。
だが、反射的に距離を置こうと身体だけを放す。
「すまない。自分で立てるかい?」
「ええ。ちょっと目眩がしただけ。もう大丈夫」
以前のシイナの反応を考慮してのことだろう。
その気遣いが、シイナには何故か嬉しかった。
フジオミは、こんなにも優しく、他人を気遣える人間だったのだ。
そんな彼が、今更自分を襲おうとするはずがない。
腕にも、傷はない。
今ならフジオミに縋り付きたい気分だった。
「ありがとう、フジオミ」
それは心からの言葉だった。
部屋に戻って、すぐに寝間着に着替えて横になった。
明かりは消さずに目を閉じた。
普段から眠れなかったのに、体調が悪いせいか目を閉じたら程なく眠りについた。
だが、不思議な眠りだった。
浅い眠りと深い眠りをうつらうつらと繰り返し、気がつけば、眠っているのに半分覚醒しているといった奇妙な状態になった。
その証拠に、意識はあるが身体だけが動かない。
横たわる身体にのしかかる影。
肩から下が重苦しい。
押し退けようと思っても、腕を上げることさえできない。
甦る倉庫での出来事。
嫌だ。
気持ち悪い。
なぜ身体が動かないのか。
のしかかる影は、重く、冷たく、身体から体温を奪っていく。
寒い。
凍えそうなほど。
寒くて寒くて、たまらない――
「シイナ!!」
肩を揺さぶられているのに気づき、はっと目を開ける。
自分を覗き込んでいるのは、フジオミだ。
「うなされていた。大丈夫かい?」
「……」
脈打つ鼓動がやけに身体に響いて、シイナは咄嗟に答えられなかった。
ただ、重苦しさが肩までかかっている掛け布なのに気づいて、起き上がって押し退ける。
寝汗で、寝間着も寝具もべとべとだった。
気持ちが悪い。
何より、身体の震えが止まらない。
「シイナ?」
「寒いの……寒くて寒くて、堪らない……」
自分を抱きしめるように身を竦めているシイナを見て、
「なら、浴槽にお湯を入れてくる。身体を温めるには一番だ」
急いで寝室を出て行く。
だが、すぐにフジオミがバスタオルを持って戻ってくる。
「シイナ、これを」
大きなバスタオルがシイナの肩にかけられた。
そのまま、フジオミは浴室へ戻る。
のろのろと、シイナは濡れた寝間着を脱いだ。
そうして、乾いたバスタオルで身体を包む。
規格よりやや大きめのタオルはシイナの身体を膝までしっかりと覆ってくれる。
だが、寒気は止まらず、シイナはそのままベッドの端で身体を丸めた。
少しして、フジオミがノックをしてからベッドルームに入ってくる。
「シイナ、運ぶから、触れるよ」
抱き上げられて、一瞬驚きに身を竦ませるが、フジオミはすぐにシイナを浴室に運んでくれた。
そうして、熱めの湯をはった浴槽に、バスタオルを纏ったままのシイナを入れた。
「どう?」
「温かい……」
「よかった」
熱いお湯が、凍えた身体を温める。
実際は熱が出て寒気を覚えているのだが、汗をかいて一時冷えた身体には、心地よく感じられた。
浴槽の縁に頭を持たせて、シイナは浴室に漂う湯気の中、フジオミの腕を見ていた。
袖をまくっている両腕には、どこにも傷がない。
それだけで、安心する。
「ああ、顔色も良くなってきた」
ほっとしたようなフジオミの声。
「今、何時なの……?」
「9時過ぎだよ。君、医局から戻った後、何も食べずに休んだろう? 食事を持ってきたんだけど、眠っていたようだったから食事を置いて帰ろうとしたら、苦しそうな声が部屋の外まで聞こえてきたから、寝室に入らせてもらった」
「そう……嫌な夢を見たの。起こしてくれて良かったわ」
「今は、大丈夫かい?」
「ええ」
一瞬、心地よさに目を閉じてしまいそうになる。
「シイナ、ここで眠ると危ないよ」
「眠らないわ……ただ、気持ちいいから」
「じゃあ、君、そのままでいいから、髪を、洗ってもいい?」
フジオミの言葉に、目を開けて彼を見る。
何かの冗談かと思ったが、フジオミの表情は至って真面目だ。
断っても良かったのだろうが、今は、自分で身体を動かすのが億劫だった。
倦怠感が勝ったので、シイナは、そっと頭の向きを変え、縁に項をかけた。
「……まだ、頭痛がするから、あまり揺らさないで」
嬉しそうにフジオミが笑った。
「ああ、気をつけるよ」
シャワーで十分髪を濡らしてから、丁寧に立てた泡で、優しく髪が包まれていく。
見上げるフジオミはどことなく嬉しそうだった。
「……髪を洗うのが、そんなに楽しいの?」
「君の世話をするのが嬉しいんだ」
やはり、わけがわからない。
「不謹慎だけど、今なら君は、僕が近づいても嫌がらないから」
「――」
確かに、普段の自分ならこんなことは許さないだろう。
だが、有り得ない暴力に曝され、シイナは精神的にも身体的にも弱っていた。
フジオミ以外の男性体が全て疑わしい今、信じられる者に傍にいてもらわなければ安心できない。
その事実こそが、一番の驚きでもある。
フジオミが傍にいて安心するなんて。
今まで、一番傍にいてもらいたくない男のはずだったのに。
優しい指先が、頭皮を撫でるように洗いながら髪を梳いて後頭部に流れていく。
静かに繰り返される動きに、シイナはいつしか目を閉じる。
何だろう、この感覚は。
フジオミの指が側頭部に触れるたびに、背筋に鈍い痺れがわく。
だが、それは不快ではなく、寧ろ心地いいとさえ思える。
他人に髪を洗って貰う行為が、こんなにも心地よいとは思ってもいなかった。
フジオミの指が離れた時は、物足りないと思うぐらいだった。
「シイナ、流すから、そのまま目を閉じていて」
返事の代わりに、きつく目を閉じた。
温かなシャワーの飛沫が額にかかる。
泡を流すために触れる指が、また、鈍い痺れを呼び起こす。
感覚が、その心地よさを追いかける。
だが、先ほどとは違い、流すためだけに触れる指はすぐに離れてしまう。
シャワーが止まり、乾いたタオルが頭を揺らさないように髪を拭く。
「終わったよ。僕はシーツを取り替えてくるから、ゆっくり浸かるといい」
フジオミがいなくなっただけのことなのに、静まりかえったバスルームが急に寂しく、寒く感じられた。
そんなはずはないのに。
身体を包んでいたタオルさえ、濡れて重苦しく感じる。
「――」
シイナは頭を上げると、タオルを放して浴槽から出た。
脱衣所には、身体を拭くタオルと、頭を拭くタオル、それと替えの寝間着がきちんと置いてある。
まだ頭が痛むために、床に座り込みながら、ゆっくりと身支度を調える。
頭を拭こうとしたところで、鏡を見るために立ち上がったら、立ちくらみで壁にぶつかった。
その僅かな音が聞こえたのか、フジオミが慌ててやってくる。
「シイナ!?」
壁に手をついて寄りかかっているシイナを見て、掬い上げるように抱き上げて大股で寝室に入り、シーツを取り替えた清潔なベッドに下ろした。
「横になって」
「でも、まだ髪を乾かしてないわ」
「僕がするから」
そう言うと、フジオミはまた部屋を出て、今度はドライヤーを持って戻ってきた。
ベッドの端に座ると、横になったシイナの髪を温風で乾かしていく。
「熱くない?」
「え、ええ……」
甲斐甲斐しいフジオミの世話を拒めないまま、結局シイナは横になったままフジオミに髪を乾かしてもらった。
ドライヤーを片づけるついでに、フジオミは薬と水まで持って来て飲ませてくれた。
「……フジオミ、あなた、医局でも働けるわ」
「君限定なら、いつでも喜んで」
静かに笑うフジオミに、シイナはまた不安を覚える。
この優しさは、本物なのだろうかと。
今日一日で、全てが現実ではないような錯覚に何度も囚われる。
恐怖と嫌悪を今でも思い出せるのに、心も身体もそれを拒否したがっている。
あれは、現実ではないと。
あんなこと、起こるはずがないと。
紛れもない現実だというのに。
「さあ、もう寝たほうがいい。明日には熱も下がっているだろう。明かりを消すよ」
立ち上がるフジオミに咄嗟に返す。
「いいえ、明かりは消さないで」
独りになる恐怖に、シイナは一瞬混乱してしまった。
「シイナ?」
「今日は、明かりを消したくないの。そのままにしておいて」
言い募るシイナに、フジオミはしゃがみこんで目線を合わせる。
「暗いのが、嫌なのかい?」
「……そうよ。さっき、嫌な夢を見たから、明かりをつけたままにしておきたいのよ」
「そのせいか――」
考え込むように息をついて、フジオミはもう一度シイナに視線を合わせる。
「シイナ、もし、良かったら、リビングで休ませてもらってもいい? またうなされたりしていたら、すぐに起こしてあげられる。それ以外は、この部屋に入ったりしないから」
その言葉に、表情には出さないよう努めたが、内心ほっとする。
「いいわ。ソファを使って」
「ああ。何か用事があったら呼んで。おやすみ、シイナ」
フジオミが出て行って、その姿が見えなくなった途端、不安が押し寄せる。
すぐに呼び戻したい衝動にかられて、だが、我に返る。
フジオミを呼び戻して、一緒にいてもらって、それでどうなる。
こんなことを繰り返したら、今日の二の舞だ。
今回がフジオミでないにしても、曖昧な態度を取っていれば、フジオミをも誤解させるかも知れない。
今日の件ではっきりわかった。
結局自分は、無力なのだ。
運が良かっただけで、もし、あの時ペンに気づかなければ、あれを突き立てていなければ、それ以上なす術もなく乱暴されていたのだ。
フジオミ以外の誰かに、あんなおぞましい行為を強いられる――そんなことは、耐えられない。
「っ!!」
喉から、干上がった声が漏れる。
咄嗟に手で押さえても、悲鳴をあげてしまいたくなる。
フジオミだから、耐えたのだ。
人類の希望。
未来への希望。
そのための犠牲だと思ったからこそ。
だが、その希望も潰えた今。
もう、耐えられない、これ以上は。
「……」
乱暴に触れられた感触が甦ってきて、身体が震える。
だが、この恐怖を和らげることができない。
誰も頼れない。
助けてもらえない。
怖い。
「ユカ……助けて……」
もういない、自分が死に追いやった女性に助けを求めながら、シイナはただ身を縮めて孤独に耐えるしかなかった。
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