高天原異聞~女神の言伝~

ラサ

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第九章 希う神々

6 消え逝く定め

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 とっくに太陽が顔を出しているはずの午前九時。
 現世では、美咲と慎也、八塚と神々が図書館に集っていた。

「何で朝が来ないんだよ。瓊瓊杵命ににぎのみことが何とかしてくれたんじゃなかったのかよ」

 慎也の呟きに、荒ぶる神が答える。

「現世の闇の全ては祓えなかったと言っていたが、こういうことだったんだろうな」

 カーテンの開いた窓の外は、暗闇と星の瞬きしか見えない。
 月は、どこを見ても探すことはできない。
 少し前に結界の外に出て、偵察から戻った国津神達も何事もなく無事に戻ってきている。
 店は閉まり、車も止まったまま、明かりは全て消え、人々は深い眠りに就いているという。
 時計さえ見なければ、今が朝だとは思えない。

「取りあえず、朝が来ないだけで他は支障はない。夜が長引いたと思って過ごせばいい」

「ええ? それでいいの?」

 驚く美咲に、荒ぶる神が肩を竦める。

「闇の主の出方を待つしかない。今はまだ」

 八島士奴美やしまじぬみの神威を使って黄泉の源泉をも動かしたが、それを退けた今、闇の主と黄泉神の神威だけで、再び同じことは出来ないはずだった。
 黄泉の源泉は、太古からの死の神威の源であり、国津神々の水神の神威にすら勝る。
 それを動かすには、より強い意志と神威が必要になる。

「闇の主と言えども、世界の理をねじ曲げたままではいられん。理を正すための神威が反作用として発動するからな」

「理を正す神威――」

「そうだ。だからこそ、闇の主は言霊を巧みに操り、神々を惑わせる。世界を世界たらしめる理には抗えん。それが神々であっても」

「そうです。建速様の仰る通りです。どれほど黄泉国と豊葦原が近づこうとも、互いの領界が重なることはあり得ませぬ」

「母上様と父上様は心安らかにお待ち下さいませ。我々がお傍で御護り致します」

 石楠と久久能智が言い添える。
 美咲と慎也は顔を見合わせるが、焦った風もない荒ぶる神と国津神々を見て、それ以上何も言えなかった。

「それより、父上様と母上様は、何がしたいですか?」

「え?」

「お休みができたと思えばよろしいのです。この際、父上様と母上様のしたいことをしましょう!!」

 久久能智と石楠の言霊に、わっと国津神が騒ぎ出す。
 期待に満ちたたくさんの眼差しに見つめられて、美咲は慎也の方を見る。

「慎也くんは? したいこと何か無いの?」

「俺? 美咲さんと一緒だったら何でもいいから。美咲さんが決めていいよ」

「ええ?」

 慎也と、建速をはじめとする神々達は、美咲を中心に回っていると言っても過言ではない。
 昨日の夕食のように一身に視線が集まり、美咲としてはいたたまれない。

「したいことって、急に言われても――」

 その時、美咲の脳裏に思い浮かんだことが一つあった。

「――えぇっと、何でもいいの? 本当に?」

「はい。母上様がしたいことなら何なりと」





「美咲さんも欲がないよね。こんなことが嬉しいの?」

 カウンターに座る美咲の横で、慎也が問う。
 美咲は、満足げに頷いた。

「すっごく嬉しい。だって、一人じゃ絶対できないもの」

 美咲の眼前では、たくさんの神々が甲斐甲斐しく動いていた。
 何をしているかといえば、図書館の大掃除だ。
 見る見る書架が空になり、拭き掃除がなされ、分類し直された本が戻っていく。
 床の絨毯には丁寧に掃除機がかけられ、窓ガラスは中と外がぴかぴかに磨き上げられる。
 書庫からは美咲がチェックした廃棄本が次々と取り出され、積み重なったところを纏めて綴じられ外の倉庫に運ばれていく。
 それでも、人(神)が余るので、余った分は調理に回し、昼のおにぎりと豚汁の準備をさせている。

 人海戦術の素晴らしさを、改めて思う美咲だった。

 本当は、美咲も国津神達に交じって仕事をしたいのだが、慎也がそれを許してくれず、結局は総監督で我慢しなければならないのが唯一の不満だが、そうでもないと、今度は慎也の機嫌を損ねるのでしかたがない。
 それに、昨日の慎也の様子から、美咲もずっと慎也の傍にいたかった。
 離れていると不安になるのは慎也だけではないのだ。
 美咲も、慎也から離れていたくない。
 手を伸ばせば、すぐに触れられる距離で安心していたい。
 だから、例え慎也が二人きりではないのを不満に思っていても、一緒にいられればどこでもいい。
 たくさんの神々に護られながら、ずっと慎也と一緒に過ごすのも悪くはなかった。

「母上様、父上様」

 天之葺根と八塚が近づいてくる。
 その後ろには、石楠と久久能智もいる。

「八塚様、すみません。勝手にこんなこと」

「いえいえ。母上様のお気のすむようになさればよいのです。それが、我々の喜びでもあるのですから」

 そうは言われても、八塚は人間であり、しかも美咲の雇い主なのであるから、気を遣うのは当たり前だ。

「八塚にとっては、こんなことは何でもない。気にするな」

 カウンター前のテーブルで本を読んでいる荒ぶる神が顔を上げる。

「左様でございますとも。いつも姿を見せぬ建速様をこの様に留めておける母上様と父上様には、本当に感謝しております。校内は好きなようにお使い下さい」

「放蕩者のように言うな。誤解される」

「誤解ではありません。事実です」

「姿の変わらぬ俺が、一処に留まるのは良くないと何度言えばわかる」

「拙宅であれば怪しむ者などおりませんと何度言っても聞いて下さいません。長くて三日ほどです。留まっていただけるのは」

「建速様、八塚は建速様のお傍に在りたいのです」

 葺根が助け船を出す。

「お前達は似たもの同士だな」

「真に。本来ならば、きっと私は八塚に降りるはずだったのでしょう。このように心が重なるのは稀なこと故」

「天にも地にも、同じ者がいようとは。おちおち散策も楽しんでいられん」

 小さく咲って荒ぶる神は本を閉じた。

「美咲、楽しんだか?」

「うん。すごく嬉しい、ありがとう、みんな」

「それならいい」

「そろそろ食事の準備が整ったようです。皆様、ご移動下さいませ」

 石楠の言霊に、美咲と慎也はカウンターを出る。
 荒ぶる神も立ち上がる。
 そんな何気ないことさえも嬉しかった。
 美咲の心を映し出す、金色の光の雨が降る。
 見るたび思う。自分は幸せ者だと。
 そんな自分も、みんなに何かしてあげられたらいいのに。
 建速には、特に色々してもらって、救けてもらってばかりいるのに、見返りを求めることもない。
 建速の、本当の願いは別にはないのだろうか。

「建速は、天津神よね」

「そうだな」

「国津神でも、在らせられます。創世神より最後に産み出された三柱の末の貴神うずみこは、大いなる天命を戴き、この豊葦原に降られたのです」

 葺根が続ける。

 天命。

 天とは、誰を、何を指すのだろう。
 太陽の女神ではないことは確かだ。
 だとすれば、高天原にいる天津神々でもない。

「じゃあ、古事記には、建速も月読命も高天原を神逐かむやらいされたって書いてあるけど、これも本当は違うの?」

 聞いた途端、葺根の顔色が変わった。

「母上様、それは――」

 慌てる葺根に、荒ぶる神が片手を上げて制する。

「そうだな。俺が天を追われるほどの罪を、犯したのは確かだな」

「建速様!!」

「葺根、隠すことでもない。今はもう、過ぎ去ったことだ」

 荒ぶる神は全く動じていないが、葺根は不満げだ。
 美咲は、天津神である建速が、どうして神逐かむやらいされて、豊葦原を彷徨いながら今の今まで伊邪那美を捜したのかを聞きたかっただけなのだが、何だか話が穏やかではない方向に行きそうなので気まずくなった。

「ごめんね、建速。聞かない方がよかったかな」

 申し訳なさそうに見上げる美咲に、荒ぶる神は気にした風もなく咲う。

「記憶のない美咲が聞きたがるのは当たり前だ。伊邪那美が神去ってからのことだしな。天命を受けたのは本当だし、高天原を神逐かむやらいされたのも本当だ。天の秩序を乱したのだ。当然の罰を受けた」

 神代での記憶が、鮮やかに甦る。
 太陽の女神の美しい容が、怒りも露わに己を視ていた。

――何をしたかわかっているのか!? 織女は、神御衣かむみそを織る巫女神だったのだぞ!!

――天照。俺は、神逐かむやらいされても構わん。だが、斑駒ふちこまは罪に問うな。

――そなた独りが正しいのか!! 全てを壊し、何もかも踏みにじり、去っていくことが正しいことか!?

――いつかお前にもわかる。

――わかりたくもない。いつかだと? 今わからぬのならば、いつかなど何の意味もない。これがそなたの言う天命ならば、永久にわからずともよい。

 あの頃の自分には、何も視えていなかった。
 ただ、救ってやりたいという傲りだった。
 幽けき、憐れな者を。
 全てを救うことなど出来るわけもないのに。
 自分になら救えると、傲慢にも信じていた。

「まだ若く、幼かった。傲り高ぶり、己が正しければ、それが、皆の正しさだとはき違えていた」

 そうして、豊葦原で思い知らされる。
 己に出来ることなど、僅かしかないのだと。
 どれほど強大な神威を持っていようとも、無力であったと。

「だが、今は違う」

 護るべき者が在り、その為に此処に在る。

「伊邪那美を視出し、ようやく天命の何たるかを悟った。その為に産まれ、今この時のために永い間彷徨ってきたのだ。全ては、此処に至るまでの道往きだった」

 天命を負ったことを、後悔はしない。
 己にしか、なしえぬことなのだ。
 永い道往きの果てに、今ようやく、生きている気がすると言ったら、皆は嗤うだろうか。

「じゃあ、神逐かむやらいされてくれてありがとう。今、ここに建速がいてくれてすごく嬉しい」

 言うなり、美咲が抱きついてきたので、荒ぶる神は驚きながらも咲って抱きしめ返す。

「どうした? 慎也が睨んでるぞ」

「え?」

「ダメダメ。美咲さん、抱きつくならこっち」

 急いで慎也が美咲を奪い返す。
 後ろから抱き竦めて、美咲を離さない。

「ちょっと、慎也くん」

「何で建速には平気で抱きつくかな? 俺の時は絶対してくれないのに」

「美咲には、俺が男には視えないからだ。範囲外というやつだ」

「そうよ。建速とは親子なんだから」

「今は違うだろ、納得できない!!」

 仲睦まじい創世神の現身うつしみを、荒ぶる神は愛しげに視つめる。
 願うことは、二つ。
 その一つに繋がるのが、まさにこの瞬間なのだと荒ぶる神は思う。

 天照、変わらぬ高天原に在るお前にはわからぬだろう。
 変わりゆく豊葦原の、刹那の幸いを。
 こんなにも幽けく愛しい者を、この一時を、手放したくないと思う愚かさを。
 だが、その幸いと愚かさを、我々国津神々は愛おしむ。
 いずれ消え去るもの。
 やがて消え逝くもの。
 だからこそ愛おしく、いっそう喪われることを怖れる。

 その心こそが、神々に命を与えた女神から齎された証なのだから――





 和気藹々と昼食を終え、美咲達はまた図書館へと戻る。
 大掃除は終わり、静かな館内には、たくさんの国津神達が集い、読書を楽しんでいる。

「おかえりなさいませ、母上様」

 カウンター近くに座っていた大山津見命が立ち上がって美咲達を出迎える。

「大山津見様。もう昼食は召し上がりました?」

「はい。老いた身体には過ぎるほどいただきました」

 大山津見が閉じた本は、山に関するエッセイ集だった。
 山の神らしい選択だ。
 ただ、いつも朗らかだった斉藤という憑坐が、今は力無く見えた。
 無理もないかもしれない。
 憑坐である斉藤に降りている大山津見命は、愛しい娘を喪ったのだから。

「大山津見様、少し、お話しできますか」

「はい、母上様。よろこんで」

 美咲は、斉藤が先程まで座っていた席の隣に座る。
 慎也は美咲の隣に、建速や八塚、葺根、石楠、久久能智はその近くに座った。

「謝りたかったんです。咲耶比売と、姉比売のこと」

「何故謝られるのですか? 娘を救って下さった母上様に感謝こそすれ、謝られることはございません」

「大山津見様――」

「今生では、もう会えぬと思っていた娘と再び出会い、哀しみに囚われたもう一人の娘は解き放たれました。これも全て母上様のおかげでございます」

 誰も責めないことに、美咲は心苦しくも思うのだ。
 自分のために、神々が犠牲を強いられているような気がして。
 勿論、彼ら神々が、そんなことを微塵も思っていないのは、理解している。
 だが、こんな所に閉じ込められていつ来るともわからない朝を待たせることを申し訳なく思ってしまうのだ。
 本来ならば、こんなことになる筈など無かったのに。

「母上様、申し訳なくお思いになるのことはございません。我々国津神は、もとより今生では、在るはずのないものなのです。神代が終わり、高天原と豊葦原、天と地の領界が分かたれた時、国津神もまた、本来消え逝く定めでございました」

「え? それは一体――?」

「神々の領界が豊葦原と分かたれし時、豊葦原は神々の領界ではなく、転生を繰り返し只人と成り果てた青人草のものとなりました。青人草は、代を重ねるごとに我ら神々から離れると同時に、我々神々の存在を忘れ去っていったのです。
 今生の豊葦原をご覧下さい。青人草は誰も、我々国津神を信じませぬ。口伝えも途絶え、我らは辛うじてその名を留めるのみでございます。我々神々は、青人草の信じる心がなければ消え去るしかない儚い存在なのです」

「忘れることで、神々を殺すの……?」

「左様でございます。本来ならば、そのまま消え去るのみであった我々国津神々を救ったのは、他ならぬ荒ぶる神でございます」

「建速が?」

 思わず美咲は荒ぶる神に視線を向ける。

「建速様は、我々を神域に封じることで、今生まで生きながらえさせて下さったのです」

「神域って――まさか、神社?」

「はい。この豊葦原に在る全ての神社は、神を封じた神域でございます」

「――」

「永い時の流れの中で、豊葦原は、我々神々にとっては外つ国のように様変わり致しました。我らは封じられ、祀られることで、この豊葦原に辛うじて留まることが出来ましたが、青人草は我らを忘れ、新たな神々を迎えたにもかかわらず、どの神をも受け入れぬ地となりました」

「神々の存在を迎えながらも受け入れない地――」

 信仰から引き離された国。
 長い歴史の中で、神を信じるのをやめた国。
 あらゆるものに神が宿ることを認めながら、決して受け入れない国。
 それが、今の豊葦原の姿だった。
 確かに、美咲も今こうしている現状だからこそ、神々の存在を信じるが、それ以前の自分なら、決して信じなかっただろう。
 生活の中に風習や慣習として残ったからこそ、神社への参拝や結婚式、葬式などに神事や仏事の名残を留めているが、それは信仰心から行っていることではない。
 だからこそ、ハロウィンのイベントをしながらクリスマスに騒ぎ、節分の豆まきをし、子どもの日や端午の節句を祝い、七夕に願をかける。
 あらゆる祭りを楽しむのに、そこに、古来の神を敬う心など無かった。
 それが、忘れられた神々の末路だったのだ。

「――美咲さん、泣いてる?」

 隣の慎也が、慌てて美咲の顔を覗き込む。

「――」

 心が痛んだ。
 こんなにも愛おしく思う神々が、その昔、ありとあらゆる場所に、確かに存在したのに、今はもう誰も憶えていないのだ。

「母上様、泣かないで下さいませ」

 久久能智と石楠が慌てて近寄る。

「我々のことで心を痛めないで下さいませ。消え逝く定めであろうとも、我々には悔いはありませぬ。我らには母上様と父上様が産み出した全てが愛おしいもの。豊葦原は、何時でも、何処でも、ただ、其処に在るだけで愛おしいのです」

「みんなから忘れられても? このまま、朝が来なくても?」

 その問いに、久久能智が咲って答える。

「我々が忘れ去られることは、もうございませぬ。言霊が力を無くしても言の葉が残ったように、神々の名残は、確かに豊葦原に留まり、根付き、すでに分かちがたいものとなったのです。神々を忘れても、神々が在ったことを、青人草が忘れることはありますまい。我々はそれだけでよいのです」

「それに、夜の美しさを教えてくださったのは母上様です」

 続きを石楠が引き受ける。

「闇に煌めく星影、皓々と照る月下の豊葦原を眺める喜びはまた格別にございます」

「左様にございます。太陽の光の下で鮮やかな色を見せる木々や花々は、闇を纏うと色を無くしますが、月明かりに滲むその姿は、闇に在ってもその姿を消すことなく、密やかに息づいております。その静けさを、我らは愛しむのです」

 大山津見命の言霊に、周りで聞いていた国津神達が頷く。
 その時、美咲の心の中に、何か、別の心が感じられた。
 起きているのに、夢を見ているように、眼前に別の風景が広がる。

――この静けさを、我は愛おしむ。

――私もだ。我々は似たもの同士だな。

 眼前に広がる穏やかな湖水。
 言霊は少なくとも、並び、ともに座し、同じものを視ているだけでよかった。
 この暗闇の中、この時が、永遠に続けばいい。

 入り込む、別の光景。

 突如、機織り小屋に響いた破壊音。
 見上げれば、屋根の一部が壊され、雨風が内に入り込んでいた。
 其処に在るのは、金と赤の美しい斑。

――ああ。今宵、私は死ぬのだわ。『死』が、私を掴まえる。

 諦めと同時に、どこか甘美な喜びが心の内に沸き上がる。

 入り込む、別の光景。

 灯りのない部屋から漏れる、乱れた息遣い。

――もっと……もっとだ。

――気の済むまで。

 絡み合う二柱の神々の姿を、陰から視つめる。
 裏切りを目の当たりにし、嫉妬と失望が心を歪ませる。

 入り込む、別の光景。

 何も視えない。
 感じるのは、のしかかる柔らかな重み。
 動かぬ身体に触れる優しい手。

――愛しい方……この日を待ち焦がれておりました。

――やめよ……触れるな……姉上、姉上……!!

 これは、誰の記憶?
 誰の夢?

 目の前が暗くなる。
 力が、抜けていく。

「美咲さん!?」

 慎也の腕の中に倒れ込みながら、美咲の意識は途絶えた。



「母上様!?」

 国津神達が美咲に駆け寄る。
 荒ぶる神が美咲の手を取る。

「何が起こってるんだよ!!」

 蒼白な慎也の顔を視る荒ぶる神の眼差しは険しかった。

「豊葦原が闇に包まれたと言うことは、黄泉の領界に限りなく近づいたと言うことだ。伊邪那美は死の女神。死に近づけば、以前のように夢に囚われる」

 意識がない以外、異変はない。
 前に、根の堅州国でもそうだったように、夢に囚われているだけだと荒ぶる神は判断する。
 その証拠に、美咲に身に付けさせている勾玉は、何の神威も発動しない。

「戻ってくるのか……」

「戻ってくる。美咲を信じろ」

 力強く答える荒ぶる神の言霊にも安心できぬように、慎也は美咲を強く抱きしめる。

「どうして伊邪那岐は――俺は、こんなに愛しくて手放せないものを失い続けるんだ」

「言霊だ」

「言霊?」

「ただ一度、交わした言霊によって、伊邪那岐は黄泉大神と誓約したのだ。そうとは知らずに」

 美咲を通してともに視た黄泉大神と伊邪那岐の誓約を思い出す。

「誓約は、一度交わしたら破れないんだろ? どうあっても、俺は、美咲さんと一緒にはいられないのか?」

「怖れるな。俺達がいる。俺達が、お前と美咲を護る」

「美咲さんがいなかったら、俺は、生きていたくない。美咲さんが黄泉国に行くなら、今度こそ、俺も死んで追いかける」

「父上様!?」

「早まってはなりませぬ!!」

「美咲さんは喪えない。俺の全てだから。お前達だってそうだろ? 美咲さんのためだけに、定めに抗ってここにいる」

「全てが終わってもいないのに、終わったように話すな。先走るにも程がある」

 溜息をつきながら、建速は慎也を視据える。

「悪い方にばかり考えて口に出して、本当になったらどうする。言霊の力を侮るな。神代でもそうだったくせに」

「――」

「もう一度言う。怖れるな。美咲は戻ってくる。死よりも生を、黄泉国より豊葦原を、何より、対の命であるお前を愛するが故に」


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