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第八章 遠つ神々
5 まかるがえし
しおりを挟む――全て終わったら、私を、妻にしていただけますか?
――そなたはまだ子供故、いずれな。
子供をあやすようにかわされる。
自分の言霊を、まるで信じていないようにはぐらかしてしまう。
自分は真剣なのに。
死んでしまった姉達に比べたら、幼いけれど、それでも、もう夫を迎えられる歳だ。
絶望しかなかった自分に、希望を与えてくれた雄々しい方。
父も母も、反対などすまい。
それどころか喜び勇んで支度を進めてくれるだろう。
もうすぐ全てが終わる。
自分達を苛んでいた呪縛から、解き放たれる日か来る。
貴方が私を死の定めから救ってくれる。
そうしたら、貴方とともに、この豊葦原で生きて往こう。
此処では駄目だというのなら、貴方の妻として、何処までもついて往こう。
私の命は、私を救ってくれる貴方のものなのだから。
「国津神が、消える――?」
荒ぶる神の言霊が、厳しさを増した。
久方ぶりに八塚の本邸へ顕れた荒ぶる神に、当主である八塚宗孝は急ぎ報告した。
「どういうことだ」
「我々も気づくのが遅れました。丸一日姿を消して、戻ってきた時には何も覚えていなかったのです。他にもおられるのかと調べたところ、時間の差違はあれ、日が落ちてから記憶のない空白の時間がある神々がおりました」
「――」
「神々は消えたことも覚えておりません。弱き神々であることを考慮しても、母神から産まれた国津神です。一時捕らえて、何がしたかったのか――」
「戻ってきた国津神に何か変わったことは?」
「今のところはありません。葺根様に確認していただきましたが、呪の類を施された様子もございません」
荒ぶる神の眼光が鋭くなる。
美咲と慎也を狙うのではなく、国津神を攫っておいて何もせずに返すとは――
「何が狙いか確かめねばならん」
「御意。消えた国津神々は、最初に消えた神々以降、八塚の分家筋の憑坐がほとんどでした」
荒ぶる神が八塚に視線を戻す。
「では、次に狙うなら、八塚の一族の中でも本家の血筋か」
八塚が頷く。
「そして、神の憑坐となりし者――」
「ならば、葺根だな」
すでに日は落ち、夜の暗闇が増すばかり。
繁華街を避ければ、そこはすでに閑散としていた。
天之葺根は、農道を進み、更に暗闇へと近づく。
背後の明かりは徐々に遠ざかる。
電信柱に備え付けられた水銀灯が鈍く光るだけの道は、周囲に広がる畑が辛うじて見えるのみ。
スーツ姿の長身の男が歩くにはそぐわない場所だった。
それでも、葺根は急ぐことなく、ただ黙々と歩き続ける。
不意に、通り過ぎた明かりが消え、辺りは真の暗闇となる。
これを待っていた。
葺根の手に、十拳剣が音もなく顕れる。
死神の気配を探る。
――我を、待っていたな
言霊が、暗闇に響く。
だが、それは憑坐の器から発せられる肉声ではなかった。
この声音は――肉体を持たぬ、死神のもの。
「黄泉神か――」
自分とは異なる言霊の響きは、背後から聞こえた。
葺根が振り返る。
暗闇の中、目を凝らすと、闇の中になお濃い闇が在るのが視えた。
輪郭を定かにさせないが、それは確かに神であった。
遠くに在るように感じたが、一歩踏み出せば、それはかなり近かった。
背の高い、死神であるように視える。
「国津神に、何をした」
葺根の言霊は、闇に吸い込まれるように消えていく。
完全なる無音。
静寂の中で、空気が震えた。
姿の視えぬ死神が、嗤っているのが感じられた。
――己の身を案じるがいい
ゆらりと、目の前の暗闇が揺れた。
「!?」
動く前に、死神がすでに目の前にいた。
――そなたの闇を、視せてみよ
闇の中、目の前には一際輝く紅が一対――それは、美しい瞳だった。
目合った瞬間、葺根の身体が動かなくなる。
心まで、囚われる。
そして、沈めていたはずの思い出に引き戻された。
地上の国津神が、青人草によって封じられた時、葺根もまた、封じられた。
ようやく目覚めた時、其処には主と定めた荒ぶる神がいた。
あの時の歓喜を、忘れることなど出来ない。
過ぎし世の時のように、またお傍に在れる。
今度こそ、神去るまで離れまい。
そう思った。
創世の神から成りませる、最後の貴神。
その強大な神威故に、大いなる天命を与えられ、彷徨う神となった。
本来なら、全てを統べる唯一の神であったのに。
高天原から豊葦原へ神逐いされ、後には母神を求めて根の堅州国へ往き、そして、再び豊葦原へと、かの神は流離い続けた。
その永い道往きを、自分はひたすら付き従った。
悔いはない。
主と定めたのは、かの御方ただ独りだったから。
だが、かの方はどうであったのだろう。
神逐いされたこの豊葦原で、母神を捜し続ける天命を負ったことを悔いておられぬのだろうか。
――葺根、此度はそなたを連れては往けぬ。
――何故ですか、建速様。何処までもお供します。
――永く、辛い道往きになる。そなたには耐えられぬ。否――どの神にも耐えられぬだろう。
それだけを告げて、遠ざかる。
置いて往かないで下さい。
どれほど永く苦しかろうと、お傍にいたいのです。
お独りで往かれるには、あまりにも辛すぎます。
何故に、いつもそのような道を選ばれるのですか。
高天原でも、根の堅州国でも、この豊葦原でさえ、望めば全て貴方様のものとなりますのに。
何故、天命はかくも無慈悲に、貴方様から全てを奪うのですか――
「葺根様!!」
自分を呼ぶ声に、我に返る。
紅い瞳から目を離す。
同時に、呪縛が解けた。
持っていた十拳剣を振り上げたが、死神はすぐに飛び退いた。
自分を呼んだ声に葺根が視線を向けると、憑坐の血族である八塚宗孝が美しい神剣を持って立っていた。
「我に構うな!! 下がれ!!」
だが、死神の方が早かった。
大きく跳躍すると、八塚の前に立ちふさがる。
闇よりもなお濃い闇に覆われた死神の姿は、八塚には暗闇にぽっかりとあいた穴のように見えた。
――そなたも八塚の一族だな。荒ぶる神の庇護の下、今生まで長らえた神々の末裔――だが、そなたは憑坐ではない
揶揄するような声音に、八塚は僅かに眉を顰める。
「死神が何故、現世におられる。在る場所を違えておられるようだ。お還り召されよ」
葺根が咄嗟に叫ぶ。
「八塚、目合うな!! 囚われる!!」
「御意」
八塚が闇祓えの言霊を唱えながら、神剣を振った。
「遠つ神、恵み給え。一二三四五六七八九十百千万。ふるえ、ゆらゆらとふるえ。祓戸大神達、ゆらとふるえて、諸々の禍事、罪、穢れを祓い給え、清め給え」
神剣の柄から八方に伸びた鍔が、鈴のような澄んだ響きを奏でた。
その音に、死神が飛び退く。
――ほう、さすが神々の末裔。只人でありながら、我を阻むか
神剣の震わせる音は、空間を震わせ、暗闇を揺らし、現世の景色が垣間見える。
闇を身に纏い、その姿を見せぬ死神だったが、点滅するように映し出される景色の中、その姿が輪郭のみ、葺根と八塚にはとらえることができるようになった。
背の高い、死神だった。
伸ばした腕は、闇を纏っていたが、白く美しい指先は見えた。
その指先が、八塚を指す。
――そなたの中にも、闇が視えるぞ
「生きているなら、当然のこと。生きとし生けるものは全て光と闇でできているのです。どちらかが欠けても生きられない。闇に呑まれた貴方様にはわかりますまい」
――青人草であるそなたが、我を諭そうというのか。おこがましい
「無礼なのはもとより承知。ですが、死神で在られるなら、生神に手出しなさってはなりません。ここは現世、黄泉神の領界ではございません」
――すでに神代でもないのに、現象している神々とて、同じことであろう。豊葦原は、神々の領界ではない。国津神が現象しているならば、黄泉神とて現象してもおかしくはない
「死神は現世には現象できぬ理でございます。理に、背いてはなりません」
――そのような理など、すでに意味はない。神々が目覚めた時点で、理は崩れたのだ。我の邪魔をするな。無駄な死人をつくろうとは思わぬ
「私とて、まだ死人になるには未練がありすぎます故、謹んで辞退申し上げます」
死神の放った闇の神威が、矢のように八塚へと襲いかかる。
その時、八塚の身体から、淡い光が揺らめく炎のように立ち上った。
神気が揺らぎ、神威が満ちる。
立ち上った光の神威は、八塚の身体から真っ直ぐに闇の神威に向かい、ぶつかり合って霧散した。
暫し、沈黙が降りる。
――只人でありながら、神威を操るとは、そなた、何者だ
驚きを隠さぬ言霊が漏れる。
「八塚の直系です。先祖返りのおかげで、憑坐となる栄誉から外された可哀想な男なのですよ。それが、私の闇です」
――信じられぬ……そのような者が今生にいようとは
死神の背後で、別の神威が放たれた。
――!!
死神が紙一重でかわす。
だが、次々と放たれる葺根の神威に、八塚の神威までが加わる。
反撃するかと思いきや、死神は飛び退くことしかしない。
――今宵は退く。だが、これ以上我の邪魔をしてはならぬ。黄泉路を降ることになる
闇の神威が発動する。
放たれた葺根と八塚の神威を、闇が吸収し、呑み込む。
同時に、周囲の闇が晴れていく。
すでに葺根と八塚は先程まで歩いていた農道のアスファルトの上に立っていた。
水銀灯の鈍い明かりと、夜の闇の中に畑が見える。
死神の気配は、すでになかった。
「八塚、無事か?」
葺根が八塚に言霊をかける。
「ええ。葺根様こそ、大事ありませんか」
「大事ない。油断して、心を覗かれたようだが、呪の類ではないようだ」
葺根の手から十拳剣が消える。
同様に、八塚が腕を振ると、手にしていた神剣は澄んだ響きを残して消えた。
静寂は消え、虫の音が辺りに戻ってくる。
「黄泉神である死神が、現身を持たぬまま豊葦原に現象しております。これは有り得ぬこと。理が、崩れ始めています。急ぎ、建速様にご報告せねば」
葺根が八塚の腕をとる。
そうして、その姿もまた、闇に溶けるように消え、辺りには虫の音が響くばかりとなった。
「紅い瞳だと――?」
戻ってきた葺根と八塚の報告を聞く荒ぶる神の容が、驚いた様相を視せる。
「心当たりがございますか――?」
「――」
葺根の問いに答えることなく、荒ぶる神は目を閉じる。
「建速様?」
八塚の呼びかけに目を開けた荒ぶる神は、厳しい眼差しを虚空に向けた。
「――よい。いずれ再び相視えることになる。それまでは、国津神々達に決して日が落ちてより後、独りにならぬよう伝えよ。葺根は八塚とともに動け」
「わかりました」
「八塚、過信するな。神器を扱い、神威を操ろうとも、そなたは人だ。その命を喪えば、我々のように神去るのではなく、記憶も神威も失い、只人として黄泉返る」
「それでも、私は己の為すべき事を成さねばなりません。それが私の産まれた意味では? この時を、私はずっと待っていたのです。それは、建速様も同じでございましょう」
その言葉は、真実だった。
どのような結果となろうとも、今生で、全ての意味は明らかになるだろう。
だから、今まで隠れていた伊邪那美は顕れたのだ。
そして、この豊葦原に封じられていた神々も目覚めた。
八塚という、人でありながら神の力を操る希有な者も産まれた。
「――」
荒ぶる神は、長く息をついた。
不吉な予感がした。
紅い瞳をした神を、知っていた。
だが、その神は自分が滅したのだ。
黄泉返ることなど、有り得ないのに。
どのような手妻で、紅い瞳を持つ神が再び顕れたのか。
しかも、今になって。
伊邪那美を待つには永すぎた時間が、今は人の世を視送ってきたように足早に過ぎていく。
娘の須勢理比売は、永い苦しみから解き放たれた。
木之花知流比売も、永い哀しみから解き放たれた。
無常に終わった神代の名残を拭い去る刻が来たのなら。
今度は、誰を解き放つのか。
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