高天原異聞~女神の言伝~

ラサ

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第八章 遠つ神々

3 やつか

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 いつも通り図書館で過ごす時間は、美咲が朝に感じた不安を忘れさせてくれた。
 いつもの場所に荒ぶる神がいて、本を読んでいる。
 周囲には常に国津神達がいて美咲の世話をあれやこれやとしてくれる。
 夜にはまた、慎也に逢える。
 不安がる必要はない。
 愛すべき神々が傍にいて護ってくれるのだから。
 そろそろ午後二時を過ぎようとした頃、スーツを着た長身の若い男が館内に入ってきた。
 カウンターから見ていた美咲は、それが見覚えのある男であることに気づいた。
 本を読んでいた荒ぶる神も、とっくに気づいてそちらに視線を向けていた。
 隠していても神気が違うのはわかる。
 彼は国津神ではない。
 この神気は、天津神だ。

瓊瓊杵ににぎ様――」

 カウンター近くまで来ると、男は優しく咲って会釈をした。
 天孫の日嗣の御子――それが、この天津神の正体だ。

「母上様、今生では憑坐の名でお呼びください。坂崎真尋さかざきまひろと申します」

 穏やかに咲う真尋は、瓊瓊杵命に相応しい憑坐だった。




 美咲と建速、そして瓊瓊杵は、一般用の玄関脇の休憩コーナーの丸テーブルに着いた。

「何用だ、瓊瓊杵」

 問いかける荒ぶる神に、瓊瓊杵命が答える。

「今日は祖神おやがみ様にお尋ねしたいことがあって参りました」

「許す」

「妻が、夢を視たのです。いないはずの、姉比売の夢を。建速様、妻の姉君である木之花知流比売このはなちるひめは、もうおられぬのですか?」

 その問いに、美咲は荒ぶる神に見せられた、黄泉国での出来事を思い起こしていた。
 禍つ霊となった大山津見の娘、木之花知流比売は、建速の剣から放たれた炎によって、その御霊みたまを焼かれ、消滅したのだ。

「おらぬ。現世にも幽世にも。姉比売は、神去ったのではない。その御霊ごと消滅したのだ」

「――左様にございますか。では、姉比売の血に連なる者は? この現世の青人草として、今も続いているのですか?」

「多分、それもおらぬであろう。姉比売の末は大国主の血統にも連なる。かの神々は根の堅州国に神逐かむやらいされて後、全て絶えた。純粋な神々の末たる血脈は、残っておらぬ」

「――」

「だが、みことはわからん。黄泉返った神々はいよう。血筋は滅んだとは言え、密やかにこの豊葦原に息づいているはずだ」

 荒ぶる神の言霊に、安堵した表情を視せる。

「わかりました。何処かに在るのならば、それで良いのでしょう。我が末がそうであるように。全て忘れて青人草として、幸せで在れば。妻にもそのように申し伝えます」

「夢を視ると言ったな、瓊瓊杵」

「はい」

「夢は、死の領域に限りなく近い。死神であった咲耶比売が視たのならば、何かが起こるかも知れん。気をつけろ。山津見の国津神達にも、気を抜かぬよう申し伝えよ」

「わかりました。建速様は、もしやこれも黄泉大神の仕業と?」

「多分な。そろそろ、黄泉神が動き出してもおかしくない。俺は、美咲と慎也を護らねばならん。そなたは、咲耶比売と山津見の国津神を護るのだ。それが、豊葦原を護ることとなる」

「御意に。今生こそは、我が使命を果たして視せましょう」

 瓊瓊杵命が館内を出た後、入れ替わるように誰かが入ってくる。
 四十代の落ち着いた雰囲気を纏わせた男が、こちらに近づいてきた。
 だが、今度は美咲の知った顔ではなかった。
 仕立てのいいスーツを着こなし、品の良さも相まって、高貴にさえ見えた。
 だが、何処か人間離れした雰囲気を併せ持っていた。
 国津神でも天津神でもないはずなのに。
 美咲も、ようやくそれはわかるようになっていた。
 荒ぶる神が先に声をかけた。

「八塚」

 声をかけられた男が、穏やかに微笑んで美咲達のテーブルへと近づいてくる。

「今お帰りになったのは天孫の日嗣の御子で在らせられる瓊瓊杵様ですね」

「そうだ」

「御挨拶したかったのですが――また後ほどとしましょう」

「何をしに来た?」

「定例のご報告ですよ。いつもなら出向いてくださるのに、お忘れのようですから私が参りました」

 A4サイズの茶封筒がテーブルに置かれる。

「ああ――もうそんな時期か。このところ忙しくてな」

「そのようですね」

 ちらりと、美咲の方を見ると、もう一度荒ぶる神に向き直る。

「御挨拶しても、よろしいですか」

「よかろう」

 短い許可に嬉しそうに笑うと、男は胸元から名刺入れを取り出し、一枚抜き取って美咲に差し出した。

「初めまして。藤堂美咲様ですね。八塚宗孝やつかむねたかと申します。以後お見知りおきを」

「初めまして。藤堂美咲です……。ここの司書です」

 名刺を受け取り、礼をする。
 顔を下げた時、名刺が視界に入り、書かれた肩書きを見て、美咲は驚いた。

 この高校の理事長だ。

「――」

「伊邪那美様をお迎えできたこと、真に嬉しく思います」

 驚きで言葉を返せない美咲を、八塚は更に驚かせた。
 自分を神の名で呼んだ。
 知っているのだ。
 何もかも。
 荒ぶる神に目を向けると、大きく頷いている。

「八塚は、神代から神々の血統を受け継ぐ一族の長だ。神々の遺産を守り、神々が目覚める時まで血脈を繋ぐのが、使命だ」

「え……、でも、神々の子孫って、もうこの現代には残っていないって――」

「それは、歴史に名を残した一族です。先程の、瓊瓊杵様の末のように。我々は、遙か神代で、血脈を残すことを最優先とするよう祖神様と誓約しました。歴史に名を残さず、ただひっそりと神々の遺産を引き継ぎ、守ってきたのです。来るべき、この時のために」

「祖神って、建速のことですか?」

「はい。建速様のもう一つの御名、邇芸速日にぎはやひ様――それが、八塚の一族の祖神様でございます」

「邇芸速日……?」

 美咲も古代史を少しは勉強したが、如何せん、神の名が多すぎて、覚えきれないのだ。
 何をした神だったか――後でもう一度古事記を読み直さなくてはと、心の中で思った。

「邇芸速日って、確か天津神として、古事記に載ってましたよね」

 建速とは別の神として書かれていたような気はした。

「建速様は国津神で在らせられると同時に、天津神で在らせられます。伊邪那美様を捜して、根の堅州国と豊葦原に留まっておられた彷徨える神にごさいます」

 そうだ、神代からずっと、この荒ぶる神は豊葦原にいたのだ。
 名を変えていたとしても不思議ではない。
 現に一説では、建速も神去り、天之葺根がそれを看取ったことになっているのだから。

「だから、国津神の血統だけではない。八塚は、天津神の血統をも受け継ぐ一族なのだ。神々の遺産を守り、現世で、美咲を捜すためには神々の末裔が必要だったのだ」

「――」

 何という気の遠くなるような話だろう。
 自分のために、血筋を残す――そんな気の長いことをやってのけるとは。

「伊邪那美様、何かございましたら、どうぞお申し付け下さい」

 突然話を振られても、思いつくはずがない。
 美咲は慌てて否定する。

「いえ、何もありません。大丈夫です!」

 だが、荒ぶる神が口を挟んだ。

「正採用にしてもらえ。臨時だと心許ないんだろう」

「た、建速!!」

 雇い主を前にして、そんなことをあからさまに言う荒ぶる神に、美咲は更に慌てた。
 だが、八塚は気を害した風もなく、にこやかに答える。

「おお。それは気が利かず、失礼致しました。早速手続きを済ませましょう」

「え? ほ、本当ですか?」

「はい。明日には正式の辞令を受け取れますよ」

 こともなげにそう言った八塚に、美咲は目を丸くした。
 どこか不安だった生活が、突然揺るぎないものになったのだ。
 その言葉の意味をきちんと理解すると、美咲の顔には満面の笑みが広がった。

「ありがとうございます!」

「礼は建速様へ。その方が喜びましょう」

「はいっ」

 感動のあまり、美咲は荒ぶる神に抱きついた。
 荒ぶる神も嬉しそうに美咲を抱きしめ返す。

「美咲から抱きついてくるのは初めてだな」

「ありがとう、建速。嬉しい」

「美咲が喜ぶなら、それでいい」

 母と息子と言うより、父と娘のように抱き合う荒ぶる神と美咲のもとに、館内にいた国津神達が慌てて駆け寄ってくる。

「建速様、いかがして母上様を喜ばせましたか?」

「その秘訣を我らにもご教授下さい」

 美咲を抱きしめたまま、呆れたように荒ぶる神が呟く。

「今生では、少しぐらい俺に譲ろうとは思わんのか」

「思いませぬ!」

「譲るのは、父上様だけでございます!」

「我らとて、母上様に触れたいのを我慢しておりますのに」

 喧々囂々とまくし立てる国津神達に、八塚が面白そうに割って入る。

「お待ち下さい、建速様、国津神々様。伊邪那美様を喜ばせたのは、私ですよ。役得は私にあるべきでは?」

 きっ、と国津神達が理事長である八塚を睨む。

「八塚は駄目です。どうせ今みたいに建速様に譲ってしまわれる」

「そうだ。その証拠に、弟とて建速様に差し出したではないか」

「弟?」

「葺根でございます、母上様。葺根の憑坐は、八塚の弟君なのです」

「――」

 言われてみれば似ている。
 自分と慎也は理事長の弟を運転手に使っていたのか――美咲の顔から血の気が引く。
 だが、八塚は笑って答える。

「弟は、神の憑坐となる栄誉を得ました。一族の誉れなのです。私もその栄誉に与りたかったのですが」

「そなたは憑坐になってはならん。何度もそう言ったが」

「はい。現世の煩い事は全て私に押しつけて、建速様はどうぞ思うままにお過ごし下さいませ」

「恨み言も聴かん」

 肩を竦めて笑ってみせる理事長は、荒ぶる神の言霊を受け流すと、美咲に向き直る。

「それでは、私はそろそろ失礼致します。伊邪那美様、どうぞお健やかにお過ごし下さい。神々とともに、私達八塚の一族も、永久に貴女様を御守り致します」

「は、はい。ありがとうございました」

 八塚が、落ち着いた足取りで図書館から出て行く。
 美咲の周囲全てが、神々とそれに連なる者達で取り囲まれていた――自分を迎えるために、どれだけの時間をかけて準備してきたのだ、荒ぶる神は。

 領界が隔てられ、全ての神々がこの豊葦原から消え去っても、唯独り、留まった神。
 その永い時の流れの中、たくさんの出会いと別れを繰り返し、彷徨ってきた。

「どうした、美咲?」

 抱きついたまま黙って見つめていた美咲に気づき、荒ぶる神が問う。

「苦しく、なかったの?」

 唐突な美咲の問いにも、荒ぶる神は全てわかっているように静かに咲っていた。

「豊葦原での苦しみも、喜びも、俺にとってはいつも瞬きのようだった。だから、何ともない」

 荒ぶる神は、永い時を過ごした者が見せる、老成した穏やかな瞳をしていた。
 この神は、何という過酷な道を選んだのだろう。
 伊邪那美に、出会うために。
 足早に過ぎ去る時を彷徨いながら。
 たった独りで。

 だが、そうでなければ、来るべきこの時に、自分達を護ることは出来なかっただろう。

「今は、美咲がいる。慎也もいる。国津神々もいる。神々が在る今この時は、瞬きではない時が俺の中にも流れる。それが、俺にとっては嬉しい」

 人に紛れ、世に紛れ、そうして生きてきたのだ。
 この荒ぶる神は。

 その永い、気の遠くなるような年月を思い、美咲は切なくなった。





 その夜。
 美咲は慎也の腕の中でまた夢を見た。
 それは、昨日の夢とも違っていた。
 だが、イメージは共通していた。
 何処までも美しい、真紅のイメージが広がる。
 そして、苦しくて切ない願い。



 私の名を、呼ばないで。
 本当の名を。
 呼ばれたら、抗えない。
 私がお慕いするのは、あの方だけなのに。
 絡め取られてしまう。
 逃れられない。
 こんなの嫌。
 これが私の定めだというの。

 私には、あの声が、あの眼差しが、美しくも恐ろしい――



 これは一体、誰の夢――?




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