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第八章 遠つ神々
2 へつ
しおりを挟む初めて出逢った時。
美しい花が、咲き乱れていた。
そこに佇む美しい女神。
咲き誇る花よりなお美しいその姿を、忘れることなどできなかった。
一目で心を奪われた。
その容も
心も。
命さえ。
愛おしまずにはいられぬ者。
ありのままの自分を、恐れずに受け入れてくれた唯一の。
多くを望んだりしない。
願いは、一つだけでいい。
傍にいられれば。
それだけで。
この抗えぬ執着を、満たされぬ渇望を。
鎮めてくれる、そなたがいれば。
自分は他に、何も要らなかったのだ――
美咲は、迎えに来た荒ぶる神とアパートに戻った。
朝食の準備をしようと思ったら、テーブルにはすでに食事の準備ができていたことに驚く。
「これ、どうしたの?」
「作った」
「誰が?」
「俺がだ」
短い即答に、美咲の驚きはさらに倍増する。
「た、建速が? これを?」
テーブルの上には、ワンプレートに簡単なサラダ、目玉焼き、カリカリのベーコンが見目よく置かれていた。二人分のテーブルセッティングも完璧だ。あとはご飯と昨日の残りの味噌汁を盛ればいいだけにしてある。
「永く生きているんだ。料理くらいできるぞ。まあ、食べる必要性はないが、舌を楽しませるのも悪くない」
「――」
荒ぶる神がキッチンで料理。
イメージできないが、確かに、料理は現実にここにあるのだ。
慎也がアパートに頻繁に来るようになってから、食材は切らさないよう補充してある。それを上手に使ってあるのにも驚く。
特別なものはないのに、盛りつけが上手いので朝から贅沢に見えるのが不思議だ。
もしかしたら、自分より上手いのではないか――そんな思いにとらわれる。
「ありがとう。ご飯とお味噌汁盛るわね」
炊きたてのご飯と温め直した味噌汁を盛ると、向かい合って食事を始める。
荒ぶる神が傍にいることにも慣れ、食事も終えると、空いた食器を重ねてシンクへと運ぶ。
そのまま洗おうとすると、荒ぶる神に遮られる。
「俺が洗っておく。その間に美咲は準備をしろ」
「え、そこまでしてくれなくてもいいのよ?」
慌てる美咲を、荒ぶる神が制する。
「俺が美咲のためにしたいんだ。何故止める?」
「ええっと、してもらうのが、申し訳なくて――」
「思うな、そんなこと。言っただろう。俺達国津神は、美咲のためにすることはどんなことであれ喜びなのだと。神代でそうであったように傅かれていろ」
「――記憶がないから無理よ」
「全員で押しかけてくるよりはましだろう。それに、俺は神代では伊邪那美に何もしてやれていない。少しは親孝行というものをさせてくれ」
「親孝行って――」
唖然とする美咲に、荒ぶる神が咲う。
「さあ、準備をしろ」
そうして、美咲をキッチンから追い出して引き戸を閉める。
「――」
諦めて、美咲はクローゼットを開く。
出勤用の服に着替えると、そっと引き戸を開けてバスルームへ移動する。
手早く顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。
それから、また静かに部屋へ戻る。
大きな身体が背を向けて食器を洗っているところが、とてつもない違和感を醸し出していたが、どうすることも出来ないので見ないふりをする。
ドレッサーの鏡に向かい、化粧を終えれば、もう準備は整った。
同じ頃、荒ぶる神も片付けを終えて部屋へ戻ってくる。
「もういいのか?」
「ええ。出れるわ」
玄関で靴を履こうとした美咲を、
「待て」
荒ぶる神が止める。
「どうしたの、建速?」
いきなり引き寄せられて、抱きしめられると、驚く間もなく空間が揺らいだ。
「――」
瞬きをする間もなく、そこはすでに美咲の部屋ではなく、図書準備室だった。
「建速、何で――」
「――いや、何かが気にかかる」
「何かって、何が?」
「――わからん。だが、慎也が戻るまでは、家と図書館の敷地内からは出るな」
暫し虚空を視据えて動かない荒ぶる神に、美咲は不安になる。
また何かが起ころうとしているのか。
不安が伝わったのか、荒ぶる神が優しく美咲を抱きしめ直す。
「大丈夫だ。何があっても護る。あんたと慎也を引き離したりしない。宇受売にも気をつけるよう伝えておいた」
「本当に?」
「ああ、言霊に誓う」
神は嘘をつかない。
その言霊を聞いて、美咲はやっと安心した。
傍らで何かが動く気配で、咲耶比売は目を開けた。
「……」
ベッドの中には、自分しかいない。
「瓊瓊杵様……」
ネクタイを締め終えて、上着を着た男が振り返る。
「起きたのか」
その姿に、愛しさが溢れてくる。
夫である瓊瓊杵命が微咲みながら近づいてくる。
ベッドの脇に座って、咲耶比売を優しく抱きしめた。
「まだ眠っているといい。子がいるから、眠くなるのだろう」
「ですが、お視送りもせずにいるところでした」
「よいのだ。とても安らかだったので、起こしたくなかった」
「はい、夢を視ていました。この憑坐達の出逢いの夢でした」
憑坐の記憶には、愛しい想い出しかなかった。
出逢ってすぐにつきあい始めた二人の恋が、愛に変わるのに時間は必要なかった。
どちらも愛しさを隠さずに、諍いもほとんどなかった。
幸福な時間を過ごしてきた憑坐達に降りられたことを感謝しなければ。
「この憑坐は、妻を本当に愛しているのだな。愛おしい想いが溢れて、私まで嬉しくなる」
優しいくちづけが降りてくる。
咲耶比売は幸せな気持ちでそれを受け入れる。
幸福な時間。
幸福な現実。
憑坐達と同じように、自分達も幸せだった。
「もう往かねば」
名残惜しげに瓊瓊杵が妻から離れる。
「いっていらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
穏やかに咲って、瓊瓊杵が扉の向こうに消える。
咲耶比売は階段を下りる足音を目を閉じて聞いていた。
階下で扉の開閉の音がした。
そして、辺りはまた優しい沈黙に包まれる。
「……」
咲耶比売はまた、穏やかな眠りの淵にいた。
身籠もった現身の身体は、よく眠くなる。
だが、咲耶比売は、眠るのが好きだった。
夢の中でなら、いつでも姉比売に会えるから。
微睡みの中で、いつも、心は姉とともに在れる。
だから、哀しむことなど何もないのだ。
幸福な余韻に浸りながら、咲耶比売はもう一度横になり、微睡みの中に落ちていった。
美しい木々に、花々に囲まれて、なお美しい山津見の比売神が在る。
ぬばたまのような濡れて煌めく瞳が、愛しげに世界を視つめていた。
咲耶比売は、姉比売の姿を視つけて、駆け寄る。
――お姉様、何処にいたの?
――あの方をお視送りしたの。根の堅州国に戻ってしまわれるから。
咲う比売神は、何処か寂しげに視えた。
咲耶比売は、これが夢だと気づく。
これはまだ、自分が瓊瓊杵様と出逢う前、名を取り替える前の、過ぎし世の夢。
そして、自分達は半身同士。
かつての姉の想いが伝わってきて、懐かしいと同時に切なくなる。
――お姉様、寂しいの? 一緒に往きたいと思っているの?
自分の不安を視透かすように、姉比売が咲う。
――私は何処にも往かないわ。ずっとそなたと、豊葦原に在るの。
そうだ。
姉は、この山津見の国津神を統べるのだ。
根の堅州国になど往くはずがない。
――よかった。私、少しあの方が怖かったの。お姉様を連れていってしまいそうで。
自分の言霊に、姉比売が咲う。
――あの方の、何を恐れるというの? 荒ぶる神の御子とは思えぬほどお優しい方よ。誰よりも私を想ってくださるわ。だからこそ、無理に私を根の堅州国に連れていこうと決してなさらない。私の我が儘を優しく受け止めてくださる――そのような方、八島士奴美様以外におられないわ。
そう語る姉比売の心は、すでに自分にはない。
姉比売は、ただ物思いに囚われて、愛しい背の君が去った後の美しくも虚ろな世界を視つめている。
きっと、留まって欲しいのだ。
あの方に。
此処に。
この、豊葦原に。
何故駄目なのだろう。
何故に、あの方は根の堅州国になど往かれるのか。
すでに、荒ぶる神が嫡妻である櫛名田比売を伴って根の堅州国へ去って永き時が流れた。
根の堅州国の女王となるべき須勢理比売が大国主とともに豊葦原を治める代わりに、根の堅州国に在らねばならぬというのか。
荒ぶる神の御子は、あの方だけではあるまい。
兄弟神の内の、何方かが治めればよいのだ。
――あの方が、必ず根の堅州国に必要と言うわけではないのでしょう?
自分の問いかけに、姉比売は静かに頭を振る。
――優しい方だから、きっと皆から必要とされているわ。それに、国を治めるべき定めの方だもの。豊葦原は妹比売に譲って、根の堅州国を治めることになりそうだわ。
姉比売が幾度願っても頷いてはくれぬ、優しくて強い方。
――一緒に往こう、そなたがいてくれれば、私はそれでいい。
不意に、視界が切り替わる。
目の前の、この方は愛しい背の君――八島士奴美様。
そして、自分は今姉比売を通してこの方を視ている。
いつも笑みを絶やさぬと聞いていた優しい容が、今は真剣に姉比売を捕らえている。
伸ばされたその手を、とりたがっている姉比売がいる。
だが、その手を伸ばせずに言霊を継ぐ。
――いいえ。貴方が留まって。だって、貴方は本来根の堅州国に在るべき方ではないでしょう? 八島士奴美――その名の通り、この大八洲の御霊となるべき方。私とともに――『木之花咲耶比売』とともに、この豊葦原で山津見の国津神を治めてください。
――それはできぬ。すでに豊葦原は我が妹須勢理が大国主とともに治めている。妹とは、争えぬ。
その眼差しは、苦しみに満ちていた。
どこまでも優しい方。
だからこそ、愛したのだ。
全て捧げてもいいほど、愛したのは貴方だけ。
それなのに、何故、私達はともに在ることが出来なかったのだろう。
愛しさと同じだけ、哀しみが溢れてくる。
愚かな自分は何も視えていなかった。
自分の怒りや憎しみ、哀しみだけで、貴方の痛みを、苦しみを視逃した。
どれほど愛されていたか、気づけなかった。
どうすれば、自分は、貴方を救うことが出来たのだろう――
頬を伝う涙に気づいて、咲耶比売は目を開けた。
「――」
起き上がって辺りを視回しても、そこには誰もいない。
どんな名残もない。
それなのに、すでにいないはずの姉の心が、最後に伝わってきた。
自分が視る夢は全て、思い出の中の姉だけだったのに。
「お姉様……?」
ベッドの向かい側にあるドレッサーの鏡には、自分の姿が映る。
それは、憑坐の姿ではなく、神代の頃の自分だった。
姉比売とうり二つの、美しい容が、泣いて救けを求めているようにも視えた。
否――これは自分ではない。
美しいぬばたまの瞳が、じっと自分を視据えている――
「お姉様――」
思わず手を伸ばして、咲耶比売は我に返る。
鏡に映っているのは、憑坐の――坂崎綾の姿だけだった。
今のも、夢――?
「――」
有り得ぬはずの夢を視て、咲耶比売はどうしていいのかわからなくなった。
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