高天原異聞~女神の言伝~

ラサ

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第六章 黄泉つ神々

10 天女の羽衣

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 美しい天女の舞。
 神田比古かむたひこは、神々を惑わすその舞を、自分のためだけに舞わせるのが好きだった。
 他の誰にも視せずに、ただひたすら、自分のためだけに。
 優雅な指先が比礼ひれを揺らめかせる。
 澄み切った空の下、空を舞う舞比売の指に、両腕に、絡む比礼は肘から後ろへと風をはらみ、煌めきながら典雅に動く。
 足首に巻いた宝玉の飾りがくうきざはしを刻むごとにしゃらりと鳴り響く。
 高く結い上げてから下ろした艶やかな髪が舞に合わせて揺れるのを視るのも気に入りの一つだ。
 近づいて、そのすらりと白い腕を掴んで引き寄せる。
 先ほどまで喜びに満ちあふれていた天女の容が、舞いを中断させられて、今は不機嫌に自分を睨みつけている。
 その表情も麗しく、そそられる。

――そなたはいつも、私に舞えと言いながら、舞い終わるまでまで待ったためしがない。

――待ちきれぬのは、そなたの美しさのせいだ。美しい舞が、俺を急き立てる。

 舞で上気した肌は熟れた桃のように滑らかで、馨しく匂い立って自分を誘う。
 乱れた薄絹の舞装束の合わせに手を差し入れると柔らかな内腿の奥はすでにしっとりと濡れていた。

――宇受売うずめ。そろそろ俺の妻問いを受けてくれ。

――このままでは、駄目なのか。私はそなたといられればそれでよいのに。

――このままでは、俺が耐えられん。そなたの傍にいつでもいたい。いつでも視て、触れていたいのだ。

――妻にならずとも、いつでも触れているではないか。こうして触れるのを許したのは、今はそなただけだ、神田比古。

――だからこそだ。そなたが俺のものだということを皆に知らしめたい。俺が死ぬまで、ともにいてくれ。死んだなら、天へ返るがいい。だから、それまでは地上で、俺に囚われてくれ。

 困ったように、宇受売は咲った。

――そなたのような男が、すぐに死ぬはずがない。私を天へ返すつもりなどないくせに。

 空を蹴って、宇受売が神田比古から離れる。
 だが、神田比古の大きな手が宇受売の剥き出しの脹ら脛をとらえ、白く美しい足の甲にくちづける。

――ああ、宇受売……天になど渡せぬ。俺が生きている間は、決してそなたを誰にも渡さぬ。

 大きく息をついて、宇受売はそれ以上抵抗を止めた。

――仕様のない男……では、そなたの気が済むまで、付き合うことにしよう。

 そうして、引き寄せられるままにその腕に囚われ、自分からも腕を伸ばしその顔を引き寄せる。
 受け入れられた喜びに、神田比古は抱きしめる腕に力を込める。
 唇が優しく重なり、やがてそれは甘く、深く、執拗になる。
 幸福だった。
 目の前の幸福に、ただただ、酔いしれていた。

 終わりが来るなど、考えることもなく――





 木之花知流比売このはなちるひめが消えた後。

「宇受売、何か来る」

 唐突に神田比古が告げた。

「神田比古?」

「視よ、闇の扉だ」

 神田比古が指さしたのは、闇の異界の扉だった。

「建速様!!」

 宇受売の声と同時に、神々の視線が闇の異界の扉に集まる。
 異界の扉に、白い亀裂が斜めに走っていた。
 それは、扉の前に立っていた比売神を斬った、炎の剣の神威の名残だった。
 亀裂は大きな一筋からゆっくりと幾筋も広がり、闇を砕くかのように扉いっぱいに広がった。
 そして。

「!?」

 内側から扉が弾けるように砕け落ち、中から真紅の炎と白皓の炎が軌跡を描いて飛び出してきた。
 一方は瓊瓊杵のもとへ。
 もう一方は建速のもとへ。
 白い炎に包まれて、慎也の姿のままの伊邪那岐の神霊が己の現身うつしみの肉体へと飛び込んだ。

「ああっ!!」

 瓊瓊杵がその衝撃に膝をつく。

「瓊瓊杵様!!」

 傍らの咲耶比売も膝をついて夫を案じる。
 衝撃に息を乱してはいるが、瓊瓊杵は咲耶比売に微咲む。

「大丈夫だ……祖神様が戻られた。祖神様の神気と神威を感じる」

 もう一つの炎は建速が持つ剣へと吸い込まれ、刀身を彩っていた炎も同時に消えた。

「――」

 荒ぶる神は静かに剣を鞘に納めた。
 何故、火神が祖神を護ったのかが気になるところだが、今はそれどころではない。
 黄泉国全体が、無音の内に大きく震えた。
 何かが、解き放たれた。
 これは、かつて伊邪那岐を追った黄泉軍よもついくさであろう。

「大神津実の処へ!!」

 荒ぶる神の言霊に、全ての神々が黄泉国の大門の前から消え、瞬く間に桃の木の立ち並ぶ路へと戻ってきた。
 黄泉路では、未だ音なき振動が空間を震わせていた。

「黄泉軍が来る。千引の岩まで神威を使って戻るのだ」

 宇受売が荒ぶる神の前に跪く。

「私が時間を稼ぎます。建速様は祖神様を連れて先にお往き下さい!!」

 宇受売が禍つ霊の比売神のように憑坐を捨て、神霊となった。
 かつてのように高く結い上げた髪も、舞装束も、初めて高天原から天降りし時のままに、美しい巫女神の神霊が黄泉路に顕れる。

「私の憑坐をお願いします。お早く!!」

 石楠が宇受売の憑坐を抱き上げる。
 葺根を先導に、神々が神威とともに駆けて往く。
 荒ぶる神は宇受売の神霊に向かって言霊を発した。

「必ず戻れ――ぎりぎりまで待つ」

「戻ります、必ず」

 宇受売は艶やかに微咲んだ。



「神田比古、なぜ、往かぬ?」

 傍らに在って動こうとしない神田比古に、宇受売は怒ったように声をかける。

「俺が往ってどうなる。俺は死神ししんなのだから、現世には戻れぬ。ここでそなたを手伝おう。黄泉軍と戦うことぐらいできようぞ」

 神田比古が咲って、杖を構える。
 

 黄泉軍――それは、黄泉大神と言われる闇の主が黄泉国の闇を使って創り上げた命なき命。
 人間が捨て去った情念や憎悪を吹き込んだ人形ひとがた
 九十九神よりも劣る、神とも呼べぬ念である。
 それでも、後から後から湧き出るように出てくるのは、主の命に忠実であるからに他ならぬ。
 伊邪那美を追い、連れ戻すのが彼らの役目。
 邪気を祓う桃の木も、いまはその霊威を鎮め、微睡みの中にある。
 ここを越えられては、現世まで追いつかれる。
 桃の木を背に、宇受売は黄泉国から追ってきた黄泉軍に対峙する。
 命を刈り取る大鎌を持った黄泉軍を、空を蹴って斬り倒す。
 呆気なく、大鎌が落ち、斬られた黄泉軍が霧散する。
 しかし、しばらくすると大鎌が持ち上がり、また黄泉軍が人形を創り上げる。

「こやつらも、死なぬのだな!!」

「命なきものだ。消えるだけで、また闇から戻るようだな」

 神田比古は襲いかかる黄泉軍を次々と杖で打ち倒していく。
 きりのない攻防を、繰り広げる宇受売と神田比古。
 だが、徐々に黄泉軍の戻る速さが衰えてきた。
 さすがに神威を込めて打ち倒されれば、闇の神威も再生力が衰えるのだろう。
 不意に、人形が大鎌を捨て、一斉に神田比古に飛びかかった。

「何!?」

 驚いた神田比古が杖で打ち倒すが、間に合わない。
 足と手に、霧散したはずの闇が人形を取ることを諦めて絡みつく。
 神田比古の手から、杖が落ちた。
 そのまま、神田比古の腕を、足を、闇が貫き、縛りつける。

「神田比古!!」

「俺のことは構うな。こやつらには、俺は殺せん。俺はすでに死んでいるのだ。こやつらの目的は俺の動きを止めることだけだ。戦え、宇受売。成すべきことを為せ」

 神田比古の言霊通り、闇は神田比古の動きを留めたのみで、それ以上は何もしない。
 宇受売は両手に持った剣を逆手に持ち替え、

「よかろう。黄泉軍よ。天津神の神威、しかと見せてやる!!」

 黄泉軍の中に飛び込んだ。
 先ほどとは全く異なる速さで、宇受売は空を飛び回り、黄泉軍の中に飛び込んでは、神威で斬り倒し、また、飛びすさる。
 天津神の神威は衰えることを知らず、いよいよ強く、輝くように煌めいた。

 薄桃色の花びらが舞い散る。

 その中で黄泉軍と戦う宇受売は、さながら舞うように美しかった。
 神田比古はその姿を目に、記憶に、焼き付ける。

 きっともう、二度とまみえることはないだろう。
 これが、最後の愛しい者の舞う姿だ――





 宇受売の最後の一突きが、黄泉軍を全て霧散させた。
 同時に、神田比古を足止めしていた闇もかき消える。
 そこで、ようやく宇受売は地に足を着け、神田比古に駆け寄る。

「さすが天津神随一の巫女神。戦う姿も舞うように美しい」

「戯言を――大丈夫なのか?」

「傷つかぬさ。俺はすでに死神だぞ」

 宇受売が神田比古の手を視ると、確かに闇に貫かれた手には何処にも傷跡はなかった。
 同様に足元を視ても、甲には何もない。
 闇は死神を傷つけない。
 改めて、宇受売は神田比古が自分とはもう違うのだと悟った。

「別れの時だ、宇受売」

 穏やかな声に、宇受売は否とは言えなかった。

「共には、往けぬのか……」

「往けぬ。俺が現世に戻るなら、記憶は失われる。そしてまた、お前を豊葦原に縛りつけてしまう」

「縛りつけてなど――!!」

「それでも、天が恋しいだろう?」

「――」

「もうよい。返れ、宇受売。俺を捜して、こんなに永く豊葦原に留まるとは……そのようなこと望んではいなかった。だから最初に、言霊に誓った。死ぬまでは傍にいて欲しいと。俺が死んだら、天に返っていいと。そなたの返りたい場所へ返れ。それは豊葦原ではない。高天原だ」

 宇受売の言霊を遮り、神田比古は懐から比礼を取り出した。
 ふわりと風に揺れ、宇受売の肩にかけられる。
 比礼の神威により、宇受売の身体がふわりと浮き上がる。

「神田比古」

 淡く光るそれは、かつて宇受売が神田比古へ与えたもの。
 それは、彼らの誓いそのものだった。

「天へ返るための、そなたの羽衣を返してやる。忘れるな。それが俺の、そなたへの愛なのだ」

 堪えきれずに宇受売が両手を伸ばし、神田比古の両頬を挟んで覆い被さるようにくちづけた。神田比古が宇受売の腰に腕を回し引き寄せ、くちづけに応える。
 最後のくちづけは、あの時のままに優しく、甘く、愛おしかった。
 そして、互いは互いに悟った。

 果たされぬと知っていても、誓っただろうと。
 たとえどれほどの時が過ぎ逝きて、永遠に独りでも、想い続けるだろうと。

 名残惜しげに唇が離れ、神田比古が比礼の神威で宙に浮かぶ天女から手を放す。

「新たな黄泉軍が来る。奴らは神霊を持たぬ。この木の神気も今なら越えられる。往け、宇受売」

「神田比古――」

 神田比古の背後に目をやり、近づいてくる黄泉軍に気づき、躊躇うも宇受売は泣き出しそうな顔で背を向けた。
 宇受売の神霊が、光の矢の如く飛んでいく。
 その後を、黄泉軍が追いかけていく。
 美しい軌跡を、道往神は咲いながらいつまでも視送っていた。




 暗闇の中、浮かび上がる路を頼りに、宇受売はもの凄い速さで千引の岩へと向かった。
 その後ろを黄泉軍が追いかけてくる。
 さすがに幽世では、宇受売の比礼を以てしても引き離せない。

――宇受売、急げ。岩が閉じる。

 荒ぶる神の神話しんわが届く。
 顔を上げると、遠くに神気が感じられた。
 千引の岩だ。
 岩の手前に荒ぶる神がいた。
 岩の裂け目は開いていたが、徐々にその狭間は狭まっていた。
 このままでは、黄泉軍も岩を越えてしまう。

――建速様、岩の向こうへ。黄泉軍を蹴散らしてから飛び込みます。

 宇受売を追いかけてきた黄泉軍の間に飛び込み、一斉に群がってきたところを神威によって弾き飛ばす。
 縦横無尽に飛び回り、黄泉軍が蹴散らされ、霧散する。
 それから、千引の岩の裂け目へと再びとって返した。

――宇受売!!

 すでに荒ぶる神の姿はない。

 千引の岩が閉じていく――

 宇受売の神霊は、紙一重でその隙間を飛び抜け、岩の向こうの自分の憑坐の中へ飛び込んだ。





「またも、逃したか……」

 美しい容が苦痛を堪えるかのように歪む。
 だが、初めから何処か諦めていたような声音にもとれた。
 禍つ霊の比売神を逃し、伊邪那岐の神霊も現世の身体に返った時点で、上手くいかないことは容易く想像についた。
 完全に癒えぬ身体で神威もろくに使えぬ自分では、荒ぶる神や天津神、国津神の神威には到底勝てぬ。
 好機を逃したが、それでも、まだ負けたわけではない。
 その証拠に、癒えぬ身体でも、不思議と闇の神威が以前より強く感じられる。
 完全に癒えれば、現世にも降りられるであろう。
 自分の内に沸き上がる静かで強大な神威が、いずれ太古の女神を取り戻すことを証しだてするかのように漲るのを待てばよい。
 ふと、傍らに控える九十九神に、闇の主は目を向けた。
 深い眠りで癒えたせいか、九十九神さえ力溢れているように視える。

「九十九神、そなたら以外に、此処に来たか?」

――いいえ。此処にいらした方はおりませぬ。

「そうか――」

 闇の玉座に深く背を預け、目を閉じる。

 有り得ぬはずの、夢を視た。

 とても甘美で、幸福な夢であった。
 その余韻が、自分を惑わせているのか。

――主様。まだご気分が優れぬのですか。

「大事ない。もう一度、眠る。起きたなら、豊葦原に降るぞ。今度こそ、我の手で伊邪那美を取り戻して視せよう――」

 今度こそ。
 欲しいものを手に入れる。

 闇の主はまた、深い闇の眠りに落ちていった。



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