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第六章 黄泉つ神々
3 遠い誓い
しおりを挟む――あの方が往ってしまう!! 日狭女、追ってちょうだい!! あの方を引き留めて!!
そう乞われて、従った。
八雷神を連れて、先に父神を追いかけた。
だが、黄泉神である自分を以てしても、父神に追いつくことはできなかった。
追い縋る自分の言霊も届かぬよう遠ざかっていく背中。
おかしい。
この言霊が、届かぬはずがない。
何故父神は自分を視て、まるで汚らわしいものを見るかのような眼差しを向けるのだ。
紛れもなく、女神の子である自分に。
そして、黄泉国に在りて、自分達が追いつけぬなどあってよいはずがない。
どのような手妻で、追いつけぬのか。
闇の神威を使って、黄泉路を駆ける。
だが、父神を追う半ばで、美しい桃の花が往く手を遮る。
これは、邪気を祓う花。
闇の神威を使う自分達は、この花の先には往けない。
母神が追いつく。
すでに死して黄泉神となった母神にも、この花を越えて追っては往けぬ。
母神は涙を拭いもせず、泣き叫ぶ。
父神の名を、喉も裂けんばかりに呼んでいる。
それでも、振り返らない。
やがて消え逝く姿。
母神は悲鳴を上げてその場に頽れる。
「母上様!!」
気を失った母神を抱きしめ、日狭女は座り込んでいた。
背後から、濃い闇の気配がする。
振り返ると、咲みを浮かべた闇の主の姿が映る。
美しい容に、優しげな咲み。
「父上様に、何かしたのですか――」
唇が、さらなる咲みを象る。
それは、自分の問いを肯定していた。
この方が、母神を手に入れるために何かしたのだ。
そして、我々が父神に追いつけぬようにした。
「女神を部屋へ。これでもう、現世への未練は断ち切れるであろうよ」
そして、そっと踵を返した。
濃い闇の気配は消えて、後はただ、散る花が暗闇に浮かび上がるのみ。
それでも。
――そうはなるまい。
日狭女は思う。
母上様は、父上様を忘れることなどできない。
たとえ、父上様がそうなされても、母上様には無理だ。
それが何故、闇の主にはわからぬのだろう。
憐れな母神を抱きしめて、日狭女も泣いた。
「神田比古、何故――」
「待て、宇受売」
神田比古が手を挙げ、それを留める。
「歩きながら話そうではないか。そなたらは、急いでいるのだろう?」
宇受売は、咄嗟に振り返る。
背後には、荒ぶる神らも立ち止まり、自分達と距離を置いてくれている。
そんな彼らに一礼すると、
「わかった」
素直に宇受売は頷いた。
神田比古も頷き、肩まである長い杖をつきながら歩き出す。
その横を、宇受売もついていく。
「そなたの憑坐は、顔立ちも少し似ているのだな。すぐにわかったぞ」
宇受売を視下ろす神田比古の眼差しは、愛しさに溢れていた。
横から視上げる宇受売は、何だか、泣き出したいような気分になった。
「そなたも、変わらん」
その眼差しを視返すのが辛くて、宇受売はやや視線を下げる。
「そういうわりには、俺にすぐに気づかなかったようだが。初めて逢った時とて、俺は面をつけていたのに」
「面が違うではないか。あの時は、そなたは獣の面をつけておった」
「面をつけているからこそ、すぐにそなたにはわかると思ったが――永い時が流れたから、仕方あるまい」
面白そうに咲い、神田比古は先を続ける。
「何故、ここにいるのかと問うならば、簡単だ。神去りし後は、この黄泉路の道案内となった」
「――私はそなたがすぐに黄泉返ると思っていた」
宇受売は、呟くように言った。
そう――すぐに黄泉返ると思っていたのだ。
だから、世界の理が代わり、それぞれの領界が隔てられようとしていても、随伴神達と共には高天原に返らなかった。
神田比古が黄泉返るのを、封じられるまで、捜し、待っていた。
それなのに、当の本人は豊葦原でもそうだったように、黄泉でも道往神となっていたとは。
何だか、腹立たしくなってきた。
「私は、ずっと待っていたのだ」
下から、自分を睨みつける宇受売に、神田比古は困ったような、嬉しいような、曖昧な表情をした。
「それは、悪かった。だが、俺は、正直そなたが待っていてくれるとは思わなかった」
「何故!?」
「誓ったではないか。最初の妻問いで。俺が生きている間だけ、傍にいて欲しいと。そう言って、渋るお前に妻になってもらったのだ。俺は死んだのだから、当然そなたは天に返ったと思っていた」
「神田比古……」
その言霊は、宇受売には衝撃だった。
確かに、妻問いでそう言われた。
だが、夫婦となって、背の君となった男に、そんなにあっさりと割り切られたのだと信じられなかった。
最後のあの時、ずっと待っていると言ったのは、必ず戻るから待っていろと告げたのは、互いの誓いは、何の意味もなかったのか。
「黄泉返りを、望まなかったのか……?」
神田比古は驚いたように宇受売を視つめる。
「全てを忘れて? それは無理だ。俺には、生きていた頃の記憶が愛おしい。たとえ全てがもう戻らぬとわかっていても、忘れて只人として生きていくことなどできぬ。そなたにはできるのか?」
「――」
宇受売には答えようがなかった。
自分達が死ぬなど、考えたこともなかったからだ。
人間に神として祀られ、神域に封じられはしたが、それは死ではない。
人間には、神は殺せない。
封じられることがあっても、死ぬことはない。
造化三神を含む別天津神と神代七代と言われる神々の末はとても強い神威を持つ神々だからだ。
そして、強き神々の末である天津神には、死は無縁のものだった。
神は、神にしか殺せないのだ。
そして、高天原の神は、決して互いに争わぬ。
天の理に従うため、殺し合うほどに争う理由がないのである。
だが、豊葦原は違う。
弱き神々は、死を迎える。
美しき国を争い、殺し合う。
天津神が視過ごしてはおけぬほどに。
豊葦原にあっては、神々さえも殺し合い、死んでいく。
高天原にあっては、神々は争わず、死ぬことはない。
天と地は、神々の末でありながら別の理の中に在る。
天津神と国津神は死によって永遠に隔てられてしまったのだ。
それは、祖神伊邪那美の呪いか。
初めて死を迎え、天を追われ、死の女神となった母神の想いが、恋しい子らを黄泉へと引き寄せるのか。
「私を許さずともよい……」
その言霊に、神田比古は眉根を寄せる。
「何故そのようなことを言う? 俺はそなたを恨んだことはない。そなたが俺に許されぬほどの何をした?」
「――」
神田比古は、自分のせいで死んだのだ――そう宇受売は言えなかった。
だが、宇受売の表情から心を読んだように、神田比古は頭を振る。
「俺が死んだのは、そなたのせいではない。俺の甘さが、死を招いたのだ」
「だが――」
豊葦原を奪いに来た天津神の随伴神に心奪われたことをよく思わぬ国津神によって、神田比古は海に引き込まれ、殺された。
天孫の日嗣の御子が豊葦原を統治するのを、国を奪われたと思う神もいたことは事実なのだ。
宇受売にはわからなかった。
もともと豊葦原は、天津神である伊邪那岐と伊邪那美が産んだものだ。
そこにいる神々も、もとは天津神だったのだ。
豊葦原を愛し、そこに住まうのはいい。誰でも思うところで暮らせばいい。
だが、天孫の日嗣の御子は國産みの女神の末であり、正当な豊葦原の後継者なのだ。
何故、奪われたと思うのだろう。
豊葦原は国津神のものではない。
人間のものでもない。
彼らは争うことなく統治することはできない。
血を流さねば、殺し合わねば、豊葦原に君臨できない。
だからこそ、認めることができない。
だからこそ、豊葦原は、高天原に在らせられる女神の末のものなのだ。
揺るぐことなく。
紛うことなく。
それが、天の理だった。
「宇受売。俺は幸せだった。共に在れた日々は短かったが、悔いなどない」
その言霊は、譎りなく響いた。
「得難き天女を得たのだ。俺ほど幸福な国津神もおるまいよ」
「神田比古――私も幸せだった。どんなに短くとも、共に在った日々を忘れることなどできなかった」
それでもと、宇受売は思う。
神田比古の妻問いを受けなければ、彼は神去ることはなかったのだ。
神田比古とともに日嗣の御子のもとを去らねば。
日嗣の御子が、誤解し、嫡妻を冷たく追い返さなければ。
嫡妻が、産褥で神去ることがなければ。
もっと早く、神田比古のもとへ戻っていれば。
神田比古を喪ってから、宇受売は豊葦原を彷徨いながら問い続けた。
全てが、宇受売の中で未だに後悔として燻っている。
「――」
そっと、宇受売は神田比古の腕に触れた。
死神で在っても、温もりは変わらない。
視返す眼差しも。
微咲みも。
その心も。
それでも、なぜだかひどく、互いが遠くに感じられた。
それほどの時が過ぎ逝きたのだと、宇受売はまた泣きたくなった。
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