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第六章 黄泉つ神々
2 道往神
しおりを挟む――往ってしまうのか。
――すぐに戻る。日嗣の御子様が嫡妻様を娶ったと言うので、言祝ぎと新しく住まう館の様子を視てくる。
――一度往ったら、すぐには戻ってこれぬだろう。
――そうだな。だが、できるだけ早く戻ってくる。これを置いていくから、待っていてくれ。
――この比礼は……?
――私が高天原から降りし時に身に付けていたものだ。
――ああ、そうだ。初めて出逢った時も、そなたはこれを身に纏うていた。その美しさに、一目で心を奪われた。あれから俺は、ずっと幸せだ。それなのに、そなたと離れるなど耐えられぬ。俺をおいて、天へ返ってしまうような気さえする。
――何を莫迦なことを。我々は夫婦となったのだぞ。背の君をおいて天へ返るわけがなかろう。
――だが、不安なのだ。このまま離れたら逢えなくなるのではないかと。俺のような国津神が、そなたのように美しい天津神を得るなど、不相応なのではないかと。
――これが証だ。そなたのもとへ必ず戻るという。私はその比礼なくば天へは返れぬ。だから、天へは返らず、必ず戻ってくる。そして、そなたと共に暮らしていく。
――では、待っている。そなたが戻ってくるのを、俺はずっと待っている。
幸せだった日々。
あまりにも短く、今は遠い。
その誓いが果たされることは、なかった。
自分のせいで。
果たされぬと知っていたなら、自分は誓っただろうか。
言霊が互いを縛りつけ、未だ何処にも往けず、自分は今もあの日の誓いを忘れずにいる――
突如美咲の中に顕れた神は、伊邪那美ではなかった。
美咲を憑坐として降りた気配はない。
まるで魂を入れ替えたかのような顕れ方に、荒ぶる神以外の神々も戸惑っていた。
「母上様は何処に!?」
最も慌てたのは久久能智と石楠である。
月神に意識のない美咲の身体に入り込まれてから、彼らは美咲の周囲に密かに結界を張っていた。
それなのに、まるで結界など何の意味も成さぬように、美咲の意識は途絶え、別の神が顕れたのだ。
そして、永く豊葦原を流離ってきた荒ぶる神にもわからぬ神。
大抵の国津神なら、神気や神威によって、その名がわかる。
だが、伊邪那美とは別の神であるのに、それ以外は何もわからなかった。
神気さえ霞のように曖昧だ。
「母上様に仇なす者ではございません。母上様は、黄泉国に戻られるのを拒んでおられるだけです。戻れば、再び現世に返れぬことをご存じなのです。ですが、母上様が黄泉国へ往かねば、祖神伊邪那岐様の神霊は取り戻せますまい。それ故、私が代わりに参ります」
「そなたは、月読を追い払った神だな」
「さようでございます」
「何故美咲の中に在る?」
「いずれおわかりになりましょう」
女神が曖昧に微咲む。
その咲みは美しかった。
荒ぶる神は一つ息をついて、それ以上の追求を諦めた。
「今はそれ以上は語るつもりがないのだな――よかろう。美咲の――伊邪那美の身体を頼む。傷つけでもしたら許さん」
「お任せください。では、黄泉国へ。道往きは長うございます。憑坐を持たぬ建速様は、神気をお隠しくださいませ。神威も使ってはなりませぬ。闇の主に気づかれてしまいますので」
「わかった」
千引の岩の間を通って、神々は黄泉国へと向かう黄泉路の先へと辿り着いた。
やがて彼らの背後で静かに岩が閉じた。
辺りは闇に包まれ、物音一つない。
長く続く路のみが、暗闇の中浮かび上がるように視えるだけ。
「これが、黄泉路……」
葺根の呟きに、女神が咲う。
「ここは神々が通る路にございます。祖神伊邪那岐様がここを塞いだ故、祖神様以外、もう生きている神がこの路を降ることはございませんでした」
「では、我々が伊邪那岐に続いて戻る神になるだろう」
荒ぶる神の言霊に従い、神々が頷く。
そして、宇受売を先頭に葺根、美咲の中の女神、建速、闇山津見、慎也の身体を運ぶ石楠、久久能智の順に歩き出した。
黄泉路を降ると言っても、それはひたすら平らな路だった。
一行は黙って歩き続ける。
どれほどの時が過ぎたのか。
不意に先導する宇受売が立ち止まる。
「どうした、宇受売」
「葺根様、光が――」
路の向こうを指し示す宇受売。
そこに目を向けると、確かに小さな光が視える。
それは背後の神々にも視えた。
光は揺れながら徐々に大きくなってくる。
そして、大きくなるにつれ、それは神の姿を形取った。
建速が美咲の身体を自分の傍らに引き寄せる。
久久能智と石楠が慎也の身体を護る。
黄泉路にあって、光り輝く神が近づいてくる。
「誰だ!?」
宇受売が問う。
背後には葺根がついた。
輝く神が立ち止まる。
「我は黄泉路の道往神。死者の魂を黄泉国へ導く神なり」
くぐもった声が答える。
光が淡くなり、消え去ると、杖を手にしたその姿が顕れる。
屈強な体躯を持ったその姿は、手足が長く、均整がとれていた。
しかし、その容は恐ろしい面で隠されていた。
血のように紅く塗られたその面は、目は視開き、つり上がっている。
口は耳元まで開き、何か悪しき言霊を叫んでいるようにも見えた。
「只の人間ではないな――その神気は。神が黄泉路を降るなど、絶えて久しいというのに。生神が何故黄泉路を降る? 死神でもあるまいに」
面をつけて話すからか、響きのよい声はくぐもってしか聞こえない。
「黄泉国に攫われた祖神様の神霊を取り戻すために、我々は黄泉路を降らねばならぬ」
宇受売の両手にはいつの間にか剣が握られていた。
邪魔をするなら、この神も倒さねばならない――そう決意していた。
だが、宇受売の剣を視ても、道往神は動じることも、臆することもなかった。
「そうか。では案内致そう。ついてこい」
肩を竦め、踵を返して歩き出す神に、葺根が拍子抜けしたように宇受売に話しかける。
「宇受売、あれは黄泉神か?」
「そのようだが、あれは……」
宇受売が記憶を辿るように遠い目をする。
記憶の中の、大切なものと重ね合わせるように。
「宇受売?」
「葺根様。皆様方と一緒に、離れてついておいでなさいませ。私は、あの者と話さねばならぬことがあるのです」
ふらりと、宇受売は先を往く道往神のその背を追う。
「宇受売、おい!?」
「いいのだ、葺根」
背後からかかる声。
「建速様?」
「あれは、きっと宇受売が高天原に返らずに捜し続けた者。黄泉国に着くまではそっとしておけ」
「――は……。建速様がそう仰るならば」
宇受売は先を往く神に追いつくと、杖を持つその手を掴んだ。
背の高いその男神を視上げ、躊躇うように問う。
「私を……憶えているか……?」
「そう言うそなたは、俺を憶えているか?」
面の奥から漏れる声。
「俺の名を、憶えているか?」
宇受売は、小さな声で、だが、はっきりと告げる。
「神田比古……」
道往神は、空いている手で、ゆっくりと面を取った。
面には似つかぬ、男らしくも美しい顔立ち。
そこに視えたのは、確かに、宇受売の視知った容であった。
「宇受売――久しいな」
懐かしい咲みで、男神は微咲んだ。
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