高天原異聞~女神の言伝~

ラサ

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第五章 微睡む神々

9 最後の夢

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 闇からするりと出でたその時、眼前の光景に、暫し言霊を失う。
 ひっそりと在るその小さな湖で、かつて過ごした時間を思い出したからだ。
 美しき湖面の傍らには身を横たえられるほど大きな岩。
 そこに座り、月を眺め、湖を眺めた。
 それぞれの領界が隔てられてから、来ることもなくなった場所。
 永い時の流れさえ感じさせずに、静謐と寂寥をたたえ、そこに在る。
 何も変わらないような錯覚に囚われそうになる。
 故に今も、そこに在るべき姿を探す。

 かつて、在ることが当たり前だったその姿。
 そして、永い間視ることができなかったその姿を。

 だが、かつてその岩に座り、仰ぎ視ながら自分が迎えた姿はない。
 感じるのは、弱弱しい神気しんきのみ。

「――」

 音を立てずに湖岸に近づく。
 湖と岩の間に身を潜めるようにうずくまるその姿を視つけて、

よる……」

 思わず漏れた言霊に、はっとこちらに視線を向けるそのかんばせは。
 視る者を惑わすほどの美貌は些かも損なわれてはおらず。
 けれど、その眼差しは今は温かさを感じることができなかった。
 目合まぐわうその時、堪えきれぬ何かが、一瞬だけ心を占める。
 その感情を何と呼べばいいのか。

夜見よみ……」

 自分をそう呼ぶのは、今も昔も独りだけ。
 その特別な、互いだけが呼ぶ名を、許したことが過ちだったと、今も思いながら抗えぬ。
 傍らに膝をつき、驚いて自分を視上げる容を視下ろした。

「夜よ、またここに来るとは――今度は何を命じられた?」

「――そなたに関係なかろう」

 視る者を惑わせる美しい容が僅かに歪む。
 蒼白に視えるのは、月明かりのせいか。

「いや、ある。かつてそなたは高天原の命によりここに来た。今度は伊邪那美いざなみを護るように言われたか」

「そなたに関係ないと――!?」

 言霊が途切れ、ゆらりと目の前の身体が傾ぐ。
 咄嗟に己の身を支えようと岩壁に伸ばした美しい手を、掴み、自分へと引き寄せる。
 いとも容易く、細くしなやかな身体が近づく。

「放せ!!」

 声音は鋭かったが、さほど力を入れているわけでもない自分の手を、振り払えぬほど憔悴しているように視える。

「私の手を振り払えぬほど弱るとは……何があった?」

「放せ――」

 唇を噛みしめ、腕を振り払えぬまま、それでも抵抗して背を向ける。
 その頑なな身体を、後ろから抱きすくめる。
 恐怖に身体を強ばらせ、逃れようとする身体を、それでも逃さぬようにきつく抱きしめる。

「放せっ!!」

「何もせぬ。そなたの陰の神気が根こそぎ奪われている。それでは、戻ることもできまい」

「――」

 本来、男神の神気は陽であり、女神の神気は陰である。
 しかし、この神はどちらをも併せ持つ。
 月が満ち欠けを繰り返すように、陰と陽が揺らぎながら共存する。
 女神のはらから産まれることなく、強大すぎる神威を与えられ現象した故か。
 そして自分も。
 男神でありながら、闇を司る故に、陰陽両方の神気を操り、力とすることができる。
 造化三神と並び立つほどの神威は、しかし、闇の領域でしか現象しない。

 どちらも不完全な神。

 だからこそ、心を寄り添わせたのか。
 どちらも相容れぬとわかっていたのに。

「そなたの愛しい母上様を取り上げることはせぬ。高天原は、父上様をお望みなのだ」

 以前とは違う冷たい声音に、やはりとも思う。
 かつて心を寄り添わせ、友と呼んだのは、全ていつわり。
 高天原の命で、自分を――黄泉国を探りに来たのだ。
 己の口からそう言ったのを聞いたのに、それ以外の真実など何処にもないのに、何故自分の心は足掻くのか。
 認めてしまえば、楽になれるのに。

「ならば、そなたは私の敵ではない。暫し癒えるまでこうしていろ」

「――」

 闇の神威が陰の神気を奪われた身体に流れ込んでゆく。
 腕の中の細い身体は、陰の神気が満たされても、身を強ばらせたままだった。
 神気が安定してようやく、腕の力を解く。
 弾かれたように離れていく温もり。

「礼など言わぬ」

 振り返らずに、そう呟く。

「礼を言われたくてしたのではない」

 応える自分の言霊にも、温もりはなかった。

「神気を削ってまで、高天原の――天照あまてらすの命に従うな」

 振り返った眼差しは痛みと怒りに満ちていた。

「気遣う振りなどするな!! そなたが欲しいのは母上様であろう!?」

「そうだ――留まれぬ月を欲して何になる。太陽を恋うて、追い払われてもなお天を巡る月が、堕ちるわけもない」

 どちらもそれ以上言霊を探せぬまま、沈黙だけが流れる。

「――」

 目の前に在った存在が応えを諦め、不意に消え失せる。
 後に残るは、静謐と寂寥のみ。
 まるで全てが儚き夢のよう。
 覚めてしまえば、何も残らない。

 それでは、駄目なのだ。

 だからこそ。
 伊邪那美を手に入れねばならない。
 黄泉の國産みをせねばならぬのだ。
 そのために、あらゆる手を使った。
 永き時を費やし、待った。
 そして今も、待ち続けている。
 今更、止められるはずもない。
 全ては自分の国の為。
 忘れ去られ、忌まれる死の国の為。
 死の女神となってもなお命を産み出せる太古の女神が必要なのだ。

「……」

 もう一度、夢の名残を追って天を視上げる。
 闇の中に、淡く浮かぶ欠けた月。

 どちらも満たされることはないとわかっていながら。
 それでも、美しい月を抱いていたいと願ってしまう。

「愚かな……」

 感傷を振り払い、闇へと身を滑らす。
 戻らなければならない。
 月明かりさえない暗闇の場所へ。

 己の在るべき黄泉の国へ――






「死せる神の国だと……」

 訝しげな荒ぶる神の声音に、須勢理比売が嗤う。

「そう、すでに、この国で生きている神は私だけ。他の神は皆死の眠りに就いた」

 建御名方と事代主が無事なのは、きっと人間の憑坐の中に在るからだ。
 神々は、この根の堅州国では生きられない。
 そのように、理が働いたからだ。
 唯独りの神として根の堅州国に君臨する――それが、この国の主として産まれながら、この国を捨てた自分への罰なのか。

 ならば、その理ごと、変えて視せよう。

「これが罰なら、もう十分に受けた。これ以上は、耐えられぬ」

「須勢理……」

 須勢理比売は、己の命をも懸けるつもりだった。
 いくらこの国の女王と言えども三柱みはしら貴神うずみこであり、荒ぶる神でもある父神に容易く勝てるはずもない。
 生大刀、生弓矢、天之詔琴という神宝かんだからがあっても、こちらの方が分が悪い。
 だが、ここで退くわけにはいかないのだ。

 闇の主が動くまで、時間を稼がねばならない。

 天孫の日嗣の御子さえ隠してしまえば、いくら荒ぶる神とてどうすることもできまい。
 さすがに黄泉国までは追っては往けぬのだから。
 ようやく還ってきた我が子に豊葦原を取り戻し、ともにこの病んだ国から出て往きたい。
 邪魔する者は許さない。

「父上様で在っても、許さぬ。私の邪魔はさせぬ」

 須勢理比売の神気が揺らいだ。
 神威が満ちる。
 同時に、荒ぶる神の神気も揺らぎ、神威が満ちる。

「理よ。根の堅州国の主たる須勢理が命ずる。我の望まぬ者を留めおくことは許さぬ。疾く去らせよ」

 闇が須勢理比売の背後から押し寄せる。

「理よ。我は根の堅州国に初めに足を踏み入れし祖神なり。理に叛くことなく暫し留めよ。我が望みを果たすまで」

 荒ぶる神の言霊が闇を押し留める。
 両者の神威がぶつかり合い、拮抗する。
 大気が震え、地が揺れる。

「母上!!」

「下がれ、建御名方。これは我の成すべき事」

「されど!!」

 二柱の神威は同質のもの。
 だからこそ、世界が悲鳴をあげる。
 結界の中でも、神鳴りが耳を劈く。
 それは、隔てられていた領界を打ち砕いた美しい神鳴りではなく、領界そのものをねじ曲げ、揺さぶる、断末魔の響きを含んだ凄まじい神鳴りだった。

「建速様!!」

「俺に構うな、宇受売、葺根。結界を護れ。美咲を護るのだ」

 揺れる大地に亀裂が走る。

「建速様、母上様が!!」

 久久能智の悲鳴が上がる。
 振り返った荒ぶる神は、意識のない美咲の胸元の勾玉が淡く光るのをとらえた。

「戻ってくるのか――久久能智、石楠、美咲が戻るまで持ちこたえろ!!」




 一方、須勢理比売も焦りを感じていた。
 闇の主が動く気配がない。

 木之花知流比売このはなちるひめは何を手間取っている?
 まさか、この期に及んで逃げたのか?

 世界を揺るがす神威は、何故か使えば使うほど、須勢理比売に苦痛を与える。
 この苦痛は何だ。
 この世界の理が自分を拒んでいるのか。
 そんなはずはない。

 ――これは警告なのだ。

 世界を壊すほどに抗うことを、理が拒んでいる。
 そのように永遠に自分を縛りつけるこの国が、世界が、厭わしくてたまらなかった。

 いっそ壊れるがいい、何もかも。

「母上様、それ以上神威を使ってはなりませぬ!! 死んでしまいます!!」

 事代主の悲痛な叫びにも、歪んだ咲みしか返せない。

「死んでも構わぬ。滅びるがいい、何もかも。この国に繋がるものは残らず我が消し去ってやる!! 事代、建御名方を連れて往け。豊葦原へ戻れ!!」

「母上!?」

「須勢理、無駄だ。世界を壊しても、そなたは豊葦原には返れぬ」

 憐れむような荒ぶる神の声音。
 憐れみなど、欲しくはない。

「いいや!! 返ってみせる!! 喩え神霊のみになっても、禍つ御霊となっても、豊葦原に返る!!」

 身体中を、苦痛が襲う。
 それでも、神威を使い続ける須勢理比売に、荒ぶる神はそれ以上何もできない。
 その時。

「奏上致す!!」

 ふわりと虚空に浮かび上がったのは、巫女神である天之宇受売命あめのうずめのみこと

「我は天津神にして天孫の日嗣の御子の随伴神ずいはんしん、天之宇受売なり。神代にて行われた國譲りに習い、再び大国主の末に挑む!! 返答や如何に!!」

「随伴神だと!?」

 建御名方が前に出る。

「卑怯な手で我を捕らえ、國譲りを誓わせた天津神が、今更何を申すか!?」

 天之宇受売が艶やかに咲う。

「確かに、あれは思兼の策。我は策を労すことはせぬ。今度は、我独りがお相手仕る。兄弟神で挑まれるがいい。我らの勝負で、豊葦原の支配権を決めましょうぞ。言霊に誓いまする」

「よかろう!! 言霊に誓う!! 我らが勝てば、豊葦原は大国主の末のものだ!!」

「建御名方!?」

 荒ぶる神と須勢理比売の神威が、誓約うけいによって霧散する。
 神鳴りが止み、俄に静寂が戻る。

「母上、誓約は成されたのです。ここは、私と事代主にお任せください」

「ならぬ!!」

 建御名方が、母神の手を取る。

「もとより豊葦原を奪われたのは、私の至らなさ故。どうか、私に再び豊葦原を取り戻す機会をお与えください。でなければ、どうして豊葦原に戻れましょう。
 御案じ召さるな。かつて父上様がこの生大刀と生弓矢で豊葦原を平定したように、私と事代主が豊葦原を取り戻して視せます。母上にも祖神様にも手出し無用。これは、天津神と国津神の勝負故に」

「よかろう。俺も須勢理も手を出さぬ」

「父上様!!」

「須勢理、誓約は成された。我ら神々は言霊に縛られる。抗うことなどできぬ。宇受売、独りで構わんのだな」

「もとより、國譲りは私が天照様に命じられしこと――初めから、私の成すべきことでございました。手出しご無用。神代で成すべきであったことを今日終わらせねばなりませぬ」

 建御名方がいく大刀を、事代主が生弓矢を構え、宇受売に対峙する。
 虚空に浮かぶ、三柱の神。
 神気が溢れんばかりに輝きを放つ。

建御雷たけみかづちがおらぬからとて、油断されるな」

 交差させた宇受売の手に美しい二振りの剣が顕れる。
 事代主が矢を放つ。
 それが、始まりの合図だった。



 神気が揺らめき、神威が満ちる。

 事代主が次々と神威を込めた矢を番え、放つ。
 身を交わす宇受売の剣がそれらを悉く薙ぎ払う。
 合間に建御名方が斬りかかる。
 息をつく暇もない。
 しかし、宇受売は片方の剣で生大刀を交わし、もう片方で生弓矢を交わす。
 その所作は恐ろしいほど素早く、目を奪うほど優雅に動く。
 さながら、舞うが如きに。
 美しき巫女神は、兄弟神を相手にしても何ら臆することなく剣を交える。

「久久能智、石楠、下がっていろ」

 神々の勝負を視上げる荒ぶる神が、振り返らずに言う。
 傍らの葺根が、不安げに虚空で戦う宇受売を視ている。

「建速様、宇受売に国津神を二柱も相手にせよとは、少々……」

「案ずるな」

 荒ぶる神が不敵に咲う。

「常に随伴神の先陣をきるのが宇受売なのは、あやつが一番強いからだ」

 神気が流星のように煌めき、流れる。
 宇受売の動きに翻弄され、建御名方の息が上がる。
 事代主の弓も、神威を込めているのに容易く弾かれ、かすりもしない。

「兄上!?」

 事代主の叫びに、建御名方は宇受売の剣に気づく。
 宇受売の攻撃を交わした建御名方が、事代主の傍らに、跳びすさる。

「――」

 宇受売が狙い澄ましたように、両者の懐まで跳び込む。

「!?」

 建御名方の生大刀が事代主を庇い、自分達に振り下ろされた宇受売の剣を両方受け止める。
 そのまま、剣を左から右へと払い、同時に宇受売をも引き離そうとした。
 宇受売はその動きに逆らわなかった。
 剣を手放す。
 そのまま、くるりと回転しながら建御名方と事代主の頭上を跳び越え、背後に回り、兄弟神の首を押さえ込んだ。

「建御名方!! 事代!!」

 須勢理比売の悲鳴にも似た叫びが空気を震わせる。
 兄弟神の手から生大刀と生弓矢が落ちる。

 宇受売の神威が放たれる。

「!?」

 引きずり出されるような感覚が兄弟神を襲う。
 錯覚ではない。
 実際に、天之宇受売の放った神威は憑坐から神霊を引き離そうとしていた。
 二柱の神は己の持てる神威の全てで抵抗した。

 神気が揺らめく。
 神威がぶつかり合い、捩れ、弾ける。

 だが、抵抗する兄弟神よりも、宇受売は強かった。
 宇受売の神威が、兄弟神の神威を押し退け、神霊を捕まえた。

「うああぁぁぁぁぁ――――――!!」

 兄神の抵抗が、叫びと共に大気を震わす。

「建御名方!? 事代主!!」

 宇受売が両手に神霊を捕まえたまま手を引く。
 輝くばかりの美しい神霊が、憑坐の身体から抜き取られた。
 抜け殻となった憑坐の身体が、ゆっくりと地に足を着ける。
 そのまま、憑坐の人間が倒れる。
 兄弟神の神霊も、抗うことなく、宇受売の神威によって陽炎のように揺らめき、そこに在る。
 勝負はついた。
 神霊は宇受売の神威により憑坐から祓われ、戻ることが叶わない。
 頼りなげに揺らめく神気と陽炎のような姿が辛うじて残るのみ。
 宇受売が神霊を封じる言霊を唱えた。
 事代主の神霊が、一層頼りなげに揺らめき。
 消え去る前に、一度だけ愛しげに須勢理比売を視た。
 唇が動いたが、どんな言霊を発したのかは、須勢理比売にはついぞわからなかった。



「建御名方……事代……」

 建御名方は、残る神威を振り絞り、須勢理比売の目の前まで降りてきて、言霊を発した。

――母上、神代でも、今生でも、ご期待に背きしこと申し訳ございませぬ……

「何を言う!? そなたは、私の唯一の希望であった!! いつでも、どんなときでも!!」

――もはやご期待に添えぬこと、お許しください

 それでも、その容は解き放たれたように穏やかだ。

「辛かったか……? 私の願いは、そなたには重荷だったか……?」

――いいえ、母上の喜びが私の喜びでした。それを叶えることが、どうして辛くありましょう? 辛かったのは、苦しかったのは、私がそれに視合う器ではなかったこと。最後まで、母上に豊葦原を取り戻してやれなかったことでございます……

 再び宇受売の言霊が響く。
 陽炎のように揺らめいて、神霊が消えて逝く。
 須勢理比売に残ったのは、僅かな神気の名残だけ。
 それさえも、消え去る。

「建御名方……建御名方……」

 須勢理比売の瞳から、涙が留まることなく溢れる。

「須勢理、終わりだ」

 静かな荒ぶる神の言霊に、須勢理比売が切れるほどに唇を噛みしめた。

「いいや、まだだ――私が在る限り、天津神になぞ豊葦原を渡しはせぬ!!」

「須勢理、誓約は果たされたのだ」

「父上様にはわからぬ、私の気持ちなど!!」

 美しい容を哀しみと怒りに染める須勢理比売を、荒ぶる神は憐れむように視つめる。

「ああ、わからん。お前はいつも己の望みをはき違えるからな。手に入らぬものを欲しがり、本当に欲しいものを視逃す。お前の世界はもともとここなのだ。黙って己貴を婿とし、根の堅州国を統治すればよかったものを。豊葦原を欲しがり、そうして全てを喪ったではないか。何故悟らんのだ」

「私の世界!? こんなおぞましい国が!? 父上様だとて豊葦原にいるではありませんか? 何故私は許されないのですか!? 兄上や姉上さえ豊葦原に在らせられるのに。何故私だけがこんな場所で我慢せねばならぬのですか!?」

 美しい世界。
 美しい豊葦原。
 そこで暮らしたいと望んで何が悪い。

「父上様の母君とてそうであろう!? 黄泉国が厭わしくてならぬから逃げたのだろう!! 豊葦原が愛しくてならぬから、返りたいと願ったのだろう!? 何故私は――私だけが、駄目なのですか!?」

 太古の女神は護られ、愛され、豊葦原に留まっている。
 何故自分は駄目なのだ。
 返りたいと願っては駄目なのか。
 あの美しい世界に。
 彩やかな豊葦原に。
 唯一変わらずに在り続け、自分を慰めてくれるものを求めて何が悪い。

「それでも許されぬのならば――私を殺してください。これ以上生きながらえるのは耐えられませぬ」

 もっと早くこうしていればよかったのだ。
 愚かな夢を視た。
 愛しい者と豊葦原で生きる夢。
 神代で夫を喪ったように、今生でさえ息子を喪った。

 豊葦原も取り戻せない。
 自分にはもう何もない。

 所詮、叶うはずもないものを。
 それでも望んだ報いか。

「よかろう。己貴亡き今、そなたにとって豊葦原しか執着するものがないというなら、今、此の時、此処で、俺が終わりにしてやろう――」

 荒ぶる神が振り払った手の中に、美しい剣が顕れる。
 須勢理比売は目を閉じた。
 荒ぶる神の美しい神気を感じる。
 猛々しい神威も。
 終わりの時を、須勢理比売は待った。



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