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第四章 服わぬ神々
1 禍つ霊
しおりを挟む「事代、しっかりしろ。もうすぐだ」
界と界を繋ぐ狭間の領域で、兄神は弟神を座らせた。
「兄上……申し訳ありませぬ……」
「何を言う? 私のためにそなたは命すら差し出す。そのようなこと、するな」
荒ぶる神から逃れる際に神威を使ったため、弟神の傷口からは再び血が流れていた。
兄神は己の神威でその血を止めるので精一杯だった。
風の神の神威は、凄まじかった。
荒ぶる神が止めなければ、きっとこの憑坐の身体は死んでいただろう。
封じられた神々が豊葦原に降り立つには、憑坐である人間が必要だった。
神々の神威と神気を受け入れられる者はそう簡単に視つからない。
この貴重な憑坐を殺すわけにはいかなかった。
もうすぐ根の堅州国に着く。
そうすれば、ゆっくり傷を癒せる。
兄神は弟神を抱き寄せ、神気を分け与えた。
「……なりませぬ……兄上。兄上の神気が」
「黙れ、私に断りなく死ぬなど、許さぬ。神代でも申したであろう。そなたは我が弟。今生でも私の傍を離れるなど決して許さぬ」
何一つ上手くいかない。
父神が死んでから、本当に、何一つだ。
天孫の日嗣の御子が随伴神とともに天降って、全てはおかしくなっていった。
自分は天津神に捕らわれ、弟神は兄の命と引き替えにこの国を明け渡すと誓約しなければならなかった。
そうして、母神は根の堅州国に追いやられ、自分達は封じられ、ようやく解き放たれたと思ったら、この様だ。
神代でも、今生でも、高天原の天津神には太刀打ちできぬのか。
あの圧倒的な神威に、屈するしかないのか。
屈辱感で胸が痛い。
何を間違えたのだ。
何が悪かったのだ。
母神に、何と伝える?
もう何度も失望させた。
これ以上、母神を悲しませることなどできない。
弟神を抱きしめながら、兄神は途方に暮れていた。
「我が妹を、傷つけようとしたのはそなただな――」
美しい、だが、強い言霊が耳に届いた。
「!!」
弱った弟をさらに抱き寄せ、兄神は言霊の発せられたほうへと視線を移す。
仄暗い領域の中で、神気が揺らめいていた。
そして、妖しくも美しい女神がそこに在る。
怒りと憎しみに満ちた神気――これは、禍つ神霊だ。
天津神を呪詛したことで、堕ちた比売神。
その姿は、あまりにも美しく、あまりにも禍々しい。
太古の女神に近い故に、その神威は荒ぶる神にも匹敵する強さだ。
しかも、禍つ霊を手にした比売神は、本来持ち合わせぬ霊異も併せ持った。
世代を重ねた神は、太古の女神より遠すぎる故に、神威も弱い。
とうてい太刀打ちできなかった。
「木之花知流比売――」
禍つ神霊となった麗しき国津神――木之花知流比売がそこにいた。
側に在るだけで、禍つ霊が感じられた。
堕ちた神は禍つ神威――禍つ霊を容易く扱う。
何故比売神の怒りが自分達に向けられているのかはわからぬが、これだけは言える。
逃げられない。
兄神は絶望とともに悟った。
「……兄上、私から離れて、お逃げください……」
弟神が、兄神の腕から離れようとする。
「無駄だ。そなたの言霊より、私の言霊の方が強い」
比売神のほっそりとした腕が上がり、弟神を指さした。
美しい唇が聞き取れぬほど幽かな言霊を呟いた。
兄神の腕の中で、弟神が苦悶の声を上げた。
「事代!?」
兄神の腕の中で、弟神は喉を掻きむしり、苦しんでいる。
「そなたの言霊は、封じた。私の許しなくその神威を使うことは許さぬ。妹にしたことを考えれば、生きたまま引き裂いて神霊を引きずり出すところだ」
弟神の喉には、呪詛の楔が紋様として刻まれていた。
右手首と左手首にも、同様の紋様が刺青のように絡みついて肌の一部となっている。
強すぎる。
これが、禍つ神の神威なのか。
憎しみで満ちあふれた霊異が神気と神威を通して大気に満ちていく。
「お待ちください!! 我々は、太古の女神を黄泉国へ御還ししようとしたまで、それが、何故貴女様の妹比売を傷つけたことになるのですか!?」
美しい比売神が、眉根を寄せた。
「そなたは――そうか、わからぬのか」
ちらりと弟神に視線を移し、比売神は短く、
「許す、伝えよ」
そう言った。
弟神が震える手で兄神の手を掴んだ。
そこから、弱々しい神威が流れ込む。
「なん、だと――」
弟神を通して伝わる事実に、兄神の形相がみるみる変わる。
傷ついた弟神の肩を掴んで問うた。
「何故すぐに伝えなかったのだ!? 私が引き渡したあの男が、日嗣の御子だったのか!? ならば、この手で八つ裂きにしてくれたものを!!」
怒りで、兄神の神気が揺らめいた。
自分達から豊葦原の中つ国を奪った憎き天津神を手中にしていながら、みすみす荒ぶる神に手渡してしまった。
弟神を救うためとは言え、この手に捕らえていたのに。
「どうして……どうして気づかなかったのだ!! せめて、腕の一本、脚の一本でも引き裂いてやれたら――!!」
自分自身に対する悔しさと怒りで、涙が滲んだ。
兄神の悔しさと怒りに、弟神も涙を零した。
「そうか――そなたたちも、日嗣の御子を憎む者達か」
不意に、木之花知流比売の神気が揺らいだ。
きっ、と兄神が比売神を視据える。
「当たり前だ!! 我々の豊葦原を奪われたのだぞ!! 豊葦原は国津神のものだ!! 創造神より引き継いだ國造りを成したのは、我が父神ではないか!? 父亡き後は、その末の私と事代が継ぐはずだったのだ、それを――!!」
兄神の言霊を、美しい手を挙げて、比売神は遮った。
麗しい容が冷酷な咲みを刻む。
「ならば、か弱き女より、憎き男を狙うが良いのだ。そなたたちは間違えたのだ。豊葦原の中つ国を取り戻すのに、黄泉神の力など要らぬ。憎しみや怒りは、正しく向けるがいい。ならば、私もそなたたちに力を貸そう」
禍つ霊が、いっそう揺らめく。
堕ちた女神の、なんと麗しく、淫靡な妖しさか。
目が放せない。
「この豊葦原は国津神のもの――黄泉神にも、天津神にも渡さぬ」
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