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第三章 禍つ神々
8 誓約
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「美咲、目を覚ませ!!」
強い、力在る言葉――言霊とともに、美咲は目を開けた。
同時に、自分を取り囲み、飲み込もうとしていた闇に気づいて悲鳴をあげた。
力強い腕が、自分の腕を引き寄せ、抱き起こす。
美咲は子どものように抱え上げられ、闇は名残惜しげに足下で蠢き、やがて消えた。
「大丈夫か、美咲」
重さを感じないかのように自分を抱えている男を、美咲は見下ろした。
暗闇の中なのに、男の姿は浮かび上がるようにくっきりと見えている。
自分の身体もだ。
それは、奇妙な光景だった。
「え、ええ。あの、あなたは?」
「俺は建速。あんたを護るために来た」
「護るって、さっきのあの影のようなものから?」
「ああ。あれは黄泉の古神だ。黄泉神が産み出した九十九の神。様々な物質を媒介にして動くしかできない闇の影――最も、これはあんたの心が作り出した幻影だがな」
建速と名乗った男は、暗闇の中、歩き出す。
上半身が揺れ、慌てて美咲は片手を建速の肩へと回し、バランスをとった。
「私、どうしたの? なぜこんなところにいるの? 思い出せないの」
「少し、嫌なことがあったんだ。それで、悪しき言霊に縛られて、心が闇に捕らわれたんだ。ずっと、夢を視てる。このままだと、戻れなくなるから、迎えに来た」
建速の足取りは、迷いがなかった。
まるで、行き先をわかっているかのように。
「慎也が待っている。あんたをとても心配している」
名前を聞いて、胸が痛む。
美咲は自分を子どものように軽々と抱き上げている男を見下ろした。
視線に気づいて、建速も美咲を視上げる。
無造作に伸びた髪。
きつめの眼差しは、今は優しげに美咲を視つめている。
猛々しく、冷たそうにも見えるのに、なぜか、美咲はこの男の傍にいて、安堵していた。
何からも護ってくれる――そんな安心感があった。
「前にあなたと、会ったことがあったかしら?」
「いいや、一度も」
「それなのに、私を知ってるの?」
「ああ、嫌というほど捜したからな。とても――永かった」
「――どういうこと?」
「視ろ、美咲」
促されるように、美咲は顔を前に向けた。
突然、そこには美しい景色が広がっていた。
美しい山々と、たくさんの緑。
青い空に、白い雲。
優しく照らす太陽と青白くひっそりと浮かぶ欠けた月。
穏やかな風が、草原を吹き過ぎていく。
先ほどの暗闇など存在しなかったかのように、美咲と建速はその景色の中に佇んでいた。
「美しい世界だろう?」
「ええ。どこか懐かしいわ。ずっと昔、ここに立って、こんな風に思ったような気がする」
「ここは、神々の世界。今は失われた、世界だ――」
建速も、懐かしそうに目を細めた。
二人は美しい景色を飽くことなく眺めていた。
いつまでも見ていたい――そんな風に思わせる美しさだった。
やがて、建速が、静かに告げる。
「伊邪那岐と伊邪那美の神話を知っているか?」
突然の問いに、美咲は戸惑ったが、それでも答える。
「え、ええ。あの古事記や日本書紀に出てくる神様のことでしょう」
建速は真っ直ぐに美咲を見つめ、それから、言った。
「あんたが、伊邪那美なんだ。そして、時枝慎也が伊邪那岐だ」
その言葉に、美咲は耳を疑った。
「莫迦なこと言わないで!! あれは神話よ。作り話だわ」
「いや、あれは真実だ。過ぎたる世の、本当の物語。中身は違っていても、古来この大八洲を構成した伝え語りは真実に近い」
莫迦げていると、再度言おうとした。
けれど、目の前の男の眼差しは真剣だ。
そして、きっと、嘘は言わない。
隠していることがあっても、嘘は言えないと、美咲は感じた。
「何も思い出せないか?」
「……懐かしいと、思うことがあるわ。そして、夢を見るの。いろいろな夢。あれが、もしかして前世の記憶なの?」
「多分な」
「――でも、おかしいわ。確かに、夢は見るけれど、混ざっているもの。あれは伊邪那美の物語じゃない。別の女神の夢だわ」
「それは、俺にはわからん」
建速は肩を竦めた。
「俺も、全てを知っている訳じゃない。だが、知っていることなら、嘘は言わん」
「でも、知っていることを全部話す訳でもない」
美咲の言葉に、建速は声を出さずに笑った。
「頭のいい女だな。俺はそういう女が好きだ」
「あなた、もうひとつ名前があるでしょう?」
「ああ。名ならたくさんある。荒ぶる神と呼ばれることもあるな。今の豊葦原で知られている名が最も多いが、親しいものはみな建速と呼ぶ」
「じゃあ、建速、なぜ私を救けてくれるの?」
「あんたが俺の大事な女だから」
「でも、会ったことないわ」
「そう――俺はいつでもあんたを捜して捜して、それでも視つけられずにこの地を果てしなく彷徨ってた。
視つけられるはずがないんだよな。あんたはずっと黄泉の囚われ人だった。そこから逃げ出すのに、必死だったろう。逃げ出した後も、決して捕まらないように。伊邪那岐しか知らない、それは黄泉神との密約だったから」
「密約?」
「伊邪那岐は自分の妻を黄泉神に下げ渡したのさ」
建速はあっさりと告げる。
「伊邪那美は最後の子として火之迦具土を産んだ。だが、それにより全ての神威を使い果たし、神去らねばならなかった。神去りとは神霊の新たな変化を指す。加えて、黄泉神と伊邪那岐の誓約により、伊邪那美はもうその身を高天原にはおいておけなくなった」
そのくだりは、美咲が書庫で読んだ古事記に書かれてある内容と似通っていた。
「そしてあんたは、今度は黄泉神との間に、黄泉の國産みをしなければならなくなったというわけだ。夢を視ただろう? 俺が起こす前に。あれが真実だ」
闇の主と告げた黄泉神と伊邪那岐の会話を、美咲は思い出した。
あんな――あんな簡単に、伊邪那美は黄泉神に下げ渡されたというのか。
それも、何より愛した伊邪那岐の言霊で。
「だが、最後まであんたは黄泉の國産みを拒んだ。弱り果てた黄泉神は伊邪那岐に説得を頼んだが、それも失敗に終わる。伊邪那岐は伊邪那美に逢いに黄泉国まで降りたが、あんたは納得しなかったんだろう。今もって、黄泉の國産みが成されていないということは」
「それが、伊邪那岐の黄泉参りなのね」
あの夢。
桃の花が舞い散る、あの悲しい夢。
あれは、伊邪那岐を追う伊邪那美の悲しみだったのだ。
「――神も死ぬの?」
「死ぬさ。条件が揃えば。死なないほど強いのは、別天津神と、神代七代と言われる伊邪那岐と伊邪那美の神威を濃く継ぐ最初の国津神なんだ。世代を重ねた神威の弱い新しい神は、死んで人間として黄泉返る。そして、どういう手妻かはわからんが、ある時、あんたは黄泉国からも消えてしまった。誰にも知られず、突然に。だから、今になるまで、俺達はあんたを捜しだせなかったんだ」
「――」
今になって見つかったのは、きっと慎也と逢ってしまったからだ。
慎也に逢ってから、様々な不可解な出来事が起こったのも頷ける。
出逢って、触れ合ったことで、記憶が甦ってきて、そうして、黄泉神に、見つかったのだ。
そして――
手首と足首が急に押さえつけられたように痛み出した。
胸が痛い。
何か、嫌なことを思い出しそうになった。
身体に触れる、誰かの手の感触。
肌を辿る舌の感触。
悪意ある言霊の感触。
そのおぞましさに、美咲の身体が震える。
――そなたの男は、別の男に穢されても、そなたを愛しんでくれるか?
「下ろして……」
沸き上がる恐怖に、美咲は混乱した。
誰かと触れ合っていることが、熱を感じていることが耐えられなかった。
「下ろして!! 早く!!」
身を捩る美咲を、建速は落とさぬよう優しく下ろした。
「どうした、美咲?」
建速は離れようとする美咲の腕を捕まえている。
「いや、離して!! 触らないで!!」
「美咲!?」
必死で抗う美咲の顎を捉えてこちらを向かせる。
その瞳は、恐怖に脅え、何も見えなくなっている。
現実でされたことを思い出しかけているのだ。
「やめて、触らないで!! 救けて、慎也くん!!」
建速は舌打ちした。
穏やかに目覚めさせるつもりが、そうもいかなくなった。
言霊の呪縛は、思ったより美咲の心の奥深くまで絡みついている。
泣いて抗う美咲を、建速はその場に引き倒した。
そのまま馬乗りになって押さえつける。
「美咲、言霊に捕らわれるな。戻れなくなる」
そうして、その手を美咲の心臓の上に当て、神威を打ち込んだ。
雷に打たれたように、美咲の身体が仰け反り、跳ねる。
「――」
痛みに、美咲は俄に正気に返る。
自分を縛る何かに気づいて、美咲は脅えた。
自分の中に、何かが入り込んで、絡みついている。
「怖い……救けて」
「大丈夫だ。誰にも傷つけさせない。今度こそ、護ってみせる――」
両頬を包み込む手の温もりを感じた。
ゆっくりと、建速の顔が近づく。
そして、美咲の唇に熱い熱が重なった。
荒々しいはずなのに優しい言霊であるように、唇から神気が流れ込む。
美咲の中に絡みつく悪しき言霊に絡みつき、消していくのがわかった。
「――」
美咲は、そのまま目を閉じた。
美咲の腕が縋り付いていた建速の腕からぱたりとカウンターに落ちた。
それに合わせて、建速が美咲から唇を放した。
「大丈夫なのか」
横から不機嫌にかかる声。
「ああ。悪しき言霊は消した。記憶は残るが、大丈夫だろう」
「ならどけ」
肩を引いて、慎也は建速を美咲の身体の上から離す。
そのまま、美咲を守るように抱き起こす。
意識がなくても流れた涙の跡が痛々しかった。
指でそっと拭うと、胸の中にしっかりと抱きしめる。
引き裂かれたシャツをかき寄せたとき見えた白い肌には、見せつけるようにつけられた鬱血の痕があった。
「車を出すから、美咲を連れて行け。アパートは安全だ。守りがついてるから、中に入り込まれることはない」
「あんたが信用できるかまだわからない。俺は自分を襲った男しか見てない。美咲さんを襲った男は見てない。それがお前じゃないなんて保証ないだろ」
その言葉に、建速は面白そうに笑った。
「俺が美咲を襲っておいて、途中でやめて、お前を起こしたとでも? 莫迦げている。第一、そこの壁や床に散っている血の跡はどう説明する? 服を脱いで身体を見せろとでも?
俺は敵ではない。最初に言ったように、お前と美咲を護る者だ。最も、俺の本来の目的は、美咲を捜し、あらゆる者から護ることだがな」
「美咲さんを? なぜ?」
「記憶のないお前に、語る言霊はない。今は黙って美咲を連れて行け。でなければ俺が連れて行くぞ」
美咲を強く抱き寄せ、慎也が建速を睨みつける。
手追いの獣が牙を剥くようなその様子に、建速は息をつく。
声を和らげて、促す。
「お前と美咲は、対の命だ。俺は、決してお前達を引き離しはしない。お前達を引き離そうとする者達から護るためにここにきたんだ。今は俺の言っていることがわからないだろうが、話は、美咲が目覚めた後だ。今は、連れて行って休ませろ。言霊を消すために、負担をかけた。多分熱が出る」
建速は美咲と慎也が座っている業務用机の前に膝をつく。
「――」
「俺の命に懸けて誓う――祖神で在らせられる男神と女神の末である建速が、御前に罷りこし、奏上致す。古の約定に従いて、御身を護るために参上した。許し給え」
その言霊の力に、一瞬慎也は言葉をなくし、
「許す――」
それだけを辛うじて答えた。
唇の端を上げて微咲むと、建速は立ち上がる。
「では、美咲を連れて行け。姿は現さないが、お前と美咲をいつも護っている。何かあれば俺の名を呼べ。いつでも駆けつける」
強い、力在る言葉――言霊とともに、美咲は目を開けた。
同時に、自分を取り囲み、飲み込もうとしていた闇に気づいて悲鳴をあげた。
力強い腕が、自分の腕を引き寄せ、抱き起こす。
美咲は子どものように抱え上げられ、闇は名残惜しげに足下で蠢き、やがて消えた。
「大丈夫か、美咲」
重さを感じないかのように自分を抱えている男を、美咲は見下ろした。
暗闇の中なのに、男の姿は浮かび上がるようにくっきりと見えている。
自分の身体もだ。
それは、奇妙な光景だった。
「え、ええ。あの、あなたは?」
「俺は建速。あんたを護るために来た」
「護るって、さっきのあの影のようなものから?」
「ああ。あれは黄泉の古神だ。黄泉神が産み出した九十九の神。様々な物質を媒介にして動くしかできない闇の影――最も、これはあんたの心が作り出した幻影だがな」
建速と名乗った男は、暗闇の中、歩き出す。
上半身が揺れ、慌てて美咲は片手を建速の肩へと回し、バランスをとった。
「私、どうしたの? なぜこんなところにいるの? 思い出せないの」
「少し、嫌なことがあったんだ。それで、悪しき言霊に縛られて、心が闇に捕らわれたんだ。ずっと、夢を視てる。このままだと、戻れなくなるから、迎えに来た」
建速の足取りは、迷いがなかった。
まるで、行き先をわかっているかのように。
「慎也が待っている。あんたをとても心配している」
名前を聞いて、胸が痛む。
美咲は自分を子どものように軽々と抱き上げている男を見下ろした。
視線に気づいて、建速も美咲を視上げる。
無造作に伸びた髪。
きつめの眼差しは、今は優しげに美咲を視つめている。
猛々しく、冷たそうにも見えるのに、なぜか、美咲はこの男の傍にいて、安堵していた。
何からも護ってくれる――そんな安心感があった。
「前にあなたと、会ったことがあったかしら?」
「いいや、一度も」
「それなのに、私を知ってるの?」
「ああ、嫌というほど捜したからな。とても――永かった」
「――どういうこと?」
「視ろ、美咲」
促されるように、美咲は顔を前に向けた。
突然、そこには美しい景色が広がっていた。
美しい山々と、たくさんの緑。
青い空に、白い雲。
優しく照らす太陽と青白くひっそりと浮かぶ欠けた月。
穏やかな風が、草原を吹き過ぎていく。
先ほどの暗闇など存在しなかったかのように、美咲と建速はその景色の中に佇んでいた。
「美しい世界だろう?」
「ええ。どこか懐かしいわ。ずっと昔、ここに立って、こんな風に思ったような気がする」
「ここは、神々の世界。今は失われた、世界だ――」
建速も、懐かしそうに目を細めた。
二人は美しい景色を飽くことなく眺めていた。
いつまでも見ていたい――そんな風に思わせる美しさだった。
やがて、建速が、静かに告げる。
「伊邪那岐と伊邪那美の神話を知っているか?」
突然の問いに、美咲は戸惑ったが、それでも答える。
「え、ええ。あの古事記や日本書紀に出てくる神様のことでしょう」
建速は真っ直ぐに美咲を見つめ、それから、言った。
「あんたが、伊邪那美なんだ。そして、時枝慎也が伊邪那岐だ」
その言葉に、美咲は耳を疑った。
「莫迦なこと言わないで!! あれは神話よ。作り話だわ」
「いや、あれは真実だ。過ぎたる世の、本当の物語。中身は違っていても、古来この大八洲を構成した伝え語りは真実に近い」
莫迦げていると、再度言おうとした。
けれど、目の前の男の眼差しは真剣だ。
そして、きっと、嘘は言わない。
隠していることがあっても、嘘は言えないと、美咲は感じた。
「何も思い出せないか?」
「……懐かしいと、思うことがあるわ。そして、夢を見るの。いろいろな夢。あれが、もしかして前世の記憶なの?」
「多分な」
「――でも、おかしいわ。確かに、夢は見るけれど、混ざっているもの。あれは伊邪那美の物語じゃない。別の女神の夢だわ」
「それは、俺にはわからん」
建速は肩を竦めた。
「俺も、全てを知っている訳じゃない。だが、知っていることなら、嘘は言わん」
「でも、知っていることを全部話す訳でもない」
美咲の言葉に、建速は声を出さずに笑った。
「頭のいい女だな。俺はそういう女が好きだ」
「あなた、もうひとつ名前があるでしょう?」
「ああ。名ならたくさんある。荒ぶる神と呼ばれることもあるな。今の豊葦原で知られている名が最も多いが、親しいものはみな建速と呼ぶ」
「じゃあ、建速、なぜ私を救けてくれるの?」
「あんたが俺の大事な女だから」
「でも、会ったことないわ」
「そう――俺はいつでもあんたを捜して捜して、それでも視つけられずにこの地を果てしなく彷徨ってた。
視つけられるはずがないんだよな。あんたはずっと黄泉の囚われ人だった。そこから逃げ出すのに、必死だったろう。逃げ出した後も、決して捕まらないように。伊邪那岐しか知らない、それは黄泉神との密約だったから」
「密約?」
「伊邪那岐は自分の妻を黄泉神に下げ渡したのさ」
建速はあっさりと告げる。
「伊邪那美は最後の子として火之迦具土を産んだ。だが、それにより全ての神威を使い果たし、神去らねばならなかった。神去りとは神霊の新たな変化を指す。加えて、黄泉神と伊邪那岐の誓約により、伊邪那美はもうその身を高天原にはおいておけなくなった」
そのくだりは、美咲が書庫で読んだ古事記に書かれてある内容と似通っていた。
「そしてあんたは、今度は黄泉神との間に、黄泉の國産みをしなければならなくなったというわけだ。夢を視ただろう? 俺が起こす前に。あれが真実だ」
闇の主と告げた黄泉神と伊邪那岐の会話を、美咲は思い出した。
あんな――あんな簡単に、伊邪那美は黄泉神に下げ渡されたというのか。
それも、何より愛した伊邪那岐の言霊で。
「だが、最後まであんたは黄泉の國産みを拒んだ。弱り果てた黄泉神は伊邪那岐に説得を頼んだが、それも失敗に終わる。伊邪那岐は伊邪那美に逢いに黄泉国まで降りたが、あんたは納得しなかったんだろう。今もって、黄泉の國産みが成されていないということは」
「それが、伊邪那岐の黄泉参りなのね」
あの夢。
桃の花が舞い散る、あの悲しい夢。
あれは、伊邪那岐を追う伊邪那美の悲しみだったのだ。
「――神も死ぬの?」
「死ぬさ。条件が揃えば。死なないほど強いのは、別天津神と、神代七代と言われる伊邪那岐と伊邪那美の神威を濃く継ぐ最初の国津神なんだ。世代を重ねた神威の弱い新しい神は、死んで人間として黄泉返る。そして、どういう手妻かはわからんが、ある時、あんたは黄泉国からも消えてしまった。誰にも知られず、突然に。だから、今になるまで、俺達はあんたを捜しだせなかったんだ」
「――」
今になって見つかったのは、きっと慎也と逢ってしまったからだ。
慎也に逢ってから、様々な不可解な出来事が起こったのも頷ける。
出逢って、触れ合ったことで、記憶が甦ってきて、そうして、黄泉神に、見つかったのだ。
そして――
手首と足首が急に押さえつけられたように痛み出した。
胸が痛い。
何か、嫌なことを思い出しそうになった。
身体に触れる、誰かの手の感触。
肌を辿る舌の感触。
悪意ある言霊の感触。
そのおぞましさに、美咲の身体が震える。
――そなたの男は、別の男に穢されても、そなたを愛しんでくれるか?
「下ろして……」
沸き上がる恐怖に、美咲は混乱した。
誰かと触れ合っていることが、熱を感じていることが耐えられなかった。
「下ろして!! 早く!!」
身を捩る美咲を、建速は落とさぬよう優しく下ろした。
「どうした、美咲?」
建速は離れようとする美咲の腕を捕まえている。
「いや、離して!! 触らないで!!」
「美咲!?」
必死で抗う美咲の顎を捉えてこちらを向かせる。
その瞳は、恐怖に脅え、何も見えなくなっている。
現実でされたことを思い出しかけているのだ。
「やめて、触らないで!! 救けて、慎也くん!!」
建速は舌打ちした。
穏やかに目覚めさせるつもりが、そうもいかなくなった。
言霊の呪縛は、思ったより美咲の心の奥深くまで絡みついている。
泣いて抗う美咲を、建速はその場に引き倒した。
そのまま馬乗りになって押さえつける。
「美咲、言霊に捕らわれるな。戻れなくなる」
そうして、その手を美咲の心臓の上に当て、神威を打ち込んだ。
雷に打たれたように、美咲の身体が仰け反り、跳ねる。
「――」
痛みに、美咲は俄に正気に返る。
自分を縛る何かに気づいて、美咲は脅えた。
自分の中に、何かが入り込んで、絡みついている。
「怖い……救けて」
「大丈夫だ。誰にも傷つけさせない。今度こそ、護ってみせる――」
両頬を包み込む手の温もりを感じた。
ゆっくりと、建速の顔が近づく。
そして、美咲の唇に熱い熱が重なった。
荒々しいはずなのに優しい言霊であるように、唇から神気が流れ込む。
美咲の中に絡みつく悪しき言霊に絡みつき、消していくのがわかった。
「――」
美咲は、そのまま目を閉じた。
美咲の腕が縋り付いていた建速の腕からぱたりとカウンターに落ちた。
それに合わせて、建速が美咲から唇を放した。
「大丈夫なのか」
横から不機嫌にかかる声。
「ああ。悪しき言霊は消した。記憶は残るが、大丈夫だろう」
「ならどけ」
肩を引いて、慎也は建速を美咲の身体の上から離す。
そのまま、美咲を守るように抱き起こす。
意識がなくても流れた涙の跡が痛々しかった。
指でそっと拭うと、胸の中にしっかりと抱きしめる。
引き裂かれたシャツをかき寄せたとき見えた白い肌には、見せつけるようにつけられた鬱血の痕があった。
「車を出すから、美咲を連れて行け。アパートは安全だ。守りがついてるから、中に入り込まれることはない」
「あんたが信用できるかまだわからない。俺は自分を襲った男しか見てない。美咲さんを襲った男は見てない。それがお前じゃないなんて保証ないだろ」
その言葉に、建速は面白そうに笑った。
「俺が美咲を襲っておいて、途中でやめて、お前を起こしたとでも? 莫迦げている。第一、そこの壁や床に散っている血の跡はどう説明する? 服を脱いで身体を見せろとでも?
俺は敵ではない。最初に言ったように、お前と美咲を護る者だ。最も、俺の本来の目的は、美咲を捜し、あらゆる者から護ることだがな」
「美咲さんを? なぜ?」
「記憶のないお前に、語る言霊はない。今は黙って美咲を連れて行け。でなければ俺が連れて行くぞ」
美咲を強く抱き寄せ、慎也が建速を睨みつける。
手追いの獣が牙を剥くようなその様子に、建速は息をつく。
声を和らげて、促す。
「お前と美咲は、対の命だ。俺は、決してお前達を引き離しはしない。お前達を引き離そうとする者達から護るためにここにきたんだ。今は俺の言っていることがわからないだろうが、話は、美咲が目覚めた後だ。今は、連れて行って休ませろ。言霊を消すために、負担をかけた。多分熱が出る」
建速は美咲と慎也が座っている業務用机の前に膝をつく。
「――」
「俺の命に懸けて誓う――祖神で在らせられる男神と女神の末である建速が、御前に罷りこし、奏上致す。古の約定に従いて、御身を護るために参上した。許し給え」
その言霊の力に、一瞬慎也は言葉をなくし、
「許す――」
それだけを辛うじて答えた。
唇の端を上げて微咲むと、建速は立ち上がる。
「では、美咲を連れて行け。姿は現さないが、お前と美咲をいつも護っている。何かあれば俺の名を呼べ。いつでも駆けつける」
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