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懺悔したいことはない?
しおりを挟む「ニーニャ。君は何をしたか、分かっているのかい」
色を持ち込むことを躊躇させる真っ白な室内には、冷え冷えとした声が響いた。
椅子も、机も、汚れひとつない白のシーツに覆われていた。飾られた陶磁器は艶やかな光沢を放つ。
その眩い部屋のなかでほっそりとした少女は、ゆっくりと首を傾げた。彼女の名前は、ニーニャ。彼女は長い睫毛を瞬かせ、目の前にいる男性を見つめた。
ニーニャの目の前で冷え冷えとした声をかけた男性はスチュアート王子だ。
フリンドル王国の国王リスド三世の嫡子。大変初心で行動的な王子であると有名な男であった。それなりに精悍な顔立ちをした男だが、そのスチュアートは眉間に皺をよせ、落胆と失望の表情を浮かべている。
ニーニャはますます首を横に倒した。
「分からない? 本当に?」
「なにをしたとおっしゃりたいの、スチュアート様」
ニーニャは婚約者でもあるスチュアートにへにゃりとしただらしない笑顔を見せた。
「ニーニャ。君には、懺悔したいことがあるだろうと思ってね」
つんとつれない言い方をしたスチュアートに、ニーニャは目を丸々と広げた。
「うーん? なんのことかしら。懺悔したいことなんて……あ!」
得心したとばかりに頷いたニーニャを見て、スチュアートはこの部屋に入って初めて相好を崩した。
――よかった。ニーニャは自ら、罪を認め、改心できる子だ。
ニーニャの一族であるスプラヴ伯爵家は、南東に広大な領地を持つ大貴族である。その名はブリンドル王国建国当初から歴史に華々しく刻まれている。文武ともに優れた才人を輩出する名家である。
南東の広い領内で生産される絹糸は国内でも良質な代物で、その糸からつくられる絹糸の服は、貴族であれば着ているのが当たり前であると言われるほどの高級品である。
国内で影響力の強い由緒正しき家柄であるスプラヴ家は、次期国王であるスチュアートも無下にできないほどの存在だった。
ニーニャとの婚約は政略結婚だ。お互いの両親が理不尽に決めたもの。
スチュアートはしかし、ニーニャのことを嫌ってはいなかった。ニーニャはおっとりとした愛嬌のある娘で、恋心を疼かせるとはいかないものの、庇護欲をそそる子猫のように愛らしい女だった。その感覚は小さく華奢な体からきているのかもしれない。抱きしめたら、潰れてしまいそうなほど小さい背丈で、腕も足も、骨だけしかないのではと訝しむほど、細かった。
くるくると表情を変える無邪気さがある彼女のことを、スチュアートは婚約者として好いていた。
だが、だからこそ、スチュアートはニーニャを改心させねばならなかった。
スチュアートの最愛の人である、リリディアーヌのためにも、彼女をいたぶるニーニャにごめんなさいを言わせねばならなかった。
「スチュアート様がいっていらっしゃるのは、リリディアーヌ様のことでしょう? ごめんなさい、わたくし、彼女にひどいことを言ってしまったの」
「そうなのだね」
「いくらかっとなったからって、あんなことを言うなんて……淑女としてあるまじき発言だったもの……」
「詳しく話してくれるかい? 必要ならば、一緒に謝りに行ってあげよう」
スチュアートはすぐにしゅんとして罪を認めるニーニャを快く思った。下手に隠し立てせず、素直に話そうとしてくれるニーニャは陰謀渦巻く貴族社会では稀有な存在だった。
つい、兄貴分を気取り甘やかしてやりたくなる。ニーニャが純朴だからだろう。
「長くなるけれど、よろしい?」
「君が満足するまで、聞いているよ」
上目遣いをしてお伺いをたててきたニーニャに笑みを返すと、嬉しそうに破顔された。
「始まりは、一つのお手紙からでしたの。リリディアーヌ様から、二人きりでお茶会をしないかとお誘いを受けましたの」
「ニーニャとリリディアーヌは仲がよいの?」
スチュアートの愛するリリディアーヌは太陽のような女性だ。月のように淑やかなニーニャとは気が合うようには見えない。狭い社交界なので顔は知っていても接点がないだろうと思っていた。
その考えは正しかったようで、ニーニャは不思議そうに首を振った。
「いいえ。わたくし、あまりお話したことはなくって。挨拶程度でしたら、したことがあると思うのですけれど」
「そうなのか。……それで、ニーニャ、君はその手紙を見てどうしたの?」
「はじめは、とてもびっくりして。あまり知らないかただし、お断りしようかと思いましたの。その、スチュアート様だから打ち明けますけれど、わたくし、とても人見知りで。緊張して、楽しいお茶会にならないと思いましたの。だから、お断りを……」
目線で促され、スチュアートはニーニャの隣に腰掛けた。白いシーツをかけられた椅子は、スチュアートの臀部の形に沈む。座り心地はなかなか良かった。ニーニャはスチュアートが満足そうに背もたれにもたれかかるのを微笑ましそうに見届けて徐に口を開いた。
「でも、スチュアート様、お断りしても、リリディアーヌ様ったら、わたくしとどうしてもお茶会をしたいって。いくらお断りしてもお誘いのお手紙を送ってきたのよ」
「そうなのか?」
「ええ。もう、これだけ求められるならば、少し心配だけど、受けてみようかと思いましたの」
「それで、お茶会には行ったの?」
「もちろんですわ。熱烈なお誘いに、こういうと変に聞こえるかもしれませんけれど、胸が高鳴りましたのよ。わたくしとお話したいって思ってくださっていたってことですもの。それが少しだけ誇らしくって。……でも、約束の場所でいつまで待っても、いらっしゃらなかったわ」
リリディアーヌは無邪気な娘だが、時間には厳しい。一度、約束の時間に遅れたスチュアートに拗ねて、一週間も口をきいてくれなかったことがあった。
スチュアートは、どうにも腑に落ちない気持ちで、耳を傾ける。
「場所を間違えてしまったのかしら。日にちを間違えてしまったのかしら。時間を間違えたのかしら。そんな思いが、胸をつきましたの。でも、使用人に手紙を確認させても約束の場所も日付も時間もすべて間違ってはいませんでしたわ」
その日はそのまま帰ってしまったが、どうしてもリリディアーヌのことが気になった。怪我でもしたのか、重い病に罹患したのか。熱烈な誘いの手紙はニーニャの心を溶かしていた。
あれだけ熱烈に手紙とはいえ言い寄られていた。情がわいていた。
だから、ニーニャはリリディアーヌの家を尋ねることにしたのだという。手紙は、なぜかその日以来送っても返事がこないようになってしまった。
「お忙しいけれど、兄様もついてきてくださることになったの。わたくし一人では心ともないだろうからって」
ニーニャの兄であるゴヴァンは、スプラヴ家の跡取りである。現在は父親の見習いをして領地の統治や貴族たちへの挨拶まわりにいそしんでいる。スチュアートとは歳が近く、小さい頃は遊び相手をしてもらっていた。聡明で人好きのする性格。ニーニャと同じように貴族らしくない清廉な男だ。
歳の離れたニーニャのことを溺愛しており、よく一緒にいる姿をみかける。
か弱い妹のことが心配で一緒について行ったのだろう。
女性が外に一人で出ていくのは、行儀の悪いことだ。
家族や友達の同伴、あるいは侍女の同行がなければ、淑女の癖にはしたないと揶揄される。ついていった背景には、妹が勘違いされないようにということもあっただろう。
――ゴヴァンがリリディアーヌの屋敷を訪問したならば、騒然となっただろうな。
胸がざわつく。ゴヴァンは物腰の柔らかな貴公子であった。
女性への態度は紳士そのもので、社交界の女性達は賛美こそすれど、邪険に扱うものはいない。リリディアーヌもまさか、浮ついた心を抱いたのではないか。
いいやと首をふる。彼女に限ってそれはないだろう。スチュアートのことを好きだと全身で伝えてくれる、素敵な子なのだから。
通い慣れた子爵家の屋敷に兄妹を乗せた馬車が止まる光景思い浮かべながら、腕を組む。
古めかしいゴシック調の屋敷だが、何度も通うと味があることに気が付く。とくにスチュアートが好んでいるのは、リリディアーヌの寝室だ。ニーニャのこの部屋とは比べ物にならないほど質素だが、リリディアーヌが室内にいるだけで王座よりも価値のあるものに思えてならない。
恋心とは、人を盲目にさせるらしい。リリディアーヌの息をしているというだけで、世界が鮮明でより美しいものに映る。
「屋敷について、リリディアーヌ様を訪ねてみたら、なぜか、兄様だけ屋敷に入っていいと言われたの。変だと思ったのですけれど、それで帰ってしまったらついてきてくれた兄様にも申し訳ないと思って。兄様に代理となっていただき、わたくしのかわりに屋敷のなかに」
「……なんだって?」
「わたくしは、ずっと馬車のなかで、兄様の帰りを待っていたわ。するとね、スチュアート様。兄様は嵐のように荒々しく肩をいからせて屋敷から出てきたのよ。馭者に八つ当たりするように命令すると、すぐに我が家に戻るようにって」
ゴヴァンが?
あの柔和な顔が怒りにゆがむ姿は想像しづらい。どういう風に起こるのだろうと、興味がわいた。
「馬車に乗り込むやいなや『不快だ。もう二度と、あの女に関わっちゃいけない』と言われたのよ」
「あの女って、リリディアーヌのことか?」
長い付き合いから、ゴヴァンが女に対して、無礼な態度を取らないと知っているスチュアートは狼狽えた。リリディアーヌのなにが、気に障ったというのだろうか。
「どうしたんだろうか」
「それが、その。よくはわからないのだけど。どうしてか、いきなり口づけされたって」
「え!?」
スチュアートは椅子から立ち上がるほど驚いた。
最愛の人、リリディアーヌ。
『スチュアート様、私にはあなただけ』
そう言っていたのに、ゴヴァンに口づけをした?
さっきまでもやもやと胸をしめつけていた思いが再びよみがえる。
まさか、リリディアーヌにかぎってそんなことありえない。否定しようとすればするほど頭のなかではゴヴァンとリリディアーヌが唇を合わせる姿を想像してしまう。
「どうされたの、スチュアート様。……まさか、スチュアート様もリリディアーヌ様に無理やり唇を奪われたの!?」
「ち、違う! 私にはニーニャ、君という婚約者がいるだろう! そんなふしだらなことはしない」
ニーニャの頬がほんのりと赤みを帯びる。もじもじと恥ずかしさをはぐらかすように体を揺らしていた。
つい、口から出た言葉であったが、リリディアーヌと付き合っているなどと本当のことは言えない。結婚し、子供を産んで貴族としての義務を果たしてからでないと愛人というのはいろいろと具合が悪いのだ。スプラヴ家の面子を潰すことはできない。
ニーニャは人の言うことを素直に信じてしまう馬鹿可愛い子だから、スチュアートの慌てようをそう疑ってはいないようだった。ふうと、安堵のため息を溢す。
「兄様はとても怒っていたわ。まるで、春先の猪みたいに!とっても怖かった。だから、リリディアーヌをもう一度訪ねたの。どんなことをしたのかきいて、悪いことをしたならば、謝るようにすすめようと思って」
「それで?」
椅子に座りなおしたものの、先ほど聞かされたことの衝撃がすさまじく、スチュアートはとにかく早く終わらせたいという一心で相槌を打つ。
「なかなか会えなくて。それでもどうにかツテを頼ってリリディアーヌ様にお会いしたの。そうしたら、開口一番、言われましたの。『自分の兄と愛し合っているなんて恥を知りなさい』って」
「兄? 愛――」
スチュアートはまたもや椅子から飛び上がった。ゴヴァンはニーニャを溺愛している。だがそれは家族愛だ。
なぜならば、彼はもうすぐ結婚する予定があるからだ。相手は潔癖で有名な公爵家の娘だった。目立つ割に今まで浮いた話ひとつなかったゴヴァンを見初め、多額の持参金で彼の正妻の座を射止めたのだ。
近親相姦を喧伝されればご破算になる可能性がある。
流石に愛するリリディアーヌが言ったとはいえ、不謹慎すぎる。
貴族はなによりも面子を大切にする。軽はずみな言動は反感を産む。
大貴族であるスプラヴ家に怨まれたら、貴族社会では生きづらい。
ニーニャもその意見に同意のようでつんと唇を突き出し、ぶっきらぼうに語った。
「あんまりだわ。わたくし、確かに兄様のことは好きですわ。けれど、そんな下世話な関係には一度たりともありませんのよ」
「うん、分かっているよ」
「リリディアーヌ様は誤解されているようでしたので、説得しようと思いましたの。けれど、頑として耳を傾けてはくれなくて……。だから、つい『分からず屋、あなたなんてきちんと耳の穴を開けて貰えばいいのよ』って言って走り去ってしまいましたの」
「……それだけ?」
「いけないことでしたわよね。リリディアーヌ様だって、最初から耳の穴は開いているはずだもの。それを増やせ、だなんて」
「いや、そうではなく。ねえ、ニーニャ。君が後悔しているのは、それだけなのかい?」
スチュアートがリリディアーヌにきいていたことは、何一つとして懺悔していない。
戸惑いを隠せない。ニーニャは誤魔化そうとしているのだろうか。
「君は、リリディアーヌに嫌がらせをしただろう。虫を投げつけたり、むやみやたらに手紙を送りつけたり」
ニーニャは、丸々と猫のように目を見開いた。ふふふと手で口元を隠して笑う。すぐに、無邪気に目を伏せてごめんなさいと謝罪した。
「ごめんなさい。虫を投げつけるだなんて、恐ろしすぎるわ。わたくし、虫に触ったこともないのに……。あれはこの世で最も恐ろしい生き物の一つだもの。でも、ね、お手紙はわたくしがお茶会になぜ来なかったのか尋ねていたときのものだと思うの」
「あ……」
「もう、スチュアート様ったら、うっかりさんなのだから!」
「だ、だが、必要以上に送るのはどうかと思うぞ」
手紙は、着払いで支払わなければならない。貴族は自らの富をひけらかすために、何百通と送ってもらっても構わないという態度をとる。だが、リリディアーヌの家は貴族であるものの当主の放埓な金遣いから金に困っていた。
だから、富の象徴である貴族であるはずのリリディアーヌにとって嫌がらせになりえるのだ。
「どうして、だめなの?」
「どうしてって。あまり送っては、その、お金がかかる」
「お金? スチュアート様ったら、おかしなことを言われるのね。お金の心配などしていたら、お手紙は送れないわ」
「それはそうだが」
――手紙を送られるのが困るというのは、なんとも情けない話なのではないか。
スチュアートはリリディアーヌを愛していることがなんだか情けないことのように思えてきた。もちろん、当主の金遣いの問題なのだから、リリディアーヌには直接の関係はない。しかし、純粋なニーニャに笑われるほど、逼迫した家庭の人間が最愛の人というのは、外聞がよくないのではあるまいか。
さきほどゴヴァンと口づけしたと聞いたときから、心のなかに積もっていたリリディアーヌへの愛が砂の粒のようになって手のひらから零れ落ちていくのがわかった。恋は熱しやすく、冷めやすいとはよくいうが、リリディアーヌに夢中のときは石のように心は変わらないと思い込んでいた。
しかし、こう虚無な気持ちに陥ってしまえば先人たちの教えは正しかったのだろう。
「ほ、他にも、お気に入りのドレスに色も臭いも濃いワインをかけたのでは。仕返しのようにお茶会のメンバーから外したのだろう」
惰性からくる問いかけにニーニャはきっぱりと首を振った。
「いろいろと嫌疑がかけられているのですね? でも、ドレスもお茶会も初めてききましたわ。身に覚えがないのですけれど」
「おかしい。リリディアーヌからきいて話では」
「リリディアーヌ様から?」
突然、ニーニャがリリディアーヌに嫌がらせをし始めたのだという話をきいていたのだ。どれも子供のように稚拙な悪戯だったから相手にしていなかったが、だんだんと悪質になっていっていたためスチュアートを頼ってきたのだとばかり。
涙ながらに話すリリディアーヌに義憤をくすぐられ、ニーニャに突撃したはいいが、これでは話がまったく違うではないか。
恋の熱でけぶっていた理性が警告している。リリディアーヌひとりだけの話を正当化するのは不可能だ。
だって、彼女は突然といった。しかし、リリディアーヌはニーニャに対して礼儀をかいた行為をしていたのだ。ニーニャだけの意見を鵜呑みにするわけにはいかないが、調べれば、二人のどちらが礼を欠いていたのか、はっきりするだろう。
「リリディアーヌ様ったら、そんなにあの言葉がお嫌だったのかしら。だから、そんな根も葉もないことをおっしゃるのだわ。……きちんと謝りにいったほうがいいのかしら。……スチュアート様?」
「なあに、ニーニャ」
「リリディアーヌに謝りに行くのに、ついてきてくださると言っていたけれど、本当?」
「もちろんだよ」
ニーニャは満面の笑みを浮かべ、スチュアートに抱き着いた。
「うれしい! スチュアート様ったら、この頃、リリディアーヌ様ばかり構うのだもの。少し、妬いていたの」
「それはすまなかった」
ニーニャの背中に腕を回し、宥めるように摩る。
嬉しそうにニーニャは喉を鳴らした。本物の猫のようだなあと、スチュアートは思った。
リリディアーヌへの恋心は、やがて心からこぼれてやがてなくなってしまうだろう。さきほどまで抱いていた熱情はどこにいってしまっていた。胸を支配し、いっぱいに満たしていた甘美な疼きはたった一つの言葉によって冷や水を浴びせられ、鎮火してしまった。
か細い体を抱きしめる。むずがる華奢な体が揺れる。
リリディアーヌのことを忘れてしまいたかった。抱き着いたときの熱い体温も、キスしたときに触れた唇の柔らかさも、すべてなかったことにしてしまいたかった。
「きっとよ。きちんと付き合ってくださいね」
何も知らない無垢なニーニャが健気に約束をとりつけようとする。
せりあがる熱い思いを閉ざすように瞼を閉じて、頷いた。
■■■■
「馬鹿らしい嫌がらせの首謀者にされるところだったわ」
「なあに、それ。面白い趣向なのだね」
「まったく面白くなんかないわ。あの糞王子、わたくしを説教しにきたのよ、兄様。まるで倫理を説く宣教師みたい。偽善者面もいいところだわ」
寝台に腰を下ろしたゴヴァンに、ニーニャは忌々しげに言葉を吐き捨てた。昼に見せていた可憐な顔は脱ぎ捨て、妖艶な女の色気を出しながら髪をくしゃりとかき上げる。
外からミミズクの声がきこえてくる。薄くきりがかった朧月夜のことであった。
くすりと、甘い笑い声をあげてゴヴァンがニーニャを手招く。
ニーニャはしばらく毅然としてその手を見ていたが、やがて堪えられなくなったように胸に飛び込んだ。
「俺のお姫様は、ご機嫌ななめだ。ちなみに、俺もそう機嫌はよくないよ。俺というものが目の前にいるというのに、他の男の話をしているのだからね」
「……だって、兄様」
「ニーニャの夫の座を射止めておきながら、他の女に恋する男など、名さえききたくないのだと言っているのだがね」
髪をなぞり、首筋をくすぐり、背中を愛撫する。濃密な彼らの接触には淫らさがあった。
「お前があの男の話をするのだから、俺もあの女の話をしようか」
「……ひどいわ。兄様」
「なあに。妬いているのか。お前、あの女に唇を奪われた俺に、何度も口を漱げとうるさかったものなあ」
「その話、もうしたくないわ! あの女、わたくしの兄様の唇に触れたのよ!」
指を唇にそっとあてて、怒りを込めて眉を吊り上げる。
「どれだけ、欲張りでいやらしい女なの。兄様を誑かそうだなんて、万死に値するわ。地獄のかまどでずうっと焼かれ続ければいいのに」
「俺の妹君は本当に怖い子だ。純粋無垢、などと誰が言ったのだろうね?」
ゴヴァンはするするとニーニャの顎の下をなでると、食らいつくように口づけた。
赤い舌と舌を絡ませ、お互いの唾液を絡ませ合う。静かに唇を離すと、火照った頬を拭うように手で包み、額と額をくっつけた。
「あのような不粋な女、好きになるはずもないだろう?」
「あの女だけでなく、他の女のことも嫌っていて」
拗ねた顔で告げられた甘い懇願にゴヴァンは興奮の猛りを覚えた。
むずがる顔を指で静止して、再び深く口付ける。こんなに可愛い女を、ゴヴァンはニーニャ以外に知らない。知りたくもない。
名残惜しく唾液の橋を作りながら唇を離す。膨らんでいた頬は真っ赤に染まっていた。
「お前以外を好きになるはずもないよ。誰よりも、何よりも、ニーニャが好きなのだから」
「私も、兄様……」
陶然とした囁きを落として、ニーニャがゴヴァンの唇を食らった。肉感的な感触に溺れなら、ニーニャはゴヴァンの息を奪うために舌を動かす。
「ふふふ、お前は可愛いよ、ニーニャ」
「兄様は誰よりもずっとかっこいい。ねえ、なぜ私達は結婚できないの?」
「意地悪な奴らが倫理的にどうのと理由をつけているせいだよ」
倫理なんておかしいわとニーニャは言った。
「だって、そんなの昔の人が勝手に決めたものだもの。勝手につくって、定説にして、迷惑極まりないわ。勝手に決めた人達がどれだけ偉いというのよ。わたくしよりも聡明で、懸命で、清らかだったとでも?」
「たとえ聡明で、懸命で、清らかであろうとも、人の恋路を邪魔するならば、馬に蹴られて死んでしまうといいよ」
「それもそうね」
体をがっしりと、まるで一つの人間のように絡ませあったニーニャ達は、耳に口付けを落としあった。
「あんな馬鹿王子と結婚するなんて嫌。でも、兄様と結婚できないのだものね」
「大丈夫だよ。お前はすぐに家に戻ってくることになるよ。未亡人のニーニャも、すごく綺麗なのだろうね」
「……兄様の結婚相手のあの女、わたくし達の関係を知ったらどうなるかしら。純朴な兄様という幻想に恋をしちゃったのだもの。発狂して、暴れまわってしまう?」
「それも面白そうだ。ねえ、ニーニャ。今からどれぐらい正気が持つか賭けをしてみない?」
くすくすと軽やかな笑い声をあげながら、二人は口付けをし続けた。寝台の上に押し倒されながら、ニーニャがゴヴァンの頭を撫でる。
熱っぽい視線を交わし合い、唇を重ね、どろどろに溶けそうなほど熱い体液を流し込む。
二人だけの世界には、誰の侵入も受け付けない。ニーニャも、ゴヴァンも、この部屋以外に人間はいないようだと思った。それぐらい、二人だけで完結されていた。二人でいることが、この世でもっとも正しいことだった。
ここにスチュアートがいたならば、正気を保っていられるだろうか。
ニーニャのはふと、かわいそうな王子様のことを思い浮かべた。しかしそれは一瞬で、すぐに押し寄せる快楽に流されていった。
倫理も懺悔も彼女達には無縁だった。
色を持ち込むことが躊躇われるほど真っ白な部屋には、ニーニャとゴヴァンの同じ肌の色が荒々しい息を吐きながら存在していた。
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