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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

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「どうして」

 真っ暗闇のなかに真っ赤な姿が現れた。優しい声なのに、どこか悲しい。
 ヴァニタスの首を落として振り返る。血が噴き出して、しとしとと木々を濡らす。
 よく分からないものがチカチカと点滅した。消えかけている蝋燭の炎のようだった。
 神々しい彼は弱ったように髪を掻き上げた。

「どうしてだ?」

 尋ねられても分からなかった。

「貴方、は」

 いつか夢の中で出会った赤髪の美青年だった。
 どことなくリストに似た顔をしている。整って、完成された冷たい容貌。
 大神だと、理解が追いついてくる。理の外にいるはずの彼が今ここにいる。
 マグ・メルが言っていた。大神を呼ぶために私を害そうか、と。
 だが、死に神が出てくると言った。大神ではなく。
 だから、大神は何をしても出てこないのだとばかり思っていた。
 だが、彼はここにいる。
 冷えた眼差しが向けられた。

「はなおとめ、どうしてこうなる?」
「大神」
「何も、好転しない。何一つ、正しくない。ただ、お前が生きていてくれれば良かったのに」

 寵愛を感じた。けれど、それは私に対するものではないようだった。
 だから、悲しい。
 心の核になる部分が騒いでいる。しくしくと涙をこぼしている。

「ただ、誰かに騙されず、利用されず、生きてくれれば良かったのに」

 青年が手を差し出してきた。
 ヴァニタスが流した血で真っ赤に染まっていた。
 いや、そもそも彼の真っ赤な髪も、瞳も、血で出来ていた。臭いがそうなのだ。鉄錆のような吐き気を催す香り。
 ヴァニタスは不死身だ。落とした首が、時が巻き戻るようにくっついていく。
 急かすように手が伸びてくる。剣を持つ手が震えていた。

「もう一度、時間を戻す。今度は屋敷から出てきてはいけない。誰の悲鳴を聞いても、外には出るな」
「な、何?」
「手を取れ。はなおとめ。お前の全てを委ねろ」

 差し出された手をべっとりと濡らす血はダラダラと溢れていく。まるで、大神自身が傷付いて血を流しているようだった。

「ど、どうして、こんなことを」
「どうして?」
「時間を巻き戻す、なんてしないで。元の世界に戻して」
「嫌だ」
「どうしてそんなことを言うの?」
「お前こそ、どうしてそんなことを言うの」

 微かに見開いた瞳には当惑が映っていた。

「苦痛で終わりたいの。人だから、そう思う? 繰り返される因果。それ故に、拒まないのか」
「苦痛で終わりたくなんかない! でも、どうしてそうだと決めつけるの。元の世界で私が酷い目に遭うとでも言いたいの?」
「遭う」
「……、ほ、本当に?」
「神への生贄と称して無駄死にをする。はなおとめの因果はいつも同じだ。皆にほめそやされ、男に買われ、神に捧げられる。いつ繰り返しても、そのように生きる」

 決まったことのように言われて困惑した。なぜまだ何も決まっていないのに、そう言われなくてはならないのか。
 だが、不思議と威圧感があった。嘘や妄想を口にしているわけではないようだ。透徹な瞳だった。
 執着を感じるのに、熱がない。恋ではないのか、と心の核がじゅくじゅくと涙をこぼす。

「さあ、手を取れ。全て、良きようになる。してやる」
「あ、貴方は傷付いているように見える……」

 そもそも、エルシュオン達が言っていた。大神は無理を通している。道理が通らないことをしている。
 禁忌を犯しているのだと。

「だから、どうしたと?」
「どうって……」

 やはり、血が止まらない。彼は自分の血で髪と目を染め上げてしまったのだろうか?
 自傷の果てに、こんな姿になった?
 いいや、違う。違うと知っている。彼はただ戦ったのだ。敵を倒した返り血で、髪も瞳も色を失った。

「そんなことは当たり前のことだ。春の神も、夏の神も、お前に何かを言ったのかも知れない。妖精に堕ちるとでも言ったのか。けれど、だからそれがどうしたと? 元より穢れを帯びた身だ。妖精に堕ちようが、土塊に戻ろうが、構わない」
「つ、つち? 神は死なないと」

 いや、でもマグ・メルが言っていなかっただろうか。
 死に神は死に至ると。

「そうだ、神は死なない。だがこの大地は死する。大地が死すれば、神も死する。当然の帰結だ」

 大地が、死ぬ?
 それは死に神がこの地を治めるということだろうか?
 水があがり、世界が水面へと溺れる。そのことを指すのか?

「どうなろうと構うものか。お前だけは必ず生かしてみせる」

 手が頬に触れた。凍えるほど冷たかった。
 ある情景が思い浮かんだ。大神が川で水浴びをしていた。血を洗い流そうとしたのだ。だが、いくら身に水を注いでも、汚れは消せぬ。彼は高笑いした。この澱み、この痛み、もはや決して拭えない。
 ぶるりと体が震えた。この血は。

「か、考えなおして、ください」
「どうして?」
「神様――騎士様、どうして」

 神々の宴会で、彼は楽しそうに笑っていた。紙吹雪舞う美しい神殿で、美酒に酔いながら彼は確かに芸に興じていた。だというのに、どうしてこうなるのか。
 妖精になってもいいだなんて言わないで欲しかった。胸が張り裂けてしまいそうだ。この感情が何なのかは分からない。
 全てを投げ出すような真似はしてほしくなかった。
 彼は、いつも戦っていた。彼に報われて欲しい。

「どうして花が枯れる?」
「――あ……」

 一度、問われた質問だった。花はどうして枯れてしまうのか。
 その問いの答えを私は持っていない。
 ……いや、それは正しくない。私が、その問いを投げかけた。

「どうして花は枯れてしまう? 大地を富ませる為? 花の命が短い為? そうであると定められているからか。……だが、たとえそうだとして、その答えを知ったところでお前の救いにはならない」

 心臓を握られた気がした。
 はらはらと、涙が溢れそうになる。
 ――そうだ。答えに意味はない。
 けれど理由が欲しかった。意味が知りたかった。
 だから責めるように尋ねた。大神は何も答えてはくれなかった。
 何も。

「はなおとめ、お前を救いたい」
「あ、あ、あぁ」
「はなおとめという名前から、お前を解放してやりたい」

 意味は分からない。分からないのに、この方にずっとそう言って欲しかったことを思い出した。
 マグ・メルが言っていた。はなおとめとは人間の言葉。花を売る人間の意味。
 ずっと、ずっと、乞うように思っていた。
 ……だって、花が枯れたら。ただの女になってしまう。
 花を売り歩く女。花を売る乙女。はなおとめ。
 花がなければ、何を売る?
 ――花が、枯れると。

「そ、それでも、貴方にしてもらうことでは」

 嘘だ。ずっと、この方に気がついて欲しかった。
 ただ、嬉しい。野山に咲く無数の花のように見られていたわけではないのだ。
 ずっと考えてくれていた。こんなに嬉しいことはなかった。

「ありがとうと、そう言った。誰も、言わなかった。初めてだった。戦ってくれてありがとう。体を気遣われたのも、初めてだった。騎士と間違われたが、それでも、戦うことに感謝されたことなど一度もなかった」

 血塗れの剣士はそう言った。

「神々さえ、感謝を述べたことはない。腐った犬と戦い、異界の者どもを殺すことは当たり前だった。この身に穢れが降り積もろうが、誰からも顧みられたことはない。誰もが当たり前だと、考えたこともなかったと」
「そんなことのために?」
「そんなこと? ただ一人も、俺にしてくれたことはなかった。ただ、一人も。お前だけだ。汚れた髪を梳いてくれたのも、花冠をくれたのも、ただ笑顔を向けてくれたのも」

 だからだと、神は言おうとしている。冷たい表情が溶けるように優しさを帯びる。

「お前が教えてくれた。この世を守った価値を。この身をかける値する意味を」

 ヴァニタスの繋がった首を再び落とし、大神はもう一度私の頬を撫でた。

「お前が俺のために祈ってくれたように、お前のためならば、禁を破る。全てを捨てる。痛みも、恐ろしくはない」

 大神の体を巨大な槍が貫いた。槍は虫で出来ていた。卵から孵化した幼虫が大神の肌を這う。羽音を立てて、責め立てる彼らを大神は涼やかに見遣った。

「今更、夏の神が介入するのか。日和見の老いたもの。循環を司りながら、よくもまあ自らを顧みないものだ」
「マグ・メル?」
「あぁ、愚かな神だ。恋を知らない。生と死を司るくせに、愛と欲を愛でない」
「貴方は知っている?」
「恋は捨てた。男神にくれてやった。愛は、知っている。お前を覚えているために」

 大神はやがて人の体を脱ぎ捨てた。八本の腕が生えてくる。どの手にも剣があった。
 虫の槍はドロドロと溶けていく。泥のように、ぼとり、ぼとりと落ちていく。
 雨のように槍が降り注ぐ。狼がそれを八つある剣で全て薙ぎ払った。

「理の外であれば殺せると思った?」

 大神は挑発的に笑うと、何か呪文を唱えた。ニコラが空間から現れた。
 彼女は驚いた表情で暴れ回る。

「伴侶はここにいる。ほら、堕ちてこい」



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