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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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しおりを挟む「女神が世界を戻せなかった。それを知ったとき、お前ならば何を思う?」
「どうって……」
神というのは何でも成し遂げられる存在だろう。
女神が出来ないのならば、誰であってもできない、そう思う。
「ああ、顔を見れば分かる。諦めるというのだろう? だが、俺達はそうではなかった。女神は方法を間違えたのだと思った。背の皮を書き換えるだけでは過去に戻ることは出来ない。――大切な核となるものが必要だと」
「核?」
「記憶、魂。あるいは、感情。そう言われるものだ。書き写された背の皮では、故人の名前を借りた別者が現れるだけだった。似ても似つかない紛い物。ただの名義貸しだ。だが、その紛い物に記憶を捩じ込んだらどうなる?」
「ど、どう?」
「肉体はただの器だ。それは俺がよく分かっている。魂には形がある。肉に入れば変容するのは明らかだ。現にカリオストロは受肉した」
――え?
ハルの死体の中に、天帝が入り込んだ。ヴィクターは非難していた。こんな貧民の体に入られるだなんて! と気も狂わんばかりだった。
フィガロはーーカリオストロに姿を変えた。彼は突然、カリオストロになったのだ。粘土のように形を変えて、ぐにゃりと曲がった。灰褐色になった肌。背中に生えた翼。フィガロとは似ても似つかない。
カリオストロはオクタヴィスを殺した。
気がついたら、吐いていた。唾液と胃酸が混じっている。糸を引く液体を拭いながら、冷静に受け止めようと努力した。
つまり、こいつは人を、殺していたのだ。フィガロは何も知らないまま、カリオストロになった。
私は何も知らずに、結局カリオストロを頼った。力を借りた。
気が遠くなりそうだった。
フィガロ・バロックは、正しく聖人だった。
何の瑕疵もなかった。額に刻まれた聖痕の通り、心根の清らかな人だった。――情欲に濡れた瞳以外は。
「だが、受肉は上手くいったが、それで過去に戻れるわけではなかった。俺達は前提から何もかも間違えていた。そうだ。そもそも、女神がいくら書き写されようと、歴史が巻き戻ったわけじゃない。必要なのは、四次元的な考え方だ。そうでなければ過去の亡霊が、肉の体を持って暴れまわっているだけに過ぎないのだから」
「そんなの……それをする前から分かっていたのではないの」
「いいや。何も分かってはいなかった」
傲慢な口調のままザルゴ公爵は続けた。
「俺達はただ高慢で思い上がっていた。神にできないことでも、俺ならばできると信じていた。本当に必要だったのは、時間を巻き戻す魔具の類だった」
なんだ、その意味の分からない独白は。
この男の悔恨が恨めしくてたまらなかった。
この男はもうずっと狂っているのかもしれない。人の命に対して、考えが軽すぎる。
世界を書き換えて、過去を取り戻そうとして、たくさんの人が死んだ。
そのくせ、結果は失敗で望む通りにならなかった。
普通ならばその失敗の清算をするべきだ。償いをするべきだろう。
この屋敷に立てこもって私を待っている場合か?
「……それで、お前達は未だに間違いを正せずにいるのはなぜなの。どうして、人形師はこんな意味のないことを続けているの」
「意味がなくても、人形師はこのために一生を捧げた。どれほど無意味でも俺とて、この賭けに乗った。三百年の妄執を、お前はさっさと諦めてしまえと?」
言葉を失った。三百年だって? それほどの妄執で、こいつは生きてきたと?
こいつらを慮るなと心が警告している。こいつらの意見を聞いていいことなんてひとつもない。たって、本当に三百年間、こいつらが失敗のために準備をしていただなんて分からないじゃないか。
「大神は世界の継続と人の世の延長を望んだ。俺達は過去に戻ることを夢見た。けれど、そのどちらも叶うことはない。世界は終わり、死に神がこの世を支配する」
急に、ザルゴ公爵は顔を近づけて、秘密を囁くように甘い声を出す。
「なぜヴァニタスという犬が滅亡の先兵となるのか、分かるか」
「……神様でも倒せない犬なのでしょう? 腐敗した、狩りが得意な犬」
「ハッ、表層だけをなぞって意見をするな。あれは、まさしく外宇宙からの侵略物だ」
「外宇宙?」
そもそも、宇宙とはなんだ。何を指す。
それすら、分からない。
「大地は生きている。歴史を重ね、地層を刻む。この世界とは、大地のことを指す。海の下に侍り、我々を立たせ、時には揺らす生物の母であり父だ」
大地が生きているというのは、聞いたことがある。というか、確かギスランがイルにそういう話をしていた。
「大地は生きているというのは知っている? 繊細で脆い、人間に踏みしめられる虐げられるもの。ひとつの大きな背中を持つ巨人とも、麁とも例えられる。表層こそ穏やかな肌を持っているが内部は複雑な過去の蓄積になっていることは? つまり、私達はその過去の地層に足を踏み入れてしまったということだ」
イルは知らないと答えていた。ギスランは続けた。
地層には記憶がつまっている。人の血は、地を汚す。
「ヴァニタスはその地そのものを汚染する。世界の外からやってきた生物がこの世界のものを犯すのだ。だいたい、地とは人の血にも悲鳴を上げて怯え泣くモノだ。あんなもの、耐えられるわけもない」
「あの、空に浮かぶ瞳はーー」
「ずっとあの空にあった。天帝から聞いていないのか。空にあったあの瞳の主がヴァニタスを寄越したのだと」
「あの目玉は、ここにいる人形師のもののはずよ」
ふ、と笑われる。
「なんだ、よく分かっているな。……それも、天帝に聞いたのか? ご推察の通り、あの空に浮かぶのは偽物の目だ。本物はもっと禍々しい。見たら発狂するぞ」
「だから、人形師のものでよかったとでも言って欲しいの」
「そういうつもりはないが。だが、事実そうだ。真実が露出したとき、人死にがあまり出なかったことを寿ぐべきなんじゃないか」
あんまりな言い方に歯を見せて威嚇したくなった。
何が、寿ぐだ。何も喜ばしいことなんてなかった。偽物でも十分、人々は怯え切っていた。
呆然と空を見上げていた。世界が終わるのだと、皆そう思ったはずだ。
「……そんなこと、今はどうでもいい。失敗だというのならば、いつまでも惨めにしがみついていないで、世界を戻すべきでしょう」
私は、大きく息を吸い込んだ。
「お前と大神のたくらみは全て失敗したのだから。……世界が終わってしまう前に、私を元の世界に返して」
「元の世界……?」
リストの声はひび割れていた。
顔は、見れなかった。
「元の世界だと?」
「お前と大神が企んだことなのでしょう? 背の皮を弄って、十七歳の私をこの世界に呼び込んだ」
「何の、話をしている」
初めて、ザルゴ公爵が動揺した。私の言葉を確かめるように、言葉を区切って尋ねる。
「何のって、どういうこと。お前達が私を呼んだのでしょう? 背の皮を書き変えて、世界を変えた。ギスラン・ロイスターを殺した。あいつは十七歳まで確かに生きていたのに」
「――――」
ぞわりと、背筋が凍った。
ザルゴ公爵は目を見開き、私を見た。彼の瞳から雫が落ちた。汗が穴という穴から吹き出しているように見えた。
じっとりと濡れた彼が唇を吊り上げる。
指を、そのとき初めてまじまじと見た。木の節だった。丸く、削られた人工の指先。
「そんな世界はなかった。夢でも見ていたのか。ギスラン・ロイスターは大神が背の皮を書き換える前も十七歳まで生きたことなんて一度もない」
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