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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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しおりを挟む血の臭いが部屋中に敷き詰められていたのでは思うほど一気に香った。
死臭は嗅ぎすぎていて、もう吐き気はしない。
男が二人倒れていた。その下地になるように、宰相が血を流して死んでいた。
部屋の中央にある椅子にクロードは腰掛けていた。
胸に、剣が刺さっていた。
胸に縋り付くと、手のひらにべっとりと血がついた。
悲鳴さえ上げられなかった。あげちゃいけないと咄嗟に思った。
クロードの顔を持ち上げる。何十日も彼から遠い所にいたような気がする。懐かしさがこみあげてくる。
目は開かない。
唇はクロードらしくなく渇いていた。潤さなければと思って唇を重ねる。何度も、何度も。唇は濡れるけど、彼の瞳は開かない。
どうしてだろう。そんな言葉が口からこぼれそうになる。
こんなに口付けているのに、どうして目を開かないの。
どうして、いつものからかったような声でカルディアと名前を呼ばない?
怒っているのだろうか。
それとも、眠っている?
疲れているなら、身じろぎぐらいしてもいいのに。
体を揺すると、体が横に倒れそうになった。汗が全身から噴き出してくる。嘘だと思いながら、体を揺すって、倒れないように抱き寄せるを繰り返す。
クロード。クロード? クロード。
どうして、起きないの。ここにいたら危ないわ。はやく、逃げないと。
逃げないと。
「殺して」
やっと絞り出せた声は、絶望で濁っていた。
あれ、おかしい。ちゃんと、医者か、清族に見せなくちゃと言ったはずなのに。
「死にたい」
起き上がらないと。立ち上がって、体を抱えて外に出ないと。
「死にたい」
体が、動かない。指一つ、もう動かせない。喉の奥だけが声を震わせる。
自分自身を呪うような声だった。
「ギスランが死んだときに、死んでいればよかった」
死んでいれば。こんな、クロードを見らずに済んだ。
――クロードは誰かに殺されている。
鼠に齧られたわけじゃない。剣で胸を刺されて、死んでいる。
クロードを殺したのは、人だ。
「――――お、い」
…………え?
誰かが、声をあげた。
カリオストロかと思って振り返る。けれど、彼は私を通り抜けて、その奥を見つめていた。
「撤回、しろ。ばか」
声の響きは慣れ親しんだそれだった。
振り返って、目を見開く。クロードはいつものように皮肉げに口を吊り上げていた。
「痛いな、くそ」
「クロード?」
「何だ、亡霊でも、見た、ような顔して」
「クロード!」
顔を覗き込む。彼は、美しい瞳で私を見た。
けれど、その瞳のなかで確かに死が鎌を振り上げているのが分かった。だんだんと焦点がぼやけていっている。それに気が付いたように、クロードは早口になった。呂律が、段々と怪しくなる。
「カルディア、お前だな」
「他に誰がいるというのよ。お前の妻は私だけでしょう」
「……悪い、夢でも見てた、気分だ」
「私にとっては、今がまさにそうよ」
ははと、笑い声をこぼして、クロードは私に手を伸ばした。
「もう俺は助からんだろ」
「どうしてそう思うの? 何も試していないのに」
「俺には、心臓がもう、無理だと、悲鳴を上げてんのが聞こえるんだよ」
「私には聞こえない!」
もがくように、手が私を求めてさまよう。手をとればクロードが満足して遠いところに行ってしまうような気がして首を振る。
「カリオストロ、お前は大魔術師なのでしょう!? クロードを助けて! 何でも、するから」
「……無理だ。彼は、もう死ぬ。それに、俺は貧民を治せはしない……」
「クロードは、王族よ!」
鋭く指摘すると、カリオストロは瞳を揺らした。
「これが?」
「お前には、クロードが貧民に見えるの? どうして? お前のように、化物ではないから? 鼠や犬じゃないから? 建物じゃないから?」
「――」
「お前達は、そうではない人間を貧民と蔑んで、玩弄して、殺して、侮辱する。けれど、お前達は化物でしょう。人間じゃない」
「どうしてそんなことを言うんだ?」
カリオストロは、怒りを込めて私を睨みつける。
「お前が化物だから」
「俺は人間だ。他の何に見えるんだ」
「人間は首を落とされても生きていないし、首を挿げ替えてそのまま生きながられないわ」
「それは、貧民のことだろ。……貧民は、どいつもこいつも脆くて、弱くて……。貧民は変わりがいるだろ。何なら俺が見繕ってやる。国で一番、丈夫な奴がいいか? それとも見目麗しい奴?」
「っ!」
侮辱に頭が干上がるかと思った。クロードに変わりはいない。ギスランにいなかったように。
――後ろから、頭を掴まれた。のけぞり、背中がしなる。何かが覆いかぶさってきた。唇に、温かいものが触れた。
濡れていた。さっき、私が濡らしたから。
クロードは、もう一度、私に口づけをしようとした。
けれど、どうしてか、彼は狙いを誤って、目蓋の上にしてしまった。子供を寝かしつけるような、幼い温かさだった。
クロードの影に収まりながら、私は彼がいつもみたいに余裕を見せて笑っているのを見た。まるで、屋敷の寝台の上で押し押し倒したときにみせるいたずらっ子のような顔だ。
「最期ぐらい、俺だけ見てろ」
「最期じゃ」
「最期だよ。……犯人は、もう誰だか、分かってんだろ」
私は小さく首を振った。分からない。――分かりたくない。
「父上は、あいつに何でも教えてやった。あいつは器用で何でもこなして見せたが、血だけは変えられない」
「血?」
クロードは曖昧に、そして少しだけ困ったように笑った。
「意地悪が、過ぎたな。……ま、俺を、殺そうとしたんだ、こんぐらいは、な?」
彼は私を掴んでいた手を離すと、自分の胸に突き刺さった剣を握った。
そして、そのまま自分の体に押し込むように、剣を体のなかに食い込ませていく。
「クロード!?」
悲鳴を上げて、剣を掴む。けれど、びくともしなかった。そのまま、私が押し込んでいくように刀身が体のなかに入っていく。
「あいつに、会ったら伝えておけ。俺は、俺の手で、死んだって」
「いや。いやよ、クロード。手を離して」
「好きだ、カルディア」
彼は痛みに震えながら、それでも笑みを絶やさなかった。まるで、それが私に対してできるたった一つのことのように。
血の滴る酷い音がする。もう、助からない。頭では分かるのに心が否定をしていた。こんなのあんまりだ。
こんなこと、あっていいはずない!
「愛している」
命がこぼれていく。あんなに動かなかった剣が、簡単に抜けた。
剣は血でまみれている。豪奢な意匠を隠すように、べったりと。
遅れて、クロードが倒れた。人形みたいに手足を投げ出して、地面に広がっている。
体を抱きとめることはできなかった。
崩れ落ちた体を抱き寄せて、彼の耳元で囁く。もう聴こえていないのは分かっていた。クロードには届かない。自己満足な言葉。
「――――」
愛してると言う言葉はうまく音に出来なかった。
余裕の笑みを浮かべていた顔が、今は苦しそうに顰め面をしている。
涙がぽろぽろと落ちる。滲んだ瞳に私の夫の亡骸がぼやけて映る。
馬鹿げた日々のやりとりが、頭の中を通り過ぎる。
一緒に食事をしたこと。
服を選んで貰ったこと。
贈り物をもらって、喜んだこと。
膝枕をして、朗読をしてあげたこと。
歌を歌ってあげたこと。下手くそだと笑われたこと。あいつだって、全然うまくなかったのに。
髪を撫でる手が好きだった。
余裕そうな笑みが苦手で、好きだった。
皮肉ばかりの応酬が嫌いじゃなくなっていた。
濡れる唇が、カルディアと音を出すのが愛おしかった。
体温が急激に失われていくのが分かる。クロードの体に縋りついた。もう、この熱がどこにもいかないように自分の体で温めようとした。
けれど、体は硬くなっていくばかりだ。
嫌だと叫んだ。けれど、どんなに叫んでもクロードは戻ってこない。
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