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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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※残酷表現あり
ゆっくりと目を開ける。
体がだるい。ああいやだと思いながら、体斜めにして背凭れに寄りかかる。さきほどまで、どうして我慢できていたのか分からない。子供を産んだ後の体はまるで重たくて、牛のようだ。脂肪のついた体、張った胸。二の腕も、腹もたぷんたぷんとしていて動くたびに脂肪が擦れて気持ちが悪い。
それにドレスが薄いせいで、胸の突起が出てはしたない。それにこの色、まるで全身紅茶塗れみたい。幼い頃着ていたドレスのままだ。どうしてこんなものを着ていたのだろうと呆れてしまう。十七歳の子供でもないのに。
クロードだって、品がないと一言言ってくれればよかったのに。
――いや、そういえば、クロードが屋敷を出る前にかなり渋っていたような。あの男、このドレスはときちんと言えばよかったのに、どうして言わなかったんだろう。
おかげでこんなに気持ちの悪い思いをしている。
「オクタヴィス、喉が渇いて仕方がないの。紅茶が欲しいのだけど、用意してくれる?」
「は、はいぃ」
驚いたような瞳で私を見つめながら、オクタヴィスが呪文を唱える。
どうして産後だというのに王宮にいる……?
よく覚えていない。いや、たしか呼ばれたのだったか。はやく屋敷に戻りたい。体が熱を発しているようにきつく、何かに寄りかかっていないと倒れてしまいそうだ。
「ありがとう」
オクタヴィスが毒味が済んだあと、ティーポットから注がれた紅茶で口を湿らせる。ひとごこちつくと、伺うように彼が見つめてきた。
「カルディア様?」
「どうかしたの」
「い、いえぇ、貴女様でぇ、ございますぅ、ねぇ?」
「私以外の誰に見えるのよ。……何の話をしていたのだったかしら。ああ、そう。復讐の話だったわね。お前がどれほど言葉を尽くそうとも私に変える意思はないわ。言っても無駄だと思って諦めて。……それに」
言葉を続けようとしたときぴちゃぴちゃと水の滴るような音がした。何処から、聞こえてくる?
聞こえるのは私だけではないようで、オクタヴィスも困惑しながら視線を巡らせる。雨でも降ってきたのだろうか。それとも、どこかで水が漏れている? 噴水の音とは違うから、配管から漏れているのか?
そう思っているうちに、地面が胎動のように波打った。慌てて腰を浮かす。地震か?
だが、そうじゃなかった。地面が沸騰しているようにぷつぷつと泡を浮かべる。やがてその激しさはまし、地面の中から泥のようなものが吹き出し始めた。
泥は形を変え、ゆっくりと高いヒールの靴に姿を変えていく。くすくすと葉が擦れるような笑い声がした。
「いらっしゃったわ、いらっしゃった。カルディア様、女王様、ダンスを踊りましょうよ」
「――な、なに?」
靴が地面を踊る。そのたびに、地面が水面のように波紋を広げる。黒い泥が広がっていく。オクタヴィスは明らかに顔を青くしていた。何だか、気分が悪そうだ。
「お兄様、お兄様。お戻りになったわ。お戻りになった。偉大な姫様がお戻りになった。王女様のご帰還よ。ああ、舞踏会を開きましょう! 三日三晩の宴を行いましょう! ドレスも宝石も呼び集めて。靴も馬車もより集まって。キラキラ楽しい祭典を開きましょう! 気に入らないものは捨てたらいいわ! 殺せばいいわ! 代わりなんていくらでもいるんだもの。楽しい、楽しいお遊びを始めましょう!」
「姫様ぁ、近づかぬようにぃ。大変汚れておりますぅ」
「もしかして、この頃の多発しているという魔獣?」
この間も、王都に出たと……クロードが……? いや、あれはえっと……。
記憶を思い出そうとするがうまくいかない。……ギスランの部下だった男が私に教えてくれたはずだけど。名前を何と言ったのだったか。
「……わかりません、ん。ただ、ひどい汚泥に塗れているぅ。死穢でございますぅ。カルディア様がぁ、関わりにぃ、なられるのはぁ、よろしくないぃ」
よろしくない、どころか。
空気すら澱んできたように感じられる。魔獣というよりは、靴なのだけど。その禍々しさは本物に見えた。
「お、お前一人でどうにかなるの。魔獣って、一人で倒せるもの?」
そもそも、オクタヴィスは法務官だ。術はあまり得意としていないはず。
ーーああ、いやそれでも人を殺したことがある程度には戦闘慣れしているのか。
「分かりません、ん。わたくしはぁ、あまりぃ、術のぉ、強い方でぇは……」
「で、では、増援を呼ぶべきだわ。そうだ、さっき処刑人のイヴァンがいたでしょう。あいつならば……」
口にしながら違和感が膨らむ。あいつのこと、恐ろしいと嫌悪していたのではなかったか。罪人を無慈悲に処していく冷徹な男。
目を瞬かせて、違和感を吹き飛ばす。今はそんなこと、言っていられない。
早く呼んでと、とオクタヴィスにねだろうとした瞬間、ダンスを踊っていた靴が動きを止めた。
「イヴァン、イヴァン? 騎士のイヴァン? 王女様のお気に入りの騎士。足で蹴り転がされても犬族みたいに媚びていたあのイヴァン? 裏切り者のイヴァン?」
怒りを込めるように声を荒げて、靴が再び踊り狂い始める。
「はらわたをねじり切ってやる。ねえ、お兄様。脳髄を啜ってやる。ねえ、お兄様。わたくし達、絵画にぶつけられて脳を焼かれたわ。こんな靴の体にさせられて、火で炙られて殺されたのだもの。それくらいは許されるわよね。お嬢様の寵臣でも、それぐらいは許されるわよね!」
「――は?」
くるりくるり。おぞましい言葉で踊るように。靴は大地を踏み鳴らす。
「ねえ、お兄様! さあ、いつまで隠れていらっしゃるの。弱虫、意気地なし。早く来て来て。姿を見せて。空に大きな鳥を浮かべて射て殺しましょう。翼の生えた大きな王だと偽る狂人を殺す前夜祭です。王派も全部皆殺しにしなくっちゃ」
「――カラミティー・ジェーンはねずみの子」
それは流れるような、歌だった。
最初は靴が呼ぶお兄様という存在が現れたのだと思い、身を硬くしていた。けれど、現れたのはフィガロだ。フィガロ・バルカス。私の兄。
――兄? サガルだけのはずじゃあ……。
頭に浮かんだ違和感はすぐにかき消えた。
靴が小鳥のように囀っていたおしゃべりをやめたからだ。
「女王様のお気に入り。ねずみで侍女のおんなのこ。クローゼットのなかをこっそり見て、女王様には内緒なの」
「あ、ああっ……」
「やめてやめて、カラミティー・ジェーン。わたしら女王様のドレスなの。あんたの汚い服じゃない。勝手に着たりしないでよ。溝鼠のカラミティー・ジェーン」
身を震わせるように、靴がぷるぷる震えている。
「やめてやめて、カラミティー・ジェーン。あんたほかの服を暖炉にくべて、女王様を騙してる。裏切り者の溝鼠、地獄に堕ちろ、溝鼠」
「い、いや、助けて、助けてっ……」
「は、はははは。何だよ、カラミティー・ジェーン。お前の歌を歌ってやっただけだろうが。何そんなに怯えてんの」
目を剥く。どういうこと? こいつ、フィガロのそっくりさんなのか?
口調も声のトーンも彼のものとは思えない。それに、……そう。フィガロはクロードを呼びに行ったのではなかったのか。けれど、夫の姿はどこにもない。
手をポケットに突っ込んだ下品な男がいるだけだ。
「あ、あああ、ああなた、あなた」
「そうそう。溝鼠はそれぐらい怯えてないとな」
ぐちゃりと音を立てて、姿がまるで粘土のようにぐにゃりと曲がり、膨張した。
フィガロの全身が灰褐色に変わり、血の気の引いた肌が現れる。
「裏切り者の鼠ちゃん。カラミティー・ジェーンなんて名前捨てたんだって? 聞いたよ、聞いた。俺は驚いたね。鼠女が嫌味を言ってたあのロケニール公爵夫人の娘を名乗ったってんだからな」
背中に、天まで伸びるような翼が生えていた。まるで全身蝋で出来ているようだった。
腰を抜かしてしまい、立てなくなる。目の前で何が起こっているのかさっぱりだ。
目の前にいたはずのフィガロが突然、形を変えた。
清族の術なのか。あるいは白昼夢でも見ている?
そうとしか思えない。だって。
――だって、目の前にいるのは、フィガロとは似ても似つかない怜悧な男だった。
涼しげな目元。意地の悪そうな薄い唇。髪は黒く、黒炭のよう。目は紫で、ギスランの瞳の色によく似ていた。
「それで、汚く生き残ったくせに、結局溝鼠に相応しく呪い殺されたんだって? 本当に面白い鼠ちゃんだよなあ。ああ、これ関心してんじゃないぜ? 嘲笑してんの。嘲笑ってわかる?」
首を傾けて、彼が笑う。
――あれ?
首を傾けて?
彼の目線が下がっていく。ズレていく。
頭が横に動いて。
首から、頭が滑り落ちた。
「っ!」
ころりと、私の足に頭が当たる。
視線があった。なんだ、これ。
何が、起こっている?
胴体の中のなかから覗く、背骨から声が聞こえる。
「く、首が……」
「お、なんだよ、カルディア」
なんで、名前を知ってるんだ、こいつ。
いや、それより。そんなことより。
「首がころんって」
「ころん?」
黒い手袋をした手が、首を探すように蠢く。何度も、何度も確かめるように。
「俺の、首……」
「私の、足元にお前の首が」
「は。はははははは!」
痺れるような哄笑が中庭に響く。
「これは俺の首じゃない。これは清族のもんさ。貧民どもが首を斬ったあとに俺の首と繋ぎやがった! 信じられるかよ。これ、あの塔の生贄が殺してまわった奴の一人、被害者さ」
「……なにを言っているの」
「知ってんだろうに、とぼけやがって。お前の愛人の一人だった男だよ。ああ、なんつったか? そう、ギスラン。女神様のための生贄だ」
「ぎす、らん?」
フィガロだったものが、胴体だけの体で近付いてくる。だらりと背骨からインクのシミのような液体がこぼれた。真っ黒な液体が、ぼたぼた流れ落ちていく。
地面へ広がるそれは大きなシミをつくり、そこから言葉が聞こえてきた。呪文のような、聖歌のような、不思議な言葉。
――ギスラン。ギスラン。女神の生贄? 何、それ。何を言っているの。あいつは毒殺された。女神の生贄なんかじゃない。
「おさがりぃ、くださっ、この術はぁっ」
オクタヴィスが目の前に転がるように出て私をかばった。
「死に神の眷属かぁ? この術はぁ、死に神をぉ、讃えるものぉ」
「人形師……傀儡師か? 珍しいものを扱うな。人形族など、希少種だろうに。……どけよ、術師。まさかこの俺に術勝負をしかけるつもりなのか?」
「フィガロ様をぉ、どこにやったぁ」
「フィガロ……フィガロ様ねえ。王子様ならば、あの気狂いに殺されただろうが、くそ。首をきられたあとに、燃やされた。骨を砕いて食べたのだろう?」
「なにを言っているぅ?」
だからと、目の前の怪物が声を出す。
「死んだと言っているんだ。――いや、まて。俺も死んだってのか? だが、なぜ生きている。俺は処刑され、首を落とされただろうが。俺は生きているのか?」
自己矛盾に気がついたように、言葉が同じところを繰り返す。なぜかこの目の前の生き物は自分の死を受け止めきれていないらしかった。いや、生き物なのか? 首がないこれが。
「あー、あはははは。こりゃあ、意味わかんねえな。ま、いいか。どっちみち俺にはこうやって動ける体がある。頭はねえけど。……おい、退けって」
「退かない、ぃ」
「ふ、ははは。その顔、なんだ。お前もしや貧民か。醜い顔を俺の前で晒してよくも生きていられるもんだな。はあ、虫唾が走るんだよ。あの気狂いと同じ下等生物が俺の前にいるだなんて」
くいっと、指が宙を切り裂くように横に流れる。
「っ、ぁあっ、あ!」
オクタヴィスが振り返り、目隠しをするように私に手を伸ばした。
ぱたぱたと、羽ばたきが聞こえた。真っ赤な蝶がオクタヴィスの周りを飛んでいた。どこからやってきたのだろう。綺麗な色をした蝶々だった。文様も、美しい。薔薇の蔦が絡まっているようにも、幾何学模様にも見える。
「……オクタヴィス?」
小さな呻き声が聞こえる。顔が真っ青だ。
ころりと頭が石のように落ちる。悲鳴をあげる暇もなかった。
蝶が何もかもを覆い尽くす。胴にも、頭にも、足にも、手にも、目玉にさえ、蝶が乗っている。
「あ…………」
「なんだ、こいつ。蝶の妖精を飼っていたのかよ! 可哀想になぁ。血を吸って仲間を増やすんだ、こいつらは。能無しだが、役には立つ。どこそこ飛び回って情報集めに最適だからな。俺も貧民に飼わせたりしたもんだ。……ん。なんだ、はははっ、おい、見てみろよ、カルディア。免罪符だ! こんなの、買う貧民が本当にいたんだな」
「免罪符……」
目の前で起こっていることが一つも分からない。私はオクタヴィスの頭だったものを抱え上げた。――これは何なのだろう。一面、蝶に覆われている。蝶は煩わしそうに何度も羽を開いたり閉じたりした。
「知らないのか? 自分の罪を帳消しにする札だよ。天国で幸せになりたい奴は買い求めるんだ。あるいは大きな罪を犯したものーー殺害などの罪を犯したものだな。持っているだけで、天国への切符を約束されたようなものらしい。勿論、教会が金策のために発行した紛い物だがよ」
かがみこんで、札のようなものを指でつまみ上げた。私があげたもの。あいつはむせび泣いて、受け取っていた。どうして。頭が凍って考えがまとまらない。大切そうにしまっていたのに、どうして地面に転がっているの。
「こんなもの、意味はないってのにな」
札がひとりでに燃え始めた。
火に怖気付いたのか、蝶達が飛び立っていく。
穴ぼこだらけの肉塊が、べちゃりと音を立てて地面に広がった。こみあげる胃液が、あたりに漂う濃密な血の味に変わる。内臓らしきものが、散らばっていた。
「相変わらず悪食だな。虫ケラども」
指を鳴らすと、蝶の羽に火がついた。めらめらと燃え、凄まじい悲鳴をあげて右往左往している。
「――は、はははっ! いやぁ、なんだ。胸がすく。妖精どもは全員死んじまえ。共食いしやがれってんだよ」
「お、お前は……」
「あ? なんだよ、カルディア。もしかして、これ、お前の男だったのか? まあた、愛人かよ」
「また……? ち、違う。違うわ! 愛人なんかじゃない! お前、どうしてオクタヴィスを殺したの。どうして……」
「はあ?」
訳がわからないと言わんばかりに、首無し男は声を上げる。
ゆっくりと目を開ける。
体がだるい。ああいやだと思いながら、体斜めにして背凭れに寄りかかる。さきほどまで、どうして我慢できていたのか分からない。子供を産んだ後の体はまるで重たくて、牛のようだ。脂肪のついた体、張った胸。二の腕も、腹もたぷんたぷんとしていて動くたびに脂肪が擦れて気持ちが悪い。
それにドレスが薄いせいで、胸の突起が出てはしたない。それにこの色、まるで全身紅茶塗れみたい。幼い頃着ていたドレスのままだ。どうしてこんなものを着ていたのだろうと呆れてしまう。十七歳の子供でもないのに。
クロードだって、品がないと一言言ってくれればよかったのに。
――いや、そういえば、クロードが屋敷を出る前にかなり渋っていたような。あの男、このドレスはときちんと言えばよかったのに、どうして言わなかったんだろう。
おかげでこんなに気持ちの悪い思いをしている。
「オクタヴィス、喉が渇いて仕方がないの。紅茶が欲しいのだけど、用意してくれる?」
「は、はいぃ」
驚いたような瞳で私を見つめながら、オクタヴィスが呪文を唱える。
どうして産後だというのに王宮にいる……?
よく覚えていない。いや、たしか呼ばれたのだったか。はやく屋敷に戻りたい。体が熱を発しているようにきつく、何かに寄りかかっていないと倒れてしまいそうだ。
「ありがとう」
オクタヴィスが毒味が済んだあと、ティーポットから注がれた紅茶で口を湿らせる。ひとごこちつくと、伺うように彼が見つめてきた。
「カルディア様?」
「どうかしたの」
「い、いえぇ、貴女様でぇ、ございますぅ、ねぇ?」
「私以外の誰に見えるのよ。……何の話をしていたのだったかしら。ああ、そう。復讐の話だったわね。お前がどれほど言葉を尽くそうとも私に変える意思はないわ。言っても無駄だと思って諦めて。……それに」
言葉を続けようとしたときぴちゃぴちゃと水の滴るような音がした。何処から、聞こえてくる?
聞こえるのは私だけではないようで、オクタヴィスも困惑しながら視線を巡らせる。雨でも降ってきたのだろうか。それとも、どこかで水が漏れている? 噴水の音とは違うから、配管から漏れているのか?
そう思っているうちに、地面が胎動のように波打った。慌てて腰を浮かす。地震か?
だが、そうじゃなかった。地面が沸騰しているようにぷつぷつと泡を浮かべる。やがてその激しさはまし、地面の中から泥のようなものが吹き出し始めた。
泥は形を変え、ゆっくりと高いヒールの靴に姿を変えていく。くすくすと葉が擦れるような笑い声がした。
「いらっしゃったわ、いらっしゃった。カルディア様、女王様、ダンスを踊りましょうよ」
「――な、なに?」
靴が地面を踊る。そのたびに、地面が水面のように波紋を広げる。黒い泥が広がっていく。オクタヴィスは明らかに顔を青くしていた。何だか、気分が悪そうだ。
「お兄様、お兄様。お戻りになったわ。お戻りになった。偉大な姫様がお戻りになった。王女様のご帰還よ。ああ、舞踏会を開きましょう! 三日三晩の宴を行いましょう! ドレスも宝石も呼び集めて。靴も馬車もより集まって。キラキラ楽しい祭典を開きましょう! 気に入らないものは捨てたらいいわ! 殺せばいいわ! 代わりなんていくらでもいるんだもの。楽しい、楽しいお遊びを始めましょう!」
「姫様ぁ、近づかぬようにぃ。大変汚れておりますぅ」
「もしかして、この頃の多発しているという魔獣?」
この間も、王都に出たと……クロードが……? いや、あれはえっと……。
記憶を思い出そうとするがうまくいかない。……ギスランの部下だった男が私に教えてくれたはずだけど。名前を何と言ったのだったか。
「……わかりません、ん。ただ、ひどい汚泥に塗れているぅ。死穢でございますぅ。カルディア様がぁ、関わりにぃ、なられるのはぁ、よろしくないぃ」
よろしくない、どころか。
空気すら澱んできたように感じられる。魔獣というよりは、靴なのだけど。その禍々しさは本物に見えた。
「お、お前一人でどうにかなるの。魔獣って、一人で倒せるもの?」
そもそも、オクタヴィスは法務官だ。術はあまり得意としていないはず。
ーーああ、いやそれでも人を殺したことがある程度には戦闘慣れしているのか。
「分かりません、ん。わたくしはぁ、あまりぃ、術のぉ、強い方でぇは……」
「で、では、増援を呼ぶべきだわ。そうだ、さっき処刑人のイヴァンがいたでしょう。あいつならば……」
口にしながら違和感が膨らむ。あいつのこと、恐ろしいと嫌悪していたのではなかったか。罪人を無慈悲に処していく冷徹な男。
目を瞬かせて、違和感を吹き飛ばす。今はそんなこと、言っていられない。
早く呼んでと、とオクタヴィスにねだろうとした瞬間、ダンスを踊っていた靴が動きを止めた。
「イヴァン、イヴァン? 騎士のイヴァン? 王女様のお気に入りの騎士。足で蹴り転がされても犬族みたいに媚びていたあのイヴァン? 裏切り者のイヴァン?」
怒りを込めるように声を荒げて、靴が再び踊り狂い始める。
「はらわたをねじり切ってやる。ねえ、お兄様。脳髄を啜ってやる。ねえ、お兄様。わたくし達、絵画にぶつけられて脳を焼かれたわ。こんな靴の体にさせられて、火で炙られて殺されたのだもの。それくらいは許されるわよね。お嬢様の寵臣でも、それぐらいは許されるわよね!」
「――は?」
くるりくるり。おぞましい言葉で踊るように。靴は大地を踏み鳴らす。
「ねえ、お兄様! さあ、いつまで隠れていらっしゃるの。弱虫、意気地なし。早く来て来て。姿を見せて。空に大きな鳥を浮かべて射て殺しましょう。翼の生えた大きな王だと偽る狂人を殺す前夜祭です。王派も全部皆殺しにしなくっちゃ」
「――カラミティー・ジェーンはねずみの子」
それは流れるような、歌だった。
最初は靴が呼ぶお兄様という存在が現れたのだと思い、身を硬くしていた。けれど、現れたのはフィガロだ。フィガロ・バルカス。私の兄。
――兄? サガルだけのはずじゃあ……。
頭に浮かんだ違和感はすぐにかき消えた。
靴が小鳥のように囀っていたおしゃべりをやめたからだ。
「女王様のお気に入り。ねずみで侍女のおんなのこ。クローゼットのなかをこっそり見て、女王様には内緒なの」
「あ、ああっ……」
「やめてやめて、カラミティー・ジェーン。わたしら女王様のドレスなの。あんたの汚い服じゃない。勝手に着たりしないでよ。溝鼠のカラミティー・ジェーン」
身を震わせるように、靴がぷるぷる震えている。
「やめてやめて、カラミティー・ジェーン。あんたほかの服を暖炉にくべて、女王様を騙してる。裏切り者の溝鼠、地獄に堕ちろ、溝鼠」
「い、いや、助けて、助けてっ……」
「は、はははは。何だよ、カラミティー・ジェーン。お前の歌を歌ってやっただけだろうが。何そんなに怯えてんの」
目を剥く。どういうこと? こいつ、フィガロのそっくりさんなのか?
口調も声のトーンも彼のものとは思えない。それに、……そう。フィガロはクロードを呼びに行ったのではなかったのか。けれど、夫の姿はどこにもない。
手をポケットに突っ込んだ下品な男がいるだけだ。
「あ、あああ、ああなた、あなた」
「そうそう。溝鼠はそれぐらい怯えてないとな」
ぐちゃりと音を立てて、姿がまるで粘土のようにぐにゃりと曲がり、膨張した。
フィガロの全身が灰褐色に変わり、血の気の引いた肌が現れる。
「裏切り者の鼠ちゃん。カラミティー・ジェーンなんて名前捨てたんだって? 聞いたよ、聞いた。俺は驚いたね。鼠女が嫌味を言ってたあのロケニール公爵夫人の娘を名乗ったってんだからな」
背中に、天まで伸びるような翼が生えていた。まるで全身蝋で出来ているようだった。
腰を抜かしてしまい、立てなくなる。目の前で何が起こっているのかさっぱりだ。
目の前にいたはずのフィガロが突然、形を変えた。
清族の術なのか。あるいは白昼夢でも見ている?
そうとしか思えない。だって。
――だって、目の前にいるのは、フィガロとは似ても似つかない怜悧な男だった。
涼しげな目元。意地の悪そうな薄い唇。髪は黒く、黒炭のよう。目は紫で、ギスランの瞳の色によく似ていた。
「それで、汚く生き残ったくせに、結局溝鼠に相応しく呪い殺されたんだって? 本当に面白い鼠ちゃんだよなあ。ああ、これ関心してんじゃないぜ? 嘲笑してんの。嘲笑ってわかる?」
首を傾けて、彼が笑う。
――あれ?
首を傾けて?
彼の目線が下がっていく。ズレていく。
頭が横に動いて。
首から、頭が滑り落ちた。
「っ!」
ころりと、私の足に頭が当たる。
視線があった。なんだ、これ。
何が、起こっている?
胴体の中のなかから覗く、背骨から声が聞こえる。
「く、首が……」
「お、なんだよ、カルディア」
なんで、名前を知ってるんだ、こいつ。
いや、それより。そんなことより。
「首がころんって」
「ころん?」
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「俺の、首……」
「私の、足元にお前の首が」
「は。はははははは!」
痺れるような哄笑が中庭に響く。
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「知ってんだろうに、とぼけやがって。お前の愛人の一人だった男だよ。ああ、なんつったか? そう、ギスラン。女神様のための生贄だ」
「ぎす、らん?」
フィガロだったものが、胴体だけの体で近付いてくる。だらりと背骨からインクのシミのような液体がこぼれた。真っ黒な液体が、ぼたぼた流れ落ちていく。
地面へ広がるそれは大きなシミをつくり、そこから言葉が聞こえてきた。呪文のような、聖歌のような、不思議な言葉。
――ギスラン。ギスラン。女神の生贄? 何、それ。何を言っているの。あいつは毒殺された。女神の生贄なんかじゃない。
「おさがりぃ、くださっ、この術はぁっ」
オクタヴィスが目の前に転がるように出て私をかばった。
「死に神の眷属かぁ? この術はぁ、死に神をぉ、讃えるものぉ」
「人形師……傀儡師か? 珍しいものを扱うな。人形族など、希少種だろうに。……どけよ、術師。まさかこの俺に術勝負をしかけるつもりなのか?」
「フィガロ様をぉ、どこにやったぁ」
「フィガロ……フィガロ様ねえ。王子様ならば、あの気狂いに殺されただろうが、くそ。首をきられたあとに、燃やされた。骨を砕いて食べたのだろう?」
「なにを言っているぅ?」
だからと、目の前の怪物が声を出す。
「死んだと言っているんだ。――いや、まて。俺も死んだってのか? だが、なぜ生きている。俺は処刑され、首を落とされただろうが。俺は生きているのか?」
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「退かない、ぃ」
「ふ、ははは。その顔、なんだ。お前もしや貧民か。醜い顔を俺の前で晒してよくも生きていられるもんだな。はあ、虫唾が走るんだよ。あの気狂いと同じ下等生物が俺の前にいるだなんて」
くいっと、指が宙を切り裂くように横に流れる。
「っ、ぁあっ、あ!」
オクタヴィスが振り返り、目隠しをするように私に手を伸ばした。
ぱたぱたと、羽ばたきが聞こえた。真っ赤な蝶がオクタヴィスの周りを飛んでいた。どこからやってきたのだろう。綺麗な色をした蝶々だった。文様も、美しい。薔薇の蔦が絡まっているようにも、幾何学模様にも見える。
「……オクタヴィス?」
小さな呻き声が聞こえる。顔が真っ青だ。
ころりと頭が石のように落ちる。悲鳴をあげる暇もなかった。
蝶が何もかもを覆い尽くす。胴にも、頭にも、足にも、手にも、目玉にさえ、蝶が乗っている。
「あ…………」
「なんだ、こいつ。蝶の妖精を飼っていたのかよ! 可哀想になぁ。血を吸って仲間を増やすんだ、こいつらは。能無しだが、役には立つ。どこそこ飛び回って情報集めに最適だからな。俺も貧民に飼わせたりしたもんだ。……ん。なんだ、はははっ、おい、見てみろよ、カルディア。免罪符だ! こんなの、買う貧民が本当にいたんだな」
「免罪符……」
目の前で起こっていることが一つも分からない。私はオクタヴィスの頭だったものを抱え上げた。――これは何なのだろう。一面、蝶に覆われている。蝶は煩わしそうに何度も羽を開いたり閉じたりした。
「知らないのか? 自分の罪を帳消しにする札だよ。天国で幸せになりたい奴は買い求めるんだ。あるいは大きな罪を犯したものーー殺害などの罪を犯したものだな。持っているだけで、天国への切符を約束されたようなものらしい。勿論、教会が金策のために発行した紛い物だがよ」
かがみこんで、札のようなものを指でつまみ上げた。私があげたもの。あいつはむせび泣いて、受け取っていた。どうして。頭が凍って考えがまとまらない。大切そうにしまっていたのに、どうして地面に転がっているの。
「こんなもの、意味はないってのにな」
札がひとりでに燃え始めた。
火に怖気付いたのか、蝶達が飛び立っていく。
穴ぼこだらけの肉塊が、べちゃりと音を立てて地面に広がった。こみあげる胃液が、あたりに漂う濃密な血の味に変わる。内臓らしきものが、散らばっていた。
「相変わらず悪食だな。虫ケラども」
指を鳴らすと、蝶の羽に火がついた。めらめらと燃え、凄まじい悲鳴をあげて右往左往している。
「――は、はははっ! いやぁ、なんだ。胸がすく。妖精どもは全員死んじまえ。共食いしやがれってんだよ」
「お、お前は……」
「あ? なんだよ、カルディア。もしかして、これ、お前の男だったのか? まあた、愛人かよ」
「また……? ち、違う。違うわ! 愛人なんかじゃない! お前、どうしてオクタヴィスを殺したの。どうして……」
「はあ?」
訳がわからないと言わんばかりに、首無し男は声を上げる。
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