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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

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「どうして」

 こいつは陛下に、フィリップ兄様に免罪符をあげるつもりなのか。
 彼が王族だから? だから、罪を軽くしてあげたいのか。そもそも、罪とも思っていないようだったのに?

「そんな必要ないでしょう。あの方は、罪などないのだから」
「いいえ、ぇ」
「ないわ! お前が陛下の何を知っていると? 思い上がったものね。相談役として使われているからと慢心したの。馬鹿らしい。お前は家具に過ぎないのよ。人間ではないから、話しかけているだけに過ぎない」
「いいえ、ぇ!」

 強い口調で、オクタヴィスは否定した。

「わたくしはぁ、あの方のぉ、罪をぉ、よく知っておりますぅ」
「……何を」
「レオン王子とぉ、マイク王子のぉ、殺害について、彼はぁ、自供されましたぁ」
「――は?」

 嘘だ。嘘だ。絶対に、嘘に決まっている。
 私を担いでいるのか。純朴そうな人間ならば、憐れを誘う見た目の奴ならば騙されるとでも?
 むかむか、吐き気がする。

「縛り首にする方法はぁ、ないのかとぉ。陛下はお訊きになりましたぁ。しかしぃ、国王をぉ、清族が裁くぅ、法はぁ、ございません、ん……。貴族が王族をぉ、あるいはぁ、王族同士でのぉ、裁判はぁ、まれに行われますがぁ。国王をぉ、裁いた判決はぁ、ございません、っ……」
「……フィリップ兄様は、レオン兄様とマイク兄様を不当に殺害した。順当にいけばレオン兄様が王座に座るはずだった。それを不当に簒奪した。……王位簒奪の咎で罰を与えられるのではないの。勿論、陛下が罰を受けるつもりが本当にあるとして、の話だけれど」

 でも、彼は証拠はないと言っていた。あったとしても、そんなもの握り潰せると囁いた。悪辣な悪人の顔をして。

「え、えぇ、歴史を紐解けばそういうこともございますぅ。しかしぃ、それはぁ、次代の王がぁ、指摘するものぉ。国王自らがぁ、自らのぉ罪を指摘することはぁ、例がございません、ん……。仮に他のぉ、王の候補がぁ、立つとしてぇ。罪を訴えたとしてぇ。陛下はぁ、縛り首にはぁ、なりません、ん。王族のぉ、血はぁ、尊きものぉ。流せばぁ、女神の怒りを買うぅ。一生幽閉されるのがぁ、関の山でございますぅ」
「……陛下は縛り首で死にたいとでも?」
「陛下はぁ、最もぉ、苦痛ある死をぉ、望まれておりますぅ」

 最も、苦痛のある死?

「王都でぇ引き摺り回されぇ、石を投げられてぇ、死にたいとぉ。死んだ後ぉ、皮を剥がれて鞄にでもされたいとぉ。肉は細かく刻まれてぇ、魚のえさにぃ、されたいとぉ。骨はぁ、清族の杖の素材にぃされたいとぉ。人としてではなくぅ、畜生として死にたいとぉ。おっしゃられましたぁ」
「――――」

 なんだ、それ。
 衝撃的な言葉ばかりで、言葉の強さだけで息が苦しくなる。
 兄様を殺したくせに。なんで、そんなことを言うんだ。悪人のままでいて欲しかったのに。憎まれる存在でいて欲しいのに。
 畜生として死にたい? だって、それはまるで。
 自分のことを、畜生だと思っているとでもいうようじゃないか。

「王としてぇ、讃えられたくもないとぉ。自分自身がぁ、生きてぇ、きたことこそぉ、間違いだったのだとぉ。……ですがぁ、王としてぇ、罰を受けるのはぁ、難しい、ぃ。だからぁ、法をぉ、作り変えるのでございますぅ」
「法を、作り変える?」
「はい、ぃ。人はぁ、平等でぇ、ございますぅ。しかしぃ、これはぁ、形骸化された法でぇ、ございますぅ。真にぃ、人はぁ、平等ではぁ、ございません、ん。王族はぁ、罰されずぅ、貧民はぁ、身に覚えのぉ、ない罪でぇ、罰を受けるぅ。これはぁ、なりません、ん。われわれのぉ、代で終わるぅ、べきでございますぅ。悪人はぁ、裁かれぇ、善人がぁ得をするぅ。そのようなぁ、世でぇ、あるべきなのですぅ」
「――それを、国王陛下が指示していらっしゃるの」
「はい、ぃ」

 そんなこと、あり得るのか? だって、その言葉通りならば、階級制度自体を、法という武器を持って壊そうとしていることになる。
 国王といえども、一人で法は決められない。議会がある。貴族達と、そして市民の代表者達とで決める。賛同を、得られるものなのか。そもそも、法に平等がかかれているのに、形骸化しているのだ。法にそこまでの力があるのか。
 ――違う。
 さっき、オクタヴィスは言っていた。王族同士での裁判はありえる。罰することは可能なのだ。ただ、前例がない。法とは作っただけではだめなのだ。行使されて、初めて意味を持つ。ならば、使えるところにまで法を、かえる?
 じゃあ、じゃあ。

「……平民が、貴族を訴えて騒動になったと聞いたわ。それに、聖塔での一件で、清族達が法廷に立つことになるとも」

 リストから聞いた話だ。リストは、由々しき事態だと憤慨していた。だが、一方で、妥当だと思うものもあると。
 きちんとした法の使われ方。もし、そんなものがあったとしたら。

「お知りでございましたかぁ」
「法を、作り替えるのではなかったの」
「法はぁ、人が運用するものぉ。使うことをぉ、誰もがぁ、知るべきでぇございますぅ。富めるものぉ、貧しいものぉ、貧富のぉ、差なくぅ」

 オクタヴィスは息を吸って再び声を上げる。

「考え方をぉ、まずぅ浸透させるべきであるとぉ、陛下はぁおっしゃられましたぁ。なぜならばぁ、最後はぁ、人がぁ、使うものでぇあるからですぅ」

 そして、その教えを最も効率よく広めることができるのは、教会――宗教の力だと。
 オクタヴィスは言った。けれど、そこには確かに信徒らしい信仰心もあった。私は、愕然とした。カルディア教は、女神信仰を基にした組織だ。階級制度を迎合している。というか、むしろ助長していると言っていいだろう。階級制度の後ろ盾に使われることも多いと思う。信徒はまず、その教えに疑問を持たない。持ったとしても、階級制度自体、教典にも、文化にも、深く浸透し過ぎている。誰も本当に崩せるとは思っていないし、そういうものだと思っているはずだ。
 反王政は、熱病に罹ったような状況。普通ではない。
 けれど、オクタヴィスは明らかに理性を保っていた。彼はカルディア教を信奉していながらも、階級制度に弓を引こうとしている。
 しかも、女神カルディアの信仰のもとともいえる教会を使って、それをなそうとしている。

「だから、先に法を活用する方法を人々に教えた。お前と陛下はいわば、共犯者というわけ?」
「共犯者などぉ、おそれ多いことでぇございますぅ。……それにぃ、わたくし一人ではぁ、ございません、ん」
「陛下には協力者が他にもいるということ?」

 こくりと頷かれた。
 オクタヴィス以外にも、協力者がいる。彼らは陛下の考えに共感して、本気で階級制度が法で変えられると思っているのか。
 いや、そうじゃないのかもしれない。ただ、明日、今日より良い日であるように。明日より、明後日が良い日であるように。祈るように積み重ねているだけなのでは。
 だって、子供が馬車で轢かれた親に、貴族の使用人だからと裁かれない現実を見せていいとは思えない。罪がある人間が正しく裁かれる。それはとても、正しいことだ。

「……で、でも、具体的な方法は? 法律という理を流行らせて、民間で裁判させるようにして、大願は成就するの?」
「いいえ、ぇ。それはぁいまだぁ。まだ、まだ、時間が足りません、ん。あとぉ、十年、いえ二十年はぁ、――いいえ、ぇ、きっとぉ、多くの時間がぁ、必要でぇございますぅ。時がぁ、必要でぇございますぅ」
「時が……」

 それは、そうだ。何百年と続いてきた価値観がすぐに変わるわけがない。……何だか、正解を見せられているような気分だった。市政にまず平等という概念を植え付け、法という武器を与え土壌をつくる。ある程度育ってきたら次は法を整備し、王すら裁く。前例を成す。悪いことをすれば罰せられる。
 革命を起こしても、急激な変化は結局、歴史の揺り戻しにあうだけ。一時の激情ではなく、日々を積み上げ理想を形にしていく。
 石が雨に打たれて形を少しずつ変えていくように、緩やかに形を変化させていく。
 少なくとも、私の考えていた平等への道筋は子供が考えたものだったのだとわかる。本当はもっと長期にとらえて、多くの人を巻き込んで行うものだったのだろう。
 だからこそ、言いようもない悔しさと嫉妬心が溢れてきた。うまくいくものかと思ってしまう。そんなに時間をかけても、人間はそう変わらないのだと、思ってしまう。
 そうであって欲しいと、薄汚く思う。
 だって、私は善人じゃない。平等になった世界が見たいのは、未来人じゃなくて、私なのだ。そして、この目の前の男であり、国王陛下、その人なのだ。
 未来に期待しても、今が変わらなければ意味がない。
 そうじゃなければ意味がない。でも、オクタヴィスはそれでいい?
 だとしたら、この男の一生は過去の人間のための踏み台なのか? 戦争での悲惨な体験がもとになり、罪人がきちんと罪を与えられるように運動を行なったと語り継がれるのか? いや、この男が語られることすらないのかもしれない。ただの清族の男と名前さえ残らないかも。

 ――そんなことのために、免罪符を渡したわけじゃないのに。

 誰かの声がした。……私の声?
 頭の中で声が響く。悲しそうな声だった。

 トヴァイス・イーストンが言っていた。罪をすすぎたいと思うのは人間の利己なのだと。結局は神がお決めになること。死に神が決められること。けれど、許されたいと望む傲慢さを、卑劣さを、どうして卑しいと責められるのか。
 だから、カルディア。お前はお前のために生きるといい。そんな札を買ったところで、ギスランは戻らない。お前の罪は雪がれない。可哀想な女。地獄に堕ちるのがそこまで怖いのか。それとも、生きるのがそれほど苦痛か。
 免罪符をいくら集めても、お前は地獄に堕ちる。それは変わらない。
 ――あぁ、こんなこと、言わせるな。

 笑うなとあの男は言った。地獄に堕ちると断言されて、救われた私に傷付いた顔を浮かべていた。
 こんな目に遭うのは私だけで十分なはずだ。あげた護符で幸せになって欲しかった。過去でも、未来でもなく、今を見て欲しかった。あの世で、許されると信じて欲しかった。だからこの世で罪を償うような日々はやめて欲しかった。
 この護符があれば、信者はそう思うのではなったのか。この名前に意味があったと思いたかった。女神と同じ名前。そんな私が許しを与える護符を配る。霊験あらたかだと誰もが思うだろう。

 ――誰かの救いになれると信じたのに。

 オクタヴィスはそれで幸せなのだろうか。誰からも嫌われて、こんな私に童話を読み聞かせて。いろいろ話を聞かせてくれて。私ばかりが満たされて、知見を得て。
 それで遠い未来のために身を尽くして幸せなのか? いずれ、死ぬ時にあぁ、未来が楽しみだと言いながら死ねるのか。罪の意識に苛まれずに逝ける?
 どうしてこんなにも、誰の役にも立たないの。カルディアという名前だけ。結局、何も力を持たない。

「――お前は。お前は、それで幸せなの。結局、法を整えても、人が死ぬだけでしょう。お前達は、人殺しの法に前例をつくろうとしている。頑張って何十年とかけて、人が死ぬ法を残すの。それでお前は死ぬ時に報われる?」

 激情のまま唇が動く。これは私なのか? 知らない記憶が蘇る。オクタヴィスは、この席に腰掛けて私に何度も童話を読み聞かせてくれた。そのときに彼は笑いながら言ったのだ。童話は好きです。最後にはめでたし、めでたしで終わるから。
 ならば、この男の最後もめでたしで終わらなくてはならない。そうあるべきだ。だって、こんなにも傷ついた男が、報われないなんておかしい。戦場で人生をむちゃくちゃにされた男が、少しでも穏やかな人生を送ってなぜ悪いの。
 オクタヴィスは驚いたように私を見つめると、ふと笑った。

「お泣きにぃ、ならないでぇ」

 涙なんてと思ったのに、ぽろぽろと頬を熱いものが流れ落ちていく。どうして、泣いているのだろう。さっきの記憶は何だ? 私なのか。いや、確かに私の記憶だった。この男に、とても良くしてもらった。

「本当はぁ、法はぁ、変えなくともぉ、よいのですぅ。三百年前のぉ、革命のぉ、ときぃ。法のぉ、根幹のぉ部分にぃは平等がぁ、刻まれておりますぅ。けれどぉ、三百年間、そのぉ、根幹をぉ、否定するようなぁ、法がぁ、いくつもぉ制定されてぇ、参りましたぁ。誰もぉ、そのことにぃ、疑問をぉ、持ちませんでしたぁ。本来はぁ、罪をぉ指摘するのにぃ、身分などぉ、関係はぁないのですぅ」

 オクタヴィスが目を伏せる。その顔は歪んでいて、苦痛にうめいているように見えた。

「誰もがぁ、申しますぅ。前例がぁ、ない、ぃ。法をぉ、越えてぇ、罰を下すことはぁならない、ぃ。身分をぉ、越えたことはぁ、してはならないぃ。国王陛下はぁ、申されましたぁ。御身をぉ裁く法がぁ、ないとぉ。正当なぁ、罰がぁないとぉ。どうしてぇ、そうなのだとぉ。三百年間、ん。人はぁ、何をぉしてきたのかぁ、とぉ」

 まぶたが開く。悪戯をしたあとのような、少しだけ自慢げな視線だった。

「三百年間も変わらないものをぉ、わたくし達がぁ、かえるぅ。この身は怨嗟以外をぉ、残せぬとぉ思っておりましたがぁ、そんなことはぁないのですぅ。この生にぃ、意味がぁあったとぉ、誇れるぅ。それ以上にぃ、報われてはぁ、ならないとぉ思っておりますぅ」

 そういって、オクタヴィスはにこりと笑ってみせた。全然笑顔には見えないのに、どうしてか笑っていると心の底から思えた。

「だからぁ、姫様ぁ。姫様ぁ、もぉ。どうかぁ、私刑などぉ、考えられないでぇ」

 ひゅっと喉の奥が締まる。こいつ、今何と言った?

「私刑ぃ、復讐をぉ、なさろうとしていらっしゃるぅ……」
「お前」

 拳を握り込む。私は復讐をしようとしている?
 力が入る。否定をしようとしたのに、出来なかった。私は知っている。そうだ、私は復讐をしようとしている。
 ギスラン・ロイスターを殺した人間を殺すつもりだ。

「知っていたの」
「はい、ぃ」
「いつから」
「……こうしてぇ、童話をぉ、お聞きいただくようにぃ、なった頃でぇしょうかぁ」

 そうと短く答える。顔が合わせられない。

「――知っていて、あの童話を読んで聞かせたの」
「……はぃ、い」

 はっと鼻で笑う。何だか酷く滑稽だった。

「童話で想いが変わるとでも思っていたの。私が改心するとでも?」
「……姫様はぁ、童話がお好きでしょう、ぅ?」
「ええ、悪い人間がきちんと報いを受けるものが多いもの。復讐は果たされて、めでたしめでたしで終わる」

 はてと頭の中で首を傾げる。そんな理由で童話が好きだった? ただ、サガルが話してくれた童話が楽しかったから、好きになったのではなかったか。
 何かがおかしい。けれどそのおかしさが分からない。

「ねえ、知っている? オクタヴィス。ギスランの殺人に加担していた男の名前。テウというのよ。貧民のテウ。けれど、元々は伯爵家の血をひく正統な後継だったの。彼は親戚に陥れられ、日の目を浴びることなく過ごしていた」

 テウ?
 テウとこの口は言ったか?

「料理が得意で、女神様に献上される美食よりな美味であると有名だったのだって。ギスランが剣奴として招いたらしいわ。私にも料理をたくさん食べさせてくれた。彼の作る料理は本当に極上で、他の食べ物が炭に思えるぐらいだった」

 けれどと言葉を区切る。

「あの日、あいつの作った料理に毒が仕込まれていた。私のかわりに毒入りの料理をギスランが食べて、死んだ。テウは虫に喰われて死んだんですって。拷問されたの。自分の無実を叫びながら。――あいつが残した日記を見たわ。私が残したもの、食べたいと所望したもの、苦手なものが書き留めてあった。ギスランに毒を盛ったその日の日記に何が書いてあったと思う?」

 オクタヴィスは首を振る。想像できないというように。
 それはそうだ。彼には分からないだろう。

「ギスランが勝手に食べたから、私の苦手が克服されたか分からない! と書かれていたのよ。そんな男が、毒を盛るものなの? でも不思議だとは誰も思わなかった。あいつが実行犯だとされた。それで事件は幕引き。ねえ、たとえ、テウが犯人だとして、あいつの裏にいる人間がいたはずなのよ。だって、盛られた毒は誰もが手に入るものではなかったのだから」

 それに私を殺す動機があいつにはなかった。日記には明日、何を出そうかと必死で考える様子が書かれていた。本当に殺したいと思っていたのならばあんなこと書かないはずだ。

「ギスランも、テウも、死んだ。殺されそうになった私はのうのうと生きている。毒を盛った奴だってきっと生きている。関係ない者ばかりが死ぬ。犯人が私を直接殺しにくればよかったのに」
「姫様ぁ」
「そうすれば、殺されてあげたのに。……でも、未来には戻れない。ギスランは死んでしまった。あいつは、私のかわりに死んだ。馬鹿みたい。私にあいつ以上の価値なんてなかった。お前だってきちんと説得できなかっただから」
「説得でぇございますかぁ?」
「私のことを慮る無駄な時間を過ごすなと、説得できなかったでしょう?」

 オクタヴィスは言葉を探すようにカサカサの唇をぱくぱく動かす。

「お前のこと、私は好きよ。童話の読み聞かせも、お前の実直なところも、情け深いところも好き。けれど、復讐はする。決して曲げるつもりはない。あぁ、大丈夫。裁判にはならないわよ。殺したあと、きちんと死ぬつもりだもの」

 ――死ぬつもり?
 何を言っているんだ。私の心からの感情なのに、全く理解が出来ない。
 復讐って、犯人を殺すのか? そして、殺したあとは死ぬつもりなのか? 恐怖が全身をかける。どうしてこんなことが言える?
 犯人の影さえ捕まえていないからこんな大言壮語が吐けるのだ。そう思い込もうとして、唇を舐める。
 自分と、もう一人の私の境界がどこにあるのか、分からなくなる。
 ふとしたとき、体から力が抜けた。
 私の感情が塗りつぶされていく。恐怖が消えていく。覚悟に似た諦観が重くのしかかる。私は復讐を望んでいる。犯人を見つけ出して、殺そうとしている。

「他人に迷惑ばかりかけてきたのだから、最期ぐらいは迷惑をかけないようにしなくてはね」

 クスクス笑いながら告げる。

 ――狂ってしまっている。

 喉の内側から出る音を聞きながら自分自身をかえりみる。
 クロードと結婚した私が本当で、ギスランが生きていたあの世界は夢だったのではないか。そう思うと、何だか酷く心が落ち着いてくる。長らく微睡んでいたけれど、それも終わり。夢はやっぱり夢のまま。早く、夢の世界のことを忘れなくては。
 目を伏せて、ぐちゃぐちゃの感情を整理しようとする。

 ギスラン・ロイスターに守られる人生なんてなかった。彼の好意を受け止めようとすることなんてなかった。彼はもう既に亡くなっている。寿命伸ばそうなんて、無理な話だ。死んだ人間に寿命なんてない。死者を蘇らせるという方がまだ現実味がある。
 笑いながら、狂っていく。狂いながら、笑っている。
 長い夢の中にいたのだと、私は私に言い聞かせる。
 目の前の男はオクタヴィス。私が救えなかった男だ。
 この世界が私の現実だ。
 現実なんだ。
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