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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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しおりを挟むこの世に善人は存在しない。
拷問されたイルを看病したギスランが口にした言葉を急に思い出した。
膨れた頬、折れた肋、何度もハンマーで叩かれた指。腰から先は神経が麻痺しているのか感覚がなかった。
ギスランは何を思ったのか、甲斐甲斐しく看病をしてくれた。何も食べる気にならなかったイルに粥を差し出して、食べさせてくれた。イルが吐瀉しても構わずに、世話をしてくれた。
その時に、彼が受けた仕置きの話を聞いた。父親から受けた教育という名の暴力。ギスランは童謡を知らない。そんな彼が、どうやって躾けられてきたか。
母親からは今でも、凄まじい扱いを受けると言っていた。頭を瓶で殴りつけられたこともあるのだと。
「人は善意で形作られてはいない」
ギスランは噛みしめるようにそう言った。
ギスランの政敵の一人が、イルを捕らえ、拷問した。死ぬかと思ったが、死ななかった。体を取り替えたいほどどこもかしこも痛かった。
人が善意の塊じゃない。そんなことは分かっていた。そうでなければ、人の指を粉々に破壊しようとする奴はいないだろう。ギスランの情報を得たいという、ただそれだけのためだけに拷問する人間がいる。
善意とは程遠い。そもそも、イルが生きていた貧民街という場所そのものが、清らかで優しい世界とは隔絶されていた。
「善人は存在しない。かといって悪に染まっているというわけでもない。人の本質は欲だ」
指についた嘔吐したものをタオルで丁寧に拭きながら、ギスランは言葉を続けた。
欲ですかと口をもごつかせたのを覚えている。綺麗な声にはならなかった。
「支配欲、性欲、物欲、強欲、貪欲、睡眠欲、承認欲、知識欲、食欲、――そして生存欲。人は欲によって生き、欲によって死ぬ」
欲と人形のように美しい顔が繰り返すと、妙な心地だった。
本当に人間の欲を理解しているのだろうかと不思議に思うほどだった。それぐらい、手に届かない美しさがギスランにはあった。
イルはギスラン以上に美しい人を見たことがない。
だから、目の前にいる彼が本当に生きているのか、怪しんですらいた。
「何発殴られた?」
顎を掴まれ、目線が合う。ぽおっと見惚れてしまった。
「拷問するときは口は狙わない方がいい。相手が喋れなくなったら情報を引き出すことも出来ない。気をつけてね」
言われたことの一割も理解できなかった。こくこくと頷くと、満足したようにギスランが手を離す。
「どうして、話さなかった?」
同行していた先輩は自害したと聞いた。
話すぐらいならば、死んだ方がましだということなのだろう。イルは死ぬなんて考えたことがなかった。そもそも、捕まるなんて、思わなかった。
慢心による油断のせいだ。
己はそんなに強くないのかもしれなかった。
どうして、と心の中で繰り返す。
それはどうして死ななかったという疑問なのだろうか。
「お前は何も喋らなかったようだから。忠義を尽くして貰うようなことはしていないし、裏切ればよかっただろうに。痛みが好きだったのか? 生きたくなかった?」
裏切ればという言葉に固まった。
主人が下僕に言う言葉ではない。
だが、その言葉には一筋も欺瞞がないようで、内心驚いた。
貴族だから、代わりなどいくらでもいると叱責されるだろうと思っていた。忠義を尽くして死ねば良かったのにと言わないのか。
「拷問を受けたことはないが、先ほども話した通り、痛みを知らないわけではない。暴力に屈することもいかしかたないと思うけれど」
それはそうだ。先輩だとて、痛みで我を忘れて情報を漏らすことを懸念して自害したのだろう。それが間違っているかどうかはイルには判断がつかない。だが、きっと、そちらの方が英断であるのだろう。
「知らない、ので」
口の中の歯がぐらつく。それでも、きちんと言葉にしないのは不誠実だろうと思った。
「貴方のことを、俺は知らないので」
間違ったことをぺらぺらと喋って間違っていたら嘘をついたとして消される。そういうものではないのか。
そうくぐもった声で言うと、ギスランはくすくすと笑い始めた。動揺して視線を彷徨わせる。
何かおかしなことを口にしただろうか。冗談を言ったつもりはかけらもないのだが。
「お前、正直者だね」
「初めて言われました」
「そう? 次から首から看板をぶら下げておくといい」
皮肉げなのに楽しげで、イルは目をパチパチと瞬かせてしまう。その様子もおかしいのか、ギスランはまたくすくす笑い始めた。
「気をつけないとすぐに足元をすくわれてしまう。この世は欲深い化け物どもでいっぱいだ」
「はあ……。化け物、ですか」
「そう、目の前にだっているかもしれないだろう?」
からかわれているだろうことは察したが、この人に何の得があるのだろう。
幸い、死に損ないとして罰を与える気はないようだが、意図が読めない。
「私のカルディア姫は化け物達に唆されて、燃え盛る炎のなか、死ぬために飛び降りた」
胃をきゅうと締め付けられるような痛みが走る。
ギスランの婚約者の話は噂になっていた。話に聞いているだけだったが、随分と悲惨な目に合ったらしい。
使用人に疎まれ、火をつけられて殺されかけた。
カルディアはその経験のせいで人が側に寄るだけで嘔吐してしまうと聞く。
第一王子の元で静養しているというが食事も取らず、日がな、幸せな結末がないと錯乱しながら童話を読む日々だと護衛を命じられた剣奴が言っていた。
「人は簡単に、欲のために他人を蔑ろに出来る。仕える身でありながら、まるで自分が正当な行いをしているかのような顔をして自利ばかりを優先する」
婚約者を害した使用人の粛清はギスランが直接行ったと聞いている。
指の先まで血塗れで、原型を留めていなかったにも関わらず、わずかに息があったようだった。さめざめと涙をこぼしながら息絶えたらしい。
死体は細切れにされ、鳥に啄ばまれて消えた。水葬が基本であるライドル王国では、土葬に並ぶほど侮辱的な死だった。
主人の怒りはそれほどまで大きかったのだろう。
イルはそっとギスランに視線を向ける。
憂いを帯びた瞳がゆっくりと伏せられる。ぞっとするような殺意が一瞬、滲む。
深い海の底を覗き込んだような、霧で霞む貧民街の奥深くに入り込むような、冒涜的な一瞬だった。
「よく生き残った。褒めてあげる、イル」
「――――は、はい」
名前を、呼ばれた。
それだけだと言うのに全てを掌握されたような酩酊感が襲った。
歳下の少年だ。だが、イルが出会ってきた誰よりも圧倒的だった。恐ろしい人だと分かっているのになお、惹かれた。ギスランはイルの支配者だった。
名前を所有されている。ギスランがイルのことをイルと認めたことで、新たに産声を上げたような鳥肌が立つ感覚がする。
「駒ならば、搾りかすになってもなお、私の役に立たなくては。お前はどんな形であれ、生き残った。また、使ってあげる」
甘ったるい語尾がイルを動かす。
死んだ先輩を揶揄するような物言いに優越感が走る。
曲げられないはずの指を折る。激痛が走り、目を細める。
また使って貰える。母に金を渡すことが出来る。イルの価値を示すことが出来る。
感謝を現さなくてはならないと思った。
金を貰うからではなく、ギスランという存在自身に、敬意を表したかった。
「願わくば、私の最期の剣になって。絶望的な状態でも、お前がいれば逆転できると夢想できるほどの」
唇が戦慄く。紡ごうとしていた高尚な文言が全て飛んだ。
最期の剣。絶望的な状況を打開する一手。
それになれと、なってくれるならばと。
ギスランはそう言うのか。
ギスランの役に立つ最期のとき、それまで、生き残れと望むのか。
イルのような身分の者に与えられていい言葉なのか。
母が褒めてくれるのを待つ、子供のような願望を胸に抱いたままのイルでも、いいのか。
「はやく元気になれ。お前が私の役に立つことを期待している」
そう言って、ギスランは出て行った。
快癒して、遠目からギスランの顔を見に行ったことがある。
婚約者だと言う女の世話を嬉しそうに焼いていた。にこにことしていて、へりくだっていた。なのにイルといた時よりもずっと楽しそうだった。
久しぶりに貧民街の家に帰ると母はイルのことが分からなくなっていた。金も、怖がって受け取らない。
イルはひっそりと理解した。
母はイルが世話をしなくてはならない存在へと転がり落ちてしまったことを。そして、それを埋めるように、ギスランがイルの生きる拠り所となったことを。
母に金をやるために、母を買う客のふりを始めた。
心の隅の方で、いつか、ギスランが死ぬときを夢想する。彼の役に立てず、生きながらえたとき母を殺してイルも死ぬだろう。
「――望みはもう間に合ってる」
母に、そして道鏡に、惹かれていた心が急速に自分自身に戻ってくる。悩んでいたことが一気に馬鹿らしくなり、笑い声を上げてしまいそうだ。
「残念ながら、もう俺には救世主がいるんだよ」
銀色の髪に紫色の瞳をしたイルの神様は、カルディアが無事でいることを当然だと思っている。イルはその望みの通りに動くだけだ。
見返りを求める醜悪さ。これは人のための行いだと信じるエゴ。誰かのための何かになりたいという承認欲求。
他人に尽くしたい。他人にとって有用な人間になりたい。全て欲だ。人間は欲のままに生きている。イルもまた、欲望が詰まった肉の塊に過ぎない。
ギスランは人生に意味を与えてくれた。
願わくば、最期の剣になってくれ。ギスランにとっては何気ない言葉だったのかもしれない。掃いて捨てるほど吐いてきた言い回しなのかもしれない。
だが、イルにとって、ギスランの言葉は芯になった。心に刺さり、抜けない、確かな楔となった。
ギスラン・ロイスターは最期の夢を見せた。
ギスランの側で奮戦し、燃え尽きるイルの姿を見てしまった。欲が出た。人のために死にたいと思った。役に立ちたいと思った。
ギスランのために死んだ使用人達の誰よりも、イルが役に立ったと誇りたかった。
動かなかった体が動いた。母の首を唇で噛み千切る。
都合のいい救いはいらない。現実に帰る時間だ。
泥の臭いがする。生臭く、放置され、苔がしげる池のような臭いだ。
「起きたか」
目を開け、起き上がるとトーマを押さえつけているリブランの首領が居た。
驚き、目を丸くするイルに、彼は命令した。
「こいつを抑えつけるのを手伝え。さもないと、魔力の暴走で巻き添えを食うぞ」
「――は?」
事情を聞く暇は与えられなかった。
トーマの口から呪いの言葉が吐き出される。
うわ言のようでありながら、しっかりとした言葉の礫だった。頭が言葉を理解した瞬間、地面に頭が叩きつけられた。
頭なかでぐわんと音が鳴る。
目頭が痛みで熱い。
「俺は……違う。死んでくれ……死んでくれよお……」
すすり泣くようなトーマの声。
痛みが走る。立っていられなかった。
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