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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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白目がない彼らは私が見つめていると気がつくと、裂けそうなほど口の端を上げた。
虹色に輝く羽。人間のような姿。けれど、決して人間ではない。尖った耳、宝石を磨いてはめ込んだ潤んだ瞳。
「妖精……! なんで、私が……!」
息を詰めた瞬間、目の前に彼はいた。私をしげしげと観察すると、急に目の前で指をくるっと回す。すると目の前に小さな嵐が起こった。
わっと小さく驚くと、くすくすと笑われた。
「こ、この!」
苛立って手を伸ばすが、掴めない。前に出した手は水の中につけたときのようにゆらゆらと揺らいだ。まるで何もいないものを追っているような感覚だった。
「何をやってるんです、カルディア姫」
「……妖精がいるの。目の前に!」
「……いませんけど?」
「見えないだけですわよ。悪戯妖精。低級の妖精です。……はなおとめ、少し失礼致しますわ」
そう言って、ヴィクターが私の瞳を覗き込む。
「やはり、魔力反応がありますわね……。これは加護のようなものと同じ神気がある。女神に? 主たる神に? いえ、どれでもないのかしら」
「何をぶつぶつと言っているの?」
ヴィクターは少し顔を離し、口元に手をあてた。
「はなおとめ、幼い頃に妖精が見えたご経験は?」
「あると思う?」
「ですが、はなおとめの目は見えつつありますわ」
「見えつつある……ですか?」
イルが難色を示す。
「その姿と何か関係があるのかもしれませんわね。――前から目が見えなくなったり、変なものが見えたりはしていませんでした?」
「…………それは」
言い澱むとイルがぴくりと反応した。
「ええ!? 俺、そんな話聞いてませんよ!?」
目線を逸らす。今にも詰め寄ってきそうだった。
言えるはずないだろう。目の異常はイルがきちんと護衛として付いて回るようになる前からだ。
「少し前に。レゾルールに来る前の話よ。目が霞んで見えなくなることがあったわ。けれど、今は霞むこともほとんどないし、関係ないでしょう?」
「霞んだり、白昼夢見ていたり、初めて聞いたんですが!? 貴女はどうしてそう……! 言ってくださいよ、不調ならば!」
「別に、問題ないと思ったのよ」
「馬鹿なんですか!? 貴女は、いつもそうだ。努力と根性で何とかなるとでも? 貴女のこと馬鹿みたいに心配する人間がいること、忘れてるんですか!」
いつもよりも強い口調でイルは私に食ってかかった。
「ギスラン様は自分の命よりも貴女のことが大切なんですよ、分かってますか。貴女になにかあれば、あの方は命を絶つこともいとわないんですよ」
「別に、命に関わるようなことじゃなかったの」
「その判断を下すのは清族や医師達です。そして何よりギスラン様ですよ。いいですか、次不調があれば絶対に伝えて下さい」
眼鏡の奥の瞳は、私は心配そうに見つめていた。大切なものを見るような目はむず痒く、私から反論を奪っていく。
「わ、分かった」
素直に頷くと、イルは年の離れた妹を見るように優しく目元を和らげた。
「目の病気で死ぬ奴なんか貧民街にはごまんといました。失明したくせに路上で眠って犬に食われた奴もいる。貴女の体はたった一つなんだから労ってくれなきゃ困りますよ。俺の首も危うい!」
最後のとってつけたような保身の言葉に苦笑する。イルは素直じゃない。だいたい、犬に食われた人間と一緒にするな。
「はなおとめは愛されてらっしゃるのね。……それで、目の違和感は具体的にどんな時に起こりましたの?」
「不規則だったように思うわ。……規則性があったとは思えなかった。突然そうなるというのが正しいわね」
「突然、ですか」
ヴィクターは怪訝そうな顔をしている。何か原因があるのではないかと疑っているのだろうか。
「……ともかく、はなおとめの目は、魔眼になりつつありますわ」
魔眼?
童話で読んだことがある。
邪眼を持った怪物が、時を止めて人々に残虐の限りを尽くす。英雄がそれを知恵と勇気で討伐するのだ。
だが、現実の魔眼を持っている人間を私は聞いたことがなかった。
「魔眼――正直、よく分からないわ。妖精が見える目のことを言うのではないのよね? お前達も持っているの?」
「いいえ、持っておりません、そもそもわたくし達が見ることが叶うのは、あくまで妖精達が姿を現わす気があるからですわ。契約を結ぶため、あるいは気まぐれで。ですが、魔眼を所有したものは、妖精達が望もうと望まないとも見ることが叶うといいます」
「……っ。そ、それは見えるだけ?」
「ええ、ですが、見えるという行為自体が妖精達の興味をひいてしまいますの。彼らは人外でございます。人が持ち得る情に疎く、下法の技を得意とするものも多い。妖精によって人生を狂わせられた清族はごまんといます」
真剣にヴィクターは懸念を示しているようだった。
「清族でさえそうなのですから、魔力を持たないはなおとめのような存在は妖精にとって玩弄するにはうってつけの存在ですわ。目玉をくり抜かれる可能性だってございます」
随分な言われようだ。つまり、身の丈に合っていない代物なのだろう。魔眼は持つべきではない。持ったら命の保証はできない。それぐらい危険なもの。
「なりかけということは、ならない可能性もあるの?」
「魔眼は基本的に先天性のものですわ。これまで見えなかったということは、何らかの障害があり、魔眼として十分に成長出来なかったと言うのが正しいものだと思います」
「成長……つまり、この状態は、正しいと?」
「ええ。今は不自由な視界かもしれませんが、やがて妖精も、人間も差なく見えるようになりますわ」
ガラスが散らばった視界が綺麗になるということなのか。妖精が見えると思うと心が少しだけ弾むが、ヴィクターの言い様だと、私のような非力な人間が持つにはあまりあるものだ。
「見えなくするにはどうしたらいい?」
「目を抉ることになりますわね。ですが、抉ったところで変わりません。魔眼は脳と直結に結びついていますの。なので、妖精は見えて、感じることが出来てしまう。暗闇のなか幻視することになるといいます。妖精は嬲るように、近付いて、離れてを繰り返して怯えさせ、最期には発狂させてしまう」
「なによそれ、魔眼を得たらどうしようもないと言うこと!?」
「――はい。あとは自己防衛を取るしか。幸いわたくしがおりますのでお力添えが出来るものと思います。それと、後遺症についてもお話ししておくべきですわね」
ヴィクターは神妙そうな顔をしていた癖に、急に可愛らしくきゅるきゅると目を輝かせ始めた。
「魔眼というのは副作用がございますの。簡単に分けますと、千里眼、物理干渉、魅了、そしてその他ですわ」
「分ける、ですか?」
イルの動揺は私の感情そのままだった。
千里眼やら物理干渉やら魅了やら何の話をしているのか。
「人の身に余る能力。それが魔眼を発芽させた人間に与えられる副作用ですわ」
つまりと言いながら、ヴィクターはほわほわと笑った。
「妖精眼――妖精を魅了し、契約なしに従わせる魔眼というものが過去にはあったといいます。あるいは、純粋に遠くのものが見える遠見の千里眼や遠い過去や未来のことが鮮明に分かってしまったりする魔眼。あとは、魔術事態を無効化する反則級のものも。個人差はありますが、強力な能力ですわよね。故に、妖精以外からも買い手がつく」
「……それって、もの凄く不味い状態よね?」
「はい。もの凄く不味いですわね。商人達にとっては垂涎の的ですもの。案外、それを見越して蘭王ははなおとめに近づいたのかもしれません」
「っ! そういえばあいつ、私の夢見に興味を示しているようだったわ」
「夢見とはまた……。はなおとめ、面倒な輩に目をつけられましたわね。十中八九、その夢見、魔眼の作用の一つでしょう。成長途中でそれとなると、完成したら……」
魔眼の副作用。夢見なんてした覚えがない、とは流石に言えなくなっていた。
ユリウスやエルシュオンのことを幻のこととは思えない。私は、たしかに彼らと会い、話した。神の背の皮も見た。この世ならざる両親の最期も、サンジェルマンの姿もだ。
「……ともかく、魔眼であることは出来るだけ人に知られないようにして下さいませ。そして、夢見や白昼夢を見たらわたくしにご連絡を。あと、トーマにはご内密にして下さい」
「……トーマに? あいつは私の従者だと言うのに?」
「トーマを信じていらっしゃるならばそれでも構いませんけれども、流石にはなおとめもトーマに何かあるとお思いなのではありませんか?」
核心を突かれたような気になり、押し黙る。
私と従者達は細くて、今にも切れそうな糸で繋がれている。
表面的には仲良く交流しているようだけれど、内面はぐちゃぐちゃだ。協力や友好とは無縁で、何かうちに抱えているものがある。
「……思わないわ」
それでも強がって、そう言った。信じなくてはと思った。善意からでも、使命感があるからでもない。
裏切られても仕方がない。
傷つくだろうけれど、胸が張り裂けそうなほどだろうけれど。
トーマは、髪が切れたぐらいで罪悪感を抱くような人間だ。だから、何か含むことがあったとしても、あいつが感情を押し殺してでもやり遂げたいことなのだろうから。
「私は人を見る目はないけれど、トーマは見る目があるやつだと思っているわ。あいつは、興味を持たない奴のことをまるっと無視する豪胆な男だもの。だからこそ、あいつの選択が打算に塗れていても、あいつ自身を疑うつもりはない。あいつは私を主人に選んだ」
ごくりと唾を飲み込む。
「だから、私はあいつの主人として振舞う」
いつのまにか喉が渇いていた。
「だから、トーマにもこのことを打ち明けるわ。あいつも清族だし、どうにか知恵を絞るでしょう」
ヴィクターはしばし呆気にとられていたようだが、急に肩を揺らして笑い出した。
「大変ですわね。天邪鬼というのか、純朴というのか。はなおとめは、強情なのね」
「悪口を堂々と目の前で言っていいとは言ってない」
「悪口ではありませんわよ。はなおとめの従者になるものは大変で、幸せ者ですわね」
ヴィクターはするりと私に手を伸ばすと、額に手を当てた。
呪文を唱えようと口を開いたのだろう。その瞬間、銀色のナイフが喉に差し込まれる。
「見過ごせないので、その手、どけてもらえますかね」
「ただ、軽い処置を施すだけですわ」
そういうと高速で詠唱した。イルが力任せにヴィクターを引っ張って地面へと投げ出す。
「カルディア姫、何か違和感はありませんか?」
イルは心配げに声をかけてくる。ヴィクターを転がした人間には見えなかった。
ぱちと瞬かせると、煌めいていた視界や妖精の姿がかき消えた。
「ない、わ。むしろ、よくなった」
「いたたたっ。もう、イルってば乱暴ですわね。……はなおとめ、応急処置です。魔力を弄って、元の状態に戻しましたわ」
起き上がりながらゆっくりと首を振る。そして、刈り上げた白い髪をくしゃりと一度撫でた。
「ですが、応急処置に過ぎません。瘴気や魔力濃度が高いところには近づかないように」
「ありがとう……」
「お安い御用ですわ」
「……謝りませんよ」
イルはぶっきらぼうに言い放った。
瞳の温度は冷めていて、冷たい暴力の光が底光りしていた。野獣のようだと怖気が走る。あるいは、野卑な犬だ。なにもかもを食らう凶暴な。
「次やったら首を掻っ切るので。ヴィクター様が相手だろうと」
「怖い怖い。ですが、わたくしとてやらねばならないことをやっただけですわ」
「……分かりました」
お互いの視線が交錯し、ふっと緊張の糸が緩む。何やら二人の間だけで交わされたものがあるらしい。
イルは素早く私に視線を投げた。
「さて、カルディア姫。周囲の目も気になってきましたし、本を持ってーー」
頷こうとした時だった。頭に何かが流れ込んでくる。
それは怒りを伴った言葉だった。咄嗟に耳を塞ぐが、直接脳内に刺さる言葉なのだから、意味はない。
――寵愛を拒むな。
――禍乱の夢、動乱の現世。人の心まで、お前に見せよう。お前が望んだ通り、つまびらかにしよう。
――ああ、はなおとめ。
「どうして、花はーー」
枯れるのか。
衰えを知らずにはいられないのか。純粋な疑問が、再度投げかけられる。
その言葉を聞き終えて、世界がぐるりと傾く。
「カルディア姫!」
イルの叫ぶ声が、はるか遠いことのように聞こえた。
「では、決を取ろう。女神の現し身たるかの女王を殺すべきか否か」
暗い堂に人影があった。身なりのいいもの、貧相なもの、男も女もいた。老人も、子供も。皆一様に真剣な表情を浮かべ、じろりじろりと辺りを伺う。
まるで、誰かが先に動くのを待っているようだった。
「どうした? 何を怯えている。ああ、そうか、俺が怖いのか。リストと呼ばれたこの俺が。王族であった俺が」
真ん中にいる男は、ゆっくりと腕を伸ばし、鷹揚に首を振る。
「全く、馬鹿げたことだ。今は廃嫡された王族だぞ? それに、血とて王族の血は一滴たりとも入ってはいない」
リストの言葉に何人かは警戒心を解いた。だが、それだけだ。大多数は彼への警戒を解いていない。深くため息をつくと、彼はゆっくりと大仰そうに腕を上げた。
「では語ろうか、俺の物語を」
皮肉げな唇はゆっくりと王族の愛憎を語る。自分は、買われた子であること、王族の血が一滴も入っていないこと。熱心に聞き惚れる彼らは、やがて緩やかに立ち上がり、拍手をし、叫びをあげる。
「リスト様! 私達は貴方に従います!」
「我々の同士よ!」
リストは次々と投げかけられる賛同の声に手を挙げて応えた。
目まぐるしく、意識が入れ替わる。
「愚かな人間が僕の好意を無にしたんだけど!? というか、また文字が書き換わってる! 最悪過ぎて頭痛がしてきたよ、全く」
「エルシュオン、このままでははなおとめの脳が焼き切れる。どうにか出来ないのか」
「出来るわけないだろ! 前はこっちに意識まるごと来てたけど、今は違う。完全に大神の権能で、この背の文字に繋がってる。文字を通して僕達を見ているんだ。この時計のなかからの干渉は不可能だ。お手上げだよ!」
「しかし……。よかれと思ってやったことだろう。それではなおとめが死ぬのは耐えられない。善性によって悲劇がなされるなど……」
「ぎゃー! ユリウスが泣いた! ぼ、僕は悪くないぞ。手出し出来ないんだよ、分かってるだろ?! もうここは世界の外なんだ。この文字を直すことでしか、介入出来ないんだよ!?」
時計の針が動くように、また表面が移り変わる。
ギスランがいた。そして、私がいた。
煌々とランプに灯りが灯っている。夜の街並みは活気があった。夜なのに明るく、人々の顔つきもどこか陽気だ。潮の香りが満ちていた。海が近いのだろう。港なのかもしれない。
ハルが目の前にいた。驚くほど長身で、目の下にどっぷりと隈が出来ていた。顔の凹凸の影と重なって、幽鬼のようですらあった。
彼は裏路地に入ってすぐのところにいつもの貧民らしい格好で立っていた。
「フローリストファミリーのボス」
「そうだよ。俺のことを知っていたんだね」
低い男の声で、嘲笑うようにハルが肯定する。
ギスランの前にはいつのまにかイルがいて、警戒を現すように武器を構えた。
「……血の臭いのする男ですよ、ギスラン様。何十、いや、何百殺してきた?」
「さあ、どれくらいだったかな」
ハルはしなやかなに伸びをすると、ゆっくりと私達に近付いてくる。
「家族を殺したくそ野郎を始末してから、そういうの、気にしたことがなかった」
「そりゃあ殺人鬼も真っ青な言い様だ」
「『名誉ある男』なんてうそぶいている奴はいるけど、俺達はどうせ犯罪者でしかないから。それに、そっちだって随分と血の臭いがする」
曇ったガラス玉のような瞳で、ハルが私をとらえる。そのとき、屈辱が湧き上がり、扇で咄嗟に顔を隠した。
「ギスラン、こいつと顔を合わせたくない」
扇を持っているのは何故だろう。私は貴族らしい振る舞いが苦手で持ち歩いていなかったはずなのに。
「大丈夫ですよ、カルディア姫」
ギスランは蕩けるように甘い声を出す。ハルのことなど眼中にも入れていない様子だった。
こんなこと、あっただろうかと疑問が湧く。だが、すぐに思考が塗り潰されていく。
――貧民は嫌いだ。汚くて、嘘ばかり吐く。忠誠心のかけらもないし、驕り高ぶっている。平民も憎悪の対象だが、貧民はより悪辣で醜悪だ。
サラザーヌ令嬢が仕置した貧民達の言はおぞましいものだった。偉そうにしている奴らは死んでしまえ。食われて清々した。そう言っていたのだ。彼らには、情がない。だから、階級が下なのだ。
顔を見られるもの嫌だった。
「薄汚い貧民……!」
私の口から出たその言葉に正気を疑った。
どうして貧民を差別できるのだろう。彼らは何も変わらない人間なのに。
そのことをハルに教えてもらった。嫌悪感を抱くだけの存在ではないことを、知っている。
ああ、だが、ハルとは誰のことだったか。
私は、鳥人間に殺されかけた。それをギスランが助けた。
それからギスランに執着を募らせた。この男は私のことが好きなのだという。家のためではなく、私自身が好きなのだと!
仄暗い優越感を抱きながら、悪女のようにギスランを連れ回した。
コリン領で疫病が流行った。ギスランはその対応に追われていたが、私が側にいて欲しいと告げるとすべてを投げ捨ててくれた。ギスランが側にいれば私の願いは、必ず叶った。
こいつがいなければ、私は私を保てなくなっていた。だから、レオン兄様の頼みでゾイデックに来なくてはならなくなったときも、連れてきた。
そうだ、ここはゾイデックだ。悪徳の都。悪党どもが我が物顔で跋扈する無法地帯。
リブラン。三不管。アハト。その三組織が支配していた。だが、この夏、アハトが新興勢力であるフローリストファミリーに潰された。
フローリストファミリーのボスがこのハルという男だ。
麻薬を密売し、人を腐らせる男だ。私の友人のリナリナもこの男が売りさばいた麻薬で心を病んでしまった。
憎むべき怨敵だ。
すぐに会えるとは思っていなかった。もっと焦らすものだとばかり。
「金を持っているんだろ。安く、麻薬を売るよ。他の組織では手に入らない上物もある」
「欲しいのはお前の首だと言ったらどうする?」
ギスランが楽しむように軽口を叩く。
「へえ。いくらで買ってくれるの。俺の命の価値を教えてよ」
馬鹿らしい。貧民の命の価値なんてたかが知れている。だいたいこいつは犯罪者だ。処刑台に送られて、惨めに死ぬのがふさわしい。
「犯罪者と喋る口はないわ」
「今、俺と喋ってるだろ。なんか、偉そうな女だね。名前は?」
「……お前なんかに名乗りたくない」
首を竦めたのが、視界の端に入る。嫌悪感で肩が震えた。
こいつの名前を知っていることが今では嫌だった。男の名前なんて知りたくなかった。
「早く、捕まえて。ギスラン」
さっさとこの男を捕まえて、部屋に帰りたい。そして、ギスランで遊ぶのだ。
泥のように思考が粘度を持つ。目の前が白み、急に体が解け始める。イルが駆けて、ハルがそれを撃退しようとする。その姿だけが、鮮明に焼きついた。
次に目を開けたとき、私は裸で寝台に沈んでいた。
私の上で汗を散らしながら獣のように動く人影があった。サガルだった。姿を認めた瞬間、恐ろしいほど深い快感が下腹部に与えられる。
腹のなかに何かがあるようだった。
「カルディア」
愛しいものを呼ぶように、サガルが私の名前を呼ぶ。そうだ、私はイルを置いて、リストを振り払い、サガルと共に逃げたのだ。
ぐちゅりと、腹のなかのものが蠢く。
「淫蕩で、綺麗だ……」
そういうサガルの方が私よりも何倍も綺麗だった。
虹色に輝く羽。人間のような姿。けれど、決して人間ではない。尖った耳、宝石を磨いてはめ込んだ潤んだ瞳。
「妖精……! なんで、私が……!」
息を詰めた瞬間、目の前に彼はいた。私をしげしげと観察すると、急に目の前で指をくるっと回す。すると目の前に小さな嵐が起こった。
わっと小さく驚くと、くすくすと笑われた。
「こ、この!」
苛立って手を伸ばすが、掴めない。前に出した手は水の中につけたときのようにゆらゆらと揺らいだ。まるで何もいないものを追っているような感覚だった。
「何をやってるんです、カルディア姫」
「……妖精がいるの。目の前に!」
「……いませんけど?」
「見えないだけですわよ。悪戯妖精。低級の妖精です。……はなおとめ、少し失礼致しますわ」
そう言って、ヴィクターが私の瞳を覗き込む。
「やはり、魔力反応がありますわね……。これは加護のようなものと同じ神気がある。女神に? 主たる神に? いえ、どれでもないのかしら」
「何をぶつぶつと言っているの?」
ヴィクターは少し顔を離し、口元に手をあてた。
「はなおとめ、幼い頃に妖精が見えたご経験は?」
「あると思う?」
「ですが、はなおとめの目は見えつつありますわ」
「見えつつある……ですか?」
イルが難色を示す。
「その姿と何か関係があるのかもしれませんわね。――前から目が見えなくなったり、変なものが見えたりはしていませんでした?」
「…………それは」
言い澱むとイルがぴくりと反応した。
「ええ!? 俺、そんな話聞いてませんよ!?」
目線を逸らす。今にも詰め寄ってきそうだった。
言えるはずないだろう。目の異常はイルがきちんと護衛として付いて回るようになる前からだ。
「少し前に。レゾルールに来る前の話よ。目が霞んで見えなくなることがあったわ。けれど、今は霞むこともほとんどないし、関係ないでしょう?」
「霞んだり、白昼夢見ていたり、初めて聞いたんですが!? 貴女はどうしてそう……! 言ってくださいよ、不調ならば!」
「別に、問題ないと思ったのよ」
「馬鹿なんですか!? 貴女は、いつもそうだ。努力と根性で何とかなるとでも? 貴女のこと馬鹿みたいに心配する人間がいること、忘れてるんですか!」
いつもよりも強い口調でイルは私に食ってかかった。
「ギスラン様は自分の命よりも貴女のことが大切なんですよ、分かってますか。貴女になにかあれば、あの方は命を絶つこともいとわないんですよ」
「別に、命に関わるようなことじゃなかったの」
「その判断を下すのは清族や医師達です。そして何よりギスラン様ですよ。いいですか、次不調があれば絶対に伝えて下さい」
眼鏡の奥の瞳は、私は心配そうに見つめていた。大切なものを見るような目はむず痒く、私から反論を奪っていく。
「わ、分かった」
素直に頷くと、イルは年の離れた妹を見るように優しく目元を和らげた。
「目の病気で死ぬ奴なんか貧民街にはごまんといました。失明したくせに路上で眠って犬に食われた奴もいる。貴女の体はたった一つなんだから労ってくれなきゃ困りますよ。俺の首も危うい!」
最後のとってつけたような保身の言葉に苦笑する。イルは素直じゃない。だいたい、犬に食われた人間と一緒にするな。
「はなおとめは愛されてらっしゃるのね。……それで、目の違和感は具体的にどんな時に起こりましたの?」
「不規則だったように思うわ。……規則性があったとは思えなかった。突然そうなるというのが正しいわね」
「突然、ですか」
ヴィクターは怪訝そうな顔をしている。何か原因があるのではないかと疑っているのだろうか。
「……ともかく、はなおとめの目は、魔眼になりつつありますわ」
魔眼?
童話で読んだことがある。
邪眼を持った怪物が、時を止めて人々に残虐の限りを尽くす。英雄がそれを知恵と勇気で討伐するのだ。
だが、現実の魔眼を持っている人間を私は聞いたことがなかった。
「魔眼――正直、よく分からないわ。妖精が見える目のことを言うのではないのよね? お前達も持っているの?」
「いいえ、持っておりません、そもそもわたくし達が見ることが叶うのは、あくまで妖精達が姿を現わす気があるからですわ。契約を結ぶため、あるいは気まぐれで。ですが、魔眼を所有したものは、妖精達が望もうと望まないとも見ることが叶うといいます」
「……っ。そ、それは見えるだけ?」
「ええ、ですが、見えるという行為自体が妖精達の興味をひいてしまいますの。彼らは人外でございます。人が持ち得る情に疎く、下法の技を得意とするものも多い。妖精によって人生を狂わせられた清族はごまんといます」
真剣にヴィクターは懸念を示しているようだった。
「清族でさえそうなのですから、魔力を持たないはなおとめのような存在は妖精にとって玩弄するにはうってつけの存在ですわ。目玉をくり抜かれる可能性だってございます」
随分な言われようだ。つまり、身の丈に合っていない代物なのだろう。魔眼は持つべきではない。持ったら命の保証はできない。それぐらい危険なもの。
「なりかけということは、ならない可能性もあるの?」
「魔眼は基本的に先天性のものですわ。これまで見えなかったということは、何らかの障害があり、魔眼として十分に成長出来なかったと言うのが正しいものだと思います」
「成長……つまり、この状態は、正しいと?」
「ええ。今は不自由な視界かもしれませんが、やがて妖精も、人間も差なく見えるようになりますわ」
ガラスが散らばった視界が綺麗になるということなのか。妖精が見えると思うと心が少しだけ弾むが、ヴィクターの言い様だと、私のような非力な人間が持つにはあまりあるものだ。
「見えなくするにはどうしたらいい?」
「目を抉ることになりますわね。ですが、抉ったところで変わりません。魔眼は脳と直結に結びついていますの。なので、妖精は見えて、感じることが出来てしまう。暗闇のなか幻視することになるといいます。妖精は嬲るように、近付いて、離れてを繰り返して怯えさせ、最期には発狂させてしまう」
「なによそれ、魔眼を得たらどうしようもないと言うこと!?」
「――はい。あとは自己防衛を取るしか。幸いわたくしがおりますのでお力添えが出来るものと思います。それと、後遺症についてもお話ししておくべきですわね」
ヴィクターは神妙そうな顔をしていた癖に、急に可愛らしくきゅるきゅると目を輝かせ始めた。
「魔眼というのは副作用がございますの。簡単に分けますと、千里眼、物理干渉、魅了、そしてその他ですわ」
「分ける、ですか?」
イルの動揺は私の感情そのままだった。
千里眼やら物理干渉やら魅了やら何の話をしているのか。
「人の身に余る能力。それが魔眼を発芽させた人間に与えられる副作用ですわ」
つまりと言いながら、ヴィクターはほわほわと笑った。
「妖精眼――妖精を魅了し、契約なしに従わせる魔眼というものが過去にはあったといいます。あるいは、純粋に遠くのものが見える遠見の千里眼や遠い過去や未来のことが鮮明に分かってしまったりする魔眼。あとは、魔術事態を無効化する反則級のものも。個人差はありますが、強力な能力ですわよね。故に、妖精以外からも買い手がつく」
「……それって、もの凄く不味い状態よね?」
「はい。もの凄く不味いですわね。商人達にとっては垂涎の的ですもの。案外、それを見越して蘭王ははなおとめに近づいたのかもしれません」
「っ! そういえばあいつ、私の夢見に興味を示しているようだったわ」
「夢見とはまた……。はなおとめ、面倒な輩に目をつけられましたわね。十中八九、その夢見、魔眼の作用の一つでしょう。成長途中でそれとなると、完成したら……」
魔眼の副作用。夢見なんてした覚えがない、とは流石に言えなくなっていた。
ユリウスやエルシュオンのことを幻のこととは思えない。私は、たしかに彼らと会い、話した。神の背の皮も見た。この世ならざる両親の最期も、サンジェルマンの姿もだ。
「……ともかく、魔眼であることは出来るだけ人に知られないようにして下さいませ。そして、夢見や白昼夢を見たらわたくしにご連絡を。あと、トーマにはご内密にして下さい」
「……トーマに? あいつは私の従者だと言うのに?」
「トーマを信じていらっしゃるならばそれでも構いませんけれども、流石にはなおとめもトーマに何かあるとお思いなのではありませんか?」
核心を突かれたような気になり、押し黙る。
私と従者達は細くて、今にも切れそうな糸で繋がれている。
表面的には仲良く交流しているようだけれど、内面はぐちゃぐちゃだ。協力や友好とは無縁で、何かうちに抱えているものがある。
「……思わないわ」
それでも強がって、そう言った。信じなくてはと思った。善意からでも、使命感があるからでもない。
裏切られても仕方がない。
傷つくだろうけれど、胸が張り裂けそうなほどだろうけれど。
トーマは、髪が切れたぐらいで罪悪感を抱くような人間だ。だから、何か含むことがあったとしても、あいつが感情を押し殺してでもやり遂げたいことなのだろうから。
「私は人を見る目はないけれど、トーマは見る目があるやつだと思っているわ。あいつは、興味を持たない奴のことをまるっと無視する豪胆な男だもの。だからこそ、あいつの選択が打算に塗れていても、あいつ自身を疑うつもりはない。あいつは私を主人に選んだ」
ごくりと唾を飲み込む。
「だから、私はあいつの主人として振舞う」
いつのまにか喉が渇いていた。
「だから、トーマにもこのことを打ち明けるわ。あいつも清族だし、どうにか知恵を絞るでしょう」
ヴィクターはしばし呆気にとられていたようだが、急に肩を揺らして笑い出した。
「大変ですわね。天邪鬼というのか、純朴というのか。はなおとめは、強情なのね」
「悪口を堂々と目の前で言っていいとは言ってない」
「悪口ではありませんわよ。はなおとめの従者になるものは大変で、幸せ者ですわね」
ヴィクターはするりと私に手を伸ばすと、額に手を当てた。
呪文を唱えようと口を開いたのだろう。その瞬間、銀色のナイフが喉に差し込まれる。
「見過ごせないので、その手、どけてもらえますかね」
「ただ、軽い処置を施すだけですわ」
そういうと高速で詠唱した。イルが力任せにヴィクターを引っ張って地面へと投げ出す。
「カルディア姫、何か違和感はありませんか?」
イルは心配げに声をかけてくる。ヴィクターを転がした人間には見えなかった。
ぱちと瞬かせると、煌めいていた視界や妖精の姿がかき消えた。
「ない、わ。むしろ、よくなった」
「いたたたっ。もう、イルってば乱暴ですわね。……はなおとめ、応急処置です。魔力を弄って、元の状態に戻しましたわ」
起き上がりながらゆっくりと首を振る。そして、刈り上げた白い髪をくしゃりと一度撫でた。
「ですが、応急処置に過ぎません。瘴気や魔力濃度が高いところには近づかないように」
「ありがとう……」
「お安い御用ですわ」
「……謝りませんよ」
イルはぶっきらぼうに言い放った。
瞳の温度は冷めていて、冷たい暴力の光が底光りしていた。野獣のようだと怖気が走る。あるいは、野卑な犬だ。なにもかもを食らう凶暴な。
「次やったら首を掻っ切るので。ヴィクター様が相手だろうと」
「怖い怖い。ですが、わたくしとてやらねばならないことをやっただけですわ」
「……分かりました」
お互いの視線が交錯し、ふっと緊張の糸が緩む。何やら二人の間だけで交わされたものがあるらしい。
イルは素早く私に視線を投げた。
「さて、カルディア姫。周囲の目も気になってきましたし、本を持ってーー」
頷こうとした時だった。頭に何かが流れ込んでくる。
それは怒りを伴った言葉だった。咄嗟に耳を塞ぐが、直接脳内に刺さる言葉なのだから、意味はない。
――寵愛を拒むな。
――禍乱の夢、動乱の現世。人の心まで、お前に見せよう。お前が望んだ通り、つまびらかにしよう。
――ああ、はなおとめ。
「どうして、花はーー」
枯れるのか。
衰えを知らずにはいられないのか。純粋な疑問が、再度投げかけられる。
その言葉を聞き終えて、世界がぐるりと傾く。
「カルディア姫!」
イルの叫ぶ声が、はるか遠いことのように聞こえた。
「では、決を取ろう。女神の現し身たるかの女王を殺すべきか否か」
暗い堂に人影があった。身なりのいいもの、貧相なもの、男も女もいた。老人も、子供も。皆一様に真剣な表情を浮かべ、じろりじろりと辺りを伺う。
まるで、誰かが先に動くのを待っているようだった。
「どうした? 何を怯えている。ああ、そうか、俺が怖いのか。リストと呼ばれたこの俺が。王族であった俺が」
真ん中にいる男は、ゆっくりと腕を伸ばし、鷹揚に首を振る。
「全く、馬鹿げたことだ。今は廃嫡された王族だぞ? それに、血とて王族の血は一滴たりとも入ってはいない」
リストの言葉に何人かは警戒心を解いた。だが、それだけだ。大多数は彼への警戒を解いていない。深くため息をつくと、彼はゆっくりと大仰そうに腕を上げた。
「では語ろうか、俺の物語を」
皮肉げな唇はゆっくりと王族の愛憎を語る。自分は、買われた子であること、王族の血が一滴も入っていないこと。熱心に聞き惚れる彼らは、やがて緩やかに立ち上がり、拍手をし、叫びをあげる。
「リスト様! 私達は貴方に従います!」
「我々の同士よ!」
リストは次々と投げかけられる賛同の声に手を挙げて応えた。
目まぐるしく、意識が入れ替わる。
「愚かな人間が僕の好意を無にしたんだけど!? というか、また文字が書き換わってる! 最悪過ぎて頭痛がしてきたよ、全く」
「エルシュオン、このままでははなおとめの脳が焼き切れる。どうにか出来ないのか」
「出来るわけないだろ! 前はこっちに意識まるごと来てたけど、今は違う。完全に大神の権能で、この背の文字に繋がってる。文字を通して僕達を見ているんだ。この時計のなかからの干渉は不可能だ。お手上げだよ!」
「しかし……。よかれと思ってやったことだろう。それではなおとめが死ぬのは耐えられない。善性によって悲劇がなされるなど……」
「ぎゃー! ユリウスが泣いた! ぼ、僕は悪くないぞ。手出し出来ないんだよ、分かってるだろ?! もうここは世界の外なんだ。この文字を直すことでしか、介入出来ないんだよ!?」
時計の針が動くように、また表面が移り変わる。
ギスランがいた。そして、私がいた。
煌々とランプに灯りが灯っている。夜の街並みは活気があった。夜なのに明るく、人々の顔つきもどこか陽気だ。潮の香りが満ちていた。海が近いのだろう。港なのかもしれない。
ハルが目の前にいた。驚くほど長身で、目の下にどっぷりと隈が出来ていた。顔の凹凸の影と重なって、幽鬼のようですらあった。
彼は裏路地に入ってすぐのところにいつもの貧民らしい格好で立っていた。
「フローリストファミリーのボス」
「そうだよ。俺のことを知っていたんだね」
低い男の声で、嘲笑うようにハルが肯定する。
ギスランの前にはいつのまにかイルがいて、警戒を現すように武器を構えた。
「……血の臭いのする男ですよ、ギスラン様。何十、いや、何百殺してきた?」
「さあ、どれくらいだったかな」
ハルはしなやかなに伸びをすると、ゆっくりと私達に近付いてくる。
「家族を殺したくそ野郎を始末してから、そういうの、気にしたことがなかった」
「そりゃあ殺人鬼も真っ青な言い様だ」
「『名誉ある男』なんてうそぶいている奴はいるけど、俺達はどうせ犯罪者でしかないから。それに、そっちだって随分と血の臭いがする」
曇ったガラス玉のような瞳で、ハルが私をとらえる。そのとき、屈辱が湧き上がり、扇で咄嗟に顔を隠した。
「ギスラン、こいつと顔を合わせたくない」
扇を持っているのは何故だろう。私は貴族らしい振る舞いが苦手で持ち歩いていなかったはずなのに。
「大丈夫ですよ、カルディア姫」
ギスランは蕩けるように甘い声を出す。ハルのことなど眼中にも入れていない様子だった。
こんなこと、あっただろうかと疑問が湧く。だが、すぐに思考が塗り潰されていく。
――貧民は嫌いだ。汚くて、嘘ばかり吐く。忠誠心のかけらもないし、驕り高ぶっている。平民も憎悪の対象だが、貧民はより悪辣で醜悪だ。
サラザーヌ令嬢が仕置した貧民達の言はおぞましいものだった。偉そうにしている奴らは死んでしまえ。食われて清々した。そう言っていたのだ。彼らには、情がない。だから、階級が下なのだ。
顔を見られるもの嫌だった。
「薄汚い貧民……!」
私の口から出たその言葉に正気を疑った。
どうして貧民を差別できるのだろう。彼らは何も変わらない人間なのに。
そのことをハルに教えてもらった。嫌悪感を抱くだけの存在ではないことを、知っている。
ああ、だが、ハルとは誰のことだったか。
私は、鳥人間に殺されかけた。それをギスランが助けた。
それからギスランに執着を募らせた。この男は私のことが好きなのだという。家のためではなく、私自身が好きなのだと!
仄暗い優越感を抱きながら、悪女のようにギスランを連れ回した。
コリン領で疫病が流行った。ギスランはその対応に追われていたが、私が側にいて欲しいと告げるとすべてを投げ捨ててくれた。ギスランが側にいれば私の願いは、必ず叶った。
こいつがいなければ、私は私を保てなくなっていた。だから、レオン兄様の頼みでゾイデックに来なくてはならなくなったときも、連れてきた。
そうだ、ここはゾイデックだ。悪徳の都。悪党どもが我が物顔で跋扈する無法地帯。
リブラン。三不管。アハト。その三組織が支配していた。だが、この夏、アハトが新興勢力であるフローリストファミリーに潰された。
フローリストファミリーのボスがこのハルという男だ。
麻薬を密売し、人を腐らせる男だ。私の友人のリナリナもこの男が売りさばいた麻薬で心を病んでしまった。
憎むべき怨敵だ。
すぐに会えるとは思っていなかった。もっと焦らすものだとばかり。
「金を持っているんだろ。安く、麻薬を売るよ。他の組織では手に入らない上物もある」
「欲しいのはお前の首だと言ったらどうする?」
ギスランが楽しむように軽口を叩く。
「へえ。いくらで買ってくれるの。俺の命の価値を教えてよ」
馬鹿らしい。貧民の命の価値なんてたかが知れている。だいたいこいつは犯罪者だ。処刑台に送られて、惨めに死ぬのがふさわしい。
「犯罪者と喋る口はないわ」
「今、俺と喋ってるだろ。なんか、偉そうな女だね。名前は?」
「……お前なんかに名乗りたくない」
首を竦めたのが、視界の端に入る。嫌悪感で肩が震えた。
こいつの名前を知っていることが今では嫌だった。男の名前なんて知りたくなかった。
「早く、捕まえて。ギスラン」
さっさとこの男を捕まえて、部屋に帰りたい。そして、ギスランで遊ぶのだ。
泥のように思考が粘度を持つ。目の前が白み、急に体が解け始める。イルが駆けて、ハルがそれを撃退しようとする。その姿だけが、鮮明に焼きついた。
次に目を開けたとき、私は裸で寝台に沈んでいた。
私の上で汗を散らしながら獣のように動く人影があった。サガルだった。姿を認めた瞬間、恐ろしいほど深い快感が下腹部に与えられる。
腹のなかに何かがあるようだった。
「カルディア」
愛しいものを呼ぶように、サガルが私の名前を呼ぶ。そうだ、私はイルを置いて、リストを振り払い、サガルと共に逃げたのだ。
ぐちゅりと、腹のなかのものが蠢く。
「淫蕩で、綺麗だ……」
そういうサガルの方が私よりも何倍も綺麗だった。
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