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閑話 無辜の人々

木曜日は終わりの鐘とともに。

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 サガルがいなくなって、外からかけられていた鍵が開く様になった。塔から抜け出したカルディアは、どこかに行ってしまったサガルを探すために、一念発起して暗闇から出てきた。
 でも、誰に話しかけても無視される。まとわりつくと鬱陶しそうに手で払われたり、時には蹴られたりした。
 どうしてこんなに邪険にされるのか、カルディアには分からなかった。
 それでも、何日もサガルを探し周り、その日、はじめ見つけることが出来たのだ。
 奇しくも、その日はサガルの誕生日。サガルがカルディアのせいで台無しになった、誕生日会の日だった。

 誕生日会は素晴らしい日差しに恵まれていた。シャボン玉がふわふわと建物までやってきた。丸い綺麗な形に誘われて、庭を覗き込み、カルディアはサガルを見つけた。

「兄様、サガル兄様!」

 無我夢中で手を振る。
 サガルの周りには、綺麗な服で着飾った人達がいた。とくにサガルの一番近くにいた青年は、本の挿絵に出てくる王子のようにきちんとした身なりだった。
 サガルと目が合う。カルディアは笑みを深くした。やっと見つけた。ずっと心配していたのだ。サガルが、カルディアのように邪険にされていないかと。
 手を振り返してくれるものだと思っていた。だがどうしてか、サガルはカルディアを見上げて、忌々しそうに顔を落とした。カルディアと名前を呼んで手を振り返してはくれなかった。
 サガルはカルディアのことを無視した。大きく手を振っても、廊下で声をかけても、いない人間のように扱われる。
 なにかひどいことをしてしまったのか。そう思って、謝るためにサガルの部屋らしき場所の前で待った。その部屋は大きくて、扉の外なのに塔とは比べ物にならないぐらい、いい香りがする。本や埃の香りではない。薔薇の香りだ。
 でも、朝に部屋から出てきたサガルは、見知らぬ人を従えて、速足で通り過ぎていく。声をかけても、一瞥されるだけで、決してカルディアと呼んではくれない。答えてくれない。
 カルディアという存在が消えていくようだった。誰にも名前を呼ばれないと幽霊のように佇んでいることしかできない。
 お気に入りのぬいぐるみを潰れるほど抱きしめる。サガルが、カルディアのためにクッションを切って縫ってくれたお手製だ。童話に出てくるペンギンがモチーフで、利発そうなボタンの目が可愛らしい。
 これをくれたサガルは、どこにいるのだろう。カルディアが悪い子だから、罰を与えるために無慈悲な真似をするのだろうか。反省する。許してほしい。
 切実な願いも空しく、サガルはカルディアのことを意にも返さない。どうしてという言葉だけが、鉛のように胸を重くした。

 いつものように扉の前で待っていた時のことだった。空腹を感じて、床に転がる。いつから食事をしていないのか、覚えていなかった。塔に戻っていないし、塔に届けられる食事はぱったりとなくなっていた。前だってろくに届いてはいなかったが、それでも死なない程度には与えられていた。今ではそれもない。
 誰も食事をくれないので、カルディアは中庭に出て花を食べることにした。むくりと起き上がり、階段を慎重に降りる。中庭に出ると噴水がパラパラと水を散らせていた。手を器の形にして水をすくって飲む。
 からからに乾いていた喉が潤う。体に活力が漲る。カルディアは水が好きだ。特に綺麗な水は、浴びるほど飲みたくなる。
 塔に閉じ込められていた時には水も貴重だった。水漏れがあった日にはサガルと一緒に喜んだほどだ。
 本が湿気らないようにするのは大変だったが、サガルと二人きりならば何だって出来る気がしていた。

 花壇に植えられた花達は一つ一つが大輪の花を咲かせていた。
 カルディアに花達が語りかけてくる。今日は花冠にしてくれないのか。
 このまま老いる前にその頭の上にのせてくれ。
 食べさせてくれるかと尋ねると、くすくすと笑われる。
 いいよ、はなおとめ。美味しく食べてね。
 花弁を口に入れる。ほっぺが落ちそうなほど甘くて美味しかった。
 ほっぺをおさえて悶絶していると、花達が体を揺らす。花達はいつも優しくて、体を千切られても優しく笑う。
 ひゅうと頭の上を何かが通り過ぎる。花達は、歓声を上げた。カルディアもつられるように目線をあげる。そこにいたのは白い羽で空を飛ぶ人間だった。鳥というには大きすぎるそれが、空をかけ、太陽に向かっていく。

 走らなくちゃ。
 置いていかれるぞ。
 ほら、早く行かないと天帝がまた泣くぞ。

 急かされて追いかける。女神の像を横切り、噴水を越えて息を切らす。
 空飛ぶ人間の速度は速くて、追いつけない。顔を上げながら、小さな足を懸命に動かす。
 花達の声もあったが、カルディア自身も同じ焦燥を感じていた。行かなくてはいけないと突き動かされる。
 どんと何かにあたり、カルディアは反動でひっくり返った。空を飛ぶ彼らはすいすいと行ってしまう。

「だ、大丈夫かい? ごめんね」

 ぶつかった相手は女性のように華奢だった。中性的な容姿で、声も鳥の囀りかと思うほど甘く高い。
 彼の周りにはギスランのように、変な虫が集まっていた。ぱちぱちと何度も目を瞬かせる。
 花のような人だと思った。喉仏が浮き出ていなければ、女の人だと思っていただろう。

「怪我はない?」

 差し出された手を取り、立ち上がる。真っ白な服だ。鳥の羽に似た作りをしている。スパイシーな香りがした。

「ない。ぶつかってしまってごめんなさい……」

 カルディアは深々と頭を下げた。男はいやいやと首を振る。

「こっちが変なところで立ち止まっていたからだよ。ごめんなさい。……何か、追っていたの?」

 星のように小さくなった鳥を指して、気落ちしながら呟く。

「あれを追いかけていたの」
「ああ……天帝様の御使じゃないか。今日も元気が良さそうだね。あれは巡回と言って、空の警備をしてるんだ。……って、あれが見えるの?」
「え……? 見えちゃいけないの?」

 詰め寄られると戸惑ってしまう。嵐を巻き起こせるほどの勢いで男が否定した。

「ち、違うよ。同志に会えたのが久しぶりだったものだから。ほら、戦争だなんだといって、捨て駒にされたのだろう。アルジュナへの侵略作戦だって失敗したら僕達のせいにされた。あれで、何十と虫けらのように命を落としたか」

 むっとカルディアは眉を顰める。
 戦争とは何だろう。童話のなかに出てきただろうか。

「あ、いや、ごめんね。つい興奮してしまって。君は幼いし、よく分からないよね。十歳前ぐらいだから、もうすぐ去勢の時期か」
「きょせい?」
「うん。……あれ? ちょっと待って、君、もしかして女の子?」

 肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。繊細な顔が、ぎらぎらとした光を放っていた。

「そんな……僕達の天帝様が女に啓示を与えたのか?」

 肩にかけられた指が食い込む。

「ご、ごめんなさい。天帝様って、童話でしか読んだことがないの……」
「声が、聞こえないの? なのに、あれが見えるの?」
「見える。花達が教えてくれたの。行かなくていいの? って」
「花……?」

 男は唇を引き結び考え込むように黙り込んだ。

「あなたには花の声が聞こえるの?」
「……いや、僕には聞こえない。僕が聞こえるのは愛しい神の声だ。ずっと泣いているんだよ」
「か、可哀想……。私のギスランもね、泣き虫なのよ。泣いていると、叱りつけたくなるの。もう、泣かないでって」

 空を吠えるように男が顔を上げる。その顔には何とも言えない苦々しさがあった。

「どうしたの?」
「いや、少し考え事をしていたんだ。君の名前を聞いてもいい? 花と喋れる子と初めて会ったんだ。研究……いや、少し話をしたいな」
「カルディア」
「カルディア? 女神の名前だね。ということは、君が噂の第四王女か」
「第四王女?」

 男はカルディアの疑問に答えることなく、カリギュラと名乗った。手を肩から離してくれた。

「カリギュラ・フォン・ロドリゲス。清族の一人だよ」

 カリギュラは物知りだった。カルディアが聞いたこともない話をぺらぺらと聞かせてくれる。

「塔に閉じ込められているという話だったのに、どうしてこんなところに?」
「塔の鍵があいていて。それで、サガル兄様を探しているの」
「サガル?」

 空中に浮かぶ文字を探すように、カリギュラは視線を彷徨わせる。

「そういえば、淫乱な王子が社交界で人気だと聞いたな。寝台に入れば、無我夢中で手に入れたくなるほど美しく、妖艶だとか。この前なんか、甘いものを体に塗りたくって楽しんだとか」
「いんらん?」
「あっ! いや、こっちの話! そうか、兄を探しているんだね。僕達清族もね、兄妹は大切にするんだ。同じだね」

 腕の中にしっかりと抱えたペンギン紳士を抱きしめる。

「でも兄様はきっとカルディアのことを嫌いになってしまったの。ずっと無視されているし」
「そんなことを? 酷い兄だ。妹を慈しむのは兄の義務だというのに」

 サガルは酷くない。違うと伝えるように何度も首を振る。とても優しい兄だった。腹を空かせたカルディアに何でもくれた。ひもじかったけれど、それ以上に幸せだった。満たされていた。

「違うの。きっと悪いことをしたのは私なの。兄様に謝りたい。どうすれば、許してくれるかな」
「……僕が妹と喧嘩をした時は、贈り物をしたよ。甘い物が好きだったから、たくさん買ってあげた」
「甘い物? 苺タルトみたいな?」
「他にもいっぱいある。マカロンやマーマレードの入ったパン菓子。チョコレートケーキ。ショートケーキだって」
「ショートケーキ?」
「見たことがない? そうだ、ついてきて。食べてみないと、食べ物は分からない」

 カリギュラに連れられ、食堂らしき場所に連れて行かれる。ローブ姿が並び、談笑しながら食事をしていた。

「ここはね、僕達の聖域なんだ。食事をしないと体が保たないからね。……ほら、これだよ。ショートケーキって言うんだ」

 大きな皿の上には黄色の生地の上に白い生クリームがかけられたケーキがのっていた。クリームの上には苺がのっている。全てがふわふわとしていて、美味しそうだ。
 砂糖の甘い香りに、カルディアの頬が緩む。花の甘さとはまた違う。すでに口の中に飴でも入れたような夢心地だった。
 食べてみてと言われ、指で触る。柔らかなクリームの感触に驚く。
 指先についた白いクリームを舐めとると、驚くほど甘い。舌先で溶けて消えてしまった。喉の奥にいつまでもいる埃とは大違いだ。

「甘い……!」
「美味しいよね。全部、あげる」
「ありがとう。兄様に差し上げるわ」
「……兄様ってさっき言っていた?」

「ええ。お誕生日だったらしいの。使用人の噂話を聞いていたらね、そう言っていたの。だから、これは誕生日の贈り物」
「そうか」

 カリギュラはそのあとカルディアをきちんと送り届けてくれた。可愛いねとペンギンのぬいぐるみを褒めてもらえ、ケーキまでくれた。カルディアは胸がいっぱいだった。

 貰ったケーキはかぴかぴになっていた。けれど、ケーキがダメになりやすいことをカルディアは知らなかった。
 サガルにショートケーキを持ってきたカルディアは、扉が開くのを待っていた。心臓が早音を打っている。ガチャリと扉が音を立てて開く。従者が先導するように、サガルの前を歩く。

「サガル兄様!」

 いつものように近付くと、サガルの前に躍り出た。すると、視線がショートケーキに向けられた。興味を示ししてくれた! とカルディアは有頂天になった。

「兄様にこれをあげたくて。ショートケーキというみたいなの。甘くて、とても美味しくて」
「――わるい」
「え?」
「気持ち悪いと言っているんだ!」

 手を払いのけられ、ショートケーキが床に落ちる。クリームで汚れた床を踏みつけて、サガルは去って行ってしまう。
 茫然とその後ろ姿を見送りながら、カルディアは落ちたクリームを皿の上に戻し始めた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。美味しいケーキが、靴底の形で歪んでいる。


「大丈夫だよ、カルディア」

 眠るために塔に戻ったときのことだった。体は重く、意識ははっきりしない。気持ちは塞いでいた。あんなに美味しかったケーキは振り払われて、踏みつけられた。ペンギンのぬいぐるみがカルディアに突然喋りかけてきた。目を丸くしながら、微笑みかける。

「あなた、話せたの?」
「知らなかったの? 酷いなあ……」
「知らなかった! ねえ、名前は? どう呼べばいい?」
「サガルだよ」

 言葉が詰まる。サガルと同じ名前だったからだ。

「偶然ね。私の兄様も同じ名前なの」
「そうなの?」

 おかしそうにペンギンはくすくす笑う。

「おかしな兄様だねえ。僕はこんなにも君と一緒にいるのに、居てくれないんだ」
「おかしい……? そんなこと……」
「そうだ! 僕のこと、兄様って呼んでみてよ」
「え……? に、にいさま……?」

 楽しそうな笑い声が上がる。

「しっくりくるでしょう! 僕のこと、そのまま兄様って呼ぶといいよ!」
「で、でも……」

 兄様はサガルのことだ。ぬいぐるみにそう呼びかけるのはおかしなことなのではないのか。

「兄様」
「…………う、うん。兄、様」
「もっと」
「兄様」
「そうだよ、カルディア」

 慰めるような甘い声に、カルディアの心が溶けていく。
 ぎゅうぎゅうとペンギンを抱きしめる。本と埃の臭いのなか、カルディアは久し振りにゆっくりと目を閉じた。

 カルディアの『兄様』はとても優しく聡明だった。知らないことはなかった。内緒だよと言いながら、無惨な戦争の話を聞かせてくれたこともあった。
 難しい話は嫌いだが、子供ゆえの純粋さや残酷さのせいか、カルディアはその話を嬉々として聞いていた。特に、英雄譚のようなものは大好きで、いついつにザルゴ公爵がどんな戦果を上げたのかという話を、目を輝かせながら聞いた。

「花を愛でに行こうか」

 その日も、『兄様』は中庭にカルディアを行かせたがった。中庭に行くと花達が楽しそうに声をかけてくる。『兄様』も花達と会話していると楽しそうだ。
 なぜ喜ばれるのかは分からないが、花達も『兄様』を抱えていると歓喜の声をあげる。
 やっとだと彼らは楽しそうだ。朗らかな彼らにカルディアもつられて笑顔になる。
 そんな時だった。
 冬が現れたのは。
 大きな顔と小さな顔が合計7つ付いていた。全ての瞳が手のようなもので隠されている。その7つの顔は長細い首に繋がっていた。蛇のような見た目だが、顔は人間そのもので、瞳を覆う手とは別に人間の手が4つ尻尾のように生えていた。

「はなおとめ」

 7つある顔が歪みながらひび割れた声を出す。

「助けてくれ、はなおとめ」
「だ……誰?」

 頬をなにかが撫でる。よく見ると、手だった。老木のような枯れた肌をしていた。

「はなおとめ、俺はもうすぐ死ぬ。×としても、妖精王としても死を迎える。お前と会うのは何百年ぶりだろうな? いや、何千年か? 夢心地のような気分だ。やっと天帝に名が戻る。いや、もう戻っているのだったか。すまない、記憶の混濁が著しい」
「あ、あなたは……」

 よく見ると顔の一つが溶けかけていた。頬の輪郭が雨漏りしているように下にたるんでいく。

「大丈夫……なの?」
「気にしなくていい。俺のこれは当然のこと。伴侶に本を選ぼうとした。俺の怠慢と傲慢が生み出した結果だ。それよりも、だ。頼みがある。どうか叶えてほしい」

 真剣な声に、カルディアは縮こまる。サガルに謝ることができない自分に何が出来るのだろう?

「俺に、花冠の花を一つ分けてくれないか」

 花冠? と首を傾げる。そんなもの、カルディアは持っていないからだ。

「大神より賜りしそれはいつの世であってもはなおとめの頭上で輝く。花一つ。一つでいいのだ。それで、探したい本がある。海深くに眠る稀覯本だ。貝殻の中に文字が掘られているという。それを読みたい。読んで死にたい」

 カルディアは頭の上をさぐりさぐり触る。果たして、そこには花冠があった。一つをちぎり取ると、頭痛がした。

「ありがとう」

 老いた指が花を摘む。白い可愛らしい花だった。
 一番大きな顔にある口に放り込む。

「感謝を、はなおとめ」
「あの……元気になる?」
「ああ。なったよ、ありがとう」

 だが、顔のたるみは全く治っていない。顔は歪んだまま苦悶の表情を浮かべているようだ。
 本当にこれが役に立つのだろうか。立つとして、一つだけで構わないのか。

「も、もう一つあげる」

 たくさんあげればもっと元気になる。なくなるまであげていい。

「いけない。大神がまぎれもないお前に捧げた寵愛の印だ。むやみやたらと分けては、お前自身が揺らぐ」
「いいよ。全部、あげてもいい」
「本当にいけない。大神もお許しにならないだろう。その花冠は大神の血肉と同じ。この世の理を示した法典と変わらない」
「ほうてん……?」
「とても大切なものだ。それに、はなおとめがはなおとめたる所以でもある。むやみやたらとあげてはいけない」
「で、でも……!」

 カルディアにとって、自分の体はどうでもいい。理や法典と言われてもぴんとこない。けれど、苦しそうな顔だけは分かる。目の前の彼はずっと痛みをこらえている。
 痛いのは、嫌だ。悲しいのは辛い。お腹が減るのは悲しい。カルディアはそれを知っている。

「……ありがとう、心配してくれて。朽ちていく体は厭わしい。腐っていく四肢は厄介だ。だが、生きていると実感できる。死とは、そこまで恐ろしいものではないのだろうな。消滅とは、ある意味で救いだ」
「救い……」
「ぬいぐるみのなかに入っている天帝の眷属よ。お前もそう思うだろう? 死とは、希望だと。本の最期の頁を捲るときの高揚。終末の予感は不安と安堵に満ちている」

『兄様』から吐息がこぼれる。カルディアはぎゅっとぬいぐるみを抱き締めた。

「お前の愛を示すといい。慰めも、いずれは毒になるだろう。死の臭いが濃くなっているお前ならばなおさらだ」
「お分かりに、なるのか」

『兄様』は低い声で尋ねた。慎重に言葉を選んでいるようだった。

「俺もお前達とすでに変わらない。妖精王に堕ちた身だ。……はなおとめ、ではさらばだ。いずれ、返礼を。『冬』の妖精王である俺が、最高のものを捧げよう」

『冬』は突風を起こしながら、地面を這っていく。『兄様』はそれを見送ると、黙り込んでしまった。
 それから、カルディアの幻覚だったのだと言わんばかりにペンギンは喋らなくなってしまった。花達も声をかけてこなくなった。『冬』や空を飛ぶ人間も見ない。カルディアに話しかけてくれる人間はいなくなってしまった。
 持ち帰ったショートケーキは色あせ、クリームに虫が集っていた。汗と甘い砂糖の代わりが溶け合って、胸焼けしそうな臭いがこもっている。
 もう何日も食事をしていない。塔からも出ていない。床に寝そべりながら、ぬいぐるみを抱き締めて『兄様』と呼ぶだけだ。また中庭に行こうと言って欲しかった。そう言ってくれるまで動く気はなかった。体が怠く、目がちかちかする。骨が床と混ざってしまいそう。
 それでも待った。待ち続けた。カルディアと名前で呼んで欲しかった。存在が透明になっていく。
 一人は寂しい。寂しいのは、悲しい。



 毎日、異なる地獄を味わっている。
 人の欲望に果てがないように、快楽にも終わりはない。もう限界だと思った次の瞬間、新しい法楽が与えられる。身動きもとれないまま翻弄され、玩弄される。欲情した指先が、体のあらゆる部分を撫でる。嫌悪感は消え去っていた。もやは、なにも感じない。
 サガルの朝は、はやくから始まり、夜遅くに終わる。気絶で倒れる夜もあれば、淫行で起きる朝もあった。朝と夜はぐるぐると円のようにまわる。
 毎朝、日課のようになっていたカルディアの顔も、見ている気がしない。毎回無下にしているのに、縋る瞳で見つめてくる。カルディアはサガルのことが必要なのだ。その視線にほのかな愉悦を感じていた。カルディアには、サガルしかいない。そう言われているようだった。あの女は、本当に願いを叶えてくれるのかもしれない。地獄のような苦行を続ければ、カルディアとずっと一緒にいれるようになるかもしれない。
 だが、それは盛大な勘違いだった。やっととれた一日の休み。サガルは、カルディアの姿を探した。
 だが、いつもいるはずの廊下にはいなかった。今日は遅れているのかと廊下で待ってみたけれど、こなかった。廊下を歩きながら、カルディアを探す。従者達には中庭で紅茶を飲むと言っていた。なにか理由をつけなれば、王宮内を回ることもできない。
 カルディアの姿は、中庭にあった。楽しそうに男と喋っていた。白いローブを着た清族。それを視界の端に捕らえた瞬間、臓腑が煮えたぎるように熱くなる。心臓がばくばくと煩い。
 視線を逸らしたいのに、ずっと逸らせなかった。笑うカルディアの表情が、目に焼き付く。そんな顔をするなと割って入りたい。
 ずっと、どこか小さな箱のなかに隠してしまいたくなる。誰にも取られない場所に、保存しておきたい。
 自分の情動が信じられなかった。ずっと邪険にしていたはずだ。カルディアが、サガルのことなど考えずに振る舞うから避けた。それなのに、カルディアが他の者に意識を向ける場面を見てしまうと動揺してしまう。
 紅茶を飲み干さないうちに、部屋に戻った。従者に頼んで貴族の女を呼んだ。夫を早くに亡くした未亡人で、美しい男であれば出資を惜しまない女だ。酒を飲み干し、酩酊に溺れる。女の熟れた体が心地よい。
 けれど、サガルの脳裏にあったのは、カルディアだった。女の乳房を舐めながら、カルディアを連想した。女にカルディアを重ね、汚した。劣情で、興奮した。
 朝になって、気が付く。妹を抱く夢想をした。自分も母と同じ獣だった。悍ましい自分に身震いする。同じ穴の貉なのだ。

 カルディアの姿はそれ以来見ていない。サガルも、探さないように力を尽くした。醜い自分の欲求に向き合いたくなかった。嫌悪する自分の母親と同じになりたくなかった。リヒテルはたまにサガルの体を欲した。サガルを通して誰を見ているのか明らかだったが、今のサガルには否定出来なかった。
 夜の帳が落ちると、様々な人間と体を触れ合わせる。全員、カルディアであればいい。そう思うことが増えた。リヒテルも同じように思うのだろうか? 彼女もまた、何を思っているのか、体を差し出す。王妃だというのに、娼婦のようだ。会いたいと希求していた父はこの行為を黙認している。それが異常だとやっと分かってきていた。

「サガル、サガルはいるか!」

 大声を上げて、部屋に入ってきたのはリストだ。サガルの従弟らしいが、その実感は薄い。たまに塔に来ていたが、うすぼんやりとした記憶だ。

「なに?」

 けだるい体を奮い立たせて、言葉を返す。リストは寝台に乗り上げ、サガルの顔を覗き込んだ。

「陛下が殺されかけた。どうやら、清族の犯行らしい」
「清族……?」
「ああ、カリギュラという清族だ。天帝の熱狂的な信者で、カルディアの待遇をどうにかしろと迫ったらしい。幸い命に別状はない。陛下は腕に傷を負い、今は治療中だ。お前も見舞いに行くだろう?」
「……カルディアの?」
「そうだ。そういえば、あいつはどうした。一緒ではないのか。あいつが扇動したとは思っていないが、変に疑いをかけられればもっと悪い待遇になりかねんぞ」
「もっと、悪い待遇?」
「どこかに幽閉させられるということだ。もう一生出てこないかもしれない」

 もう二度と出てこない場所に行くかもしれない。サガルは自分の感情がぐちゃぐちゃにかき回された。閉じ込めてしまいたいという思いと、そんなことをしてはいけない。獣性を見せるなという理性が戦っている。かろうじて勝ったのは、カルディアを心配する理性だった。

「カルディアに会ってくる」
「見舞いはどうする?」
「リストが行けばいいよ。僕は、あの人とまだ対面したことがないから。お呼びがないのに、顔を見せるのはおかしいだろ」

 何かいいたげな瞳でリストがサガルを見つめた。それを流して、サガルは立ち上がる。
 外では鐘が鳴っていた。誰かが、死人が出たことを祝福しているようだった。
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