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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟むトヴァイスと入れ違いになるようにノアが現れた。気配を感じさせず影のようにぬるりとボックス席に入ってきたのだ。
品がいい紺色のベストと同じ色のネクタイ。シャツは皺なくアイロンされている。だが、外套の詰襟は立っており、懐は銃に膨らんでいた。
とてもじゃないが純粋にオペラを楽しむために来たとは思えない格好だ。
一目で堅気ではないとわかる。
「ノア、さっきまでトヴァイスがいたわよ」
帽子を脱ぎながら、ノアは頷いた。
「知っている。意図的にずらした。トヴァイスは人に会話を邪魔されるのが嫌いでしょう?」
「別にお前だったら受け入れていたと思うけれど」
「そうかな?」
女顔の額の上に指が滑る。緩慢な動きで茶色の髪を黒い手袋をはめた手がかき上げる。くしくも、トヴァイスと同じ髪型になった。
「……その手、噂で聞いていたけれど、本当なのね」
「ああ、カルディアに見せるのは初めてだったっけ。手袋、脱いだほうがいい?」
「お願いできる?」
手袋を外したノアの指を見つめる。
現れたのは重そうな鉛の義手だった。
「父さんの失敗を挽回するために腕を彼らに払っただけだよ。彼らの払った代償を考えれば安いものだった。相手が『名誉ある男』でよかった。他の組織が相手じゃ、命を差し出すことになっていた」
作られたまがい物の手で私の頬を軽く擦った。
冷たい感触が彼の右手が失ってしまったことを感じさせる。
「……これなら、手は溶けないわね」
「うん、左手はまだやっぱり溶ける感じがするけど。右手ならば、カルディアに触れられる」
穏やかなノアの様子に、麻薬を服用していることを知る。ノアが穏やかに生活できるのは麻薬のおかげだ。鋭敏な感覚を魯鈍にさせ、子供のようにとろく、鈍感にさせる。そうしなくてはヒステリックに暴れまわる。
ノアが統治しているゾイデックは『名誉ある男』達によって街が牛耳られている。
『名誉ある男』――マフィアだ。
古くから街に住み着き畏敬と崇拝の眼差しを向けられている組織。彼らに、ノアの父親は殺された。
ノアの父親の死をきっかけに他のマフィア達も水面下で暗躍し始めた。
強固な姿勢を崩さなかったもの、貴族に恩を売ろうとすり寄ってくるもの、漁夫の利を狙うもの。
それらをノアは自分の腕一本の犠牲で黙らせた。
「……ゾイデックを出てよかったの?」
それからノアが父親の代わりに統治している。だが、やはり代々実権は『名誉ある男』側が持っている。強権を発動すればノアも父親と同じ道を辿る。
そのことを怖がり、ノアは屋敷の中に引きこもるようになったのだというもっぱらの噂だ。
ゾイデックは前々から治安がよくない。
ノアの父親が暗殺されてから、さらに荒れてきているらしい。
国王も手を伸ばすことをためらう、辺境の地、ゾイデック。港町でもあるそこは悪徳が栄える町として有名だ。
「ああ、ほんとはだめだよ。いまだ、ゾイデックでは危険な状態が続いている。このままでは悪党どもと共倒れだね。王都にきたのは、国王陛下に事態の収拾をしていいかどうか伺いを立てるため。――返答は先延ばしにされているけれど」
恨みがましい視線を向けられ、頬が引き攣る。私が返答していないわけではないのに、理不尽な怒りをあらわにされている。
「嬲るような新薬が出た。人攫いも横行している。とくに麻薬にはしばらく近づかない方がいい。人を駄目にするのに長けた粗悪品が出回っている」
「私より、お前でしょう。いまだ、麻薬を摂取し続けているのだから」
「……僕はいいの。薬の見分けはつくし、味も知ってる。でも、王都の綺麗な貴族達は羊のようにすぐ刈られてしまう。はまったときには遅いんだ。手の平の上で踊るしか能がない木偶に成り下がる」
ボックス席から顔を出してノアが、ほかのボックス席にいる連中を指さした。
「ノクターン男爵はもうだめだね。アヘンの吸い過ぎだ。すぐ死ぬよ。死なずとも、金が回らず、首をくくる。あちらのお嬢さん、リナリナだっけ? あの子も長くない。子供は産ませないようにしなくちゃだめだよ。奇形児や麻薬に慣れ親しんだ子が産まれやすくなる。麻薬に産まれてくる前から慣らされた子供の末路は悲惨だ。見てられてない」
「リナリナ……」
「知り合いだった? 薬は抜かせない方がいい。つらくなるだけだ。薬をやめるより、続けた方が楽だし、安全だ。中毒状態にある奴は、理性を欲求が食いつぶす」
「会う機会があれば、教えるわ」
「賢明だ」
リナリナは会っていなかった。学校にも来ていないので辞めてしまったのだろう。
彼女の友達であるココの末路を知っているので複雑な心境だった。
「……そうだ。サガルも麻薬をやっているらしいの。止めさせることは出来る?」
「サガル様の使ってる麻薬はそこまで荒い製品じゃない」
「お前が斡旋しているの?」
ゆるゆるとノアは首を縦にふる。
「僕が直接ではないが。領土から出た麻薬の管理ぐらいはしているから。サガル様が買っているのは媚薬の類だ。神経を鋭敏にするためのもの」
「媚薬……」
「不能らしいから勃たせるために使うんだってさ」
目眩がした。
ノアは当たり前のように、そう言った。
口を中心に熱く滾る。羞恥で顔が赤くなる。
「……と、カルディアはまだ処女だったか。よく分からないならば説明しようか?」
「いい! 言われなくても想像はつくから!」
「そう?」
ノアの不思議そうな顔から目を背ける。
サガルは欲情しないわけではないはずだ。
それは毎夜悩まされる私が証明している。
サガルは麻薬を使わなければ抱けないような人間の相手をしているのか。
「止めさせたいなら、元を断つことだ。性行為を辞めさせた方がいい。性病に罹る可能性もあるし」
「トヴァイスが隠居をするかもしれないと言っていたわ。王都から離れれば、性行為から遠ざからない?」
「……それは、まずいと思う。サガル様の意思ならば構わないけれど。きっとそうじゃない。隠居なんて建前じゃないか」
「どういう意味……?」
サガルの意思で隠居するはずだ。
そうでなければ、どうして王都から出て行くというのだろうか。
「国王陛下は目を瞑っていたようだけど、レオン王子は近親相姦に反対の意見を表明している。王都じゃあ、これまでのように公然とは行わないだろう」
心臓が変な音を立てている。
明言しないが明らかにあの女の策略ではないかと示していた。
ノアも知っていたのかと絶望的な気持ちになる。
私だけのうのうと知らないことを選んでいた。
「隠居は嘘だと言うこと……?」
「そればかりは僕には分からないが。だが、真正面から話を聞いていると裏が読み取れなくなる。正直者は美徳じゃない。心根の綺麗な奴から銃で打たれて死ぬ世界だ」
手を取られて懐に導かれる。
銃で膨らんだ服の上からなぞった。
硬くて、少しだけ火薬の臭いがする。人を殺してしまえる道具だ。
「どうしてサガルはそんな目にあっているのよ。逃げてしまえばいいのに」
「逃げれないんだろうね」
愚直に見つめられた。
意味がある視線のようだったが、意図が測れない。
「……カルディア。君は逃げない?」
握られたままの手を、ゆっくりと離しながらノアが尋ねた。
ノアはサガルに軟禁されていることを知っている?
「……逃げれないわ」
「そう。ならば、同じ理由かもしれない」
サガルも人質を取られているということか?
だが一体誰が人質なのだろうか。私が知る限りそんな相手はいないはずだ。助ける協力をした方がいい?
「さて、そろそろ準備が出来たようだ」
開演の時間かと思い舞台へ視線を向ける。だが、オーケストラピットにも人がいない。
まだ始まる気配もなかった。
どういうことだと首を捻ったあとノアを見上げる。
「トヴァイスが請け負ったのは意外だろうけど、あいつってほら、情深いから。怪しい取引でも乗っかったんだ。おかげで僕も片棒を担がされたわけだけれどね」
ノアはポケットの中から花を取り出した。沢山の小さな花びらが寄り集まった淡色の花だ。
息を吹きかけると、花びらがほどけ、宙に舞った。
「久し振りに顔が見れてよかった。幸運を、カルディア」
視界を花びらが覆い尽くしてしまう。ノアに伸ばした手が空を切った。足の指に力を入れて踏み出すと、そこにはキセルを吸った男が座っていた。
空気が澱み、劇場の温度は三度ほど下がっているようだった。
ノアの姿はどこにもない。
男は顔の半分が隠れるような仮面をつけていた。鼻の下は少しだけ火傷の跡が見えている。
白い煙を吐き出すと、にやりと笑った。
「お前、蘭王ね」
「おや、自己紹介が省けてしまいましたね。その通り、俺は蘭王。蘭花の長にして、お姫さんを悪鬼羅刹から連れ出す極悪党ですよ」
おひいさんと艶っぽく、粘つく声がした。
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