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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟む「女王は何をするにも、従者の言葉など考慮はしなかった。左から右へと諫言は聞き流される。今日も男がやってきた。次に宝石商。次に仕立て屋。次に靴屋。誰もが彼女のことを褒めたたえた。あまりの美しさに感激したとおだてる。女王は、過分な言葉で自分を飾り立てて、一日を終える。たとえば、こんな日があった――」
「それは明瞭な朝の鐘の声で始まった。女王は、さきほどまで見ていた夢から目覚め、朝の光を浴びる。ああ、カルディア、知っている? やはり、この時も夜更かしが横行していたせいで、朝といいながらも昼間や夕方が朝と呼ばれていたそうだよ。怠慢だ。王族とは民の灯たる存在だ。早寝早起きし節制に努めなくてはいけない。人の心は朝と一緒に闊達になり、夜とともに休眠する。それが逆転してしまえば、性根もまた腐るものだ」
「兄上。ぼくがせっかく読み上げたのに、どうして壊されるのか。もはや、あなたの説教になっている」
「ああ、いけない。悪い癖だ。こういうのが、俺が俺たる所以なのだが。カルディア、退屈ではなかったか?」
いいえと首を振る。
すると、ぱあと後光が射しそうなほど朗らかな笑みをマイク兄様は浮かべた。
「うんうん、お前は善き娘だね」
「兄上。どうして、そんな笑顔を向けられているの」
「妹が清らかに成長していることを喜ばない兄はいない」
きりっと言い放ったマイク兄様に苦笑してしまう。
隣にいるフィリップ兄様は長いため息を吐いた。
ギスランに手錠で繋がれた数日後。私は突然ひどい高熱を出した。
診察にきた清族が言うのには、疲れが溜まったのだろうということだった。四日も休めば元気になるだろうと言われた。
が、ギスランはそんな言葉は信じられないと泣いて看病してきた。
うるさいからととりあえず、帰らせたのはよかったものの、高熱を出すと、人は困った生き物になる。人肌が寂しくてたまらなくなるのだ。
それでも風邪をうつしたくなくて、ギスランも呼べず、日がなぼーっとして、このまま一人で死んじゃうのはいやだなと思っていた私のもとに兄様達がお見舞いにやってきてくれたのだ。
マイク兄様とフィリップ兄様。
二番目の兄と三番目の兄であり、この国の王子でもある。
ふたりともそれなりに多忙なはずなのだが、わざわざ私の見舞いに来てくれたらしい。
こうやって、顔を合わせるのは、何年ぶりになるだろう。
「おい、ディア」
年月を指折り数えようとしていた私に、フィリップ兄様が憮然な顔をして呼びかけた。
ディアというのは私のことだ。
おまえの名前は長すぎると短くされたのだ。
随分幼い頃にそう言われてから、律義にもフィリップ兄様はずっとその名前で私の名前を呼ぶ。
「はい、兄様」
「…………おまえは、兄上に童話を読ませてどうするつもりだ? だいたい『女王陛下の悪徳』など、淫ら極まりない。兄上の清廉な御心がこんな下卑た餓鬼のための物語に心奪われたらどうするつもりだ」
「も、申し訳ありません」
ぎゅっと毛布を掴む。
フィリップ兄様は美しい金色の瞳に険しさをのせて、私を睨みつけてくる。
「こらこら、フィリップ。お前のような無表情で恐ろしい奴が見つめ続ければ、カルディアが怯えるだろう」
「別に、厳めしい顔などしていません」
「嘘をつけ。お前は、俺や兄様達の前ではこう、チーズの蕩けきったような顔をするくせに」
「そ、そんな顔を? おれの顔、お好きですか?」
急にフィリップに兄様はおろおろし始めた。言動がどことなくギスランに似ている。
「好きというか、かわいらしい顔をしているよ。美人王子だと言われるだけはある。我が弟ながら鼻が高い」
「左様ですか? おれの顔ってば罪作り。まあ、兄上の周りには武骨で拳で自分の顔を殴り倒したのかというような山賊男しかおりませんしね」
顔を真っ赤に染めたり、妙に胸を張ったり忙しない。
フィリップ兄様はマイク兄様が大好きだ。レオン兄様のことも大好きだ。
というか、兄妹皆、愛してるらしい。
もちろん、私はその兄妹のなかに含まれてはいない。
「そうだな。だが、あいつらもあいつらで俺は好きだよ。たまにドジをやる姿を見ると可愛いなあと思うし」
「はあ?! どこのどいつのことを言っているのですか? 即座に名を言って。八つ裂きにしてやる」
「うーん。やはり、お前には困ったものだ、フィリップ」
ごろんと、私の足元にマイク兄様が寝そべった。
ひえっと足をすぐに避ける。
「兄様!」
「どちらの兄様だ?」
「マイク兄様です!」
「そうならばちゃんと名前を呼ぶように」
は、はいとフィリップ兄様に返事をしながらも、困惑は拭えない。
マイク兄様は何をしているんだ?
「マイク兄様、風邪が移るかもしれないので」
「……うん? ああ、気にしないでいい。俺は体が丈夫だから」
そうはいってもフィリップ兄様からの視線が鋭い。
私とマイク兄様が仲良くしているのが気に入らないのだろう。
マイク兄様が読み聞かせてあげると言い出したときも一緒にやると言ってきたし。
できるだけ、私に関わらせたくないのだと思う。
「兄上」
「なんだ、フィリップ。お前も一緒に寝るか?」
「……………しません」
葛藤のあと、フィリップ兄様は首を振った。
本当は一緒に寝たいが、私の前では嫌だ! という切々としたものを感じた。
「わ、私、外に出ていましょうか?」
熱があるから体はだるいが、身動きできないほどではない。
頼んだわけではないが、しおりを挟んでいた『女王陛下の悪徳』を見つけられ、どうせだからと朗読してくれたのだ。
なんらかの返礼をしなくてはいけない気がする。
「カルディア。ここはお前の部屋だ。出ていく必要はない」
身の置き場がなくなったような気分になる。
私はどんな顔をして、二人の前にいたらいいだろうか。
親し気な妹の顔? だが、一度だって、リストやギスランのように気安く話したことはない。
正直、見舞いに来てくれるのも驚いた。
これまでは、顔は知っているが、同じ王族という認識はあるだけの他人だった。
「ディア、寝ていていい」
「……はい」
うまく振舞えない。
劣等感がむくむくと太り始めていた。
首を振って、考えないようにする。
「……ところで、なのだけど」
「はい?」
憮然とした顔をして、フィリップ兄様が口を開く。
「相変わらず、ギスラン・ロイスタ―とは婚約者?」
「ええ」
「なぜ?」
「なぜ、ですか?」
「うん」
どう答えていいか、分からず戸惑う。
それはどういった経緯で大四公爵の一人息子と婚約者になったのかという質問なのだろうか。
「婚約は産まれたときにしたと聞いています」
「それは知っている」
……?
ではなにを知りたいのだろう。もう少し、明確な指示が欲しい。
「……。もう、いい。不愉快だ。ぼくは、失礼する」
「え、あの。不快にさせたのなら、申し訳ありません」
部屋から退出していくフィリップ兄様の背中が消える。
背中にじゅっとりと汗が噴き出してきた。なにが悪かったのだろうか。
きちんと言葉をくみ取れなかったから?
「……あれでは、分かるもの分からないだろう。気にしないほうがいい。ただ拗ねていただけだから」
マイク兄様はぐでーと体を伸び上がらせた。長い。足元にいるのに、私の胴体の方まで指先が伸びている。
「拗ねている、ですか」
「そう。フィリップはおそらく、カルディアに心はあるのかと問いたかったのだと思う」
「心、ですか」
「思う心だよ。恋の気持ちだ」
「はあ」
ギスランへの恋心があるか?
あの会話でそのことが分かるのは、きっとフィリップ兄様の頭を覗ける術を使えるものだけだと思う。
「自分で訊きながら、そうであったらと思うと苛ついて、拗ねてしまったのだろう。まったく、体は大きくなっても心が子供だ」
「そんな。私のことは、お嫌いでしょう?」
「はあ。やはりそう捉えてしまうよなあ。あれは不器用というか、頭の螺子が五、六本外れているというか。ともかく、嫌っているわけではないから、遠慮するのはやめておあげ」
マイク兄様はそういうものの、きっと間違いだと思う。あんな冷たい瞳で見つめる相手のことを好きなはずがない。
マイク兄様はひょっとと上半身をあげて肘で体を支えた。
私の髪を一房掴むと、楽しそうに笑う。
マイク兄様もフィリップ兄様も美形だ。マイク兄様は野獣のようなしなやかさがあり、体つきも精悍だ。
さらりと落ちる金色の髪も、いかにも王子様と言った感じでかっこいい。
「ギスランに恋をしている?」
「は、はい?」
「政略結婚のような形で一緒になることになるけれど、どうだろうと思ってな。ギスランのことは好きか?」
それは自分のなかでもろくに答えが見つけ出せないものだった。
愛したいと思う。ギスランを好きになりたい。
だが、そもそも、ギスランの気持ちと同じような感情を知らない。
私の認識している世界では好ましいという感情は一辺倒だ。ハルに抱える気持ちがそうだった。
ただ側にいたくって、一緒にいて楽しかった。
単純で、喜ばしい気持ちしか出てこない。
それ以上の感情を抱いたことはないし、ギスランに対してもっていた感情も、優越感というほの暗いものだ。
恋や愛といった煌びやかな言葉は似合わない。
「正直、分かりません」
「分からないか」
「でも、ギスランは私のことが好きだと。私は、その気持ちに応えたいです」
「……それは、恋や愛とは違うもののようだな」
「えっ?」
弄っていた髪から指が離れていく。
違う。それはそうだ。私はまだギスランへの感情を見定められていない。
けれど、マイク兄様は首を振る。
「気持ちに応えたいというのは受動的なものだ。まるで、気持ちに応えなくてはならないという義務感から出てきているように感じられる。恋や愛は双方向からの思慕によって成就する。そんな下向きな考え方では、ギスランに不実だ」
「不実、ですか」
「あまり気を持たせてはならない。好きになれないのならば、そう答えるべきだ」
想いを堪えられないのに、身を尽くさせるのは不実。
誠実さはどんなものだろうかと考える。自分本位ではなく、相手のことを思いやって行動する。そういった人間の善性みたいなものを、私はもっていただろうか。
なぜかハルのことが頭をちらつく。どうしてなんだろうか。
「……とはいえ、そういうのはあまりに酷か。だが、カルディア。正しく好意を与えてくれる人間には、こちらも真摯に向き合うことは必要だ」
「はい」
「もし、好きになるのが難しそうならば、容赦なく告げるといい。そこからはギスランが選択することだ。自分の気持ちに偽りなく、気持ちを吐き出せばいい」
マイク兄様は、優しい瞳で私に語り掛けてきてくれている。
この瞳から逃げたい。
私の不実な心がマイク兄様の言うような真摯さを拒絶している。
何も選択しない、決めないということは、選択に責任を持たなくてもいいということだ。
私にとっては、そちらの方が都合いい。決めるというのは、そのほかのことは選択しないこと。そして、私はいまだに選択することが怖い。本当に正しい選択か、分からないからだ。
いつか、ギスランのことが本当に好きになって、あいつのように顔を合わせるだけで幸せそうな顔をすることができるようになるのだろうか。
来てほしいような、来てほしくないような。
「っと、偉そうなことを言ったが、俺はまだ初恋をしたこともない。参考程度にしておくといい」
「マイク兄様は結婚されないのですか?」
「うーん。したいのだけどな。だが、騎士と言えば主君の妻を略奪するのが定石だときく。流石に、レオン兄様と争いたくはない」
「略奪って」
「それに、子供を作ると困ったことになるだろう」
きゅっと胸が苦しくなる。
マイク兄様は王子なのに騎士になってしまった変わり者ということで王位継承争いから抜け出している。
だが、子供を作った場合は、厄介なことになる。その子供が男ならば、王座にと担がれるだろうし、女だったら、政略結婚の道具にされる。
マイク兄様はそういうことに巻き込まれることがないように、独身を貫くつもりなのだろう。
「ごめんなさい」
痛ましいものを見る目を向けられる。
綺麗な青い瞳が潤んでいた。
「どもったり、卑屈そうにしたり、よく謝ったり、やはり、会うと胸が苦しくなるな」
「ご、ご不快な思いをさせてしまっているのならば、ごめんなさい」
「そうではなく。ただ、家族になるというのは難しいものだと思って」
「家族ですか?」
「もっとはやくカルディアに会いにこれればなにか違ったのだろうな」
そうか、マイク兄様達はフォードであったことが気になって私のところに来たのだ。
なにか王族の不利になるようなことがあったのだと心配したのかもしれない。
リストのことが露呈したというわけではなさそうだけど。
「あの、大丈夫です。心配するようなことはなにもないですから」
「……事件に巻き込まれてから、一週間も寝込むことを大丈夫と言われてもね」
「サガル兄様に看病していただきました」
「心配させろと言っているんだ。いいね?」
どうしたらいいのか、本当に分からない。
私の心配? どうして?
母が死んだときも、毒で死にかけたときも、屋敷の二階から飛び降りて死にかけたときも、そんなことはされなかった。
私が死にかけることは恒例行事のようなもの。
この人にとってああまたかという感慨しか湧かないわかないはずだ。
それは悪いことではない。そもそも、私は塔と言われる場所に軟禁され、公の場では死んだ扱いをされていたし、塔を出てからもいろいろとあって正常とは言い難かった。
ろくに会ったこともない妹の心配――しかも片方しか血が繋がっていないものの心配など普通であればしない。
だからこそ、突然、私を思いやるような態度をとられるのが、奇矯に映った。
なにか裏があるのだろうか。けれど、いったい私に優しくして何の得があるというのだろうか。
「困らせているようだな。すまない」
「い、いえ。マイク兄様が謝るようなことではありません!」
マイク兄様の顔は浮かないままだ。なにか気の利いた言葉をかけなければと思うのだが、すべて言葉が上滑りするようで、怖かった。何も言えずに、顔色を伺うことしかできない。
「話題を変えよう。レゾルールへ行くと聞いた。サガルとはもう話したか?」
「はい。看病をしてくださったときに。お忙しそうでした」
「あまり無理をしないように気を付けておあげ。お前の兄はなにかとレオン兄様と比べらる立場にあるから。……本当は俺がされる立場にあるのだから、申し訳なく感じる」
「……そういえば、なぜ、レオン兄様とサガル兄様が王位継承争いをしているのですか? マイク兄様は騎士になったことでま逃れたというのは分かるのですが、フィリップ兄様はなぜ王位継承に名乗りをあげないのでしょうか?」
「そうだね」
マイク兄様は、顎に手をあてて言葉を選んでいるようだった。
つい、手持ち無沙汰になり、眺めていると兄様の髪の毛が寝転んだせいで飛び跳ねているのに気が付いた。
何度か撫でて無意識に直そうとした。
ギスランにやる癖が! 青ざめながら顔をのぞき込む。
「どうした?」
「髪を触ってしまったので。ご迷惑ではなかった?」
「可愛い妹のやることは、すべて許す」
にこにこと笑われると毒気が抜ける。
マイク兄様は大人びた顔つきをしている。顔の凹凸もはっきりしており、高い鼻は峻厳な山を思わせるし、宝石が埋め込めそうなほどくぼんだ目のあたりははっきりとした眉によっていっそうかっこよさをひき立たせている。
けれど、こうやって、天真爛漫に笑われると、幼い子供のようだ。
「……それで、フィリップのことなのだがね、正直、どう答えていいか分からない」
「それはマイク兄様は知らないということですか?」
「いや、言葉を選ぶからね。正直、俺はフィリップでも善政を敷いてくれるのならば、よいと思っている。愛想はないが、資質は十分だ。俺のような誰かに仕えたいという欲求があるわけでもないしな。ただ、あいつはなんだかんだと言って野心家だから、与えすぎるとすべてもっていかれてしまう」
ぎょっとしてしまった。フィリップ兄様は玉座に興味があるのだろうか?
マイク兄様の言い方だと、機会を与えてしまえばすべて簒奪してしまうと言っているようなものではないか。
なんだか、触れない方がいい気がして来た。
仲がいいと思っていたけれど、ごちゃごちゃしているのだろうか。
「ああ、誤解しないでほしい。兄弟で殺し合う結果にはならない。俺達は、絶対にそれだけはしたくない」
「なら、安心しました」
肉親殺しは私の鬼門だ。二度と起こさせたくない。
自分自身の手でイヴァンを殺したからだろうか、特にそう思う。
兄弟同士で殺し合うなんて悪夢だ。想像だけでもむかむかと吐き気がしてくる。
「フィリップは無神論者。その点は、王位継承に少し不利だな。清族からの受けが悪いから。あいつはレジストという法律家連中を集めている。なんでも、清族に対する増税を検討したいのだとか。また、騎士団に対しても辛辣だ。軍と騎士団は重なる部分が多いから、そこは無駄だとね」
「課税ですか」
「興味が?」
「いえ。よく分からないなと思いまして」
税の存在は知っているが、どうやって取り締まっているのかもよく分からない。知らないことが沢山ある。
「そうか。課税はあまりよくない。とはいえ、やらないわけにもいかないからね。難しい。フィリップが王位継承争いに参戦していないように感じる原因はいろいろあるだろうが、正直、支援者があまりいないのが、一番だと思う」
「いないのですか?」
「フィリップは先の戦争で、ライドルは財政難であると唱えていてね。戦後すぐも、金貸しや潤沢な資金を得た商家に重税を課すべきだと言っていたんだ。幼いながら、だがね。先ほども言ったが、課税はきつすぎると反感を買ってあまりよくない」
「つまり、フィリップ兄様が王になれば容赦なく課税されるから、着かせないようにしているということですか?」
「そうなる。まあ、いろいろな問題が複合的に絡み合って、フィリップはあまり話題に上がらないんだ」
複雑だなというのが、最初に抱いた感想だ。
政治的な話は分からないが、フィリップ兄様が厄介者のような扱いをされているのは理解できた。
「教えて下さってありがとうございます」
「うまく説明出来ていたらいいのだが。少しでもお前の役に立てたならば嬉しい」
朗らかな笑顔につられて、笑顔になる。
凄い人だ。マイク兄様は優しくて素敵な人なのだろう。
フィリップ兄様が好きだと慕っている理由もよく分かる。
「顔が赤い。長居をし過ぎたな。なぜ、俺は見舞いにきてお前に気を使わせるようなことをしてしまったのだろう」
額に大きな掌が触れる。
冷たくていい気持ちだ。
無理などしていないと否定すると、マイク兄様は怖い顔をした。
「いいや、お前は昔から体を崩しやすい。……こうやって見舞いに来てもいいとやっと言われたものだから、勇んでしまった」
その言い方、なんだか変ではないか?
まるで、他の誰かに私に会いにくるのを止められていたような……。
「ほら、きちんと休んで。お前が早く良くなるように俺は女神に祈ろう」
寝させられ、上から毛布をかけられる。
さきほど浮かんだ疑問は胸のなかにしまった。今は優しいマイク兄様が、慈悲の心で私の面倒を見てくれているのだと信じたかった。
「もう無茶はしてはいけないよ。お前は王族である前に俺の妹だ。怪我も病気も、悲しむようなことはなにもしないでくれ」
ぽんぽんと毛布の上から軽くたたかれる。
氷嚢を頭の上に置かれた。
幸せだ。
これは幸せなことだ。
急に鳥人間で殺された人間やレイ族に殺された人間のことを思い出した。そして、イヴァンのことも。どれだけの人間がこんな幸せを受けずに死んでいったのだろう。最期に、人の情に包まれずに死んでいっただろう。
こんなに幸せなことが自分の身に起こっていいのだろうか。
誰かから、お前は幸せ過ぎる。死んでしまえと言われないだろうか。
「名残惜しいが、俺は帰るよ。なにかあったら、いつでも連絡するように」
幸せが去っていく。名残惜しいは私の方だった。
マイク兄様が部屋を出てから、体を起き上がらせて窓へ向かう。何十も体積が膨らんでいるように重く、歩くたびに足の爪先から痺れる振動が脳に伝わる。
見送らなくてはいけないという義務感もあったが、それ以上に、いなくなってしまった幸福の在処を目で追って、確認しておきたかった。
窓枠に手をついて、身を乗り出す。ぐらりと視界が回転したような恐ろしさを感じたが、すぐに体制を整えた。
マイク兄様の後ろ姿が見えた。隣には、フィリップ兄様がいる。
喜色満面で何事か話しかけている。マイク兄様もそれにこたえて、笑みを浮かべて返している。
いいなあ。あれが、家族というものなのだろう。
もしも、生まれ変われれば、私もあの女の腹のなかにいたかった。
いや、違うな、できるならば、母の腹からはもう産まれたくない。
恨まれて生きていくなんて、もう二度とごめんだ。
片方しか血が混じっていないと劣等感を抱くことない。
もし、ギスランと婚約を続けたら、ああいう風に信頼し合った家族ができるだろうか。
フィリップ兄様が突然、振り返って私の方を見た。
羞恥心を抱いて、窓際から離れる。きっと、体調不良は嘘で、心配されたくて風邪のふりをしたのだと思われた。もう一度、窓から覗くのは不可能になった。四つん這いになりながら、寝台へと戻る。
その夜、私は何杯も何杯も毒杯を煽り、死んでは生き返り、そしてまた死ぬ夢を見た。
杯に毒を注ぎ続けるのは、フィリップ兄様だ。冷たい瞳は仮病だと私を責めているようだった。
その瞳から逃げたくて、私は何度も喉が渇いたと媚びへつらった声を出しながら、杯を受け取って流し込む。喉の奥に液体が流れ込むたび、馬鹿なことはやめろと心が警告してくる。けれど、認めてほしいからか、死んでは生き返って、フィリップ兄様の前で醜態をさらす。
そのたびにフィリップ兄様の瞳はますます冷たく、呆れた愚者を見るようなものになる。
それが嫌でたまらなくて、泣きそうになりながらも、私は同じことを何度も何度も繰り返していた。
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