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第一章 夜の女王とミミズク
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しおりを挟む「鍵を失くしてしまいました」
にこにこと喜色満面な笑みでギスランが頭の痛くなることを言った。
早朝のことである。
ギスランはいつかのように寝台に顔をつけ、膝立ちで私の顔を覗き込んでいた。
驚いて後ずさろうとしたその時、腕に違和感を覚えた。
ひくつく唇を抑えながら、手首を見ると、これまたいつかのように手錠があった。銀色の鈍い輝きは、一本の鎖となりギスランの手首に収束していく。
「お、お、お前!」
「カルディア姫、おはようございます。あわあわしていて、かわいい。もう、可愛すぎるので、駄目。きっとギスランにかわいいと言われるために生まれてこられたのでは?」
「ええ、おはよう。……って、ではなくて。はやく外しなさい!」
「鍵は失くしてしまいましたと先ほども言ったはずですが……お聞きになっていなかった?」
「確信犯でしょう!?」
ギスランはあざとく首を傾げて否定した。
この男は、全然、まったく、何一つ変わってない!
「ここに入るの、難しかったのでしょう?」
いくら言っても手錠が外れることはなかった。こいつの満足するまで好きにさせていた方がよほど建設的だ。
とはいえ、鎖の距離は明らかにこの間よりも短くなっているし、放置していると穴が空きそうなほど見つめてくるので話かける。
心に余裕を持たせるために会話があるのだと自分自身に暗示をかけた。でなければ突然寝ている人間に手錠をかける奴と楽しくお喋り出来ない。先日のリストとの一件で、負い目もある。無言が続くとリストと手紙のやり取りをすることになったと白状してしまいそうだ。
「そうでもありません」
「本当は?」
「買収や恐喝は効果がなかったので弱りました。イルが見つけた警備の穴がなければ、荒っぽい真似をすることになっていたかもしれませんね」
笑顔で言うことではない。
ギスランはなにがそんなに嬉しいのか、にこにこしっぱなしだ。
笑顔がお金になるならば、きっと山積みの金貨になる。
「お会いできてよかった。ここ数日、イルのことが憎くて、憎くて。もう少しで首を絞めてしまうところでした」
冗談か本気か分からないことを言うのはやめてほしい。
「……痩せていらっしゃる。食事にしましょうか」
「無断で入り込んできたのではなかったの?」
「屋敷のなかに内通者がいないとは言っていません」
なんか変なことを言われなかったか?
こんこんと寝室の続き部屋の扉がノックされた。失礼しますの声は不明瞭だった。耳が聞こえない使用人達は口の動きを真似するのはうまいが、発音は分からないから変な声を出す。
それは別の国の言語のようだが、彼らにとってはたしかに私達と言葉の連なりだ。同じ唇の動きをして、擬態をしようとしている。
たまに変な感覚に襲われる。不明瞭な彼らの発音を聞いていると自分こそが耳の聞こえない、不具者のような気がするのだ。私はそれをごまかすために彼らのことを自分よりも劣っていると定義して、貶めているのではないか……。
入ってきた使用人はギスランの言葉を耳を澄まして聞いていたように食事を運んできた。
使用人が料理と机の上に置いて去っていく。
ものの数十秒で食事が目の前に用意されてしまった。
「消化器官が弱っていると思いましたので、リゾットを中心に作らせました」
「そ、そう……」
「果物は細かくすり潰しています。卵や酒のように飲むとすっきりしますよ」
臭いだけできついのに、と思いながら目を背ける。
この間、イルに無理やり食べさせられたことを思い出して、嫌な気分になる。
ギスランは顔を背けた私を思いやることなく、スプーンでリゾットをすくい口の中に放り込む。
「ん。熱くもないです。カルディア姫、あーん」
「……」
喉の奥で苦々しい気持ちをすり潰しながら、リゾットを口の中にいれる。
口に広がるチーズの風味。粒々とした麦の感触。そして、キノコの鼻から抜けるような芳醇な香りに、目がうるうるとしてしまう。
美味しい。久しぶりに、私は食事をしていた。
吐き気は感じない。喉の奥がひりつく事もない。
口を開けて待つと、ギスランがリゾットを口に含んだ。
毒味は済んだはずだが。
唐突に唇に噛み付かれた。唇を舐められ、舌を割られる。歯と歯が当たった。どろりとしたリゾットが流し込まれる。
リゾットをゆっくりと押し潰しながらギスランの舌が私の舌をかき乱していく。
頭を抱えられ、何度も口付けを繰り返された。酸素が足りず、夢心地でギスランの肩に手を置いた。
むちゃくちゃに口内を荒らされているのに、頭に熱が集まって、どうにも気持ち良くなる。
「カルディア姫、美味しい」
唇を当てたまま、ギスランが笑った。
こいつ、にこにこしているなあとぼんやりと笑う。
私も、美味しい。リゾットが美味しいのか、それともギスランが美味しいのか。よく分からなくなっていた。
ギスランは何度も何度も飽きるぐらい口を合わせた。たまにリゾットを分け与えてくれるけれど、それ以上にギスランの舌を噛むことの方が多かった。
血の味がすると、ずんと頭が重くなる。目の前がギスランだけになって、肩に縋っていないと自分がどろりと溶けていきそうになる。
ギスランが顔を少し上げて、私の瞳を覗き込んできた。
「食事中ですのに、寝てしまわれる?」
「……やだ。もっと食べる」
「可愛い口調だ。頭から食べてしまいたい」
目蓋が重いのは気のせいだ。
「食べないで。お腹、割かないで」
「副作用で退行するものもいい。……けど、カルディア姫が泣くのは駄目。……興奮しなくはないのだけど。大丈夫ですよ、カルディア姫。決して食べたりしません」
「本当に?」
頭がぐらぐらする。喋っているのに、喋っている私と声を聞いている私は一致していない。
考える前に言葉が出てきていた。怖くて、寒くて、ギスランに抱き着いた。
「ええ、ギスランが助けて差し上げる」
「うん、助けて、ギスラン」
「……死ぬまで私と一緒にいて下さる?」
紫色の瞳は不安で曇っていた。
この頃日常的に見るようになった霧のようだった。ぐらぐら、相変わらず頭が揺れる。
ギスランと繋がれた手を揺らす。変だと笑った。地面まで揺れている。
「ずっとこうしてくれるのなら」
「嬉しい。カルディア姫」
背骨に響くような強さで抱きしめられた。
「――落陽が訪れなければ、ずっとこうしていられるのに」
切なさの滲むギスランの声に反応しようとしたのだが、無理だった。再び、淡い肉色の唇が食んでくる。がつがつとした欲望の塊が咥内に入り込んでくる。
いつの間にか、口を合わせ、舌を絡ませながらくちゅくちゅと唾液を掻き混ぜることに夢中になっていた。
時が止まって、このままこの空っぽな快楽に身を任せていたくなった。
「ハルという男を殺したい」
遠くのような近くのような距離でギスランの硬い声がした。
いつのまにか寝ていたのだろうか。腰骨にあるのは寝台に横たわっている安心感だ。
「場所を見つけ出しませんと」
「お前なら出来るだろう」
「善処致します」
相手はイルらしい。慇懃無礼な口調でヒヤヒヤした。
「リストのことも殺せ。カルディア姫の肌に触れるなど万死に値する」
「失礼ですが、ギスラン様。この間は情勢が不安定になるからと断念されませんでしたか?」
「……そうだった。殺したいのに殺せないのは苛々する」
「ギスラン様、我慢なされてお偉いですよ。ちなみにリスト様、三度殺し損ねているので、もう向かわせないでいただきたいんですが」
「お前、どうして殺してこないんだ」
「最初に手合わせした際、手の内読まれてますからね。リスト様って、ああ見えて努力家ですし。俺が飛び道具使うの察知しちゃうんですよね……。ご丁寧に失敗すると、部下にならないかと勧誘してきますし」
刺激的な内容の話をしていないだろうか。
起き上がって、詳しく話を聞こうとして失敗する。
体がうまく動かない。筋肉が萎縮しているのか、動かそうとするとぴりぴりと痙攣する。
「俺を殺さないところ、ちょっと怖いですよね。俺がギスラン様にとって捨て変えの部品だと分かってるからでしょうか」
「新しく用意されるよりはお前だと対処しやすいのだろう」
「いや、ほんと、申し訳ありません。俺も頑張って殺そうとしてるんですけど。やっぱ、ここまで生き残ってきた王族というのはなかなかうまく行きません」
「そう。……さっさと殺すように」
はいとイルが明るく返事をする。物騒な単語が飛び交っているのに、朝食の話をしているみたいだった。
「そうだ、ギスラン様。サラザーヌ公爵家についてですが、やはり取り潰しに近い形になりそうですよ。ますますあの方の望み通りの形になるようで」
「……魔薬の売買をするために潜り込ませていたのも、今回のサラザーヌ公爵の失態も、裏で糸をひいている可能性があると?」
「そこまでは言いませんが、どうにもきな臭いですね。サラザーヌ公爵の男娼趣味も、第四王子派閥を探るためだったようですし。本格的に、第四王子を次期王へと押し上げようとする動きがあるのでしょうか?」
「どうだろうな。だが、先の一件で、社交界の構図は様変わりした。軍の一派は下火だ。騎士どもが哄笑を上げている頃だろうな」
「騎士といえば第二王子ですけど。第二王子は第一王子派閥でしたよね? サラザーヌ公爵は国王の側近。けれど、借財に耐えきれず没落寸前だったんですっけ? 娘は第四王子派閥だったから擦り寄っていたとも言えるし、そのせいで今回のような羽目に?」
ギスランは長く沈黙した。
イルは肩を竦めたようで、軽い声を出した。
「って、今回はカリレーヌ令嬢の私怨でかたをつけるんでしたね。あの娘、どんな目にあっているんですか?」
「知りたい?」
「まさか。悍ましくて聞きたくもないですって」
「まあ、私もそうは知らない。国王陛下がジョージに好きにしろと言ったとは聞いている」
「ジョージですか?」
「清族の一人だ」
清族ねえとイルが怖々と呟いた。
「清族といえば、今度の学校、ありゃなんですか」
「なんのこと?」
「あれ、ギスラン様、知りません? あの学校、正気なのは清族だけで……」
やっと萎縮していた筋肉が弛緩してきた。起き上がろうと、腕を左右に揺らす。布を擦る静かな音が走る。
声がやんだ。頬に温かな指先が当てられる。
ギスランの指だ。
「おはようございます。カルディア姫」
目を開けると隣にはギスランが寝そべっていた。見渡してみるが、イルはいなかった。
おかしい。どういうことだ?
「イルは?」
「イル? どうして不粋にも貧民の名前を呼ばれるの? 目の前にいるのはギスランただ一人のはずでは」
「だって、さっきまで喋っていたでしょう」
「夢、ですか? 貴女様の夢にイル程度が出てくるとは烏滸がましいにもほどがある」
頭を覆いたくなった。いや、騙されるな、私。ギスランはこう言ってはぐらかすのがうまい。
疑わしい目で見つめていると、急に唇を合わせられた。
「はあ?! はあ!?」
「カルディア姫が口づけしてほしそうに見ていらっしゃったので、つい」
「つい!? お前、私の唇を何だと思っているのよ」
「ギスラン専用の苺タルトだと思っています」
両手で口を覆うように抑えている乙女ギスランに苛立ちが募る。
お前の大好きな苺タルトじゃないぞ、私。
離れようと体を倒す。手の先にある鎖が邪魔をした。うむっと足踏みしたくなる気持ちをおさえて、ギスランの方に戻る。
ギスランは変な顔をして私を見ていた。ぱんぱんと布の叩くと、ギスランは肘をついて起き上がった。
細い銀色の髪がしなだれるように頬の輪郭を覆う。
邪魔そうに髪をどけて、ギスランが見上げてきた。
「お前の唇は別に甘くない」
「へえ、そうですか」
「だから、別にお前とは口づけしたくない」
「ふーん? 左様ですか」
何度も何度も許可なく口付けることに対する嫌みを込めて言ってやる。
ギスランはにやつき顔でじろじろと私のことを見てくる。不敬すぎでは?
「な、なによ。だいたい、接吻というのは、そうみだりにしてはいけないものなのよ」
「みだりにはしていないつもりですが。カルディア姫にしたいと思ったときだけしています」
開いた口が塞がらない。
こいつには羞恥という概念がないのだろうか。
じわじわと顔が熱くなっていく。ぶつぶつとしたできものが体中にできているような気がして掻きむしりたくなる。
「顔が赤い。可愛い。もっとしてよい?」
「はあ!? 絶対だめ。顔を近づけちゃだめ。離れなさい!」
手錠で繋がれた、結果は分かり切った追いかけっこ。寝台の上で、私とギスランは子供のようにその遊びをした。
ギスランの体重や温度を感じながら、寝台の隅から隅まで逃げ回る。そのうち捕まるのに、せこせこと動きまわった。ギスランに捕まったら、逃れられないような気がした。
いや、今だって逃げているというよりも、檻のなかでじゃれ合っているという方が合っていた。私は鍵を持っていないから、鍵を開けることはできない。捕まってもいないのに、そう思った。
「ギスラン」
「なんですか、カルディア姫」
「……お腹がすいたわ」
「では、食事にしましょうか」
ギスランは嬉しそうに笑った。
そろそろ、こいつも一緒に座って食事をすればいいのに。
ギスランと繋がれた鎖を揺らすと、なおのこと楽しそうに振り返った。
「い、一緒に食べましょう」
ギスランはしばらくなにも言わずに動きを止めていたが、急に動き始めて、そわそわと悩み始めた。いや、悩むのはいいけれど、長すぎだ。数分経っている。
飽き始めた私に、ギスランはやっと悩み抜いた結果を報告した。首を左右に振ったのだ。
「そ、その。カルディア姫とご一緒するならば、一度マナーを確認してきます」
「無礼講でいいわよ。気兼ねするような仲でもないでしょう」
「それでも、です。食べるときは理性が……はわわ。なんでもありません。ともかく、また次回に。招待状を送りますので」
「そう大仰にしなくても……」
というか、食べるとき理性を失うのか、ギスランは。そういえば、トーマが食事していたが、かなりの大食漢だったな。
ますます見たくなってきた。
ギスランに一緒に食べましょうとねだる。ギスランは乙女のように頬を赤らめながらも、決して首を縦にはふらなかった。
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