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『6時27分発、西宮バスセンター行き』

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 夜と朝の間。淡い青色と濃いオレンジ色の混ざり合う時間帯。
そんな曖昧な時間に一人の青年が歩いている。夢の中にいるみたいなゆらゆらとした足取りで、まだひとけの無い県道沿いを歩いている。

「うぅ、寒い……。寒すぎる」

 青年は白い息を吐きながら呟いた。
コンビニの看板の上にはまだ青白い月が居座っており、彼はその月を目で追いながら歩いているようだった。

「変な月」

 誰に言うでもなく彼がそう口にした時、遠く向こうにヘッドライトの明りが見えた。彼は青白い月から目を離し、坂の下にあるバス停へ向けて駆け出した。なんてったって、今日は朝から数学の少テストがあるのだ。




 青年は高校への進学に伴ってバス通学を始めた。
通う事となった高校が二つ隣の町に位置しており、自転車での通学が難しくなったのが大きな要因だ。バス通学の他には、電車での通学も選択肢にはあった。しかし、駅よりバス停の方が自宅から近かったという理由でバス通学を選んだ。

 当時はバス通学というものに少なからず憧れている所があった。
あくせくと自転車を漕ぐこともなく、夏も冬もきっと快適なんだろうと思っていた。それに、時刻表を読むというのも、なんだか大人っぽい感じがあって胸が躍った。
『大人』というのであれば、と、バスの中で読む本も買ってみた。通学中に洒落た本を読むのがクールだと思っていたからだ。だから、春休みの間に書店に行って普段読まない文字だけの本を買ってみたりした。

 しかし、憧れというのは店先に並んでいる食品サンプルみたいなもので、いざ目の前に差し出されるとしばしば期待を裏切られる。

バス通学もそうだった。

 朝は早いし、何をするにしてもバスの発着時刻に縛られる。同じ路線を利用しているクラスメイトもいなかったので登下校も一人ぼっち。友人達の前では強がっていたが、正直何度となく寂しい思いをしたというのが本音だった。

 こんな事なら電車通学にしておけば良かった。と、彼はバスの定期券を恨めしい目で見る。有効期限は来年の5月まで。それまでは否が応でもこの青いバスに乗る事になるのだ。

彼は思う。青春とバスってのはとことん相性が悪い。




 青いバスは毎朝遅れることなくやってくる。
この辺りは混雑することもないし信号も少ない。なので、運転士が寝坊でもしない限りバスは時間通りにやってくるのだ。

 今日も時間通りにやってきた。6時29分の事だった。
予定より2分待ったがこれくらいは遅れた内に入らないだろう。彼はズボンのポケットからICカードを取り出し、それを手に持ってバスに乗り込んだ。


 彼はいつも同じ席に座る。
『バスに乗り込んですぐ右手にある二人掛けの席の窓側』
必ずそこに座ると決めていた。

 その席に座り続けようと決めたのは今年の七月の事だった。
彼はバス通学を始めてから三か月の間で全ての席に座ってみた。運転士のすぐ隣の席から一番後ろの広い5人掛けの席まで、全て。

 全ての席を試してみた結果『バスに乗り込んですぐ右手にある二人掛けの席』が最も具合が良かったのだ。それは車体の揺れ方や乗り降りの利便性などの兼ね合いの結果だった。

 あとは窓側に座るか通路側に座るかを選ぶだけ。もちろん窓側を選んだ。
景色が見れるし、窓枠がちょど良い高さの肘置きになったからだ。夏の間は鋭い日の光を浴びる事になるが、車内にはぬるい冷房が入るのでそこまで気にする事でもなかった。

 利用客の少ない路線だったので誰かがその席に座ってるという事はほとんどない。だから彼はその席を『指定席』と勝手に決めて、毎日そこに座る事にした。

 彼は指定席に座って目的地に着くまでの間、本を読む。
格好つけて始めた読書はいつの間にか一番の趣味になっていた。
特に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が気に入って、何度も読み返した。
本を読むときは必ずイヤホンを耳に。音楽は流さない。おしゃれで日常的な耳栓としてイヤホンを使っていた。

 彼はそういった決め事を一つ一つ丁寧に繰り返していき、バスの中に自分の存在を馴染ませていった。



 青年がバス通学を始めて一年近くが経った頃にがやってきた。
彼が高校二年生になった春の日の出来事だった。登校中のバスの車内。彼がいつものようにイヤホンを耳に詰めて本を読んでいた所に肩をトントンと叩かれた。

彼はイヤホンを外して通路の方に目を向ける。

「あの、ここいいですか?」

 活発そうな黒髪の女の子がいた。
しっかりとこちらを見て物を言い、その言葉もはっきりと聞き取り易いものだった。

 彼はその時はじめて車内が珍しく混雑していることに気が付いた。
通路に立っている人までは見当たらないが、ほとんどの席が埋まっているように見えた。彼はすぐに「どうぞ」と言って窓の方へ体を寄せる。

 彼とは違う学校の制服を着た女の子だった。
手足が細く、色の白い女の子。新入生なのか制服はピカピカのブカブカで、何もかもがしっかりと丁寧に整えられているように見えた。

 その日は特に気にも留めなかった。
車内は混雑していたし、この少女が隣に座ってきたのは偶然だろうと思っていた。


 しかし、次の日も少女は隣に座ってきた。
「すみません。ここ、座ってもいいですか?」と声をかけてきて遠慮がちに隣の席に座った。

 二日続けてともなると、少しだけ気になった。
辺りを見回してみても車内は混雑してるようには見えないし、相席せずとも一人で伸び伸びと座れる状況にあった。

どうしてこの席に? せっかちなのかな。

 彼はあまり深く考える事はやめておく事にした。
変に意識するとせっかく三ヶ月もかけて見つけたこの『指定席』の座り心地が悪くなる気がしたからだ。彼女はきっとせっかちな性格で、バスに乗り込んですぐに座れるこの席を選んだだけだ。そう理由づけて納得する事にした。

 三日目。やはり少女は隣に座ってきた。
この日は声をかけられなかった。何も言わずに隣に座ってきたのだ。
毎回イヤホンを外させるのを心苦しく思ったのか、それとも三日目ともあって慣れてきたのか。どちらにせよ、自分の席に座るかの様な自然な動きで、隣の席に座っていた。

車内はガラガラ。数人の乗客しかいない。
つまり、この子もきっと俺と同じように、この席の具合の良さを知ってるんだな。

 そう彼は納得する。
そして、彼女の目利きに感心するのだった。


 四日目。この日も少女は彼の隣に座る。
が、彼はもう少女が隣の席に座ってくる理由を探す事はしなかった。誰しも快適な座席を望んで当たり前なのだ。
路線バスはそれができる。自分で座る席を選べるのだ。彼女はきっとこの席が好きなのだ。

 彼はいつの間にか少女が乗り込んでくる停留所を覚えてしまっていた。
『上野公園前』だ。このバス停が近付くと、彼は自然と窓の方に体を寄せた。

 この日の少女は文庫本を手に持ってバスに乗り込んできた。
少女は席に座るとすぐにその文庫本を開き、窮屈そうな姿勢で本を読み始める。
背筋を伸ばし、本を高い所――顔の前辺りで構えている。

周りから見れば、もう少しリラックスしなよ。とか、『注文の多い料理店』を読んでるのね。とか声をかけたくなる様子だった。


 五日目。この日は彼の隣に男が座っていた。
『見知らぬ』という表現からしても、彼の隣には例の少女が座っているのが当然となり始めていた。見知らぬ男はただのサラリーマンで、たまたま今日は彼の隣に座っただけであった。

 青年がいつも利用しているバス停と、少女が乗り込んでくる『上野公園前』の間には3つの停留所があった。当然、その間に青年の隣が埋まってしまうなんてのは起こり得る事だった。

 上野公園前が近づいて来る。
彼はいつもの癖で少しだけ窓側に体を寄せた。
しかし、すぐに思い直して元の位置に座り直す。

 ふと窓の外を見ると少女の姿が見えた。
少女は丁度ベンチから立ち上がって鞄を肩にかけている所だった。
彼はなにやらばつが悪く感じ、本に集中してるフリをしてやり過ごす事にした。

 乗車口の扉が開くと軽快な足取りで少女が乗り込んできた。
彼女はいつもの席の前で少しだけ足を止めた。しかし、すぐに顔をきょろきょろと動かし、適当な席の窓側に座った。それからは手に持った『注文の多い料理店』も開かず、頬杖をついて窓の外を眺め始めるのだった。


 週をまたいだ6日目。この日は無事に彼の隣に少女が座っていた。
青年も少女もすっかりと落ち着いた様子でバスの揺れに体を任せている。

その様子を常連のおばばが覗き見て「ほほほ」と笑っている。
その様子をバスの運転士がバックミラーから覗き見て「へへへ」と鼻を擦っている。
その様子をサラリーマンが横目で覗き見て「うんうん」と頷いている。

 それからも二人は毎朝『バスに乗り込んですぐ右手にある二人掛けの席』に並んで座った。彼はいつも窓側の席でイヤホンをつけて本を読み、少女はいつも通路側の席で本を高い所に構えて文字を追う。

それがこの路線バスでの、当たり前で自然な光景になっていた。




 次の年の春。高校三年生になった彼がいつものようにバスに乗り込む。
ステップに足を乗せ、手すりに掴まって車内へ入り、指定席に目をやる。

 彼はそこで革命を目の当たりにする。
突如、分水嶺に立たされる。いつまでも続くと思っていた平穏の儚さを、知る。

 彼は平静を装って乗車した。ゆっくりとステップを踏みしめ、脳みそをフル稼働させる。一番後ろの席では常連のおばばが「あわわわ」と慌てているようだ。

どうした。何があった。どうすればいいんだ……。

 彼は何の解決策も思いつかないままに『指定席』に辿り着く。
乗り込んですぐ右手にある席なのだ、考える時間など無いに等しかった。
しかし、指定席についても彼は座らない。いや、座れない。

 彼の指定席は埋まっていた。
例の活発そうな黒髪の少女によって間違いなく埋められていたのだ。

 少女はこちらをチラとも見ない。
いつもの様に高い所で本を構え、こちらに気付いてる様子がまるでない。

いつも彼の後に乗り込んできて通路側の席に座る少女が、今日は彼より早くバスに乗り込んで窓際の席に座っている。

 一体全体どういうことなんだ。
この一年間もの間、ずっと通路側の席に座ってたじゃないか。
なぜだ。窓際の席に座りたかったのか、実は俺の窓際の席を虎視眈々と狙っていたのか?
――いや、それならもっと早くに仕掛けてきても良かっただろう。

 彼には少女の心の内が読めない。
それも仕方のない話だった。この一年間ずっと少女の隣に座っていた彼だが、少女と言葉を交わした時などほとんどなかったのだ。

どういうことだ。彼女の席に問題があったのか……?

 彼は彼女がいつも座っている席に目をやる。
しかし、飲み物がこぼれているとか、乗り物酔いした誰かのゲロがこびりついてるとか、そういった様子は全くない。いつも通りの小汚い座席だ。

彼は迷う。

なぜ彼女は動いた、行動を起こした。
何かがあったはずだ。

 次に少女の様子を観察してみる。
見た目には変化がない。体調は良さそうで、髪も短く切っていない。
服装もいつも通り。出会った頃に比べれば制服はくたびれたし、ブカブカだった裾や丈は体に馴染んできた気がするが、そんな経年的な事ではないはずだ。

彼は考える。

ここでの選択が重要だ。今後の関係に影響する。
俺は通路側の席――つまり、彼女の隣に座るべきなのか?

辺りを見回す。
その時、近くで新聞を読んでいたサラリーマンと一瞬だけ目が合う。

なんだ、車内はガラガラじゃないか。ここは他の席に座るべきだろう。
こんなに空席があるのに、なにも面白味の少ない通路側の席になんて座ることないじゃないか。どこかの窓際の席で流れ行く景色を眺めながら本を読めばいい。
それになにより、こんな状況でわざわざ彼女の隣に座るなど、「私はあなたに好意を持っています」と公言してるようなものじゃないか。――うん、そうだ。他の席を選ぼう。

彼は自分を無理矢理納得させる。


 乗車口の扉が閉まり、バスが動き出そうとエンジン音を轟かせた。
運転士がバックミラー越しにチラと彼の方を見る。面白くなさそうに見る。
鬼の形相とは運転士の男の今の表情のことだろう。なにやら舌打ちまで聞こえてきそうだ。

 彼は決断を迫られる。
バスはゆっくりと動き出した。そろそろどこかに座らないと足を休める事も出来ないし、本も読めない。それに何より不自然だ。

彼はもう一度、少女の方を見る。

彼女はどうなんだ。
車内がガラガラ時にも関わらず俺の隣に座ってきた。
しかし、そこに好意があったとは思えない。
いつも穏やかに本を読んでいて、声をかけられたことはないし……。
きっとこの席が好きで座っていたんだろう。

なぁ、そうなんだろう?


 彼が心の中で問いかけていると、キキィと鋭い音が車内に響いた。
その音とともにバスは前のめりに傾き、大きくぐらりと揺れた。

 思いふけっていた彼の体は簡単に横に流れる。
足の踏ん張りがきかずに左足は地を離れ、体を支えている右足もつま先が浮いてしまっている。数秒後に尻もちをつくことはまず間違いないだろう。

 それを誰よりも早く察知した少女は、とっさに本を投げ捨てて彼に向かって手を伸ばした。
まるで最初から本なんて読んでなかったかのように、まるで最初から彼の事を気にしていたかのように、まるで、彼からの何かを期待していたかのように、素早く手をのばしていた。

 彼もそれに応えるように少女に向かって自然に手を伸ばした。
見知らぬ誰かではない、ずっと隣にいた彼女だからこそ自然に助けを求めることができた。


しかし、ほんの少し、ほんの少しだけ届かない。


彼の爪と少女の爪が擦れ、「パチ」と短い音が車内に響く。


 二人の顔に諦めの色が滲む。
少女は悔しそうに下唇を噛む。彼はどこか満足げな表情で微笑む。

二人の指先から力が抜ける。ゆっくりと、指が折りたたまれていく……。



「まだじゃ!!」



一番後ろの席に座っていたおばばが喝を入れる様に声を張った。

それからおばばは手に持っていた杖を通路に滑らせた。
その時同じくして、彼の近くに座っていたサラリーマンが立ち上がった。サラリーマンはリレーのバトンを受け取る様にしっかりと前を見据え、右手を後ろに構える。

サラリーマンの右手に、滑ってきた杖が渡る。

サラリーマンは右手で受け取った杖を素早く左手に持ち替えた。
そして、彼に向かって左手を――杖の先を伸ばす。

杖の先が――杖の持ち手のL字部分が、彼のズボンに引っ掛かる。

「よし!」と車内の誰もが声を上げた。しかし彼の体が止まる気配は無い。
誰もが再び諦めそうになる。だが、

「まだだ!!」

 サラリーマンは絶叫にも近いような声を上げて杖を引っ張った。
贅肉の乗った腰を目一杯に反らせ、ミミズのような血管を額に浮かべ、奥歯が欠ける程に歯を食いしばり、杖を手繰り寄せて行った。

 傾いていた彼の体がピタリと止まる。
それどころか、少女の方へとギシリギシリと戻って行く。

諦めかけていた二人の指先に力が戻ってくる。

指先がピンと伸び、互いを指す。

やがて、二人の指先が、擦れ合い、触れ合い、そして、しっかりと絡み合っていく。

彼は少女の手を握ったまま言う。


「隣、いいですか」
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