2 / 24
1巻
1-2
しおりを挟む
開催二十分前の、午後五時四十分。受付で貴重品を預けて、カードを首からぶら下げてラウンジに入る。
十分前から開場している広いラウンジ内では、すでに多くの参加者が談笑していた。
高い天井。連なる大きなシャンデリア。ラウンジというより、ダンスホールといったほうが近いほどきらびやかな空間。
等間隔に設置された立食テーブルには、有名ブランドの食器に載せられた彩り豊かな料理が次々と並ぶ。
「思ったより人多いわねー。会場も華やか――……って、咲笑、大丈夫?」
「――えっ? あ、うん」
いけない。想像を絶する規模と豪華さに圧倒され、口から魂が抜けかけていた。
上質なスーツに身を包む男性陣に、お姫様みたいに着飾った女性たち。
いくらプロの手で着飾ったとはいえ、私みたいな一般人の……それも野暮ったいのが紛れ込むのは良くないんじゃないの? と思っちゃう。
明らかに場違いだってば!
この人たちと交流を持つことを想像すると、すぐにでも会場から逃げ出したい……
そう思いかけて、慌てて頭を振る。
――ダメダメ! なんのためにここに来たの。
早くもくじけそうになる自らを叱咤しながら、みゆきとともにラウンジの奥へ突き進む。
そんなふうにして会場を一回りし、開始まであと十分ほどになった頃、ウェイターさんからシャンパンのおかわりを受け取る。そしてモデルのように颯爽と隣を歩いているはずのみゆきに、「はい」とグラスを差し出した。
――のだが、あれ……?
待っていても受け取った気配がないので、「みゆき?」と彼女がいるはずの方向へ視線を向ける。
しかし、つい先程まで会話をしていた彼女の姿はそこにはなかった。
ラウンジ内を見渡すと、数歩後方で立ち止まっている彼女を確認した。
みゆきは私の視線に気づかず、ある一点を見つめたままだ。
――あれは……
視線の先には、ついさっき会場入りした陵介くん。彼の周りには綺麗な女性が五、六人いる。
いつも自信に満ちた、魅力的な猫のような大きなみゆきの瞳にどんよりと影が落ちている。
彼女が今なにを考えているのか手に取るようにわかってしまう。
私の胸までズキンと痛んだ。
「みゆき……?」
咄嗟に声をかけてしまった。私の声で我に返った彼女は、すぐに笑顔を作る。
「あー、ごめん、もしかして声かけてた? なんかぼーっとしてたみたいで」
陵介くんが、チラチラこっちにSOSのサインを出しているような気がするけれども、みゆきは背を向けてしまう。
「やっぱり会場がグランツってだけでゴージャスよねぇ」なんて取り繕いながら私より前を歩き、無理矢理世間話をはじめた。
〝さくら〟である自分たちの立場を気にして無視しているのかな? と思って、相槌を重ねていたけれど、たぶん違う。私を気遣っているんだ。無意識なのだろうけど、彼女の瞳はたまに陵介くんを追っているもの。
みゆきは昔からそうだ。自分こそ甘えたがりのくせに、『私に任せなさい!』と気弱な私のことを守ろうとする。
でも、こういうときくらいは、ちゃんと甘えてほしい。大好きな彼女が、陵介くんを大好きなことは、誰よりも知っているんだから。
「みゆき」
ペラペラと話を続ける彼女に、シャンパンをぐいっと押し付け、話をやめさせる。繊細なカットの入った見るからに高そうなグラスであることに気づき、ギョッとしそうになったが、努めてみゆきを強く見据えた。
「咲笑……?」
「みゆき、私は大丈夫だから、行っておいで」
「え?」
本当はものすごく心細いけれど、自分のぶんのシャンパンを傾けて、余裕さをアピールしてみせる。どのみち婚活パーティーがはじまれば、みゆきの後ろで縮こまっているわけにはいかないのだ。
「私は私で美味しい料理でも食べて楽しんでいるから。夜も陵介くんの部屋でごゆっくり……ふふっ」
元より、夜はひとりでナイトプールを楽しもうと思って水着を持ってきていた。仕事で忙しいふたりはなかなか会えないんだから、私に構わず仲良く過ごしてもらいたい。
「咲笑……」
「ほら、行っておいで。早くしないと、綺麗なお姉さんたちに取られちゃうよ?」
「でも……」と渋る彼女の背中を押して「ほら、早く!」と煽る。
何度かそれを繰り返すと、やがて苦笑いしたみゆきは「ありがとう」と遠慮がちに陵介くんのもとに向かった。
……うん、良かった。大好きなふたりには、笑顔でいてもらいたいもんね。安堵してみゆきの背中を見送る。
「――優しいんだね」
そのとき、艶のある低い声に話しかけられた。
ハッとして顔を上げる。
――だれ……?
柔らかそうなダークブラウンのマッシュヘア、大きなアーモンドアイにキリッとした眉。そして、スッと通った鼻筋。女性と見間違うほど綺麗な顔立ちだ。
身長は百八十をゆうに超えているだろうか。光沢のある上質なネイビーのストライプのスーツに、シルバーのアスコットタイ。トモキよりも遥かに大きく、女性の平均身長程度の私を見下ろすほどの高身長だ。
無意識にポーッと見惚れる。
「――いきなり失礼。陵介には世話になっていてね。偶然にも君の心遣いを目にして、声をかけずにはいられなかったんだ」
会話をはじめたみゆきたちに視線を配り、我に返った私を見て、ニコリと上品な笑みを浮かべる。まるで、スクリーンから出てきた王子様のような人だ。
「さっきから助けてほしそうな顔でこっちを見ていたから、きっと喜ぶと思うよ」
優しげな声色。どうやら彼も陵介くんと親しいらしい。緊張しつつも少しだけ警戒心が解ける。
「……お知り合い、なんですね。ふたりにはいつもお世話になっているので、喜んでくれるなら良かったです」
「とても友達思いなんだね」
優しげに細められた色素の薄い瞳に見つめられ、全身が甘く震える。
ここにいるということは、おそらく経営者や大企業役員なのだろう。しかし、振る舞いにも口調にも品があって、周囲より頭一つ抜け出ているよう。
甘いマスクのせいだろうか。
トクン、トクンと鼓動が自然と高鳴る。
「――あのぉ、すみません~!」
そのとき。ポーッとしている私の前に、数名の女性がきゃあきゃあ言いながら体を滑らせ、会話に加わってきた。
その瞬間、我に返る。
そっか、こんな素敵な男性を放っておく人はいないよね。
もう少し話をしたい気もしたけれど。私は赤く染まった顔を隠すように頭を下げて、その場をあとにする。
彼がこちらを見ていたことも知らずに。
◇
――約三十分後。
ラウンジを出てすぐの、中庭に隣接するリゾートプール。誰もいないプールサイドに伸びるデッキの隅っこに腰を下ろした私は、ライトアップされた揺らめく水面を眺めていた。
無人のプールサイドは、まるでパーティー会場とは別世界のように静かだ。
――結局、あれから会場の熱気に圧倒されて、三十分もしないうちにコソコソ出てきてしまった。せっかくみゆきと陵介くんが連れてきてくれたのに。
はぁ……と特大のため息をこぼしながら、膝を抱え直す。
どうにかここで探さないと、帰国後母にロックオンされるのがわかっているのに、なんでうまくできないんだろう。
こんな引く手数多な男性たちの中から探そうなんていうのが、甘い考えなのかなぁ。
深いため息が止まらない。
胸に顎がくっつくほどの勢いでうなだれていると、トモキの言葉が脳裏をよぎる。
『咲笑って大人しいよなぁ。オレ、明るい子のほうが好きなんだけど』
そう言われたのは、付き合ってすぐの頃だっけ。
引っ込み思案で、思ったことをあまり口にできない私。そんな自分が好きなわけではないけれども、性格というものはなかなか直せないものだ。
それすらも理解して付き合ってくれたのかと思ったけれど、きっと彼は違ったのだろう。
だからあの頃、ちょっとでも変われたら、と思って髪を切ってカラーリングをしてみたり、メイクをみゆきに教えてもらったりした。
でも、明るくなったのは外見だけで、中身は引っ込み思案で気弱なままだ。
こんなんだもん、明るくて輪の中心にいるようなトモキとなんて合うわけがないよね。こうなるのは当たり前のことだったのかもしれない。
はぁ……
――ってダメダメ。トモキのこと考えて、どうするの! 次の恋に行くために、ここまできたのに!
次は、私のことを大切にしてくれる人とお付き合いして、幸せになるんだから。
優しくて、穏やかで、紳士的で……
そう心でつぶやいた瞬間、ふとさっき会場でやりとりをした、綺麗な男性がぼんやり脳裏に浮かぶ。
誠実そうで、まさに理想通りの人だった。言葉を交わしたのは一瞬だったのに、あの優しげな笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
あんな素敵な男性と結ばれたら、これ以上のことはないだろうな……
――まぁ、婚活パーティーから逃げてきた私に、そんな都合のいい話があるわけないよね。
そうやって、何度目かのため息をこぼした、そのとき。
「――ここにいたんだ」
静かなリゾートプールに響いた声に、ひえっ! と私は飛び上がった。
声のほうに顔を向けると、なんと、今まさに思い浮かべていた人物が立っていた。柔らかそうな髪を揺らし、ヒラヒラと手を振りながらこちらに駆け寄ってくるではないか。
「――え」
混乱のあまり、短く声が漏れる。
「あぁ、良かった、部屋に戻っていたらどうしようかと」
だけど彼は、そんな私に構わず、安堵した様子で片膝をついて側に腰をおろす。
どうして私を捜しているのか理解できず、王子様のように美麗な彼をポーッと見上げた。
しかし、見惚れている場合ではない! すぐに頭を切り替え慌てて口を開く。
「わ、私……ですか?」
「そうだよ。君、7のナンバーカードを持ってないか?」
そう言いながら、彼は首に下げていたパスケースを、スーツの胸ポケットから覗かせて私に尋ねる。大きく書かれている数字は『7』だ。
つられて私のほうも理解できないまま、首に下げていたパスケースを見せる。
「はい、そうですが……」
まるで、病院の待ち合い室のような、おかしなやり取り。しかし、彼は安堵したようにスーツの胸ポケットにケースをしまい、ニコリと微笑む。
「――やっぱり。今、イベントミッションがはじまって、まずは同じナンバーの人とファーストコンタクトを取ってくれという指示があったんだ。俺にだけパートナーが現れなくてね。さっき、君が外へ出ていくのが見えたから、もしかしたらと思って……」
まさか見られていたなんて。彼みたいに素敵な人なら、相手なんて選り取り見取りだろうに……。わざわざ私のことを捜してくれたんだ。とても真面目な人らしい。胸が甘く痛みだす。
「すみません……なんだかひとりでいたら場違いな気がしてしまって……圧倒されたというか」
正直に謝罪すると、彼は「謝らないで」と微笑み、少しだけ距離を置いて隣に腰を下ろす。
「君と話したいなと思って来たのであって、咎めるつもりなんてさらさらない」
その言葉に図らずも彼を見上げる。ぱちりと目が合うと、彼は優しげにふんわりと微笑む。トクトクと心臓が早鐘を打つ。
どういうこと? 〝話したいな〟って……つまり私に会いに来たってこと?
「――名前、教えてくれる?」
彼は本当に会場に戻るつもりはないようで、当たり前のように尋ねてきた。
「え? さえ……です。小道、咲笑」
ドキドキしながらも、自然なやり取りに言葉が引き出されてしまう。とても不思議な人だ。
もしかして、さっき言っていた、会場で行う予定の〝ファーストなんたら〟をここで行おうとしているんだろうか?
「さえ、か。――なら〝さえ〟、今日はどうしてこのパーティーに?」
わっ。いきなり呼び捨てされてしまった。
ドギマギしつつも優しげな声に促されるように、また素直に質問の答えを考える。
やっぱりここで、〝ファーストなんたら〟をしようとしてるらしい。
「えっと……今日は、みゆきが……い、いえ友人が、恋人と別れた私を励まそうとして――」
つい、そこまで言って、ハッと口を押さえる。
失恋したから婚活しているだなんて伝えたら非常識だろうか。失礼だと怒られるかもしれない。
しかし、私の心配とは裏腹に、隣からはクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「気にしなくていい。ありのままに話してほしい。俺は、君のことが知りたいと思って質問してるから」
さっきも見せてくれたふんわりとした笑顔に、また見惚れる。
私のことが知りたい……? 夢みたいなセリフだ。どうしよう、胸が高鳴る。
「歳はいくつなの?」
「に、……二十五です」
「なら、俺の六つ下だね。俺は三十一。ちなみに名前は、『優しい』って書いて『すぐる』」
――すぐるさん。
物腰が柔らかくて自然体。だけどちゃんと私の求める距離感を保ってくれる。とても魅力的な男性。初対面なのにこんなに気兼ねせずに会話ができるのは初めてだ。
その後も色んな質問をされた。職業だとか。趣味だとか。もちろん彼の職業も教えてくれた。
洗練された風貌からなんとなく察していたが、彼は企業経営者らしい。
お父様が大きな会社の代表で、現在動かしているのは自分と弟さんだと教えてくれた。私も事情により、退職し求職中であると告げた。
肩書きや人柄はもちろん、こんなに眉目秀麗だなんて……。何度も彼の整った顔をチラチラ覗き見てしまった。
「――でも、……なんで恋人と別れたの?」
そんなふうにしていくつもの質問を重ね、私の肩の力が抜けた頃。さり気なく、けれども心底不思議だとでも言いたげに、そんな質問が投げられた。
反射的に端整な顔を見上げる。視線が絡まると、彼の表情がかすかに揺れたような気がした。
「不躾な質問をして申し訳ない。こんなに素直でいい子なのに、なんでだろうと考えてしまってね。さっきも、なんだか思い詰めたような顔をしていたし……」
会場でもそうだったが、彼はとても人のことを見ているらしい。
「良かったら、聞かせてくれないかな?」
褒め上手な彼の、ひどく優しい声に心が綻んでいった。
ぽつりぽつりと、トモキとの別れからこのパーティーの参加に至るまでを掻い摘んで話す。
本当だったら、知り合って間もない男性に身の上話をするなんて考えられない。
けれども。この日限りだと思って気が緩んだのか。はたまた、彼にほだされたのか。
話していくうちに、心優しい彼に縋りつきたくなった。
ずっと静かに耳を傾けてくれたすぐるさんは、話し終えると労るようにポンと私の頭に触れた。
温かくて大きな手だ。
「つまり……同僚の恋人と別れた上に、ご家族に無理矢理縁談を勧められそうなわけか。職場も辞めてしまったと」
「はい。だからその前に自分の意志で相手を見つけたいと思ったんですが……さっきも言ったように咄嗟に会場を出てきちゃって」
「人が多いから圧倒されたんだな。俺も人前はあまりの得意ではないからわかるよ」
さり気ない心遣いにじわりと目の奥が熱くなる。やっぱり彼は第一印象で感じた通り、理想通りの素敵な男性だ。
そんな人にこうして長話を聞いてもらえるだなんて……
これは、神様が与えてくれた、独身最後の甘いひとときなのかもしれない。
……とはいえ、彼の優しさにいつまでも甘えているわけにはいかない。長く引き止めるのは、可哀想だ。
「いろいろ愚痴ってしまい、すみません。幸せになりたいだけなのに、なんだか難しいものですね」
少しだけ惜しみながらも、話を終わらせようとしたその瞬間、膝の上に置いていた手に、大きな手が重なった。
え……? 予想外のことに息が止まる。
「――なら、ちょっとだけ俺に付き合わない?」
すぐるさんの切れ長のアーモンドアイが魅力的なカーブを描く。
「え?」
どう、いうこと?
「抜け出そう、ふたりで」
「ぬ、抜け出す? わぁ、ちょ、ちょっと……」
指を絡められて、手をぐいっと引かれた。
彼はおとぎ話の王子様のように優雅に微笑み、リゾートプールから私を連れ出したのだった。
第二章 花火とプロポーズと利害一致婚と
「あの、すぐるさん、どこに行くんですか?」
「さぁ、どこだろうね」
手を引かれたまま、館内のエレベーターに乗る。その仕草はとてもスマートなものの、ラウンジではまだ婚活パーティーの最中だ。
「会場に戻ったほうがいいのでは?」と何度も声をかけたが「せっかく来てくれたんだから楽しんでもらいたい」と、よくわからない誘い文句で制されてしまった。
つい一ヶ月前は、初めての失恋に涙していたのに、なぜか今は見目麗しい素敵な男性に誘われて、パーティーからコッソリ抜け出している。
後ろめたさを感じつつも、なんだか夢を見ているみたいで高揚してしまう。
やがてエレベーターの上昇感が止み、扉が開く。そうして目の前に広がった光景に、思わず「うわぁっ」と声を上げてしまった。
ドーム型の大きなフロアに見えたのは、豪華なシャンデリア。スロットマシーン、ルーレット。まるで映画の世界に入り込んだような興奮と、テーマパークのような豪華絢爛さがビリビリ肌に伝わってきた。
カジノだ! 初めて見た……!
オープン前なのに、ドレスアップしたハリウッドスターのような人たちが各コーナーを楽しんでいる姿が見える。もしかしたら、特別な宿泊者にのみ開放しているのだろうか。
唖然としていると、ホテリエの男性が廊下の先からこちらに近づいて来るのが見えた。
やけに慌てた様子だ。
男性が頭を下げて口を開く前に、すぐるさんは制するように、スッと右手を上げる。
「――奥の個室、空いていますか?」
男性は背筋を伸ばし畏まった様子で、深々と頭を下げる。
「……すぐに、ご案内いたします」
私たちはすぐに、フロアの一番奥にある特別な一室へと通された。
「わぁ、すごい綺麗……」
通された個室で、私は歓喜の声を上げてしまった。
ピカピカに磨かれたガラス窓の向こうでは、シンガポールの夜を最も彩るとも言われる、光と水の織りなす野外ショーが繰り広げられている。
「カジノじゃなくて、ホッとした?」
百八十度どこを見ても広がる幻想的な光景に目をキラキラさせていると、隣に並んだすぐるさんがカクテルグラスを差し出しながら、クスクス笑う。
エレベーターを出たときの、驚いたマヌケ顔を見られていたらしい。ボンッと頬に熱が集まる。
「すみません……その、嫌なわけじゃないんです。あまりにもきらびやかで圧倒されちゃって」
言葉を選びながら正直に伝えていると、すぐるさんはいたずらが成功した子供みたいな、可愛い顔をする。
「驚かせて申し訳ない。一週間前からカジノフロアだけ先行でオープンしてるんだ。普段はここもカジノのVIPルームとして使用しているんだが。ショーが一番綺麗に見えるからさ」
促され背後を見ると、ゲームテーブルやルーレット、革張りの大きなソファが存在感を放っている。
言う通りカジノの上客の部屋のようだ。
「ここによく来られるんですか?」
「まぁ……そうだな。ギャンブルはやらないんだが」
「――え?」
――やらないのに?
「ほら、そろそろ一番いいところだから、目をそらさないほうがいい」
すぐるさんが私の肩に触れて、外を見るように促す。
なんだかはぐらかされたような気がしたものの、感じる体温と、耳に触れる吐息に一気に意識が集中する。
「もうすぐだから、見ててね」なんてさらに後ろから低く囁かれてしまって。ばっくん、ばっくん心臓が暴れまくる。
だめ、近すぎる。こんなのドキドキして耐えられない。
そう思った数秒後、「ヒュー」という甲高い音がして意識が流れた。
そして次の瞬間、ドドドとお腹の奥底に響く音とともに、次々と、ガラスの向こう側で花火が上がりはじめる。
「花火! こんなに近くで⁉」
「綺麗だな……。これが本日のこのショーの一番の見どころ。リニューアルを記念して、花火は今日から打ち上げられるらしいよ」
「こんなに近くから花火を見たのは初めてです! 光も重なって、なんだか花火の中にいるみたい!」
「花火は好きなんだ?」
「はい! とっても好きです!」
その瞬間、照明を落とした静かな部屋に静寂が訪れる。
――とっても好きです! という声が部屋の中で反響した途端、すぐるさんが隣で、ふふっと息を漏らした。
は、恥ずかしすぎる。なんだか告白してるみたいじゃない。
「……すみません。さっきからはしゃいで、興奮しすぎですよね……」
なんだか恥ずかしくなって謝るものの、彼はゆるゆると首を横に振る。
「そんなことない。君に喜んでもらいたいと思っていたから、可愛い笑顔が見られて嬉しいよ。元気が出てきたようで、良かった」
ドキリッと胸が大きく音を立てた。笑顔のすぐるさんと視線が重なる。
可愛いって……
もしかして、励ますためにここまで連れてきてくれたの?
心の中で問いかけながら、再び花火に向けられた中性的な横顔をそっと見つめる。
初対面なのに根気強く愚痴を聞いてくれて、元気づけようと、温かい手でここまで優しく導いてくれたすぐるさん。
たまたま同じ『7』番を持っていただけの私に、夢のようなひとときを与えてくれた。
シンガポールの美しい夜景と、王子様のような素敵な男性。こんな輝かしい夜は、もう二度と訪れないだろう……
十分前から開場している広いラウンジ内では、すでに多くの参加者が談笑していた。
高い天井。連なる大きなシャンデリア。ラウンジというより、ダンスホールといったほうが近いほどきらびやかな空間。
等間隔に設置された立食テーブルには、有名ブランドの食器に載せられた彩り豊かな料理が次々と並ぶ。
「思ったより人多いわねー。会場も華やか――……って、咲笑、大丈夫?」
「――えっ? あ、うん」
いけない。想像を絶する規模と豪華さに圧倒され、口から魂が抜けかけていた。
上質なスーツに身を包む男性陣に、お姫様みたいに着飾った女性たち。
いくらプロの手で着飾ったとはいえ、私みたいな一般人の……それも野暮ったいのが紛れ込むのは良くないんじゃないの? と思っちゃう。
明らかに場違いだってば!
この人たちと交流を持つことを想像すると、すぐにでも会場から逃げ出したい……
そう思いかけて、慌てて頭を振る。
――ダメダメ! なんのためにここに来たの。
早くもくじけそうになる自らを叱咤しながら、みゆきとともにラウンジの奥へ突き進む。
そんなふうにして会場を一回りし、開始まであと十分ほどになった頃、ウェイターさんからシャンパンのおかわりを受け取る。そしてモデルのように颯爽と隣を歩いているはずのみゆきに、「はい」とグラスを差し出した。
――のだが、あれ……?
待っていても受け取った気配がないので、「みゆき?」と彼女がいるはずの方向へ視線を向ける。
しかし、つい先程まで会話をしていた彼女の姿はそこにはなかった。
ラウンジ内を見渡すと、数歩後方で立ち止まっている彼女を確認した。
みゆきは私の視線に気づかず、ある一点を見つめたままだ。
――あれは……
視線の先には、ついさっき会場入りした陵介くん。彼の周りには綺麗な女性が五、六人いる。
いつも自信に満ちた、魅力的な猫のような大きなみゆきの瞳にどんよりと影が落ちている。
彼女が今なにを考えているのか手に取るようにわかってしまう。
私の胸までズキンと痛んだ。
「みゆき……?」
咄嗟に声をかけてしまった。私の声で我に返った彼女は、すぐに笑顔を作る。
「あー、ごめん、もしかして声かけてた? なんかぼーっとしてたみたいで」
陵介くんが、チラチラこっちにSOSのサインを出しているような気がするけれども、みゆきは背を向けてしまう。
「やっぱり会場がグランツってだけでゴージャスよねぇ」なんて取り繕いながら私より前を歩き、無理矢理世間話をはじめた。
〝さくら〟である自分たちの立場を気にして無視しているのかな? と思って、相槌を重ねていたけれど、たぶん違う。私を気遣っているんだ。無意識なのだろうけど、彼女の瞳はたまに陵介くんを追っているもの。
みゆきは昔からそうだ。自分こそ甘えたがりのくせに、『私に任せなさい!』と気弱な私のことを守ろうとする。
でも、こういうときくらいは、ちゃんと甘えてほしい。大好きな彼女が、陵介くんを大好きなことは、誰よりも知っているんだから。
「みゆき」
ペラペラと話を続ける彼女に、シャンパンをぐいっと押し付け、話をやめさせる。繊細なカットの入った見るからに高そうなグラスであることに気づき、ギョッとしそうになったが、努めてみゆきを強く見据えた。
「咲笑……?」
「みゆき、私は大丈夫だから、行っておいで」
「え?」
本当はものすごく心細いけれど、自分のぶんのシャンパンを傾けて、余裕さをアピールしてみせる。どのみち婚活パーティーがはじまれば、みゆきの後ろで縮こまっているわけにはいかないのだ。
「私は私で美味しい料理でも食べて楽しんでいるから。夜も陵介くんの部屋でごゆっくり……ふふっ」
元より、夜はひとりでナイトプールを楽しもうと思って水着を持ってきていた。仕事で忙しいふたりはなかなか会えないんだから、私に構わず仲良く過ごしてもらいたい。
「咲笑……」
「ほら、行っておいで。早くしないと、綺麗なお姉さんたちに取られちゃうよ?」
「でも……」と渋る彼女の背中を押して「ほら、早く!」と煽る。
何度かそれを繰り返すと、やがて苦笑いしたみゆきは「ありがとう」と遠慮がちに陵介くんのもとに向かった。
……うん、良かった。大好きなふたりには、笑顔でいてもらいたいもんね。安堵してみゆきの背中を見送る。
「――優しいんだね」
そのとき、艶のある低い声に話しかけられた。
ハッとして顔を上げる。
――だれ……?
柔らかそうなダークブラウンのマッシュヘア、大きなアーモンドアイにキリッとした眉。そして、スッと通った鼻筋。女性と見間違うほど綺麗な顔立ちだ。
身長は百八十をゆうに超えているだろうか。光沢のある上質なネイビーのストライプのスーツに、シルバーのアスコットタイ。トモキよりも遥かに大きく、女性の平均身長程度の私を見下ろすほどの高身長だ。
無意識にポーッと見惚れる。
「――いきなり失礼。陵介には世話になっていてね。偶然にも君の心遣いを目にして、声をかけずにはいられなかったんだ」
会話をはじめたみゆきたちに視線を配り、我に返った私を見て、ニコリと上品な笑みを浮かべる。まるで、スクリーンから出てきた王子様のような人だ。
「さっきから助けてほしそうな顔でこっちを見ていたから、きっと喜ぶと思うよ」
優しげな声色。どうやら彼も陵介くんと親しいらしい。緊張しつつも少しだけ警戒心が解ける。
「……お知り合い、なんですね。ふたりにはいつもお世話になっているので、喜んでくれるなら良かったです」
「とても友達思いなんだね」
優しげに細められた色素の薄い瞳に見つめられ、全身が甘く震える。
ここにいるということは、おそらく経営者や大企業役員なのだろう。しかし、振る舞いにも口調にも品があって、周囲より頭一つ抜け出ているよう。
甘いマスクのせいだろうか。
トクン、トクンと鼓動が自然と高鳴る。
「――あのぉ、すみません~!」
そのとき。ポーッとしている私の前に、数名の女性がきゃあきゃあ言いながら体を滑らせ、会話に加わってきた。
その瞬間、我に返る。
そっか、こんな素敵な男性を放っておく人はいないよね。
もう少し話をしたい気もしたけれど。私は赤く染まった顔を隠すように頭を下げて、その場をあとにする。
彼がこちらを見ていたことも知らずに。
◇
――約三十分後。
ラウンジを出てすぐの、中庭に隣接するリゾートプール。誰もいないプールサイドに伸びるデッキの隅っこに腰を下ろした私は、ライトアップされた揺らめく水面を眺めていた。
無人のプールサイドは、まるでパーティー会場とは別世界のように静かだ。
――結局、あれから会場の熱気に圧倒されて、三十分もしないうちにコソコソ出てきてしまった。せっかくみゆきと陵介くんが連れてきてくれたのに。
はぁ……と特大のため息をこぼしながら、膝を抱え直す。
どうにかここで探さないと、帰国後母にロックオンされるのがわかっているのに、なんでうまくできないんだろう。
こんな引く手数多な男性たちの中から探そうなんていうのが、甘い考えなのかなぁ。
深いため息が止まらない。
胸に顎がくっつくほどの勢いでうなだれていると、トモキの言葉が脳裏をよぎる。
『咲笑って大人しいよなぁ。オレ、明るい子のほうが好きなんだけど』
そう言われたのは、付き合ってすぐの頃だっけ。
引っ込み思案で、思ったことをあまり口にできない私。そんな自分が好きなわけではないけれども、性格というものはなかなか直せないものだ。
それすらも理解して付き合ってくれたのかと思ったけれど、きっと彼は違ったのだろう。
だからあの頃、ちょっとでも変われたら、と思って髪を切ってカラーリングをしてみたり、メイクをみゆきに教えてもらったりした。
でも、明るくなったのは外見だけで、中身は引っ込み思案で気弱なままだ。
こんなんだもん、明るくて輪の中心にいるようなトモキとなんて合うわけがないよね。こうなるのは当たり前のことだったのかもしれない。
はぁ……
――ってダメダメ。トモキのこと考えて、どうするの! 次の恋に行くために、ここまできたのに!
次は、私のことを大切にしてくれる人とお付き合いして、幸せになるんだから。
優しくて、穏やかで、紳士的で……
そう心でつぶやいた瞬間、ふとさっき会場でやりとりをした、綺麗な男性がぼんやり脳裏に浮かぶ。
誠実そうで、まさに理想通りの人だった。言葉を交わしたのは一瞬だったのに、あの優しげな笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
あんな素敵な男性と結ばれたら、これ以上のことはないだろうな……
――まぁ、婚活パーティーから逃げてきた私に、そんな都合のいい話があるわけないよね。
そうやって、何度目かのため息をこぼした、そのとき。
「――ここにいたんだ」
静かなリゾートプールに響いた声に、ひえっ! と私は飛び上がった。
声のほうに顔を向けると、なんと、今まさに思い浮かべていた人物が立っていた。柔らかそうな髪を揺らし、ヒラヒラと手を振りながらこちらに駆け寄ってくるではないか。
「――え」
混乱のあまり、短く声が漏れる。
「あぁ、良かった、部屋に戻っていたらどうしようかと」
だけど彼は、そんな私に構わず、安堵した様子で片膝をついて側に腰をおろす。
どうして私を捜しているのか理解できず、王子様のように美麗な彼をポーッと見上げた。
しかし、見惚れている場合ではない! すぐに頭を切り替え慌てて口を開く。
「わ、私……ですか?」
「そうだよ。君、7のナンバーカードを持ってないか?」
そう言いながら、彼は首に下げていたパスケースを、スーツの胸ポケットから覗かせて私に尋ねる。大きく書かれている数字は『7』だ。
つられて私のほうも理解できないまま、首に下げていたパスケースを見せる。
「はい、そうですが……」
まるで、病院の待ち合い室のような、おかしなやり取り。しかし、彼は安堵したようにスーツの胸ポケットにケースをしまい、ニコリと微笑む。
「――やっぱり。今、イベントミッションがはじまって、まずは同じナンバーの人とファーストコンタクトを取ってくれという指示があったんだ。俺にだけパートナーが現れなくてね。さっき、君が外へ出ていくのが見えたから、もしかしたらと思って……」
まさか見られていたなんて。彼みたいに素敵な人なら、相手なんて選り取り見取りだろうに……。わざわざ私のことを捜してくれたんだ。とても真面目な人らしい。胸が甘く痛みだす。
「すみません……なんだかひとりでいたら場違いな気がしてしまって……圧倒されたというか」
正直に謝罪すると、彼は「謝らないで」と微笑み、少しだけ距離を置いて隣に腰を下ろす。
「君と話したいなと思って来たのであって、咎めるつもりなんてさらさらない」
その言葉に図らずも彼を見上げる。ぱちりと目が合うと、彼は優しげにふんわりと微笑む。トクトクと心臓が早鐘を打つ。
どういうこと? 〝話したいな〟って……つまり私に会いに来たってこと?
「――名前、教えてくれる?」
彼は本当に会場に戻るつもりはないようで、当たり前のように尋ねてきた。
「え? さえ……です。小道、咲笑」
ドキドキしながらも、自然なやり取りに言葉が引き出されてしまう。とても不思議な人だ。
もしかして、さっき言っていた、会場で行う予定の〝ファーストなんたら〟をここで行おうとしているんだろうか?
「さえ、か。――なら〝さえ〟、今日はどうしてこのパーティーに?」
わっ。いきなり呼び捨てされてしまった。
ドギマギしつつも優しげな声に促されるように、また素直に質問の答えを考える。
やっぱりここで、〝ファーストなんたら〟をしようとしてるらしい。
「えっと……今日は、みゆきが……い、いえ友人が、恋人と別れた私を励まそうとして――」
つい、そこまで言って、ハッと口を押さえる。
失恋したから婚活しているだなんて伝えたら非常識だろうか。失礼だと怒られるかもしれない。
しかし、私の心配とは裏腹に、隣からはクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「気にしなくていい。ありのままに話してほしい。俺は、君のことが知りたいと思って質問してるから」
さっきも見せてくれたふんわりとした笑顔に、また見惚れる。
私のことが知りたい……? 夢みたいなセリフだ。どうしよう、胸が高鳴る。
「歳はいくつなの?」
「に、……二十五です」
「なら、俺の六つ下だね。俺は三十一。ちなみに名前は、『優しい』って書いて『すぐる』」
――すぐるさん。
物腰が柔らかくて自然体。だけどちゃんと私の求める距離感を保ってくれる。とても魅力的な男性。初対面なのにこんなに気兼ねせずに会話ができるのは初めてだ。
その後も色んな質問をされた。職業だとか。趣味だとか。もちろん彼の職業も教えてくれた。
洗練された風貌からなんとなく察していたが、彼は企業経営者らしい。
お父様が大きな会社の代表で、現在動かしているのは自分と弟さんだと教えてくれた。私も事情により、退職し求職中であると告げた。
肩書きや人柄はもちろん、こんなに眉目秀麗だなんて……。何度も彼の整った顔をチラチラ覗き見てしまった。
「――でも、……なんで恋人と別れたの?」
そんなふうにしていくつもの質問を重ね、私の肩の力が抜けた頃。さり気なく、けれども心底不思議だとでも言いたげに、そんな質問が投げられた。
反射的に端整な顔を見上げる。視線が絡まると、彼の表情がかすかに揺れたような気がした。
「不躾な質問をして申し訳ない。こんなに素直でいい子なのに、なんでだろうと考えてしまってね。さっきも、なんだか思い詰めたような顔をしていたし……」
会場でもそうだったが、彼はとても人のことを見ているらしい。
「良かったら、聞かせてくれないかな?」
褒め上手な彼の、ひどく優しい声に心が綻んでいった。
ぽつりぽつりと、トモキとの別れからこのパーティーの参加に至るまでを掻い摘んで話す。
本当だったら、知り合って間もない男性に身の上話をするなんて考えられない。
けれども。この日限りだと思って気が緩んだのか。はたまた、彼にほだされたのか。
話していくうちに、心優しい彼に縋りつきたくなった。
ずっと静かに耳を傾けてくれたすぐるさんは、話し終えると労るようにポンと私の頭に触れた。
温かくて大きな手だ。
「つまり……同僚の恋人と別れた上に、ご家族に無理矢理縁談を勧められそうなわけか。職場も辞めてしまったと」
「はい。だからその前に自分の意志で相手を見つけたいと思ったんですが……さっきも言ったように咄嗟に会場を出てきちゃって」
「人が多いから圧倒されたんだな。俺も人前はあまりの得意ではないからわかるよ」
さり気ない心遣いにじわりと目の奥が熱くなる。やっぱり彼は第一印象で感じた通り、理想通りの素敵な男性だ。
そんな人にこうして長話を聞いてもらえるだなんて……
これは、神様が与えてくれた、独身最後の甘いひとときなのかもしれない。
……とはいえ、彼の優しさにいつまでも甘えているわけにはいかない。長く引き止めるのは、可哀想だ。
「いろいろ愚痴ってしまい、すみません。幸せになりたいだけなのに、なんだか難しいものですね」
少しだけ惜しみながらも、話を終わらせようとしたその瞬間、膝の上に置いていた手に、大きな手が重なった。
え……? 予想外のことに息が止まる。
「――なら、ちょっとだけ俺に付き合わない?」
すぐるさんの切れ長のアーモンドアイが魅力的なカーブを描く。
「え?」
どう、いうこと?
「抜け出そう、ふたりで」
「ぬ、抜け出す? わぁ、ちょ、ちょっと……」
指を絡められて、手をぐいっと引かれた。
彼はおとぎ話の王子様のように優雅に微笑み、リゾートプールから私を連れ出したのだった。
第二章 花火とプロポーズと利害一致婚と
「あの、すぐるさん、どこに行くんですか?」
「さぁ、どこだろうね」
手を引かれたまま、館内のエレベーターに乗る。その仕草はとてもスマートなものの、ラウンジではまだ婚活パーティーの最中だ。
「会場に戻ったほうがいいのでは?」と何度も声をかけたが「せっかく来てくれたんだから楽しんでもらいたい」と、よくわからない誘い文句で制されてしまった。
つい一ヶ月前は、初めての失恋に涙していたのに、なぜか今は見目麗しい素敵な男性に誘われて、パーティーからコッソリ抜け出している。
後ろめたさを感じつつも、なんだか夢を見ているみたいで高揚してしまう。
やがてエレベーターの上昇感が止み、扉が開く。そうして目の前に広がった光景に、思わず「うわぁっ」と声を上げてしまった。
ドーム型の大きなフロアに見えたのは、豪華なシャンデリア。スロットマシーン、ルーレット。まるで映画の世界に入り込んだような興奮と、テーマパークのような豪華絢爛さがビリビリ肌に伝わってきた。
カジノだ! 初めて見た……!
オープン前なのに、ドレスアップしたハリウッドスターのような人たちが各コーナーを楽しんでいる姿が見える。もしかしたら、特別な宿泊者にのみ開放しているのだろうか。
唖然としていると、ホテリエの男性が廊下の先からこちらに近づいて来るのが見えた。
やけに慌てた様子だ。
男性が頭を下げて口を開く前に、すぐるさんは制するように、スッと右手を上げる。
「――奥の個室、空いていますか?」
男性は背筋を伸ばし畏まった様子で、深々と頭を下げる。
「……すぐに、ご案内いたします」
私たちはすぐに、フロアの一番奥にある特別な一室へと通された。
「わぁ、すごい綺麗……」
通された個室で、私は歓喜の声を上げてしまった。
ピカピカに磨かれたガラス窓の向こうでは、シンガポールの夜を最も彩るとも言われる、光と水の織りなす野外ショーが繰り広げられている。
「カジノじゃなくて、ホッとした?」
百八十度どこを見ても広がる幻想的な光景に目をキラキラさせていると、隣に並んだすぐるさんがカクテルグラスを差し出しながら、クスクス笑う。
エレベーターを出たときの、驚いたマヌケ顔を見られていたらしい。ボンッと頬に熱が集まる。
「すみません……その、嫌なわけじゃないんです。あまりにもきらびやかで圧倒されちゃって」
言葉を選びながら正直に伝えていると、すぐるさんはいたずらが成功した子供みたいな、可愛い顔をする。
「驚かせて申し訳ない。一週間前からカジノフロアだけ先行でオープンしてるんだ。普段はここもカジノのVIPルームとして使用しているんだが。ショーが一番綺麗に見えるからさ」
促され背後を見ると、ゲームテーブルやルーレット、革張りの大きなソファが存在感を放っている。
言う通りカジノの上客の部屋のようだ。
「ここによく来られるんですか?」
「まぁ……そうだな。ギャンブルはやらないんだが」
「――え?」
――やらないのに?
「ほら、そろそろ一番いいところだから、目をそらさないほうがいい」
すぐるさんが私の肩に触れて、外を見るように促す。
なんだかはぐらかされたような気がしたものの、感じる体温と、耳に触れる吐息に一気に意識が集中する。
「もうすぐだから、見ててね」なんてさらに後ろから低く囁かれてしまって。ばっくん、ばっくん心臓が暴れまくる。
だめ、近すぎる。こんなのドキドキして耐えられない。
そう思った数秒後、「ヒュー」という甲高い音がして意識が流れた。
そして次の瞬間、ドドドとお腹の奥底に響く音とともに、次々と、ガラスの向こう側で花火が上がりはじめる。
「花火! こんなに近くで⁉」
「綺麗だな……。これが本日のこのショーの一番の見どころ。リニューアルを記念して、花火は今日から打ち上げられるらしいよ」
「こんなに近くから花火を見たのは初めてです! 光も重なって、なんだか花火の中にいるみたい!」
「花火は好きなんだ?」
「はい! とっても好きです!」
その瞬間、照明を落とした静かな部屋に静寂が訪れる。
――とっても好きです! という声が部屋の中で反響した途端、すぐるさんが隣で、ふふっと息を漏らした。
は、恥ずかしすぎる。なんだか告白してるみたいじゃない。
「……すみません。さっきからはしゃいで、興奮しすぎですよね……」
なんだか恥ずかしくなって謝るものの、彼はゆるゆると首を横に振る。
「そんなことない。君に喜んでもらいたいと思っていたから、可愛い笑顔が見られて嬉しいよ。元気が出てきたようで、良かった」
ドキリッと胸が大きく音を立てた。笑顔のすぐるさんと視線が重なる。
可愛いって……
もしかして、励ますためにここまで連れてきてくれたの?
心の中で問いかけながら、再び花火に向けられた中性的な横顔をそっと見つめる。
初対面なのに根気強く愚痴を聞いてくれて、元気づけようと、温かい手でここまで優しく導いてくれたすぐるさん。
たまたま同じ『7』番を持っていただけの私に、夢のようなひとときを与えてくれた。
シンガポールの美しい夜景と、王子様のような素敵な男性。こんな輝かしい夜は、もう二度と訪れないだろう……
10
お気に入りに追加
730
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました
白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。
あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。
そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。
翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。
しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。
**********
●早瀬 果歩(はやせ かほ)
25歳、OL
元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。
●逢見 翔(おうみ しょう)
28歳、パイロット
世界を飛び回るエリートパイロット。
ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。
翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……?
●航(わたる)
1歳半
果歩と翔の息子。飛行機が好き。
※表記年齢は初登場です
**********
webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です!
完結しました!
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
イケメン御曹司、地味子へのストーカー始めました 〜マイナス余命1日〜
和泉杏咲
恋愛
表紙イラストは「帳カオル」様に描いていただきました……!眼福です(´ω`)
https://twitter.com/tobari_kaoru
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は間も無く死ぬ。だから、彼に別れを告げたいのだ。それなのに……
なぜ、私だけがこんな目に遭うのか。
なぜ、私だけにこんなに執着するのか。
私は間も無く死んでしまう。
どうか、私のことは忘れて……。
だから私は、あえて言うの。
バイバイって。
死を覚悟した少女と、彼女を一途(?)に追いかけた少年の追いかけっこの終わりの始まりのお話。
<登場人物>
矢部雪穂:ガリ勉してエリート中学校に入学した努力少女。小説家志望
悠木 清:雪穂のクラスメイト。金持ち&ギフテッドと呼ばれるほどの天才奇人イケメン御曹司
山田:清に仕えるスーパー執事
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。
絶対に離婚届に判なんて押さないからな」
既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。
まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。
紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転!
純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。
離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。
それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。
このままでは紘希の弱点になる。
わかっているけれど……。
瑞木純華
みずきすみか
28
イベントデザイン部係長
姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点
おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち
後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない
恋に関しては夢見がち
×
矢崎紘希
やざきひろき
28
営業部課長
一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長
サバサバした爽やかくん
実体は押しが強くて粘着質
秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?
隠れ御曹司の愛に絡めとられて
海棠桔梗
恋愛
目が覚めたら、名前が何だったかさっぱり覚えていない男とベッドを共にしていた――
彼氏に浮気されて更になぜか自分の方が振られて「もう男なんていらない!」って思ってた矢先、強引に参加させられた合コンで出会った、やたら綺麗な顔の男。
古い雑居ビルの一室に住んでるくせに、持ってる腕時計は超高級品。
仕事は飲食店勤務――って、もしかしてホスト!?
チャラい男はお断り!
けれども彼の作る料理はどれも絶品で……
超大手商社 秘書課勤務
野村 亜矢(のむら あや)
29歳
特技:迷子
×
飲食店勤務(ホスト?)
名も知らぬ男
24歳
特技:家事?
「方向音痴・家事音痴の女」は「チャラいけれど家事は完璧な男」の愛に絡め取られて
もう逃げられない――
【R18】国王陛下はずっとご執心です〜我慢して何も得られないのなら、どんな手を使ってでも愛する人を手に入れよう〜
まさかの
恋愛
濃厚な甘々えっちシーンばかりですので閲覧注意してください!
題名の☆マークがえっちシーンありです。
王位を内乱勝ち取った国王ジルダールは護衛騎士のクラリスのことを愛していた。
しかし彼女はその気持ちに気付きながらも、自分にはその資格が無いとジルダールの愛を拒み続ける。
肌を重ねても去ってしまう彼女の居ない日々を過ごしていたが、実の兄のクーデターによって命の危険に晒される。
彼はやっと理解した。
我慢した先に何もないことを。
ジルダールは彼女の愛を手に入れるために我慢しないことにした。
小説家になろう、アルファポリスで投稿しています。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。