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1巻
1-1
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プロローグ
この夜から、すべてがはじまった。
勇気を振り絞って異国にやってきた夜、まさか、こんな出会いがあるなんて――
「――さえ」
シンガポールの夜景が一望できるスイートルームの一室。
甘いキスをしながらもつれ合うように部屋を移動し、美しい夜景をゆっくり眺める暇もなくベッドに押し倒された。
つい先程、魅力的な〝利害一致婚〟を提案してきた彼は、マットレスの上で跳ねる身体を縫い付けるようにして素早く覆いかぶさってくる。
「すぐるさん……」
紳士的だった彼の、優美な獣のような姿。じわりと身体中の熱が下腹部に集まるのがわかる。
「今夜から覚悟してね。俺しか見られないようにしてあげるから……」
それを合図に、彼は再び性急なキスを仕掛けてきた。ひとつひとつ衣服を剥がし、情熱的に素肌に触れていく。
ベッドルームに密やかに響く、ふたりの荒い息遣い。
昨日までの失恋の痛手が嘘のように霧散し、心も身体も甘く溶かされていく。
数時間前まで、婚活パーティーで〝同じナンバー〟を持つ、ただの参加者同士だった。
会場で言葉を交わしたのはほんの少しだけ。
それも、私たちは初対面だった。なのに、なぜこうなってしまったのか。
偶然? それとも、運命?
私にもわからない。でも、もうどっちだっていい。
彼という極上の男性に魅了されてしまったから。
好きでもない人と結婚させられるくらいなら、たとえどんな形であろうと彼のそばにいたい。
彼のことが――すぐるさんのことが、好きだから。
これからの未来に甘い予感を抱きながら、でもかすかに頭の片隅に存在する戸惑いから視線をそらしながら、与えられる念入りな愛撫を貪欲に受け入れる。
「あぁっ……んっ、すぐるさん……」
「たまんないな……。今すぐあげるよ……早く俺のものになって――」
恥じらいながら熱を求めたその瞬間、グズグズに溶けていた身体が一気に大きな質量でえぐられ、目の前で閃光が走ったかのようにチカチカした。
「あぁんっ……!」
「……くっ」
振り子のように、リズミカルに激しく雄根を打ち付ける彼。私はその背中に硬く腕を巻き付け、与えられる快楽を余すことなく享受した。
「あっ、んぁ……あぁっ、は……」
「……可愛い声をもっと聞かせて。俺のものだって、思い知らせて……さえ」
――出会ったばかりの理想的な王子様。
彼の気持ちも、この先に待っている未来も。まだなにも予想がつかない。
けれども私は決めたの。
彼との結婚に賭けるって。幸せになりたいから。
薄れゆく意識の狭間で何度もキスを交わし、身体を絡ませながら、私たちは甘い快楽の海に沈んでゆく――
第一章 婚活パーティーと花火と理想の王子様と
ことのはじまりは、およそ一ヶ月前。まだ雪のチラつく二月の頃。
その日、私はとある二度目の精神的ショックをお酒で緩和していた。
「もう。だからあいつはやめておいたほうがいいって言ったのに……。女好きだし調子いいし、ろくなことにならないって言ったじゃない」
「だって、結婚しようって言ってくれてたんだよ……?」
「本気なら他の人と子供作るわけないでしょう。相手はもうすぐ安定期らしいわよ」
再び現実を突きつけられて、さらにブワーッと悔しさがあふれる。
居酒屋のカウンターに突っ伏しておいおい涙を流すと、親友で幼馴染みで同僚という長い付き合いの瀬谷みゆきが、間もなくやってきたビールと枝豆を勧めてくれた。
周囲からちくちくと視線を感じるけど、今夜くらいは泣かせてほしい。
――私、小道咲笑、二十五歳は、三年間付き合っていた彼氏、井上友樹と一週間前に破局した。そして本日の終業後、同じ部署の仲間とともに、後輩との結婚報告を受けたところだ。
「今日はとことん付き合うから元気だして。あんな女好きなんて別れて正解よ。咲笑にはもっと素敵な人がいるって」
「う゛ぅ……」
ようやく前向きになれそうだったのに……! 悲しいというよりは、悔しさでいっぱいだった。
トモキは同じ大手化粧品会社T&Yの国際事業部の同期で、入社してすぐに彼からアプローチを受けた。
『咲笑ちゃんかぁ、可愛いね』
新入社員歓迎会だっただろうか。可愛いなんて言われるのも、テーブルの下でこっそり手を握られるのも初めてで。まったく男性と接点のなかったうぶな私は、甘い言葉と熱烈アプローチにほだされて、すぐに彼と付き合いだした。
――けれども。
『オレ、もう咲笑とは付き合えない』
一週間前、彼はそう言って三年間に呆気なく終止符を打ったのだ。
まさにどん底に落とされた気分だった。
もちろん、みゆきの言う通り、女の子の影があったかと聞かれると否定できない。っていうかいっぱいいたと思う!
けれどもそのたびに私たちはどうにか問題を解決して、気持ちを確かめ合ってきた。結婚しようというセリフも信じて疑わなかった。
なのに、それがどういうわけか。同じ会社の、同じ部署の、それもピッチピチの新入社員と授かり婚するなんて、私との関係は彼にとって暇つぶしのようなものだったのかもしれない。
あまりのショックで、大学卒業から三年間お世話になった国際事業部の部長に、今月いっぱいでの退職届を手渡し、同じビルの美容部員のみゆきに電話をして……。涙を堪えながらここまでやってきた。
気弱な私は、元カレ夫婦と同じ会社に留まる精神力なんか持ち合わせていない。
「やっぱ男の人は若くてキャピキャピ元気で可愛いほうがいいのかな……」
新しい恋人(いや、私が浮気相手かもしれないけれど)と終始イチャコラしていたトモキを思い返し、ふいにつぶやく。
するとみゆきの手元のグラスが、カランと大きく音を立てた。
「そんなことないわ。男を間違えただけよ。咲笑はもう少し自分に自信を持って。私は奥ゆかしくて清純派の咲笑の可愛さに憧れてるんだから。井上と付き合う前の頃とか、まさに無垢な美少女って感じで可愛かったのに」
少し酔いが回っているのか、飛んできたのは盛大なお世辞だ。
「そんなわけないでしょ……」
あまり大きくはない、こぢんまりした二重瞼。高すぎない平凡な鼻。
今はダークブラウンの緩いパーマをかけたボブヘアだけれど、トモキと付き合うまではカラーリングもしたことがない、日本人形みたいな髪型だった。
みゆきが奥ゆかしいなんて言ったのは、素朴な外見と、たぶん、言いたいことをうまく口にできない引っ込み思案な性分のせい。
私からすれば、大きな猫目が印象的な、正統派美人のみゆきのほうが羨ましい。
私なんて、ただ地味なだけなのに。
なんて思いで、整った顔をじぃーっと見つめていると、
「――それで、おばさんには、破局したこと言ったの?」
こともあろうに、私が一番恐れていた話題を持ち出してきた。
思い出したくないと思っていたのに。
涙と鼻水が一瞬にして冷める。
親友でもある彼女とは、五歳からの付き合いだ。実家の隣の豪邸に住む、T&Y役員の両親を持つお嬢様がみゆきだった。もちろんここに入社したきっかけも、みゆきに誘われたからだ。
これまでずっと一緒で、うちの家庭内事情を熟知している彼女の一言に、私は動揺して目をそらした。
――まずい、どうしよう。とりあえず心を落ち着かせるために、ジョッキに残るビールを飲み干し、喉を潤す。
「言ってないのね」
それだけで伝わる彼女はさすがだ。みゆきは焼き鳥をつまみながら苦笑い。
「言ってない。言えるわけないよ……」
両手で顔を覆い大きく息を吐く。言葉にすると、改めてことの重大さを理解し憂鬱になる。
考えないようにしていたけれど。
――そう。私には、困っていることがある。
それは、私の結婚を今か今かと待ち詫びる、極度の心配性の母がいることだ。
『引っ込み思案の咲笑は、将来が心配よ!』が口癖で、近年は顔を合わせるたびに『彼氏との結婚はまだなの?』『見込みがないなら、友達の息子さんと会ってみない?』と言ってくる母。
トモキと交際しているにもかかわらず『咲笑の写真を見せたら気にいってるの』と勝手に私の写真を友人の息子さんたちに見せて回ったり、『とりあえず会わない?』と何度も会わせたがったりするのだ。
長年大手企業の敏腕営業職だったのもあって、友人関係が広く、とても社交的。持ってくる写真の数は数え切れない。
口下手でおっとりした私や父が敵うわけもない。ふたつ下に出版社勤めの弟がいるが、『ネタだ』とおもしろがるだけ。つまり家の中は母の独裁政権状態。
別れたなんて知られたら、大変なことになる……!
「今までは『彼氏がいるから』ってどうにか逃れてきたけど、次に帰るときは厳しいかも……。勘と尋問がすさまじくて……」
「嘘がつけなくて押しに弱い気弱な咲笑には、おばさんの追及をかわすのは難しいだろうねー。しかも来月おばさんの誕生日じゃない。どうするの?」
「――っぐぅ」
思わず唸った。
両親の誕生日は実家で過ごす。これは弟が社会人になった去年からの約束だ。家族が揃う機会も少なくなってしまったため、両親はこのイベントを非常に楽しみにしている。
でも、察しのいい母に会えば、破局したことがバレるのは確実だ。そうなれば、あれよあれよという間に『本日は、お日柄も良く~オホホ!』なんて事態に発展しかねない。
そうなれば式まで強引に一直線……
あぁ! やだやだ! 人見知りなのに、知りもしない、ましてや母の選んだ男性とお見合い結婚なんて、絶対無理だ!
「はぁ……どうしよう、みゆき。失恋の傷も癒えないまま、知らない人と結婚させられちゃうのかな……」
頭を抱えながら救いを求めてみゆきに目を向けると――
みゆきは頬杖をついて、それもなぜだか満面の笑みで、私のことをじっと見つめていた。
なんだか、嬉しそう……?
「そう言うと思ってね――」
ポカンと見つめ返していると、みゆきは待っていましたと言わんばかりに微笑んで、高級ブランドバッグから一枚の華やかなハガキを取り出す。
「――これ。一緒に参加しない?」
少しだけ不安を覚えながらも、手渡されたハガキを受け取る。
そして、目にした瞬間、息が止まった。
な、なに、これは……⁉
お母さんの誕生日の一週間前、一ヶ月後の三月上旬。場所はシンガポール。
『男性年収三千万円以上限定の婚活パーティー』
『ハイスペックなダーリンとの出会いはここから』
『高級リゾートホテル『グランツ・ハピネス』の一夜~』
こ、婚活パーティー……⁉
魅力的かつ怪しげなワードが、案内状に並べられているではないか!
詳細に目を通したあと、ぷるぷると首を振って、みゆきの大きな胸にハガキを押しつけた。
「こ、こんなすごいパーティーに行くなんて、無理だよ……。無理!」
グランツ・ハピネスといえば、中には一泊一千万以上の部屋があるといわれているセレブ御用達のホテルだ。
場違いだし! お金持ちって高圧的な男性しかいなそうだし! 一般人が対象みたいだけれど、私には参加費も高すぎるし! 無理!
「それに、一緒って……みゆきには陵介くんがいるじゃない」
彼女の左手の薬指に輝く婚約指輪に、ジロリと視線を送る。
「咲笑、安心して。これはグランツ・ハピネスのリニューアルオープンに合わせて、陵介の会社がやるイベントなの」
私の反応が予想通りだったのか、みゆきはクスクス笑いだす。
「へ……?」
一瞬にして肩の力が抜けた。
向坂陵介くんは、イベント会社の社長で、五年の交際を経てみゆきと結ばれた彼女の婚約者だ。イケメンなのに優しくて、みゆきの友人である私にも気を配ってくれる、信頼できる人。
「そうだとしても、なんで婚活パーティーのハガキを私に……」
「あまり大きな声じゃ言えないけど……陵介と〝さくら〟をやることになっているの」
私にだけ聞こえるくらいの声量で、彼女はイベントについて教えてくれた。
「これは大道寺グループから依頼された、グランツのリニューアルオープンの宣伝イベントで、陵介の会社としても外せないのよ。だから、少しでも盛り上げるために、今回私たちが紛れることになったの」
経緯を聞いてホッとしつつも、今度は別のところに驚愕する。
――大道寺グループ⁉
大道寺グループは、高級ホテル『グランツ・ハピネス』をはじめとする世界各地でホテルやリゾーツ、そして不動産業を展開している国際的な大企業だ。
世界でも五本指に入るほどの売上高を誇るそこは、いわば、日本のホテル業界の王座にあるとも言えるだろう。
ホテル業界に詳しくない私でさえ、その名前はよーく知っている。
みゆきの話によると、陵介くんはグランツ・ハピネス事業のCEOでもある大道寺グループの御曹司と昔からの友人らしい。そこで今回、イベントの依頼があったという。
男性側は陵介くんや大道寺さんの人脈で集め、女性側は参加者を広く募集し、厳正な審査の上運営側で決めるとか。いずれも日本人が対象とのこと。
参加者への配慮からメディアや雑誌記者は入れない。〝さくら〟を入れるのは、女性参加者たちにSNSでリニューアルしたホテルを宣伝してもらうためだそうだ。
いずれにしても徹底的にプライバシーが守られ、そして信用できる。非常に好感度の高い内容だった。
「――だから安全だし、メディアに取り上げられたり、世間に公開されたりする心配もないの。それも、相手はほとんどが陵介の知人だし。咲笑が新しい出会いを求めるならどうかな? って思って、この話を持ってきたのよ」
参加男性たちの資産が桁違いなのは気になるが、信頼できる陵介くんやみゆきを介して出会えるなんて、願ってもない好条件だ。
そして、なによりこの状況。追い詰められた私に救いの手が差し伸べられたようにしか思えない。
「どう? 一緒に行かない? おばさんに破局の報告をする前に、婚活パーティーで新しい相手を見つけられたら万々歳じゃない?」
さっきは、無理! なんて言っちゃったけれど。魅力的な内容と的確な誘い文句。心の天秤は大きく揺れっぱなしだ。
人見知りの私が、そんなところに行くにはかなりの勇気がいる。けれども、自分の意志を無視してお見合い話を進められるのはもっと嫌だ。
「失恋の傷を癒すには、新しい恋が一番。咲笑のことを待っている運命の男性、私はいると思うよ。もちろん費用は陵介持ちよ?」
なんてさらにたたみかけてくる。
運命の人なんて大げさすぎ……なんて思いつつも。
ふと、終業後に見た、トモキと後輩の寄り添う姿が頭をよぎる。ズキッと心が大きく痛んだ。
なによ、あんなに鼻の下伸ばしちゃって。私にはここしばらくあんな顔見せなかったくせに。
私も、好きになった人と幸せになりたいな。次はちゃんと、大切にしてくれる素敵な男性とお付き合いしたい……
グラグラ揺れていた天秤は、やがて参加するほうに大きく傾いて……
「……ありがとう。なら、行ってみようかな」
シンガポールで新しい恋を探すのも、悪くない……よね?
行動しなければなにもはじまらない。じっとしていても、未来は変わらない。
そう告げるとみゆきは「そうこなくっちゃ」と嬉しそうにグラスを寄せてくる。
カチン、景気のいい音が、新たな門出を祝福してくれた。
◇
――そして、一ヶ月後、三月初旬。
月末で退職した私は、どうにか有給をもぎ取ったみゆきとともに、シンガポールのセントラルエリアにある、ホテル『グランツ・ハピネス』にやってきた。
イベント参加のみのツアーのため、一泊三日という弾丸旅行になってしまったけれど、みゆきとの旅行は久々だ。目的を除けば、私は眠れないほど楽しみだった。
「……うわぁ、テレビで見ていた以上だ。まさか、本当にグランツに来られるなんて……。別世界だね」
「うんうん、セレブって感じ。圧倒されるわね」
ラグジュアリーホテルならではの格式の高いエレガントなロビーには、オープン前にもかかわらず人がちらほら見える。私たちみたいなイベント参加者や関係者だろうか。
入口のパンフレットによると、五十階建てのホテル内にハイブランドショップ、高級レストラン、リゾートプール。それだけでなく、高層階には新設された映画館や政府公認のカジノまであるらしい。
日本では考えられない、壮大なスケールに胸が躍る。海外旅行や出張は何度も経験したけれど、こんなにラグジュアリーなホテルは初めてだ。
「こんな豪華な旅行、本当にいいのかな」
「いいのよ。陵介も私も咲笑が来てくれて、本当に助かってるんだから」
夢心地で赤い絨毯を踏みしめる私を見て、お嬢様のみゆきは「まだ言ってるの」とからかう。一般人の私からすれば大事なのに。
結局のところ、陵介くんの厚意によって、旅費や参加費をすべておごってもらうことになった。
さすがに高額なので、後日みゆきと三人で食事した席で費用を支払おうとしたのだけれど『これくらい気にしないでよ。咲笑ちゃんに参加してもらって助かってるんだ』なんて言って頑なに受け取ってくれなかった。
それどころか『新しい出会いを見つけておいで』なんて気遣ってくれたのだ。
陵介くんには本当に頭が上がらない。
新しい出会い……か。
ふと、退職の日まで一言も話すことのなかった、幸せそうなトモキの横顔が頭をよぎる。
過去が霞むくらいの、素敵な出会いがあるといいんだけれど――
◇
午後三時。早めにチェックインを済ませ、洗練されたホテリエに部屋まで案内してもらう。
あてがわれたツインルームは、シンガポールの美しい夜景を連想させる、シックなカラーを基調としたエレガントな客室だった。
「暑い! 暑いー!」なんて言いながら、空港でお揃いで購入した軽やかなワンピースに着替える私たち。同じ三月でも日本に比べてこっちはジメジメと蒸し暑い。
お城の一室みたいな客室に興奮したり、持ち寄った私服を見せ合ったり。そんなふうにきゃあきゃあしながら過ごしていると、三十分ほどしてインターホンが鳴った。
「みゆき、咲笑ちゃん、お疲れ様」
約束していた陵介くんだ。チャンギ国際空港に降り立ったときに、『ふたりに渡したいものがある』と連絡をくれていた。
彼は三つ揃いのスーツをきっちり着こなしていたが、目鼻立ちのはっきりした端整な顔には汗が浮かんでいる。
嬉しそうに駆けつけたみゆきが、絶景の見渡せる明るいリビングルームに彼を案内して、三人で大理石のテーブルを囲む。
「時間を取らせてごめんね。今夜のパーティーの受付は、もう俺のほうでさせてもらったから、これを渡しにきたんだ」
陵介くんは急いでいるのか、挨拶も早々にスーツのポケットからクリアのパスケースを取り出して、みゆきと私に手渡した。
なんだろう?
手に取って眺める。首から下げる形のそれには、少し前に自分たちで書いた簡単なプロフィールと、大きなナンバーカードが挟まれている。
――『7』だ。
「陵介くん、この番号は……?」
「その番号でグループ分けしてあるんだ。パーティーでは名刺のようなものだから、忘れずに持ってきてね」
「わかった」と答え、受け取った番号をぼんやり眺める。
なるほど、これでプライバシーが守られるってことか。番号を使えば、名前を読み上げる必要もない。それに、参加者を番号と紐付けることで運営側が管理しやすい。
陵介くんはそれだけ伝えると、「また今夜」と慌ただしく部屋を出て行こうとする。みゆきもサッと立ち上がり、見送りに行く。
今夜か……
やばい。ど、どうしよう。なんだか緊張してきた。
いざこうしてプロフィールカードを前にすると、現実味を帯びてきて、どうしようもなくばっくん、ばっくん心臓が早鐘を打つ。
私、大丈夫かな……
◇
「――咲笑、ガチガチよ? 大丈夫?」
――約三時間後。会場となるリゾートプールそばのラウンジへ向かう最中。クスクス笑いながら、黒のマーメイドドレス姿のみゆきが顔を覗き込んでくる。
「あぁ、うん……。なんか、す、すごく緊張してきた」
お相手が富豪ばかりだからか、今夜のパーティーは正装がマナーらしい。
陵介くんの去ったあとは、ホテル内のエステやショッピングを楽しんで、 うちにあった中で一番お高い、シックなワインレッドのイブニングドレスに着替えた。
予約していたホテル内のスタイリストさんに、素っ気ないボブヘアを巻いてサイドに白の花飾りを乗せてもらって、素朴な顔には華やかなパーティーメイクを施してもらった。
『わぁ! すっごくきれい!』
なんてはしゃいでごまかしていたけれども、会場が近づくにつれて足取りが重くなる。
「大丈夫よ。今まで国際事業部でいろんな国の人とやりとりしてきたんだから。自信持って」
「それは仕事だったし……」
国際事業部の仕事は、T&Yの海外の顧客や支社とのやりとりが主だった。電話対応が多かったけれど、トラブル時には支社に出向くこともあった。だから語学と応対力については自信があるけれども……でも、今回は仕事ではない。みんな出会いを求めているわけで。それも相手は大富豪でしょ? 慣れてない相手と、なにを話せばいいかわからない。
私は外見通り、口下手なのだ……
「とにかく、ほとんどが陵介の知人だから安心して? 婚活パーティーとはいえ無理に話すことはないわ。私も近くにいるから大丈夫」
「うーん……」
自信なさげにうつむいた、その瞬間。
「……おばさんの持ってくるお見合い、したくないんでしょ?」
みゆきが丁寧ながらも鋭い声で一番痛いところを突いてくる。
そうだ! と背筋を伸ばす私。
ここで頑張らないと、母が見合い話を持ってきてしまう。
みゆきに煽られるようにして、私は会場となるリゾートプールそばのラウンジへ足を踏み入れた。
この夜から、すべてがはじまった。
勇気を振り絞って異国にやってきた夜、まさか、こんな出会いがあるなんて――
「――さえ」
シンガポールの夜景が一望できるスイートルームの一室。
甘いキスをしながらもつれ合うように部屋を移動し、美しい夜景をゆっくり眺める暇もなくベッドに押し倒された。
つい先程、魅力的な〝利害一致婚〟を提案してきた彼は、マットレスの上で跳ねる身体を縫い付けるようにして素早く覆いかぶさってくる。
「すぐるさん……」
紳士的だった彼の、優美な獣のような姿。じわりと身体中の熱が下腹部に集まるのがわかる。
「今夜から覚悟してね。俺しか見られないようにしてあげるから……」
それを合図に、彼は再び性急なキスを仕掛けてきた。ひとつひとつ衣服を剥がし、情熱的に素肌に触れていく。
ベッドルームに密やかに響く、ふたりの荒い息遣い。
昨日までの失恋の痛手が嘘のように霧散し、心も身体も甘く溶かされていく。
数時間前まで、婚活パーティーで〝同じナンバー〟を持つ、ただの参加者同士だった。
会場で言葉を交わしたのはほんの少しだけ。
それも、私たちは初対面だった。なのに、なぜこうなってしまったのか。
偶然? それとも、運命?
私にもわからない。でも、もうどっちだっていい。
彼という極上の男性に魅了されてしまったから。
好きでもない人と結婚させられるくらいなら、たとえどんな形であろうと彼のそばにいたい。
彼のことが――すぐるさんのことが、好きだから。
これからの未来に甘い予感を抱きながら、でもかすかに頭の片隅に存在する戸惑いから視線をそらしながら、与えられる念入りな愛撫を貪欲に受け入れる。
「あぁっ……んっ、すぐるさん……」
「たまんないな……。今すぐあげるよ……早く俺のものになって――」
恥じらいながら熱を求めたその瞬間、グズグズに溶けていた身体が一気に大きな質量でえぐられ、目の前で閃光が走ったかのようにチカチカした。
「あぁんっ……!」
「……くっ」
振り子のように、リズミカルに激しく雄根を打ち付ける彼。私はその背中に硬く腕を巻き付け、与えられる快楽を余すことなく享受した。
「あっ、んぁ……あぁっ、は……」
「……可愛い声をもっと聞かせて。俺のものだって、思い知らせて……さえ」
――出会ったばかりの理想的な王子様。
彼の気持ちも、この先に待っている未来も。まだなにも予想がつかない。
けれども私は決めたの。
彼との結婚に賭けるって。幸せになりたいから。
薄れゆく意識の狭間で何度もキスを交わし、身体を絡ませながら、私たちは甘い快楽の海に沈んでゆく――
第一章 婚活パーティーと花火と理想の王子様と
ことのはじまりは、およそ一ヶ月前。まだ雪のチラつく二月の頃。
その日、私はとある二度目の精神的ショックをお酒で緩和していた。
「もう。だからあいつはやめておいたほうがいいって言ったのに……。女好きだし調子いいし、ろくなことにならないって言ったじゃない」
「だって、結婚しようって言ってくれてたんだよ……?」
「本気なら他の人と子供作るわけないでしょう。相手はもうすぐ安定期らしいわよ」
再び現実を突きつけられて、さらにブワーッと悔しさがあふれる。
居酒屋のカウンターに突っ伏しておいおい涙を流すと、親友で幼馴染みで同僚という長い付き合いの瀬谷みゆきが、間もなくやってきたビールと枝豆を勧めてくれた。
周囲からちくちくと視線を感じるけど、今夜くらいは泣かせてほしい。
――私、小道咲笑、二十五歳は、三年間付き合っていた彼氏、井上友樹と一週間前に破局した。そして本日の終業後、同じ部署の仲間とともに、後輩との結婚報告を受けたところだ。
「今日はとことん付き合うから元気だして。あんな女好きなんて別れて正解よ。咲笑にはもっと素敵な人がいるって」
「う゛ぅ……」
ようやく前向きになれそうだったのに……! 悲しいというよりは、悔しさでいっぱいだった。
トモキは同じ大手化粧品会社T&Yの国際事業部の同期で、入社してすぐに彼からアプローチを受けた。
『咲笑ちゃんかぁ、可愛いね』
新入社員歓迎会だっただろうか。可愛いなんて言われるのも、テーブルの下でこっそり手を握られるのも初めてで。まったく男性と接点のなかったうぶな私は、甘い言葉と熱烈アプローチにほだされて、すぐに彼と付き合いだした。
――けれども。
『オレ、もう咲笑とは付き合えない』
一週間前、彼はそう言って三年間に呆気なく終止符を打ったのだ。
まさにどん底に落とされた気分だった。
もちろん、みゆきの言う通り、女の子の影があったかと聞かれると否定できない。っていうかいっぱいいたと思う!
けれどもそのたびに私たちはどうにか問題を解決して、気持ちを確かめ合ってきた。結婚しようというセリフも信じて疑わなかった。
なのに、それがどういうわけか。同じ会社の、同じ部署の、それもピッチピチの新入社員と授かり婚するなんて、私との関係は彼にとって暇つぶしのようなものだったのかもしれない。
あまりのショックで、大学卒業から三年間お世話になった国際事業部の部長に、今月いっぱいでの退職届を手渡し、同じビルの美容部員のみゆきに電話をして……。涙を堪えながらここまでやってきた。
気弱な私は、元カレ夫婦と同じ会社に留まる精神力なんか持ち合わせていない。
「やっぱ男の人は若くてキャピキャピ元気で可愛いほうがいいのかな……」
新しい恋人(いや、私が浮気相手かもしれないけれど)と終始イチャコラしていたトモキを思い返し、ふいにつぶやく。
するとみゆきの手元のグラスが、カランと大きく音を立てた。
「そんなことないわ。男を間違えただけよ。咲笑はもう少し自分に自信を持って。私は奥ゆかしくて清純派の咲笑の可愛さに憧れてるんだから。井上と付き合う前の頃とか、まさに無垢な美少女って感じで可愛かったのに」
少し酔いが回っているのか、飛んできたのは盛大なお世辞だ。
「そんなわけないでしょ……」
あまり大きくはない、こぢんまりした二重瞼。高すぎない平凡な鼻。
今はダークブラウンの緩いパーマをかけたボブヘアだけれど、トモキと付き合うまではカラーリングもしたことがない、日本人形みたいな髪型だった。
みゆきが奥ゆかしいなんて言ったのは、素朴な外見と、たぶん、言いたいことをうまく口にできない引っ込み思案な性分のせい。
私からすれば、大きな猫目が印象的な、正統派美人のみゆきのほうが羨ましい。
私なんて、ただ地味なだけなのに。
なんて思いで、整った顔をじぃーっと見つめていると、
「――それで、おばさんには、破局したこと言ったの?」
こともあろうに、私が一番恐れていた話題を持ち出してきた。
思い出したくないと思っていたのに。
涙と鼻水が一瞬にして冷める。
親友でもある彼女とは、五歳からの付き合いだ。実家の隣の豪邸に住む、T&Y役員の両親を持つお嬢様がみゆきだった。もちろんここに入社したきっかけも、みゆきに誘われたからだ。
これまでずっと一緒で、うちの家庭内事情を熟知している彼女の一言に、私は動揺して目をそらした。
――まずい、どうしよう。とりあえず心を落ち着かせるために、ジョッキに残るビールを飲み干し、喉を潤す。
「言ってないのね」
それだけで伝わる彼女はさすがだ。みゆきは焼き鳥をつまみながら苦笑い。
「言ってない。言えるわけないよ……」
両手で顔を覆い大きく息を吐く。言葉にすると、改めてことの重大さを理解し憂鬱になる。
考えないようにしていたけれど。
――そう。私には、困っていることがある。
それは、私の結婚を今か今かと待ち詫びる、極度の心配性の母がいることだ。
『引っ込み思案の咲笑は、将来が心配よ!』が口癖で、近年は顔を合わせるたびに『彼氏との結婚はまだなの?』『見込みがないなら、友達の息子さんと会ってみない?』と言ってくる母。
トモキと交際しているにもかかわらず『咲笑の写真を見せたら気にいってるの』と勝手に私の写真を友人の息子さんたちに見せて回ったり、『とりあえず会わない?』と何度も会わせたがったりするのだ。
長年大手企業の敏腕営業職だったのもあって、友人関係が広く、とても社交的。持ってくる写真の数は数え切れない。
口下手でおっとりした私や父が敵うわけもない。ふたつ下に出版社勤めの弟がいるが、『ネタだ』とおもしろがるだけ。つまり家の中は母の独裁政権状態。
別れたなんて知られたら、大変なことになる……!
「今までは『彼氏がいるから』ってどうにか逃れてきたけど、次に帰るときは厳しいかも……。勘と尋問がすさまじくて……」
「嘘がつけなくて押しに弱い気弱な咲笑には、おばさんの追及をかわすのは難しいだろうねー。しかも来月おばさんの誕生日じゃない。どうするの?」
「――っぐぅ」
思わず唸った。
両親の誕生日は実家で過ごす。これは弟が社会人になった去年からの約束だ。家族が揃う機会も少なくなってしまったため、両親はこのイベントを非常に楽しみにしている。
でも、察しのいい母に会えば、破局したことがバレるのは確実だ。そうなれば、あれよあれよという間に『本日は、お日柄も良く~オホホ!』なんて事態に発展しかねない。
そうなれば式まで強引に一直線……
あぁ! やだやだ! 人見知りなのに、知りもしない、ましてや母の選んだ男性とお見合い結婚なんて、絶対無理だ!
「はぁ……どうしよう、みゆき。失恋の傷も癒えないまま、知らない人と結婚させられちゃうのかな……」
頭を抱えながら救いを求めてみゆきに目を向けると――
みゆきは頬杖をついて、それもなぜだか満面の笑みで、私のことをじっと見つめていた。
なんだか、嬉しそう……?
「そう言うと思ってね――」
ポカンと見つめ返していると、みゆきは待っていましたと言わんばかりに微笑んで、高級ブランドバッグから一枚の華やかなハガキを取り出す。
「――これ。一緒に参加しない?」
少しだけ不安を覚えながらも、手渡されたハガキを受け取る。
そして、目にした瞬間、息が止まった。
な、なに、これは……⁉
お母さんの誕生日の一週間前、一ヶ月後の三月上旬。場所はシンガポール。
『男性年収三千万円以上限定の婚活パーティー』
『ハイスペックなダーリンとの出会いはここから』
『高級リゾートホテル『グランツ・ハピネス』の一夜~』
こ、婚活パーティー……⁉
魅力的かつ怪しげなワードが、案内状に並べられているではないか!
詳細に目を通したあと、ぷるぷると首を振って、みゆきの大きな胸にハガキを押しつけた。
「こ、こんなすごいパーティーに行くなんて、無理だよ……。無理!」
グランツ・ハピネスといえば、中には一泊一千万以上の部屋があるといわれているセレブ御用達のホテルだ。
場違いだし! お金持ちって高圧的な男性しかいなそうだし! 一般人が対象みたいだけれど、私には参加費も高すぎるし! 無理!
「それに、一緒って……みゆきには陵介くんがいるじゃない」
彼女の左手の薬指に輝く婚約指輪に、ジロリと視線を送る。
「咲笑、安心して。これはグランツ・ハピネスのリニューアルオープンに合わせて、陵介の会社がやるイベントなの」
私の反応が予想通りだったのか、みゆきはクスクス笑いだす。
「へ……?」
一瞬にして肩の力が抜けた。
向坂陵介くんは、イベント会社の社長で、五年の交際を経てみゆきと結ばれた彼女の婚約者だ。イケメンなのに優しくて、みゆきの友人である私にも気を配ってくれる、信頼できる人。
「そうだとしても、なんで婚活パーティーのハガキを私に……」
「あまり大きな声じゃ言えないけど……陵介と〝さくら〟をやることになっているの」
私にだけ聞こえるくらいの声量で、彼女はイベントについて教えてくれた。
「これは大道寺グループから依頼された、グランツのリニューアルオープンの宣伝イベントで、陵介の会社としても外せないのよ。だから、少しでも盛り上げるために、今回私たちが紛れることになったの」
経緯を聞いてホッとしつつも、今度は別のところに驚愕する。
――大道寺グループ⁉
大道寺グループは、高級ホテル『グランツ・ハピネス』をはじめとする世界各地でホテルやリゾーツ、そして不動産業を展開している国際的な大企業だ。
世界でも五本指に入るほどの売上高を誇るそこは、いわば、日本のホテル業界の王座にあるとも言えるだろう。
ホテル業界に詳しくない私でさえ、その名前はよーく知っている。
みゆきの話によると、陵介くんはグランツ・ハピネス事業のCEOでもある大道寺グループの御曹司と昔からの友人らしい。そこで今回、イベントの依頼があったという。
男性側は陵介くんや大道寺さんの人脈で集め、女性側は参加者を広く募集し、厳正な審査の上運営側で決めるとか。いずれも日本人が対象とのこと。
参加者への配慮からメディアや雑誌記者は入れない。〝さくら〟を入れるのは、女性参加者たちにSNSでリニューアルしたホテルを宣伝してもらうためだそうだ。
いずれにしても徹底的にプライバシーが守られ、そして信用できる。非常に好感度の高い内容だった。
「――だから安全だし、メディアに取り上げられたり、世間に公開されたりする心配もないの。それも、相手はほとんどが陵介の知人だし。咲笑が新しい出会いを求めるならどうかな? って思って、この話を持ってきたのよ」
参加男性たちの資産が桁違いなのは気になるが、信頼できる陵介くんやみゆきを介して出会えるなんて、願ってもない好条件だ。
そして、なによりこの状況。追い詰められた私に救いの手が差し伸べられたようにしか思えない。
「どう? 一緒に行かない? おばさんに破局の報告をする前に、婚活パーティーで新しい相手を見つけられたら万々歳じゃない?」
さっきは、無理! なんて言っちゃったけれど。魅力的な内容と的確な誘い文句。心の天秤は大きく揺れっぱなしだ。
人見知りの私が、そんなところに行くにはかなりの勇気がいる。けれども、自分の意志を無視してお見合い話を進められるのはもっと嫌だ。
「失恋の傷を癒すには、新しい恋が一番。咲笑のことを待っている運命の男性、私はいると思うよ。もちろん費用は陵介持ちよ?」
なんてさらにたたみかけてくる。
運命の人なんて大げさすぎ……なんて思いつつも。
ふと、終業後に見た、トモキと後輩の寄り添う姿が頭をよぎる。ズキッと心が大きく痛んだ。
なによ、あんなに鼻の下伸ばしちゃって。私にはここしばらくあんな顔見せなかったくせに。
私も、好きになった人と幸せになりたいな。次はちゃんと、大切にしてくれる素敵な男性とお付き合いしたい……
グラグラ揺れていた天秤は、やがて参加するほうに大きく傾いて……
「……ありがとう。なら、行ってみようかな」
シンガポールで新しい恋を探すのも、悪くない……よね?
行動しなければなにもはじまらない。じっとしていても、未来は変わらない。
そう告げるとみゆきは「そうこなくっちゃ」と嬉しそうにグラスを寄せてくる。
カチン、景気のいい音が、新たな門出を祝福してくれた。
◇
――そして、一ヶ月後、三月初旬。
月末で退職した私は、どうにか有給をもぎ取ったみゆきとともに、シンガポールのセントラルエリアにある、ホテル『グランツ・ハピネス』にやってきた。
イベント参加のみのツアーのため、一泊三日という弾丸旅行になってしまったけれど、みゆきとの旅行は久々だ。目的を除けば、私は眠れないほど楽しみだった。
「……うわぁ、テレビで見ていた以上だ。まさか、本当にグランツに来られるなんて……。別世界だね」
「うんうん、セレブって感じ。圧倒されるわね」
ラグジュアリーホテルならではの格式の高いエレガントなロビーには、オープン前にもかかわらず人がちらほら見える。私たちみたいなイベント参加者や関係者だろうか。
入口のパンフレットによると、五十階建てのホテル内にハイブランドショップ、高級レストラン、リゾートプール。それだけでなく、高層階には新設された映画館や政府公認のカジノまであるらしい。
日本では考えられない、壮大なスケールに胸が躍る。海外旅行や出張は何度も経験したけれど、こんなにラグジュアリーなホテルは初めてだ。
「こんな豪華な旅行、本当にいいのかな」
「いいのよ。陵介も私も咲笑が来てくれて、本当に助かってるんだから」
夢心地で赤い絨毯を踏みしめる私を見て、お嬢様のみゆきは「まだ言ってるの」とからかう。一般人の私からすれば大事なのに。
結局のところ、陵介くんの厚意によって、旅費や参加費をすべておごってもらうことになった。
さすがに高額なので、後日みゆきと三人で食事した席で費用を支払おうとしたのだけれど『これくらい気にしないでよ。咲笑ちゃんに参加してもらって助かってるんだ』なんて言って頑なに受け取ってくれなかった。
それどころか『新しい出会いを見つけておいで』なんて気遣ってくれたのだ。
陵介くんには本当に頭が上がらない。
新しい出会い……か。
ふと、退職の日まで一言も話すことのなかった、幸せそうなトモキの横顔が頭をよぎる。
過去が霞むくらいの、素敵な出会いがあるといいんだけれど――
◇
午後三時。早めにチェックインを済ませ、洗練されたホテリエに部屋まで案内してもらう。
あてがわれたツインルームは、シンガポールの美しい夜景を連想させる、シックなカラーを基調としたエレガントな客室だった。
「暑い! 暑いー!」なんて言いながら、空港でお揃いで購入した軽やかなワンピースに着替える私たち。同じ三月でも日本に比べてこっちはジメジメと蒸し暑い。
お城の一室みたいな客室に興奮したり、持ち寄った私服を見せ合ったり。そんなふうにきゃあきゃあしながら過ごしていると、三十分ほどしてインターホンが鳴った。
「みゆき、咲笑ちゃん、お疲れ様」
約束していた陵介くんだ。チャンギ国際空港に降り立ったときに、『ふたりに渡したいものがある』と連絡をくれていた。
彼は三つ揃いのスーツをきっちり着こなしていたが、目鼻立ちのはっきりした端整な顔には汗が浮かんでいる。
嬉しそうに駆けつけたみゆきが、絶景の見渡せる明るいリビングルームに彼を案内して、三人で大理石のテーブルを囲む。
「時間を取らせてごめんね。今夜のパーティーの受付は、もう俺のほうでさせてもらったから、これを渡しにきたんだ」
陵介くんは急いでいるのか、挨拶も早々にスーツのポケットからクリアのパスケースを取り出して、みゆきと私に手渡した。
なんだろう?
手に取って眺める。首から下げる形のそれには、少し前に自分たちで書いた簡単なプロフィールと、大きなナンバーカードが挟まれている。
――『7』だ。
「陵介くん、この番号は……?」
「その番号でグループ分けしてあるんだ。パーティーでは名刺のようなものだから、忘れずに持ってきてね」
「わかった」と答え、受け取った番号をぼんやり眺める。
なるほど、これでプライバシーが守られるってことか。番号を使えば、名前を読み上げる必要もない。それに、参加者を番号と紐付けることで運営側が管理しやすい。
陵介くんはそれだけ伝えると、「また今夜」と慌ただしく部屋を出て行こうとする。みゆきもサッと立ち上がり、見送りに行く。
今夜か……
やばい。ど、どうしよう。なんだか緊張してきた。
いざこうしてプロフィールカードを前にすると、現実味を帯びてきて、どうしようもなくばっくん、ばっくん心臓が早鐘を打つ。
私、大丈夫かな……
◇
「――咲笑、ガチガチよ? 大丈夫?」
――約三時間後。会場となるリゾートプールそばのラウンジへ向かう最中。クスクス笑いながら、黒のマーメイドドレス姿のみゆきが顔を覗き込んでくる。
「あぁ、うん……。なんか、す、すごく緊張してきた」
お相手が富豪ばかりだからか、今夜のパーティーは正装がマナーらしい。
陵介くんの去ったあとは、ホテル内のエステやショッピングを楽しんで、 うちにあった中で一番お高い、シックなワインレッドのイブニングドレスに着替えた。
予約していたホテル内のスタイリストさんに、素っ気ないボブヘアを巻いてサイドに白の花飾りを乗せてもらって、素朴な顔には華やかなパーティーメイクを施してもらった。
『わぁ! すっごくきれい!』
なんてはしゃいでごまかしていたけれども、会場が近づくにつれて足取りが重くなる。
「大丈夫よ。今まで国際事業部でいろんな国の人とやりとりしてきたんだから。自信持って」
「それは仕事だったし……」
国際事業部の仕事は、T&Yの海外の顧客や支社とのやりとりが主だった。電話対応が多かったけれど、トラブル時には支社に出向くこともあった。だから語学と応対力については自信があるけれども……でも、今回は仕事ではない。みんな出会いを求めているわけで。それも相手は大富豪でしょ? 慣れてない相手と、なにを話せばいいかわからない。
私は外見通り、口下手なのだ……
「とにかく、ほとんどが陵介の知人だから安心して? 婚活パーティーとはいえ無理に話すことはないわ。私も近くにいるから大丈夫」
「うーん……」
自信なさげにうつむいた、その瞬間。
「……おばさんの持ってくるお見合い、したくないんでしょ?」
みゆきが丁寧ながらも鋭い声で一番痛いところを突いてくる。
そうだ! と背筋を伸ばす私。
ここで頑張らないと、母が見合い話を持ってきてしまう。
みゆきに煽られるようにして、私は会場となるリゾートプールそばのラウンジへ足を踏み入れた。
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