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1巻
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歩幅の大きい藤森さんのあとを小走りでちょこまか追いかけ、失敗してもめげない根気強い彼女。業務に身を投じてきた自分に重ねているのだろうか。努力や姿勢は認めるが……よくわからない。
『まぁ……仕事熱心なのは、評価しましょう』
気づいたときには、らしくないことを呟いて、口元が綻んでいた。
國井桜には、その時以来振り回されている気がしてならないと思っていた。
「今回は最高の見合いだと言っただろう。声をかけておいてやるから、期待していろ」
あくまで相手の名を明かすことなく、その日のディスカッションという名の俺の見合い話は終了した。
これまで会長の持ってくる見合いの相手は、プライドが高く高飛車な、一流企業経営者の令嬢ばかりだった。
だから、会長に気づかれないよう相手側と接触し、不相応さや価値観の違いがはっきりするような嘘を並べれば難なく逃れられた。
しかし、相手が國井さんなら、本心を打ち明けて見合いをなかったことにしてもらっても問題ないだろう……
そんな考えに至ったとき、たまたま訪れたカフェで遭遇し、彼女の本心を聞いてしまった。
『私だって、凹むときはあるよ? 情状酌量の余地が欲しいなとか』
『見合いの返事、ちゃんとするのよ?』
見合い相手が彼女だと確定すると同時に、日頃俺に笑顔で接してくれる彼女も、結局、腹の底では俺のことを疎ましく思っているのだと悟った。
はっきりと言っていたわけじゃないのに、そう決めつけるほど、俺は動揺していた。
だから、それをごまかすように、すぐに接触を試みた。
――しかし。
『ゼネラルマネージャーのことが、ずっとずっと好きでした』
……思うように事は運ばなかった。
強く輝く瞳から、彼女の思いがダイレクトに伝わってきた。
心が、身体が、どうしてなのか言うことを聞かなかった。
『私にあとのことを任せるんでしょう? なら私は、この件の判断を國井さんに委ねます』
気づいたときには、彼女の小さな手を掴んで引き止め、自分でも信じられないことを言っていた。
いつも真っ向からぶつかってくる國井桜が、自分との触れ合いを経てどんな答えを出すのかに興味を惹かれ、そんな自分に打ち勝つことができなかった。
『あなたを手籠めにしようと目論んでいるような、とっても悪いやつかもしれないですから』
俺はとんでもない男だな……
――ピロン。
などと振り返っていた、ミーティングルームでのキスから数日後の夜、風呂上がりにスマートフォンが鳴った。
届いたのは会長からのメッセージで、彼女が見合いを了解したことと、すでに取り決めたらしい日時が書かれていた。
――早すぎだろう。
俺が不可思議な感情に振り回されている間に、素直な彼女は早くも答えを出したようだ。
『――忠告はしましたよ』
キスと軽い触れ合いでからかったあと、蕩けた顔で今にも脱力しそうな彼女にそう告げ、ミーティングルームをあとにした。
トマトみたいに赤い顔で、子鹿のようにプルプル震えていた彼女は、しばらくそこを出られる状態ではなかったはずだ。
真っ赤な國井桜を思い返すと、思わず口元が綻びそうになる。
本当に忠告なのか、なんなのか……
――とにかく。どういう心境で会長に連絡したのかわからないが……國井桜が見合いを承諾したことで賽は投げられた。彼女が覚悟を決めたのなら、俺はこの好機を大いに活用させてもらう。
よからぬことを企みながらも、柄にもなく浮ついた気分になるのはなぜだろう。
五年前に腕の中で見たあの笑顔を、もう一度見るのも悪くない――と、一瞬思ってしまったからだろうか。はたまた、もしかして――
……いや、今考えるのは、やめておこう。
明日の仕事の準備をしながらそんな考えに至ったのは、俺だけの秘密だ。
第三章 俺なりに最大限大事にします
突然のキスから一週間後の七月の二週目。
早くもお見合いの日がやってきてしまった。
自宅アパートからバスで数分のラグジュアリーホテルのロビーで、私はひとり高鳴る心臓を華やかな振袖の上から押さえていた。
――どうしよう、ものすごく緊張してきた……
正確には、両親の同席がない、会長を挟んだ『お見合い』という名の引き合わせなのだけれど、待ち合わせ場所にやってきた現在、頭の中はいっぱいいっぱいだった。周囲のにぎわいや、どことなく注がれる視線なんて、目にも耳にも入らない。
『――なら私は、この件の判断を國井さんに委ねます』
まさか、あんなことがあって本当に叶うとは思わなかった。
嶋田さんは本当に私に判断を委ねてくれたようで、今日を迎えることができた。
勝負服には、本日のお店との兼ね合いから、藤と桜がちりばめられた鮮やかな紅色の振袖をチョイスした。
海外でのパーティーの際にも何度か着たことがあり、パール色の絞りの帯揚げと可憐な桜型の帯留めは大のお気に入りだ。長い髪は美容室でふんわりアップにしてもらい、平凡な顔にはいつもよりほんのり華やかなメイクが施されている。
あの日、嶋田さんに『……本当に俺と見合いをしたいのなら、覚悟してきてください』と言われたけれど、まったくもって気持ちがブレることはなかった。
それどころか、むしろ――
そっと、指先を自らの唇に伸ばす。
何度思い出しても蕩けそうになる。
ヤワヤワと食みながらしっとりと交わって。たまに誘うようにくすぐる滑らかな舌は私のよりも少しぬるかった。
頬に優しく触れる骨ばった大きな手のひらに、首筋を這った舌の感触。
彼にすれば私の覚悟を見極めるための脅しのようなものだったのだろうが、とっても甘く優しい触れ合いだった。
抵抗しようと思えば振り払えたし、やめてと言えばすぐにやめてくれただろう。それでも、彼に縋りついていた私の心は、たとえ彼がどんな思惑を秘めていようとも――もう、決まっている。
嶋田さんだって、本気で忠告する気なら、あの場で私を盛大に振って突き放すことができたはずだ。もとより彼は、見合い話をなくすために私を呼び出したのだから。
それをしない彼は、なにかを企んでいるにしても……私を傷つけないようにと気づかってくれる、とっても優しい人だと思う。
その後、決意が揺らがないうちに、会長にメッセージを送った。
【お見合いのお話、謹んでお受けいたします】
見知った間柄なのに、お見合いと言っていいのかはわからないけれども、あの一件はむしろ私の背中を後押しする出来事となったと思う。
もっと……彼のことを知りたい。今まで抑えていた気持ちのたがが外れた。
【ありがとうなぁ! 嬉しいよ。これで私も安心して、墓に入れる!】
大げさに喜ぶ会長に苦笑しながら、バスを降りて、古びたアパートに帰宅したのだった。
そして、その後会長が日取りを決めてくださり、あれよあれよという間にこの日を迎えた。
けれども、会長に黙っていることがある。
それは、〝本当は、嶋田さんは見合いが不本意で一度咎められた〟ことだ。
会長は何度も『嶋田はなにか言ってきたか?』と気づかってくれたから、彼の気持ちを打ち明けるべきなのだろうけれど……。でも、言えない。この話がなくなってしまったら嫌だから。ずるいかもしれないけれど、せっかくのチャンスを逃したくない。
だから、嶋田さんが会長になにも言わないのをいいことに、調子を合わせながら、この一週間、知らないフリをしてきた。
「國井さん、遅くなってすまないね……」
なんて思い巡らせていると、よく知る声が耳に飛びこんできた。勢いよくソファーからピョコッと立ちあがる私。
――来た……っ!
声のほうを振り向くと、カジュアルスーツの鷲宮会長と嶋田さんがロビーに入ってきたところだ。会長の送迎は先日、嶋田さんが申し出てくれた。
高齢とは思えないほど若々しくベージュのスーツを着こなす会長。その隣に視線を移した瞬間、眩しすぎてくらりとした。
もちろん休日に会うのだから妄想……いや、想像はしていた! していたけれど、改めて目の前で見るとガツンとくるもので……心臓がバクバク高鳴る。
仕事のときよりもスタイリッシュなダークグレーのセットアップスーツ。インナーには上品な白のカットソーをチョイスしていて、眼鏡は黒縁からシルバーのアンダーリムに変わっている。そして、いつもきちっと固められている黒髪は、サラサラと額を流れていて――いつもより柔らかく、どことなく隙のある佇まいだ。
……休日仕様の彼にお目にかかれる日が来るなんて。素敵すぎて死にそう。
ちょっとばかり放心状態で、やってきたふたりにいつもの所作で腰を折る。
「会長、ゼネラルマネージャー、お疲れ様です」
「そう畏まらんでくれ。今の君は秘書ではないんだから。着物、とても似合っているよ。今日の店に合わせてくれたんだね」
「ありがとうございます」
にこやかに私を気づかう会長の斜め後ろから「お疲れ様です」と単調な挨拶が聞こえると同時に、女将さんと思われる和装姿の女性がこちらにやってきた。
ホテルに併設された、普通であれば予約を取れるのは一年先という日本庭園の美しい高級料亭を会長自ら手配してくれた。
接待などで何度か予約の手続きをしたことがあるけれど、食べたことはない。まさか仕事以外で、こんなセレブ御用達の料亭に来るとは思わなかった。
会長と女将さんのあとに続いたとき、スッ……と隣に大きな影が並び、サラリと揺れる黒髪が視界に入る。
「覚悟、できたんですね」
私にしか聞こえないくらいの小さな声。視線を上げると嶋田さんの涼しげな美貌が私を覗きこんでいた。
「どうなっても、知りませんよ」
彼は突然そう断言すると、私が言葉を口にする前にスーツの腕を、帯の上から私の腰に回した。
「……え? ――ひゃ……」
わわっ、いきなりなに……? なんで、くっつくの……?
目で訴えると、嶋田さんは意地悪そうに唇の端を吊りあげた。
「エスコートです。せっかく國井さんが、私のために綺麗に着飾ってきてくださったのです。これはマナーでしょう」
綺麗って言ってもらえた……じゃなくて。
「え、えすこーと」
そうなの……? 嶋田さんにとって不本意なお見合いなのに、いいのだろうか?
「TPOというものがありますからね」
なんだかこっちに気づいた会長が目を剥いているような気もするけれど、有無を言わさず腰の手に力が籠もり、くいっと引き寄せられる。
着物越しに彼の体温を感じて一気に心拍数が上昇する。
「あ、ありがとうございます……」
素直に笑顔でお礼を告げると、返事の代わりにかすかに眼鏡の奥の目元が優しく緩む。ほかの人にはわからないような些細な変化だけど、ずっと彼を見てきた私にはわかる。仕事では見たことのない、柔らかくて優しげな表情だった。
鹿威しの音を聞きながら趣あるお座敷の席につくと、次々と料理が運ばれてきた。
先附の煮穴子と野菜のテリーヌからはじまり、前菜の鉄皮の煮凝りに、新鮮な魚の乗ったお造り。高級食材をメインに使った、彩り豊かな見目麗しい料理だった。
特に畏まった紹介をすることもなく、私たちはいつもと変わらない雰囲気で運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
「――ここの花板の料理はとても美味しくてね。鷲宮家にもよく出張に来てもらうんだ。ふたりの口にも合うといいんだが」
会長が和牛ローストを切り分けながら微笑む。先ほどからそれとなく隣に座る私と、向かいの嶋田さんに話を振り、笑いを交えながらうまく話を引き出してくれる。財界でも有名な会長のコミュニケーション力はさすがだ。
「とても美味しいです」
舌も喉も蕩ける美味しさで、自然と笑顔になる。
嶋田さんは、相槌を打ちながら綺麗な所作で食事をしている。
ポーカーフェイスは、なにを考えているのかちっとも読めないけれど、いつもよりも穏やかな表情の気がする。
「ならよかった……。しかし、ふたりが揃うと、あのときのことを思い出すなぁ」
会長がなにやらしみじみと頷き、気になって食事の手を止めた。
「……え?」
「ほら、君がまだここに配属されたばかりの、無理がたたって倒れたときのことだよ」
前方からも、そっと顔を上げる気配がした。
すぐになんのことなのかわかった。五年前……私が彼に恋をしたときのことだって。
「あのとき、私はふたりに似たようなものを感じることに気づいたんだ。ふたりは、いつも仕事熱心で、業務だろうと時間外だろうと、当たり前のように私を気にかけてくれる。これはいくら秘書でも、なかなかできることではない」
会長はそこで一度止めると、感慨深そうに微笑み、そしてまた続ける。
「性格や雰囲気は正反対だが、君たちが互いにないものを持っているのが興味深いな。長いこと生きてきたが、人間が成長していく上で、そういう相手から受ける刺激は大切だ。まぁ、無理にどうこうしようとは思っていないが……ふたりならいい関係を築けるんじゃないかと、今日は来てもらったんだ」
会長はそう言って目尻を下げると、熱いお茶をすすった。
身に余るほど嬉しい言葉だった。
私が嶋田さんに恋に落ちた日、会長はそんな風に思ってくれていた。想像もしていなくて、胸の奥が熱くなった。嶋田さんも黙って会長を見ていた。
……でも、忘れてはいけない。
会長は嬉しいことを言ってくれるけれど、嶋田さんにとって、これは不本意なことなのだ。
デザートのお皿が下げられ食後の緑茶がやってくる。それを口に運びながら考えた。
冷静になってみると、私が出さなければならない返事は明らかだ。あと二週間ちょっとすれば、彼は本社に戻ってくる。告白以来とてつもなく気まずいのに、これ以上気まずくなるのは避けたい。立場柄、嶋田さんからは言いにくいだろう。
「あの、会――」
「――会長」
しかし、意を決した私の声は、低く艶のある声に掻き消された。
ぐるんと首を動かすと、いつの間にか緑茶を飲み終えた嶋田さんが、セルフレームの眼鏡をキラリと光らせ、会長をまっすぐに見据えていた。
「なんだ? 嶋田」
そして、キョトンとする私と会長をよそに、彼の薄い唇は弧を描いた。
「お言葉ですが、國井さんと私のことを心配する必要はありませんよ」
わけがわからず、仲良く首をかしげる会長と私。
「――と、言うと?」
「会長のお察し通り、ということですよ。あんな話をされて、見合い相手が誰か特定できないほど鈍感ではありませんからね……」
嶋田さんはまたまたそんなよくわからないことを薄く笑いながら言うと、立ちあがってなぜか私のほうへやってくる。
え? な、なに……?
「すでに話はついています」
「わぁっ」
次の瞬間、ぐいっと腕が引かれ、飛びこむように彼の胸に身を寄せる。彼は私の肩を抱き寄せると、とんでもないことを口にした。
「会長のおっしゃるように、私も、國井さんなら仕事でもプライベートでも私を理解し、今後の人生を支えてくれるのではと思いました」
……へ?
「なのでつい先日、結婚を前提とした交際を申しこみ、すでに彼女から承諾をいただいております」
――ど、どういうこと⁉
話についていけず、頭ふたつ分高い位置にある涼しげな美貌を窺い見ると、彼は笑顔でこちらを見下ろしていた。
――ひっ!
「ですよね? 桜さん」
はじめての名前呼びにときめく間もなく、綺麗な笑みの嶋田さんの背後に、ドス黒いオーラが渦巻いているのに気づいてしまった。まるで、本物の悪魔のように背中に羽が見える。
『どうなっても、知りませんよ』
やばい。覚悟って、このことだったんだ……! こ、これは、頷かないと大変なことになりそうな雰囲気が……
嶋田さんが発する圧に押されて、首がもげそうな勢いで「そんな気がしてきました」とブンブン首を上下に振る。
「なんと……! いつの間にそんな仲になっていたのか!」
会長には、彼のまとうこの暗黒のモヤモヤは見えないらしい。乙女のように両手を組んで、パァッと顔を輝かせてしまう。
「なら、私はただの邪魔者なのか!」
「はい、そうですね」
嘘でしょ――⁉
驚いて飛びあがりそうな私の頭に、大きな手がぽふっと乗って押し留める。
キュンとしかけたけれども、そうじゃなくて。
「なら邪魔者はとっとと退散して、若いふたりの時間にしてやったほうがよさそうだな」
「ありがとうございます、助かります」
え、ちょっと……! 早すぎて、展開についていけない……っ!
しかし、戸惑う私を他所に、ふたりは予定していたかのようにトントンと事を取り決めていく。
そして瞬く間に「家の者を呼ぶから見送りはいらない! 仲良くな~」と、会長はまるで一陣の風のように笑顔で料亭をあとにしてしまった。
あんなに幸せそうな顔をされたら、ヒラヒラと手を振って笑顔で見送るしかない。それでもって、彼の大きな手はまだ私の肩を抱いていたりなんかしていて……ど、どうしよう……
「え、えっと……」
いつの間に、そんな関係になったのだろう。確かに見合いの判断とやらは問われたけれど……結婚の約束なんていつ? もしかして、あのキスが、そうなの? っていうか、さっきのエスコートも、もしかして、このために……?
ギギギ……と恐る恐る首を動かして、麗しいお顔に視線を移すと――
「さて、場所を移して大切なお話をしましょうか……桜さん」
セルフレームの眼鏡をぐいっと中指で押しあげた秘書室の悪魔が、怪しげに微笑んでいた。
◇
料亭をあとにし、すぐさま嶋田さんの車に連行された。
嫌な予感がしてソワソワしていると、十分ほど揺られて到着したのは、港区の深緑に包まれたオシャレな低層マンションだった。
「座っていてください、落ちているものはその辺によけて構わないので」
「は、はい……」
さりげなく、家に連れこまれてしまった……
マンションには、二十四時間対応のコンシェルジュや、ジムやカフェ、ラウンジなどの共用施設が備わっていた。おまけにホールディングス本社と、フーズの真ん中に位置していて、私には手が届かない高級物件だ。
私は勧められた革張りのソファーにおそるおそる座り、シックな調度品で揃えられたスイートルームのようなリビングを見渡す。
空調が完備されていて、掃除も行き届いている。廊下側のふたつの扉は書斎やゲストルームなどで、奥が寝室とかだろうか。
あらゆるところに洋書や文庫本が積まれているが、男性のひとり暮らしにしてはとても整理整頓されている。
読書好きなのかな……?
「――片づいていないので、あまりじろじろ見ないでもらえると助かります」
周囲を見回していると、戻ってきた嶋田さんが、「どうぞ」とコーヒーの入ったカップを木目調のローテーブルに置き、少し離れて私の隣に腰をかけた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ。急で申し訳ないですが、人に聞かれたら困る話なのでうちに連れてきました」
「人に聞かれたら困るお話……ですか?」
おそるおそる問いかけると、嶋田さんは何度かコーヒーを傾けたあと、席を立ち窓際のサイドボードの引き出しをゴソゴソと探る。
そして、間もなくして大きめの封筒を手に戻ってきた。
「協力をお願いしたいことがありまして」
その行動をぼんやりと目で追っていた私に、嶋田さんは封筒から出した一枚の紙を差し出す。
茶色の縁どりのそれを見て、息が止まった。
「こ、ここ、婚姻届――⁉」
咄嗟に手元が狂い、ソーサーに戻そうとしていたカップがカチャン! と音を立てる。
それもよく見ると、すでに『夫になる人』の欄は、パソコンで打ちこんだような綺麗な字で埋められているではないか。
「これは……」
婚姻届をテーブルに置き、着物の袖をぶるぶる震わせながら、隣のポーカーフェイスに詳細を尋ねる。
「まどろっこしいのは嫌いなので、てっとり早く言いましょうか――」
すると彼は、咳払いをしてからとんでもないことを言った。
「会長の見合い話を回避するために、短期間でいいので、私と婚姻関係を結んでもらいたいんです」
「回避のためって」
「はい、偽装結婚ということです」
いよいよ声が出なくなった。
『――俺と見合いをしたいのなら、覚悟してきてください』
そう言っていた本当の目的は、コレを持ちかけるためだったの……!?
予想のななめ上を行く展開に目を白黒させていると、横から伸びてきた長い指が私の顎をすくい、視線を合わせられる。
「覚悟……できたんですよね?」
親指でゆっくりと唇をなぞられた。
「あんな手ひどい忠告をされても、私と見合いをしたいと思ったから、来てくれた。そうでしょう?」
唇をふにふにと弄ばれ、赤いグロスを拭われる感覚にゾクゾクする。
認めざるを得ない状況に、言葉に詰まった。
確かにそうだけれど~~っ!
『まぁ……仕事熱心なのは、評価しましょう』
気づいたときには、らしくないことを呟いて、口元が綻んでいた。
國井桜には、その時以来振り回されている気がしてならないと思っていた。
「今回は最高の見合いだと言っただろう。声をかけておいてやるから、期待していろ」
あくまで相手の名を明かすことなく、その日のディスカッションという名の俺の見合い話は終了した。
これまで会長の持ってくる見合いの相手は、プライドが高く高飛車な、一流企業経営者の令嬢ばかりだった。
だから、会長に気づかれないよう相手側と接触し、不相応さや価値観の違いがはっきりするような嘘を並べれば難なく逃れられた。
しかし、相手が國井さんなら、本心を打ち明けて見合いをなかったことにしてもらっても問題ないだろう……
そんな考えに至ったとき、たまたま訪れたカフェで遭遇し、彼女の本心を聞いてしまった。
『私だって、凹むときはあるよ? 情状酌量の余地が欲しいなとか』
『見合いの返事、ちゃんとするのよ?』
見合い相手が彼女だと確定すると同時に、日頃俺に笑顔で接してくれる彼女も、結局、腹の底では俺のことを疎ましく思っているのだと悟った。
はっきりと言っていたわけじゃないのに、そう決めつけるほど、俺は動揺していた。
だから、それをごまかすように、すぐに接触を試みた。
――しかし。
『ゼネラルマネージャーのことが、ずっとずっと好きでした』
……思うように事は運ばなかった。
強く輝く瞳から、彼女の思いがダイレクトに伝わってきた。
心が、身体が、どうしてなのか言うことを聞かなかった。
『私にあとのことを任せるんでしょう? なら私は、この件の判断を國井さんに委ねます』
気づいたときには、彼女の小さな手を掴んで引き止め、自分でも信じられないことを言っていた。
いつも真っ向からぶつかってくる國井桜が、自分との触れ合いを経てどんな答えを出すのかに興味を惹かれ、そんな自分に打ち勝つことができなかった。
『あなたを手籠めにしようと目論んでいるような、とっても悪いやつかもしれないですから』
俺はとんでもない男だな……
――ピロン。
などと振り返っていた、ミーティングルームでのキスから数日後の夜、風呂上がりにスマートフォンが鳴った。
届いたのは会長からのメッセージで、彼女が見合いを了解したことと、すでに取り決めたらしい日時が書かれていた。
――早すぎだろう。
俺が不可思議な感情に振り回されている間に、素直な彼女は早くも答えを出したようだ。
『――忠告はしましたよ』
キスと軽い触れ合いでからかったあと、蕩けた顔で今にも脱力しそうな彼女にそう告げ、ミーティングルームをあとにした。
トマトみたいに赤い顔で、子鹿のようにプルプル震えていた彼女は、しばらくそこを出られる状態ではなかったはずだ。
真っ赤な國井桜を思い返すと、思わず口元が綻びそうになる。
本当に忠告なのか、なんなのか……
――とにかく。どういう心境で会長に連絡したのかわからないが……國井桜が見合いを承諾したことで賽は投げられた。彼女が覚悟を決めたのなら、俺はこの好機を大いに活用させてもらう。
よからぬことを企みながらも、柄にもなく浮ついた気分になるのはなぜだろう。
五年前に腕の中で見たあの笑顔を、もう一度見るのも悪くない――と、一瞬思ってしまったからだろうか。はたまた、もしかして――
……いや、今考えるのは、やめておこう。
明日の仕事の準備をしながらそんな考えに至ったのは、俺だけの秘密だ。
第三章 俺なりに最大限大事にします
突然のキスから一週間後の七月の二週目。
早くもお見合いの日がやってきてしまった。
自宅アパートからバスで数分のラグジュアリーホテルのロビーで、私はひとり高鳴る心臓を華やかな振袖の上から押さえていた。
――どうしよう、ものすごく緊張してきた……
正確には、両親の同席がない、会長を挟んだ『お見合い』という名の引き合わせなのだけれど、待ち合わせ場所にやってきた現在、頭の中はいっぱいいっぱいだった。周囲のにぎわいや、どことなく注がれる視線なんて、目にも耳にも入らない。
『――なら私は、この件の判断を國井さんに委ねます』
まさか、あんなことがあって本当に叶うとは思わなかった。
嶋田さんは本当に私に判断を委ねてくれたようで、今日を迎えることができた。
勝負服には、本日のお店との兼ね合いから、藤と桜がちりばめられた鮮やかな紅色の振袖をチョイスした。
海外でのパーティーの際にも何度か着たことがあり、パール色の絞りの帯揚げと可憐な桜型の帯留めは大のお気に入りだ。長い髪は美容室でふんわりアップにしてもらい、平凡な顔にはいつもよりほんのり華やかなメイクが施されている。
あの日、嶋田さんに『……本当に俺と見合いをしたいのなら、覚悟してきてください』と言われたけれど、まったくもって気持ちがブレることはなかった。
それどころか、むしろ――
そっと、指先を自らの唇に伸ばす。
何度思い出しても蕩けそうになる。
ヤワヤワと食みながらしっとりと交わって。たまに誘うようにくすぐる滑らかな舌は私のよりも少しぬるかった。
頬に優しく触れる骨ばった大きな手のひらに、首筋を這った舌の感触。
彼にすれば私の覚悟を見極めるための脅しのようなものだったのだろうが、とっても甘く優しい触れ合いだった。
抵抗しようと思えば振り払えたし、やめてと言えばすぐにやめてくれただろう。それでも、彼に縋りついていた私の心は、たとえ彼がどんな思惑を秘めていようとも――もう、決まっている。
嶋田さんだって、本気で忠告する気なら、あの場で私を盛大に振って突き放すことができたはずだ。もとより彼は、見合い話をなくすために私を呼び出したのだから。
それをしない彼は、なにかを企んでいるにしても……私を傷つけないようにと気づかってくれる、とっても優しい人だと思う。
その後、決意が揺らがないうちに、会長にメッセージを送った。
【お見合いのお話、謹んでお受けいたします】
見知った間柄なのに、お見合いと言っていいのかはわからないけれども、あの一件はむしろ私の背中を後押しする出来事となったと思う。
もっと……彼のことを知りたい。今まで抑えていた気持ちのたがが外れた。
【ありがとうなぁ! 嬉しいよ。これで私も安心して、墓に入れる!】
大げさに喜ぶ会長に苦笑しながら、バスを降りて、古びたアパートに帰宅したのだった。
そして、その後会長が日取りを決めてくださり、あれよあれよという間にこの日を迎えた。
けれども、会長に黙っていることがある。
それは、〝本当は、嶋田さんは見合いが不本意で一度咎められた〟ことだ。
会長は何度も『嶋田はなにか言ってきたか?』と気づかってくれたから、彼の気持ちを打ち明けるべきなのだろうけれど……。でも、言えない。この話がなくなってしまったら嫌だから。ずるいかもしれないけれど、せっかくのチャンスを逃したくない。
だから、嶋田さんが会長になにも言わないのをいいことに、調子を合わせながら、この一週間、知らないフリをしてきた。
「國井さん、遅くなってすまないね……」
なんて思い巡らせていると、よく知る声が耳に飛びこんできた。勢いよくソファーからピョコッと立ちあがる私。
――来た……っ!
声のほうを振り向くと、カジュアルスーツの鷲宮会長と嶋田さんがロビーに入ってきたところだ。会長の送迎は先日、嶋田さんが申し出てくれた。
高齢とは思えないほど若々しくベージュのスーツを着こなす会長。その隣に視線を移した瞬間、眩しすぎてくらりとした。
もちろん休日に会うのだから妄想……いや、想像はしていた! していたけれど、改めて目の前で見るとガツンとくるもので……心臓がバクバク高鳴る。
仕事のときよりもスタイリッシュなダークグレーのセットアップスーツ。インナーには上品な白のカットソーをチョイスしていて、眼鏡は黒縁からシルバーのアンダーリムに変わっている。そして、いつもきちっと固められている黒髪は、サラサラと額を流れていて――いつもより柔らかく、どことなく隙のある佇まいだ。
……休日仕様の彼にお目にかかれる日が来るなんて。素敵すぎて死にそう。
ちょっとばかり放心状態で、やってきたふたりにいつもの所作で腰を折る。
「会長、ゼネラルマネージャー、お疲れ様です」
「そう畏まらんでくれ。今の君は秘書ではないんだから。着物、とても似合っているよ。今日の店に合わせてくれたんだね」
「ありがとうございます」
にこやかに私を気づかう会長の斜め後ろから「お疲れ様です」と単調な挨拶が聞こえると同時に、女将さんと思われる和装姿の女性がこちらにやってきた。
ホテルに併設された、普通であれば予約を取れるのは一年先という日本庭園の美しい高級料亭を会長自ら手配してくれた。
接待などで何度か予約の手続きをしたことがあるけれど、食べたことはない。まさか仕事以外で、こんなセレブ御用達の料亭に来るとは思わなかった。
会長と女将さんのあとに続いたとき、スッ……と隣に大きな影が並び、サラリと揺れる黒髪が視界に入る。
「覚悟、できたんですね」
私にしか聞こえないくらいの小さな声。視線を上げると嶋田さんの涼しげな美貌が私を覗きこんでいた。
「どうなっても、知りませんよ」
彼は突然そう断言すると、私が言葉を口にする前にスーツの腕を、帯の上から私の腰に回した。
「……え? ――ひゃ……」
わわっ、いきなりなに……? なんで、くっつくの……?
目で訴えると、嶋田さんは意地悪そうに唇の端を吊りあげた。
「エスコートです。せっかく國井さんが、私のために綺麗に着飾ってきてくださったのです。これはマナーでしょう」
綺麗って言ってもらえた……じゃなくて。
「え、えすこーと」
そうなの……? 嶋田さんにとって不本意なお見合いなのに、いいのだろうか?
「TPOというものがありますからね」
なんだかこっちに気づいた会長が目を剥いているような気もするけれど、有無を言わさず腰の手に力が籠もり、くいっと引き寄せられる。
着物越しに彼の体温を感じて一気に心拍数が上昇する。
「あ、ありがとうございます……」
素直に笑顔でお礼を告げると、返事の代わりにかすかに眼鏡の奥の目元が優しく緩む。ほかの人にはわからないような些細な変化だけど、ずっと彼を見てきた私にはわかる。仕事では見たことのない、柔らかくて優しげな表情だった。
鹿威しの音を聞きながら趣あるお座敷の席につくと、次々と料理が運ばれてきた。
先附の煮穴子と野菜のテリーヌからはじまり、前菜の鉄皮の煮凝りに、新鮮な魚の乗ったお造り。高級食材をメインに使った、彩り豊かな見目麗しい料理だった。
特に畏まった紹介をすることもなく、私たちはいつもと変わらない雰囲気で運ばれてくる料理に舌鼓を打った。
「――ここの花板の料理はとても美味しくてね。鷲宮家にもよく出張に来てもらうんだ。ふたりの口にも合うといいんだが」
会長が和牛ローストを切り分けながら微笑む。先ほどからそれとなく隣に座る私と、向かいの嶋田さんに話を振り、笑いを交えながらうまく話を引き出してくれる。財界でも有名な会長のコミュニケーション力はさすがだ。
「とても美味しいです」
舌も喉も蕩ける美味しさで、自然と笑顔になる。
嶋田さんは、相槌を打ちながら綺麗な所作で食事をしている。
ポーカーフェイスは、なにを考えているのかちっとも読めないけれど、いつもよりも穏やかな表情の気がする。
「ならよかった……。しかし、ふたりが揃うと、あのときのことを思い出すなぁ」
会長がなにやらしみじみと頷き、気になって食事の手を止めた。
「……え?」
「ほら、君がまだここに配属されたばかりの、無理がたたって倒れたときのことだよ」
前方からも、そっと顔を上げる気配がした。
すぐになんのことなのかわかった。五年前……私が彼に恋をしたときのことだって。
「あのとき、私はふたりに似たようなものを感じることに気づいたんだ。ふたりは、いつも仕事熱心で、業務だろうと時間外だろうと、当たり前のように私を気にかけてくれる。これはいくら秘書でも、なかなかできることではない」
会長はそこで一度止めると、感慨深そうに微笑み、そしてまた続ける。
「性格や雰囲気は正反対だが、君たちが互いにないものを持っているのが興味深いな。長いこと生きてきたが、人間が成長していく上で、そういう相手から受ける刺激は大切だ。まぁ、無理にどうこうしようとは思っていないが……ふたりならいい関係を築けるんじゃないかと、今日は来てもらったんだ」
会長はそう言って目尻を下げると、熱いお茶をすすった。
身に余るほど嬉しい言葉だった。
私が嶋田さんに恋に落ちた日、会長はそんな風に思ってくれていた。想像もしていなくて、胸の奥が熱くなった。嶋田さんも黙って会長を見ていた。
……でも、忘れてはいけない。
会長は嬉しいことを言ってくれるけれど、嶋田さんにとって、これは不本意なことなのだ。
デザートのお皿が下げられ食後の緑茶がやってくる。それを口に運びながら考えた。
冷静になってみると、私が出さなければならない返事は明らかだ。あと二週間ちょっとすれば、彼は本社に戻ってくる。告白以来とてつもなく気まずいのに、これ以上気まずくなるのは避けたい。立場柄、嶋田さんからは言いにくいだろう。
「あの、会――」
「――会長」
しかし、意を決した私の声は、低く艶のある声に掻き消された。
ぐるんと首を動かすと、いつの間にか緑茶を飲み終えた嶋田さんが、セルフレームの眼鏡をキラリと光らせ、会長をまっすぐに見据えていた。
「なんだ? 嶋田」
そして、キョトンとする私と会長をよそに、彼の薄い唇は弧を描いた。
「お言葉ですが、國井さんと私のことを心配する必要はありませんよ」
わけがわからず、仲良く首をかしげる会長と私。
「――と、言うと?」
「会長のお察し通り、ということですよ。あんな話をされて、見合い相手が誰か特定できないほど鈍感ではありませんからね……」
嶋田さんはまたまたそんなよくわからないことを薄く笑いながら言うと、立ちあがってなぜか私のほうへやってくる。
え? な、なに……?
「すでに話はついています」
「わぁっ」
次の瞬間、ぐいっと腕が引かれ、飛びこむように彼の胸に身を寄せる。彼は私の肩を抱き寄せると、とんでもないことを口にした。
「会長のおっしゃるように、私も、國井さんなら仕事でもプライベートでも私を理解し、今後の人生を支えてくれるのではと思いました」
……へ?
「なのでつい先日、結婚を前提とした交際を申しこみ、すでに彼女から承諾をいただいております」
――ど、どういうこと⁉
話についていけず、頭ふたつ分高い位置にある涼しげな美貌を窺い見ると、彼は笑顔でこちらを見下ろしていた。
――ひっ!
「ですよね? 桜さん」
はじめての名前呼びにときめく間もなく、綺麗な笑みの嶋田さんの背後に、ドス黒いオーラが渦巻いているのに気づいてしまった。まるで、本物の悪魔のように背中に羽が見える。
『どうなっても、知りませんよ』
やばい。覚悟って、このことだったんだ……! こ、これは、頷かないと大変なことになりそうな雰囲気が……
嶋田さんが発する圧に押されて、首がもげそうな勢いで「そんな気がしてきました」とブンブン首を上下に振る。
「なんと……! いつの間にそんな仲になっていたのか!」
会長には、彼のまとうこの暗黒のモヤモヤは見えないらしい。乙女のように両手を組んで、パァッと顔を輝かせてしまう。
「なら、私はただの邪魔者なのか!」
「はい、そうですね」
嘘でしょ――⁉
驚いて飛びあがりそうな私の頭に、大きな手がぽふっと乗って押し留める。
キュンとしかけたけれども、そうじゃなくて。
「なら邪魔者はとっとと退散して、若いふたりの時間にしてやったほうがよさそうだな」
「ありがとうございます、助かります」
え、ちょっと……! 早すぎて、展開についていけない……っ!
しかし、戸惑う私を他所に、ふたりは予定していたかのようにトントンと事を取り決めていく。
そして瞬く間に「家の者を呼ぶから見送りはいらない! 仲良くな~」と、会長はまるで一陣の風のように笑顔で料亭をあとにしてしまった。
あんなに幸せそうな顔をされたら、ヒラヒラと手を振って笑顔で見送るしかない。それでもって、彼の大きな手はまだ私の肩を抱いていたりなんかしていて……ど、どうしよう……
「え、えっと……」
いつの間に、そんな関係になったのだろう。確かに見合いの判断とやらは問われたけれど……結婚の約束なんていつ? もしかして、あのキスが、そうなの? っていうか、さっきのエスコートも、もしかして、このために……?
ギギギ……と恐る恐る首を動かして、麗しいお顔に視線を移すと――
「さて、場所を移して大切なお話をしましょうか……桜さん」
セルフレームの眼鏡をぐいっと中指で押しあげた秘書室の悪魔が、怪しげに微笑んでいた。
◇
料亭をあとにし、すぐさま嶋田さんの車に連行された。
嫌な予感がしてソワソワしていると、十分ほど揺られて到着したのは、港区の深緑に包まれたオシャレな低層マンションだった。
「座っていてください、落ちているものはその辺によけて構わないので」
「は、はい……」
さりげなく、家に連れこまれてしまった……
マンションには、二十四時間対応のコンシェルジュや、ジムやカフェ、ラウンジなどの共用施設が備わっていた。おまけにホールディングス本社と、フーズの真ん中に位置していて、私には手が届かない高級物件だ。
私は勧められた革張りのソファーにおそるおそる座り、シックな調度品で揃えられたスイートルームのようなリビングを見渡す。
空調が完備されていて、掃除も行き届いている。廊下側のふたつの扉は書斎やゲストルームなどで、奥が寝室とかだろうか。
あらゆるところに洋書や文庫本が積まれているが、男性のひとり暮らしにしてはとても整理整頓されている。
読書好きなのかな……?
「――片づいていないので、あまりじろじろ見ないでもらえると助かります」
周囲を見回していると、戻ってきた嶋田さんが、「どうぞ」とコーヒーの入ったカップを木目調のローテーブルに置き、少し離れて私の隣に腰をかけた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ。急で申し訳ないですが、人に聞かれたら困る話なのでうちに連れてきました」
「人に聞かれたら困るお話……ですか?」
おそるおそる問いかけると、嶋田さんは何度かコーヒーを傾けたあと、席を立ち窓際のサイドボードの引き出しをゴソゴソと探る。
そして、間もなくして大きめの封筒を手に戻ってきた。
「協力をお願いしたいことがありまして」
その行動をぼんやりと目で追っていた私に、嶋田さんは封筒から出した一枚の紙を差し出す。
茶色の縁どりのそれを見て、息が止まった。
「こ、ここ、婚姻届――⁉」
咄嗟に手元が狂い、ソーサーに戻そうとしていたカップがカチャン! と音を立てる。
それもよく見ると、すでに『夫になる人』の欄は、パソコンで打ちこんだような綺麗な字で埋められているではないか。
「これは……」
婚姻届をテーブルに置き、着物の袖をぶるぶる震わせながら、隣のポーカーフェイスに詳細を尋ねる。
「まどろっこしいのは嫌いなので、てっとり早く言いましょうか――」
すると彼は、咳払いをしてからとんでもないことを言った。
「会長の見合い話を回避するために、短期間でいいので、私と婚姻関係を結んでもらいたいんです」
「回避のためって」
「はい、偽装結婚ということです」
いよいよ声が出なくなった。
『――俺と見合いをしたいのなら、覚悟してきてください』
そう言っていた本当の目的は、コレを持ちかけるためだったの……!?
予想のななめ上を行く展開に目を白黒させていると、横から伸びてきた長い指が私の顎をすくい、視線を合わせられる。
「覚悟……できたんですよね?」
親指でゆっくりと唇をなぞられた。
「あんな手ひどい忠告をされても、私と見合いをしたいと思ったから、来てくれた。そうでしょう?」
唇をふにふにと弄ばれ、赤いグロスを拭われる感覚にゾクゾクする。
認めざるを得ない状況に、言葉に詰まった。
確かにそうだけれど~~っ!
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