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第2部 恋人になってからのお話

第82話 イメージトレーニング

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「……」

 翌日の日曜日。午前10時というおやっさんに言われた通りの時刻に、林太郎はボクシングジムへとやって来た。

「おお、林太郎か。よく来たな。ついてきてくれ」

 おやっさんは林太郎を、普段は商談や面談のために使う小さな会議スペースに連れて行く。そこにはWi-Fiで繋がったタブレットが置いてあった。

「最近はアマチュアボクシングでも試合の動画がオンラインで残ってるから良い世の中になったもんだよなぁ。
 昔は探して見つけ出すだけでも何日、時には数週間もかかった事だってあったんだぞ?」

 おやっさんは動画サイトにアップロードされていた動画を見せる。そこには林太郎のトラウマの原因となった人物が映っていた。

「林太郎、お前『大谷おおたに つばさ』にひどくやられたのをいまだに引きずってるんだろ? それを無くすトレーニングだ」
「トレーニングって、動画を見るだけですか?」
「ああ。流し見じゃなくてきちんと頭を使って見ないとトレーニングにはならないぞ。気合い入れてけ」
「は、はい」

 動画の再生が始まった。大谷は大学2年生でアマチュアボクシングでは3勝というそれなりの成績を残しており、今回のプロテスト合格で転向したそうだ。
 彼のアマチュア時代の動画が残っておりそれで相手の研究というわけだ。



 動画を見始めて20分ほどが経ち、林太郎が一言つぶやいた。

「なんか大谷は右フックが得意っぽいですね。ダウンも大抵右フックで取ってる感じがしますね」
「ああそうだな、お前もその右フックにやられたよ。今でも覚えてるぜ。完璧に視覚外からの一撃だったから反応できなかっただろ?」
「……」

 さらに見続ける事しばらく……大谷の勝利で決着がついた試合では彼が勝利の決定打となる右フックを含めたコンビネーションを繰り出した瞬間!!

「!!」

 不意に林太郎の身体がピクリと動き、避けようとする動きを見せる。

「おおっ! いい感じだな。前は反応できなかったけど今回は反応出来てるみたいだな。1歩前進だな、おめでとう」

 おやっさんはやや過剰気味に教え子を褒める。こういう時は褒めて伸ばすのが有効なのをトレーナー生活で体得していたのだ。
 もうしばらく動画を見続けていると、林太郎はあることに気づいた。

(なんとなく次にパンチが来るタイミングが見えてきたような……?)

 動画再生を一時停止させて改めて大谷を見ると「あ、今打つと思います」とおやっさんに告げる。再び動画を再生すると、その通りの事が起こった。

「あ、やっぱり打った」
「良いぞ良いぞ林太郎。中々分析するのが上手いじゃないか。良いか?「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」っていう言葉がある。
 正体が分からなければ枯れ尾花、要は枯れたススキすら恐ろしく見えるものだが、正体さえ分かればどうってことは無い。
 そうやって相手のパンチの打つタイミングが、打つ種類が分かればどれほど恐ろしいパンチだったとしても怖くない。
 今回イメージトレーニングをするのはそういう意味があるんだ。じゃ、続きだ。もうすぐ終わりだ、ラストスパートってやつだ。気合い入れてけ」
「は、はい」

 その日、およそ1時間ほどかけて大谷の試合を見ていた。林太郎の、彼に対する恐怖はだいぶ薄らいでいた。


◇◇◇


 その日の夜、林太郎はリングの中にいた。相手は自分の背丈がヒザに届くか? という程の巨人の大谷おおたに つばさ
 これで相手をするのは4回目となる。だがそれまでの3回とは違う。
 相手を見上げても顔の表情が分からない程でかい怪物だったにもかかわらず、それまでのような泣きながら逃げ出す無様な真似はしなかった。
 全身をこわばらせる、脳に突き差すような恐怖は無く、代わりに闘争心がふつふつと湧いていた。


カーンッ!!


 ゴングが鳴ると同時に巨人は右の拳を繰り出す、いや振り下ろすと言った感じか。
 しかしそれにタイミングをバッチリ合わせて林太郎は自らの拳で対戦相手の拳をアッパーカットで打つ。

ドゴオッ!

 という派手な音が響く。ビリビリとした衝撃を感じている中、よく見ると最初の一撃で巨人の拳にはグローブごとひびが入っていた。
 大谷は気づいてないのか再び右の拳を振り下ろす。それに対し林太郎は今回もジャストタイミングでアッパーカットを放った。 

バガァッ!

 という音と共に大谷の右の拳が砕けた。どうやら相手は困惑しているらしい。砕けた右手を見て呆然としているようだ。
 そんな戸惑っている相手に関係なく林太郎は大谷のスネに渾身の右ジャブと左ストレートのワンツー、そして右フックのコンビネーションを放つ。
 ビシ、ビシ……と大谷のスネにひびが無数に入り、自重で砕けた。そして……。



ドズーン


 という音と共に相手がリングに沈んだ。と同時に、林太郎の意識は途絶えた。


「ハッ!」

 気が付いた時には朝になっていた。

(もしかして俺……大谷に勝ったのか? 大したことは無かったな)

 大谷に対する恐怖は、今では全く感じていなかった。
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