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第2部 恋人になってからのお話

第80話 恐怖

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「うーん……うーん……」

 林太郎りんたろうはまた巨人と化した大谷おおたに つばさ蹂躙じゅうりんされる悪夢を見ていた。
 今回が3回目だ。

「……ちゃ……おに……お兄ちゃん!」
「ハッ!」

 凛香りんかに起こされることで意識が戻り、林太郎は目を覚ました。身体は汗でぐっしょりと濡れていた。

「どうしたのお兄ちゃん。随分とうなされていたけど大丈夫……じゃなさそうね。お兄ちゃんが立ち直るまで1週間我慢したけど全然よくならないよね?
 どんな事でも協力するから何でも言って!」
「お前には関係のない事だ。お前じゃどうしようもない事なんだ」

 生気を失ったよどんだ瞳のまま起きだした。



「……」

 林太郎は授業中、うわの空でぼんやりと中空を焦点しょうてんの合って無い瞳でみつめていた。
 1つ後ろの席にいる不良仲間が背中をシャープペンでつつくが全くの無反応。ここ1週間は一事が万事この状態だった。

「♪~♪♪♪」

 昼休み、不良仲間の1人に電話がかかってくる。相手は凛香だった。

「ねぇ、林太郎の様子はどうなってる?」
「ああ、凛香さんか。相変わらず「ふぬけ」になっちまってやがる。俺達もどうしたもんかと思ってるんだ。こりゃ長引くだろうぜ」
「そ、そう。ありがとう」

 さすがに1週間この状態だと凛香は不安になる。不良仲間との通話を切って今度は父親と電話をするが……。

「お父さん、林太郎の事なんだけどどうしよう……」
「大丈夫だ、手は打ってる。とりあえず関係者と話し合う事にしている」
「そ、そうなんだ。ありがとう」

 どうやら手はあるらしい。少しだけ不安がほぐれた。



「……」

 学校が終わり、林太郎が無言で帰ってくると居間には父親と客が待っていた。客はボクシングジムでは林太郎のトレーナーであるハゲオヤジ、通称「おやっさん」だった。

「!? おやっさん?」
「林太郎。学校の荷物を部屋に置いて来たら俺と話し合いをしようか」

 話し合いが始まった。

「なぁ林太郎。お前小さい頃自転車に乗れるようになるのに何度も転んだだろ? 1回も転ばずに自転車に乗れたか? 違うだろ?
 そりゃ転ぶと痛いしすりむいてケガだってする。だけどきちんと乗れるようになっただろ? それと同じだ。
 今のお前は『1回でも転んだら永遠に自転車に乗れなくなる』って思いこんでるようなものさ。
 今回のプロテスト受験も『記念受験』っていう意味合いが強い。世界を知れて良かったと思ってるんだぜ?」
「……」

 林太郎は何も言わない。



「まぁお前のケースでは1回派手に転んだだけだ。また練習すればいいだけの話だよ」
「自転車とボクシングでは違うんだよ。自転車は誰でも乗れるだろ? ボクシングとはわけが違うさ。
 才能の無い奴は何したって無駄だよ。おやっさんも才能があったから世界王者になれたんだろ?」

 林太郎の口からは不満がもれるだけだ。それでもおやっさんは粘り強く説く。

「林太郎、言っとくが俺は自分に才能があると確信できたことは現役の頃は1度も無いし、今でもそうだ。
 俺が現役の頃は俺より才能のある奴なんて山ほどいたし、飽きる程見てきた。俺より強い奴なんて嫌になる位いた!
 でも奴らは努力が出来なかった。才能があるから練習しなくてもそれだけで形になるし、
 そういう天才はメディアには出れるが最終的には伸びずに落ちぶれていったさ。秘められた才能を生かすことなく、な」

 おやっさんは自らの実体験でボクシングを語るが、教え子には全く響かない。

「……おやっさんはまたそうやって、才能あるくせに才能がない才能がないって言うんだ。おやっさんは才能があるからそう言えるんだ。
『神は乗り越えられる試練しか与えない』って言うけど、俺には到底乗り越えることが出来そうにない。
 イメージトレーニングしようにも乗り越えられるところをどう頑張ってもイメージできないんだよ。負けるところしかイメージできない。
 それに本当の天才ってのはボクシングの才能がある上に努力出来る才能も持ってるんだ。勝ち目ねえよ」

 林太郎の口から漏れる言葉は、普段の彼を知っているのなら「別人だろ?」と思える程、弱気で後ろ向きだった。



「ふーむ。お前の言う事にも一理あるな。確かにボクシングの才能もあって、しかも努力できる才能を合わせ持ってた奴は俺の同期だけでも何人、いや何十人といたよ。それは事実だ。
 だがみんな試合で大ケガをして引退したり、減量がどうしても出来ずに計量オーバーで試合中止の不戦敗やファイトマネー没収になった。
 俺の日本王者がかかった試合で、王者側が減量に失敗して王座をはく奪されて、しばらくの間空位になった事もあった。
 酷い奴はムチャな『水抜き』が原因で血栓ができて病院に運ばれた奴だっている」

 水抜き……どうしても計量をクリアー出来ない際に「体の水分を汗をかくことで抜いて」体重を減らす行為だ。
 効果は高いが健康にはすこぶる悪く、世界に目を向ければ死亡例も報告されるほどだ。

「なあに昔の俺もそうだったし、世界王者だってみんな『俺には才能がない』っていうのが分かってからのスタートだ。そこが出発地点なんだ気にするな」
「いい加減にしろよ! 何が『俺は凡人だ』だよ! おやっさんは世界王者だったんだろ!? そんなの特別で才能ある人間に決まってるじゃないか! 何を言ってるんだ!」
「凡人だよ。確かに俺は世界王者になったが、俺には才能があるだなんてこれっぽちも思って無いさ。当時俺の周りにいた選手は俺より才能のある奴しかいなかったよ。
 それに、お前と同じ試合で失神KO。なんて俺だってあったさ」
「……失神KO? おやっさんが?」
「ああ。17歳で4回戦C級デビューした試合は3ラウンド目で顔面に死角から食らって失神だよ。気づいた時には病院のベッドの上さ。お前と一緒だよ」
「……」

 おやっさんは教え子と話をしているうちに人生経験が豊富なため、何かに気づいたようだ。



「……怖いのか? 大谷おおたに つばさが、怖いのか?」
「……」

 林太郎は黙ってうなづいた。

「……じゃあ、大谷が怖くなくなれば、ボクシングは続けるんだな? ボクシング自体が嫌いになったわけじゃないんだな?」
「ああ。あいつが怖くなくなる、なんてこれっぽちも想像もできないけどな。あいつ関係で悪夢にうなされるんだぜ?」

 それを聞いておやっさんはニカッ、と笑う。どうやらボクシング自体が嫌いになったわけでは無いのが分かっただけでも収穫だった。

「そうかそうかそいつは良かった! 俺はてっきりボクシング自体が嫌いになったと思ってたぜ、いやぁ良かった良かった」
「全然良い事じゃないだろ、高校生なのにオバケを怖がるガキみたいになってるんだぜ?」
「まぁボクシングやってるやつの何割かはお前と同じ理由で辞めるんだ。別に珍しい事じゃねえし恥ずかしい事でもねえ。俺にとってはごく当たり前の日常風景さ。
 んじゃ、準備するから明後日あさっての午前10時にジムに来てくれよな」
「え? 明後日あさって? 練習はあと1週間休みじゃないのか?」
「何もトレーニングは身体を使うだけじゃないぞ。まぁ来てくれれば分かるさ。じゃあな、ちゃんと来いよ」

 おやっさんはそう言って帰ってしまった。



 林太郎は一緒に話を聞いていた父親に目を向ける。

「オヤジ、この事はみんなに言うのか?」
「ああ。辞めた方が良いか?」
「辞めろとは言わないけどさ」
「まぁボクシング自体を嫌いになったわけじゃなさそうだから、そのうちまた戻れると思うよ。月謝は払い続けるからその辺の心配はしなくていいぞ」
「……」

 少しだけ林太郎の目に光が戻った、気がした。
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