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雷風(三)(独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖番外編)
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耳元で唸る風の音と、地を蹴る規則正しい爪音を無心に聞く。
盛りを迎えた錦繍の山々が行く手に広がり、薄青い空には筋雲が棚引いている。
秋晴れが広がる昼下がり、近習ら五人ばかりと城下を離れて遠乗りに出た。
重役衆は誰も止めなかったが、どうせ饗庭の手勢がどこかで見張っているのだろう。万が一にも、宗靖が江戸に戻ることなどあってはならぬのだから。
立ち透かしと呼ばれる、背筋を伸ばし体を上下に揺らさぬ美しい姿勢で、宗靖は野をひた走る。馬術の名手にも色々あるが、宗靖は手綱さばきや脚の使い方に優れていることに加え、「馬に好かれる性質」らしい。稀にそういう者がいて、どんな荒馬であろうとも、馬の方が慕って運んでくれるのだという。雷風も気性が荒く繊細で、乗り手の選り好みが激しい馬だ。兄もどうにか乗りこなすが、芯から心が通じるのは宗靖の方だ。
「羨ましい奴め」
宗長は苦もなくどんな馬も御してしまう弟に、嘆息しつつ言ったものだ。
肘を引いて馬の腹を足で締めると、するすると速度が落ちる。軽く息を弾ませつつ、雷風の足を止める。乾いてひやりとした風に顔をなぶらせながら、陣笠の縁を持ち上げ目を秋の野へと転じた。青い山並みが連なる地平線を見詰める。西には礼子姫がいる高崎が、そして、南の山並みの向こうには江戸がある。
「江戸は、遠いのう」
半日ばかりの道程が、果てしなく遠かった。
「……若君」
雷風ほどではないが、黒々とした立派な体躯の芦毛に跨った佐々岡が、不意に近づいてきて囁いた。
その両眼が、見たこともない色を浮かべているのに気づく。
「江戸へ、戻りましょう」
さぁ、と風が草を鳴らした。
「替え馬を街道に用意してございます。饗庭家老のご配下は我らが食い止めます。残りの者と番所を突破した後は、若君だけ先に走ってくださりませ。雷風の脚であれば、かなりの時が稼げるはず」
頭の中に空白が広がっていく。佐々岡の青ざめた、しかし腹の据わった顔を、見知らぬ男のように凝視する。
「江戸へお戻りくださいませ。若君」
佐々岡次郎三郎は、最古参の近習だ。七つの頃から宗靖付きとなり、もはや口に出さずとも意思が伝わる。兄弟のごとく信頼する男。
それが、主に謀反を唆すとはどういうことか。
「家木家老が密かに伝えて参りました。ご家老はじめお味方は江戸にも国元にも大勢いると。身命を賭して必ずお助け申し上げると。家中の総意は若君にございまする。江戸へ戻り、ご公儀に駆け込むのです。ご老中方をお味方につければ……」
「愚か者! 家木の口車に乗せられおって。そのような真似をすれば、国が滅ぶのがわからぬのか!」
血が頭に駆け登る。思わず鞭を振り上げ打とうとして、手が止まる。
生一本の、十九の近習頭の顔が、苦悩に歪んでいた。
「あなた様が、このような非道な扱いを受けてよいわけがありませぬ。到底、耐えられませぬ。我ら、若君がお受けになった恥辱を雪ぐためならば、喜んで命を捨てまする」
呻く声が胸に突き刺さる。見回せば、周囲に馬を並べる近侍たちも、決死の表情でこちらを見ている。皆、若い。二十にもならぬ若侍ばかり、それも揃って毛並みのいい上士の嫡子たちだ。
誇り高く潔癖であるがゆえに、耐え難い。
こんな風に、手足をもがれたようにして生きるくらいならば、いっそ。
彼らの両の目が、異様な輝きを帯びてそう叫んでいる。
──済まぬことをした。
悲しみに、息が詰まった。
自分の側近となったばかりに。このような運命に、巻き込んだ。
どうせ道はないのならば、華々しく散れと命じるのが己の役目なのだろうか……。
胸が拉がれる思いで歯を食い縛った時、横手の林の奥に何かが動くのを察した。
馬がいる。三頭の馬と、それに跨った人影が、木々を透かしこちらに視線を向けている。
饗庭の見張りに違いない。
さらにその後方に、人馬の影がちらちら過る。宗靖の近習たちだ。佐々岡の合図を待って、即座に見張りに襲いかかるつもりなのだ。
道が、見えない。
天を仰ぎ、瞼を閉じた。江戸へ駆け戻り、公儀にことの次第を訴え出たならば。藩に紛争があれば、公儀より藩主に咎めが及ぶことは確かにある。だが、下手をすれば藩が改易となる事態も起こりうるのだ。そんな危険を冒せるものか。そうでなくとも、宗靖も近侍たちもあまりに若い。後ろ盾もなく、子供に毛が生えたような彼らの訴えに、幕閣の誰が耳を貸すだろうか。
彰久と宗靖の対立が決定的となれば、血で血を洗う争いとなるだろう。内乱さえ起こり得る。清野家は宗靖を切り捨てるか、あるいは共に戦おうとするかもしれない。
家木家老は、狡知の人物だ。あの男なりの正義というものがあるのだろうが、眉をひそめたくなるような行いに手を染めていると、宗靖の耳にも届いている。そのような男に担ぎ上げられたところで、どんな未来があるというのだ。
どう転んだところで、地獄しか見えぬ。
瞼を開き、ぼんやりとした視線を周囲に投げた。枯れた草原の向こうに、畑のあぜ道を歩く百姓たちの姿を捉える。収穫した野菜を背負い籠いっぱいに詰めた、いかにもたくましい体つきの男と、母親だろうか、少し小さい荷を負う腰の曲がった老婆。草を振り回して歩く童、その回りを跳ね回る柴犬がいる。
前を行く息子らしき男と何ごとか言葉を交わし、老婆が喉を反らせて笑う。そうして殺気立つ騎馬の侍たちには気づく様子もなく、紅葉の雨の中を去っていく。
……侍などというものは、くだらぬ。
不意に、そんなことが頭を過る。侍の食い物を育てる田畑の傍で、死ぬだの生きるだのと言い合っているのが、たまらなく滑稽だ。
「──あれは、何者だ」
ふと呟くと、鬼気迫った顔の近侍たちが一斉に視線を追う。
百姓が去ったあぜ道に、侍の姿がある。畑に屈み込んでは何かしているようだ。頬が動いている。何か食べているらしいが、畑には草しか生えていない。
引き寄せられるように雷風を前に進め、ゆっくりと近づいた。
「……そこな者」
袴の股立を取り、裸足で土を踏んでいる男に声をかける。
と、男がぱくりと土を口に入れたので目を丸くする。
「土を食したのか?」
よほど飢えているのかと思っていると、顔をあげた侍が、巨大な馬と、美麗な馬乗り羽織を翻してそれに跨る少年とを、きょとんと見詰める。
三十をいくつか超したくらいか。小柄で二刀がいかにも重そうだ。日に焼けて、小袖も袴も洗いざらしのよれよれである。頭も手ぬぐいを被り、百姓とも侍ともつかぬ珍妙な出で立ち。にもかかわらず、丸い愛嬌のある瞳に、妙に生き生きとした光が踊って見える。
「……ぶっ」
刮目して土を吹き出し、男があぜ道に這いつくばる。
「こ、これは。これは、あの。まさか、若君が、まさか。うわぁ」
雷風の大きさと姿形は国の内外に知れ渡っている。そして、音に聞こえた悍馬を御せる貴人と言えば、小槇にただ一人しかいない。得体の知れぬこの男の耳にも、その噂は届いていたらしい。
「立ったままでよい。そなたは何者か。何をしておったのかと訊いた」
「は。その。それがし、当地を支配する代官の村上伊織と申しまする。このような形にて、まことお目汚し……」
代官とな。宗靖は呆れながら男の身なりを見回した。
「土を食して、何をしていた。まさか飢えておるのではあるまい」
「ははっ。その……苗肥の具合を見ておりましたもので」
そう言いかけ、慌てて頭の手ぬぐいを取る。ほつれた髷が露になり、ますます百姓に見えてくる。苗肥、と首をひねる宗靖に、
「苗肥とは、畑に生える草をそのまますき込み、肥料にすることを申しまする。この畑では夏の収穫を終えてから蓮華を育て、秋口にすき込んだのです。で、土の味を確かめながら、大根の育ち具合を見ておりました」
「……蓮華が肥やしとなるのか」
「仰せの通りにございます」
水を得た魚のごとく、勢い込んで男が頷く。
「蓮華だけではございません。向日葵や、小豆、胡麻なども苗肥になりまする。苗肥だけではもちろん育ちませぬ。人肥はもちろん、草肥、灰肥、泥肥も必要なれば、どの作物にどのような肥料を与えればよく育つのか、百姓はよく考え工夫いたしまする」
「……知らなんだ」
ほうっと嘆息すると、男は実に得意気に微笑んだ。
「代官も土の改良を自ら行うものなのだな」
「あ、いえ。これはそれがしが好きでいたしておるだけで……。あれこれ考えて試すのが楽しゅうございます。皆の役にも立ちますし……」
耳朶を赤くして村上が月代を撫でる。手の汚れがついて月代が茶色くなる。
「代官が土について考えてはならん、という決まりもございませぬゆえ」
軽やかな声が、なぜか胸に響いた。
代官がそれをしてはならぬ、という法はない。
「……なるほど」
畑を見れば、緑の芽が盛んに伸びているのに気づく。それが大根だと言われなければ、ただの草なのか作物なのか、宗靖にはわからない。まして、土のことなぞ考えたこともない。
……だが、若君がそれを考えてはならぬ、という決まりもないのだ。
「この地は、豊かか。作物はよく実るか」
「ははっ。どうにか、皆飢えることもなく。……しかし、当地は土も肥沃で水も豊富にございますが、場所によってはひどく難渋することもございます。隣の三春郡などは丘陵が多ございますからな。米も育ちにくく、畑にも適さぬ地がほとんど。以前は茶が盛んでございましたが、他国の茶に押されもはや風前の灯にございます。冬には餓死者が出ないようにするのがやっとの有様。名主が宇治へ茶の新しい技を学びに参りたいと申しますもので、郡代様やお奉行様に再三お願い申し上げておるのですが、お許しが頂けませぬ。土の改良でどうにかできぬかと、あれこれ試してございますが、なかなか……」
「そうなのか……」
まるで知らなかった。考えたこともなかった。領地の範囲も地形も天候も特産物もきっちり頭に入っているが、そこでどんな暮らしが営まれているのかなど、想像したこともない。それは末端の役人や百姓の領分だから、必要ないと思ったのか。
藩主の彰久にしても、元来国元への関心が薄い。猟官運動に血道を上げ、一年の大半を江戸で過ごしている。十五万石の小槇はそもそも豊かだから、国家老たちに任せておけば滅多なことは起こらぬ。だから江戸ばかりを向いているのだ。
けれども、領地をよくよく注意して見れば、肥沃な地もあれば貧しい地もある。そして、そこで苦汁を舐める人々がいる。江戸や舞田の城からは見えなくとも、必ずいるのだ。
国が富んでいるのだからと国家老らに預けてしまえるのならば、藩主とは何であろうか。
「……若君。この者が、何か」
馬を並べた佐々岡が、困惑して男と宗靖を見比べる。
急に、爽やかな風が胸を吹き抜けた気がした。
「戻るぞ」
は、と近習頭の顔が緊張する。皆の手が、思わず腰の打刀に伸びた。
「城へ、戻る」
朗らかな声に皆が瞠目し、互いに顔を見合わせる。
「村上とやら。そなたの話、実に興味深い。日を改めて出向くから、余に土のことを教えて欲しい」
「……は? その、若君が御自ら……?」
「ならぬか。そなたの仕事に差し障りが出ぬよう努める。大仰な出迎えももてなしも無用。三春へも出向いてみたい。何ができるかわからぬが、余が力を貸せるのであれば、やろう」
秋の澄んだ日を映した瞳で、真摯に言う。鳩が豆鉄砲を喰らったように聞いていた村上は、やがて目尻に細かな皺を刻み、微笑んだ。
「──御意にございまする。それがしなどが畏れ多いことにございますが、喜んでご教授申し上げまする」
目を和ませ頷くと、宗靖は馬首を巡らせた。
「若君」
「お待ちくださいませ」
近習たちが狼狽しながら追ってくる。それを村上がじっと見送っている。
「……江戸へは、戻らぬ」
しばらく進み、はっきりと言った。
背中に痛いほどの視線を感じる。
「若君、しかし……!」
「江戸に駆け込むことはいつでもできる。死ぬことも、いつでもできる。だが余にはまだ、ここですべきことがあるようだ」
自分が山辺家に望まれたのは、良き藩主となるためではなかったか。
世継ぎ争いに時を費やし、血を流し憎み合い、華々しく死ぬことが、己のしたいことだったのか。……そうではなかろう。
「余は、成すべきことを成しておらぬ。山辺家の若君として、民のためにすべき役目を疎かにしていた。だから、これからそれを成そうと思う。その上で死ぬ定めだというのであれば、潔く死のう。だが、まだその時ではない」
雷風の足を止め、近侍たちを振り返る。
「それまで、余に命を預けておいてはもらえぬか」
穏やかな光を宿した目で、一人一人の顔を見詰めた。佐々岡と皆の目が、様々な感情を浮かべて揺れる。悲嘆、憤怒、屈辱、そして不安。
混沌としたその感情を、逸らすことなく受け止める。非力な主だ。受け止める以外に、してやれることがない。だが、死に逃げることはすまい。皆を無為に死なせることもすまい。
雲に潜んで力を蓄える雷のごとく、この決意を抱いて生きて見せよう。
揺れていた彼らの瞳が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。妄執の霧が晴れるように、死を見詰めていた目に生気が瞬く。宗靖の瞳に宿る、不屈の、何者にも侵せない精神を、眩しげに、そして誇らしげに見ている。
「……元より、この命は若君に捧げてございますれば。お訊ねになられるまでもございませぬ」
佐々岡が破顔して晴れ晴れと言う。
「若君が赴かれるところへ、どこへでも参りましょう」
「若君のなされること、身を尽くしてお助け申します」
少年達が、目を赤くして口々に続く。
「……感謝する」
目元を綻ばせ、宗靖は再び雷風を進めた。
警戒する視線を向けていた饗庭の手勢が、少し離れた林の中で安堵した風に動き出すのを横目に見る。
「帰るとしよう」
戦場へと。
行く手に広がる、赤と金に染まる山や森が、燃え上がっているかのようだ。
舞い散る紅葉の中を、騎馬の若侍たちはいつしか走り出している。
愛馬と一体になり、宗靖は背筋を伸ばして前を見据える。景色が黄金の奔流となって飛ぶように流れ行く。大地を蹴る蹄の感触と、鋼のごとき筋肉の躍動とを全身で感じる。
「……瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ」
──流れの速い川が岩でふたつに分かれようとも、またひとつに戻るように、必ずあなたに会えると信じている。
皇位を追われ、弟との政争に破れた悲劇の上皇、崇徳院の、力強く一途な歌を声に出す。
手の届かぬ人、などとは言うまい。
今はたとえ、流れを分けられてしまったとしても。
いつか会える。いつか、約束を果たせると信じよう。
耳元で風が叫び、胸には雷を抱いている。
どこまでも、どこまでも、駆けて行きたかった。
了
盛りを迎えた錦繍の山々が行く手に広がり、薄青い空には筋雲が棚引いている。
秋晴れが広がる昼下がり、近習ら五人ばかりと城下を離れて遠乗りに出た。
重役衆は誰も止めなかったが、どうせ饗庭の手勢がどこかで見張っているのだろう。万が一にも、宗靖が江戸に戻ることなどあってはならぬのだから。
立ち透かしと呼ばれる、背筋を伸ばし体を上下に揺らさぬ美しい姿勢で、宗靖は野をひた走る。馬術の名手にも色々あるが、宗靖は手綱さばきや脚の使い方に優れていることに加え、「馬に好かれる性質」らしい。稀にそういう者がいて、どんな荒馬であろうとも、馬の方が慕って運んでくれるのだという。雷風も気性が荒く繊細で、乗り手の選り好みが激しい馬だ。兄もどうにか乗りこなすが、芯から心が通じるのは宗靖の方だ。
「羨ましい奴め」
宗長は苦もなくどんな馬も御してしまう弟に、嘆息しつつ言ったものだ。
肘を引いて馬の腹を足で締めると、するすると速度が落ちる。軽く息を弾ませつつ、雷風の足を止める。乾いてひやりとした風に顔をなぶらせながら、陣笠の縁を持ち上げ目を秋の野へと転じた。青い山並みが連なる地平線を見詰める。西には礼子姫がいる高崎が、そして、南の山並みの向こうには江戸がある。
「江戸は、遠いのう」
半日ばかりの道程が、果てしなく遠かった。
「……若君」
雷風ほどではないが、黒々とした立派な体躯の芦毛に跨った佐々岡が、不意に近づいてきて囁いた。
その両眼が、見たこともない色を浮かべているのに気づく。
「江戸へ、戻りましょう」
さぁ、と風が草を鳴らした。
「替え馬を街道に用意してございます。饗庭家老のご配下は我らが食い止めます。残りの者と番所を突破した後は、若君だけ先に走ってくださりませ。雷風の脚であれば、かなりの時が稼げるはず」
頭の中に空白が広がっていく。佐々岡の青ざめた、しかし腹の据わった顔を、見知らぬ男のように凝視する。
「江戸へお戻りくださいませ。若君」
佐々岡次郎三郎は、最古参の近習だ。七つの頃から宗靖付きとなり、もはや口に出さずとも意思が伝わる。兄弟のごとく信頼する男。
それが、主に謀反を唆すとはどういうことか。
「家木家老が密かに伝えて参りました。ご家老はじめお味方は江戸にも国元にも大勢いると。身命を賭して必ずお助け申し上げると。家中の総意は若君にございまする。江戸へ戻り、ご公儀に駆け込むのです。ご老中方をお味方につければ……」
「愚か者! 家木の口車に乗せられおって。そのような真似をすれば、国が滅ぶのがわからぬのか!」
血が頭に駆け登る。思わず鞭を振り上げ打とうとして、手が止まる。
生一本の、十九の近習頭の顔が、苦悩に歪んでいた。
「あなた様が、このような非道な扱いを受けてよいわけがありませぬ。到底、耐えられませぬ。我ら、若君がお受けになった恥辱を雪ぐためならば、喜んで命を捨てまする」
呻く声が胸に突き刺さる。見回せば、周囲に馬を並べる近侍たちも、決死の表情でこちらを見ている。皆、若い。二十にもならぬ若侍ばかり、それも揃って毛並みのいい上士の嫡子たちだ。
誇り高く潔癖であるがゆえに、耐え難い。
こんな風に、手足をもがれたようにして生きるくらいならば、いっそ。
彼らの両の目が、異様な輝きを帯びてそう叫んでいる。
──済まぬことをした。
悲しみに、息が詰まった。
自分の側近となったばかりに。このような運命に、巻き込んだ。
どうせ道はないのならば、華々しく散れと命じるのが己の役目なのだろうか……。
胸が拉がれる思いで歯を食い縛った時、横手の林の奥に何かが動くのを察した。
馬がいる。三頭の馬と、それに跨った人影が、木々を透かしこちらに視線を向けている。
饗庭の見張りに違いない。
さらにその後方に、人馬の影がちらちら過る。宗靖の近習たちだ。佐々岡の合図を待って、即座に見張りに襲いかかるつもりなのだ。
道が、見えない。
天を仰ぎ、瞼を閉じた。江戸へ駆け戻り、公儀にことの次第を訴え出たならば。藩に紛争があれば、公儀より藩主に咎めが及ぶことは確かにある。だが、下手をすれば藩が改易となる事態も起こりうるのだ。そんな危険を冒せるものか。そうでなくとも、宗靖も近侍たちもあまりに若い。後ろ盾もなく、子供に毛が生えたような彼らの訴えに、幕閣の誰が耳を貸すだろうか。
彰久と宗靖の対立が決定的となれば、血で血を洗う争いとなるだろう。内乱さえ起こり得る。清野家は宗靖を切り捨てるか、あるいは共に戦おうとするかもしれない。
家木家老は、狡知の人物だ。あの男なりの正義というものがあるのだろうが、眉をひそめたくなるような行いに手を染めていると、宗靖の耳にも届いている。そのような男に担ぎ上げられたところで、どんな未来があるというのだ。
どう転んだところで、地獄しか見えぬ。
瞼を開き、ぼんやりとした視線を周囲に投げた。枯れた草原の向こうに、畑のあぜ道を歩く百姓たちの姿を捉える。収穫した野菜を背負い籠いっぱいに詰めた、いかにもたくましい体つきの男と、母親だろうか、少し小さい荷を負う腰の曲がった老婆。草を振り回して歩く童、その回りを跳ね回る柴犬がいる。
前を行く息子らしき男と何ごとか言葉を交わし、老婆が喉を反らせて笑う。そうして殺気立つ騎馬の侍たちには気づく様子もなく、紅葉の雨の中を去っていく。
……侍などというものは、くだらぬ。
不意に、そんなことが頭を過る。侍の食い物を育てる田畑の傍で、死ぬだの生きるだのと言い合っているのが、たまらなく滑稽だ。
「──あれは、何者だ」
ふと呟くと、鬼気迫った顔の近侍たちが一斉に視線を追う。
百姓が去ったあぜ道に、侍の姿がある。畑に屈み込んでは何かしているようだ。頬が動いている。何か食べているらしいが、畑には草しか生えていない。
引き寄せられるように雷風を前に進め、ゆっくりと近づいた。
「……そこな者」
袴の股立を取り、裸足で土を踏んでいる男に声をかける。
と、男がぱくりと土を口に入れたので目を丸くする。
「土を食したのか?」
よほど飢えているのかと思っていると、顔をあげた侍が、巨大な馬と、美麗な馬乗り羽織を翻してそれに跨る少年とを、きょとんと見詰める。
三十をいくつか超したくらいか。小柄で二刀がいかにも重そうだ。日に焼けて、小袖も袴も洗いざらしのよれよれである。頭も手ぬぐいを被り、百姓とも侍ともつかぬ珍妙な出で立ち。にもかかわらず、丸い愛嬌のある瞳に、妙に生き生きとした光が踊って見える。
「……ぶっ」
刮目して土を吹き出し、男があぜ道に這いつくばる。
「こ、これは。これは、あの。まさか、若君が、まさか。うわぁ」
雷風の大きさと姿形は国の内外に知れ渡っている。そして、音に聞こえた悍馬を御せる貴人と言えば、小槇にただ一人しかいない。得体の知れぬこの男の耳にも、その噂は届いていたらしい。
「立ったままでよい。そなたは何者か。何をしておったのかと訊いた」
「は。その。それがし、当地を支配する代官の村上伊織と申しまする。このような形にて、まことお目汚し……」
代官とな。宗靖は呆れながら男の身なりを見回した。
「土を食して、何をしていた。まさか飢えておるのではあるまい」
「ははっ。その……苗肥の具合を見ておりましたもので」
そう言いかけ、慌てて頭の手ぬぐいを取る。ほつれた髷が露になり、ますます百姓に見えてくる。苗肥、と首をひねる宗靖に、
「苗肥とは、畑に生える草をそのまますき込み、肥料にすることを申しまする。この畑では夏の収穫を終えてから蓮華を育て、秋口にすき込んだのです。で、土の味を確かめながら、大根の育ち具合を見ておりました」
「……蓮華が肥やしとなるのか」
「仰せの通りにございます」
水を得た魚のごとく、勢い込んで男が頷く。
「蓮華だけではございません。向日葵や、小豆、胡麻なども苗肥になりまする。苗肥だけではもちろん育ちませぬ。人肥はもちろん、草肥、灰肥、泥肥も必要なれば、どの作物にどのような肥料を与えればよく育つのか、百姓はよく考え工夫いたしまする」
「……知らなんだ」
ほうっと嘆息すると、男は実に得意気に微笑んだ。
「代官も土の改良を自ら行うものなのだな」
「あ、いえ。これはそれがしが好きでいたしておるだけで……。あれこれ考えて試すのが楽しゅうございます。皆の役にも立ちますし……」
耳朶を赤くして村上が月代を撫でる。手の汚れがついて月代が茶色くなる。
「代官が土について考えてはならん、という決まりもございませぬゆえ」
軽やかな声が、なぜか胸に響いた。
代官がそれをしてはならぬ、という法はない。
「……なるほど」
畑を見れば、緑の芽が盛んに伸びているのに気づく。それが大根だと言われなければ、ただの草なのか作物なのか、宗靖にはわからない。まして、土のことなぞ考えたこともない。
……だが、若君がそれを考えてはならぬ、という決まりもないのだ。
「この地は、豊かか。作物はよく実るか」
「ははっ。どうにか、皆飢えることもなく。……しかし、当地は土も肥沃で水も豊富にございますが、場所によってはひどく難渋することもございます。隣の三春郡などは丘陵が多ございますからな。米も育ちにくく、畑にも適さぬ地がほとんど。以前は茶が盛んでございましたが、他国の茶に押されもはや風前の灯にございます。冬には餓死者が出ないようにするのがやっとの有様。名主が宇治へ茶の新しい技を学びに参りたいと申しますもので、郡代様やお奉行様に再三お願い申し上げておるのですが、お許しが頂けませぬ。土の改良でどうにかできぬかと、あれこれ試してございますが、なかなか……」
「そうなのか……」
まるで知らなかった。考えたこともなかった。領地の範囲も地形も天候も特産物もきっちり頭に入っているが、そこでどんな暮らしが営まれているのかなど、想像したこともない。それは末端の役人や百姓の領分だから、必要ないと思ったのか。
藩主の彰久にしても、元来国元への関心が薄い。猟官運動に血道を上げ、一年の大半を江戸で過ごしている。十五万石の小槇はそもそも豊かだから、国家老たちに任せておけば滅多なことは起こらぬ。だから江戸ばかりを向いているのだ。
けれども、領地をよくよく注意して見れば、肥沃な地もあれば貧しい地もある。そして、そこで苦汁を舐める人々がいる。江戸や舞田の城からは見えなくとも、必ずいるのだ。
国が富んでいるのだからと国家老らに預けてしまえるのならば、藩主とは何であろうか。
「……若君。この者が、何か」
馬を並べた佐々岡が、困惑して男と宗靖を見比べる。
急に、爽やかな風が胸を吹き抜けた気がした。
「戻るぞ」
は、と近習頭の顔が緊張する。皆の手が、思わず腰の打刀に伸びた。
「城へ、戻る」
朗らかな声に皆が瞠目し、互いに顔を見合わせる。
「村上とやら。そなたの話、実に興味深い。日を改めて出向くから、余に土のことを教えて欲しい」
「……は? その、若君が御自ら……?」
「ならぬか。そなたの仕事に差し障りが出ぬよう努める。大仰な出迎えももてなしも無用。三春へも出向いてみたい。何ができるかわからぬが、余が力を貸せるのであれば、やろう」
秋の澄んだ日を映した瞳で、真摯に言う。鳩が豆鉄砲を喰らったように聞いていた村上は、やがて目尻に細かな皺を刻み、微笑んだ。
「──御意にございまする。それがしなどが畏れ多いことにございますが、喜んでご教授申し上げまする」
目を和ませ頷くと、宗靖は馬首を巡らせた。
「若君」
「お待ちくださいませ」
近習たちが狼狽しながら追ってくる。それを村上がじっと見送っている。
「……江戸へは、戻らぬ」
しばらく進み、はっきりと言った。
背中に痛いほどの視線を感じる。
「若君、しかし……!」
「江戸に駆け込むことはいつでもできる。死ぬことも、いつでもできる。だが余にはまだ、ここですべきことがあるようだ」
自分が山辺家に望まれたのは、良き藩主となるためではなかったか。
世継ぎ争いに時を費やし、血を流し憎み合い、華々しく死ぬことが、己のしたいことだったのか。……そうではなかろう。
「余は、成すべきことを成しておらぬ。山辺家の若君として、民のためにすべき役目を疎かにしていた。だから、これからそれを成そうと思う。その上で死ぬ定めだというのであれば、潔く死のう。だが、まだその時ではない」
雷風の足を止め、近侍たちを振り返る。
「それまで、余に命を預けておいてはもらえぬか」
穏やかな光を宿した目で、一人一人の顔を見詰めた。佐々岡と皆の目が、様々な感情を浮かべて揺れる。悲嘆、憤怒、屈辱、そして不安。
混沌としたその感情を、逸らすことなく受け止める。非力な主だ。受け止める以外に、してやれることがない。だが、死に逃げることはすまい。皆を無為に死なせることもすまい。
雲に潜んで力を蓄える雷のごとく、この決意を抱いて生きて見せよう。
揺れていた彼らの瞳が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。妄執の霧が晴れるように、死を見詰めていた目に生気が瞬く。宗靖の瞳に宿る、不屈の、何者にも侵せない精神を、眩しげに、そして誇らしげに見ている。
「……元より、この命は若君に捧げてございますれば。お訊ねになられるまでもございませぬ」
佐々岡が破顔して晴れ晴れと言う。
「若君が赴かれるところへ、どこへでも参りましょう」
「若君のなされること、身を尽くしてお助け申します」
少年達が、目を赤くして口々に続く。
「……感謝する」
目元を綻ばせ、宗靖は再び雷風を進めた。
警戒する視線を向けていた饗庭の手勢が、少し離れた林の中で安堵した風に動き出すのを横目に見る。
「帰るとしよう」
戦場へと。
行く手に広がる、赤と金に染まる山や森が、燃え上がっているかのようだ。
舞い散る紅葉の中を、騎馬の若侍たちはいつしか走り出している。
愛馬と一体になり、宗靖は背筋を伸ばして前を見据える。景色が黄金の奔流となって飛ぶように流れ行く。大地を蹴る蹄の感触と、鋼のごとき筋肉の躍動とを全身で感じる。
「……瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ」
──流れの速い川が岩でふたつに分かれようとも、またひとつに戻るように、必ずあなたに会えると信じている。
皇位を追われ、弟との政争に破れた悲劇の上皇、崇徳院の、力強く一途な歌を声に出す。
手の届かぬ人、などとは言うまい。
今はたとえ、流れを分けられてしまったとしても。
いつか会える。いつか、約束を果たせると信じよう。
耳元で風が叫び、胸には雷を抱いている。
どこまでも、どこまでも、駆けて行きたかった。
了
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