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雷風(二)(独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖番外編)

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雷風らいふうではないか」

 二の丸御殿を埋め尽くさんばかりに、絶え間なく紅葉の雨が降る日のこと。
 城の御厩おうまやで飼葉をむその馬を目にして、宗靖は久方ぶりに声を明るくした。
 体高五尺はあろうかという、見上げるほど大きく美しい芦毛の馬だ。清野家に暮らしていた頃の愛馬で、六歳になる。その名を雷風という。

「は。清野家の殿よりぜひ若君へと。二日かけてお連れくださいました」
「兄上がか」

 佐々岡が実直そうな顔を綻ばせ、それから悲しげに眉を下げる。この佐々岡を含め、近習小姓衆のほとんどは清野から連れてきた者たちだ。親兄弟の多くも多喜浜にいる。藩主宗長や清野家中を思い出し、懐かしさと悲しみとを覚えずにはいられないのだろう。

「……さぞやお嘆きでおられるだろう。申し訳ないことだ」

 兄の宗長も清野家中も、宗靖の事実上の廃嫡の知らせに茫然自失しているに違いない。宗靖を助けたくとも、彰久の意志は絶対である上に、宗長の正室は饗庭家老の息女なのだ。身動き取れず悲嘆に暮れながら、せめてもの慰めにと、雷風を送り届けてくれたのだろう。
 厩に舞い込んだ落葉を踏みながら、馬の濃い匂いが立ちこめる中をゆっくりと近づく。

「遠路をよう参ったの、雷風よ。会えて嬉しいぞ」

 食事を邪魔しないよう、小声で囁いた。
 満足げに口を動かす雷風は、おもむろに頭を擡げる。強靭で均整の取れた体に、その名の通り稲妻のごとき脚力を誇る名馬だが、宗靖にしか懐かぬ頑固で繊細な奴だ。清野家家臣がよほど注意して連れてきたのだろう。長い道中に疲れた様子もなく、見慣れぬ厩でも落ち着いている。
 黒々と澄んだ、大きな瞳が宗靖を映す。と、びろうどに包まれたかに見える隆々とした全身が、歓喜の雷に打たれるように震えるのを見た。
 にわかに鼻と前の蹄を鳴らし、馬が思い切り首を伸ばしてくる。

「落ち着け。まず、食べよ」

 そう言いつつ、激しく尻尾を打ち鳴らし、顔を擦り付けてくる愛馬のたくましい首を愛しげに撫でる。
 もっと撫でろ、と胸に鼻面をすり寄せて目を細める様子に、強張っていた気持ちが解れていく。

「会えて、嬉しいぞ」

 掌に伝わる暖かさと、無邪気で嬉しげな鼻息に笑いながら、胸が詰まってならなかった。

***

「礼子姫より、お手紙を拝領してございます」

 佐々岡がこそりと言って、人払いをした鶴の間でその文を差し出したのは、雷風が到着した夜のことだった。

「実は、雷風とともに清野家がお届けくださいました。姫より若君へは一切のご連絡が禁じられておりますそうで……密使がわざわざ清野家に託されたそうにございます」

 宗靖は凝然として、行灯のやわらかな明かりを映す封書を見下ろす。
 表書きの見覚えのある筆跡に、胸の奥を掴まれた気がした。
 無言で受け取り、つと背筋を伸ばす。喜びと悲しみとが入り混じり、胸が轟いている。ゆっくりと包紙を外し、奉書紙の手紙を開いた。

思ひ出づや 美濃のを山の ひとつ松 契りしことは いつも忘れず

 姫らしからぬ、所どころ乱れた字が目に飛び込む。
 『新古今和歌集』であったか。

──思い出してくださいますか。美濃のお山の一本松にお約束したことを。私はいつも忘れずにおります……。

 姫の意思の強さと率直さが滲み出るような歌だ。もはや望みはなかろうとも、諦めない。馬を並べて遠乗りをする約束を、私は忘れないと、声を振り絞って訴えている。
 山辺家から婚約解消の申し出を受けた大河内松平家では、宗靖とのことはすでになかったことになっている。文の遣り取りも相ならぬと厳命されているのだ、と使者が伝えた。
 凶報を耳にした姫は、さすが大名家に生まれた女だった。今にも倒れそうに青ざめて茫然としたが、泣くことも取り乱すこともなかったという。大名家の婚姻とはしばしば残酷で無慈悲なものだ。従容として従う以外の道などありはしない。
……だが。

「宗靖様をおいて、他のどなたにも嫁ぎませぬ。さもなくば、尼になりまする」

 宗靖のことは忘れろという父母や家臣を、姫はきっと見据えて言い放ち、皆を困らせているらしい。

──じゃじゃ馬め。

 その姿を思い浮かべ、宗靖は哀しい心地で微笑む。そんな我侭が通るわけもない。それを知りながらも一人戦おうとする礼子が、愛しいと思う。

榊葉さかきばの ゆふしでかけし そのかみに おしかへしても 似たる頃かな

 藤原道雅みちまさの、『後拾遺和歌集』の歌が浮かぶ。
 道雅は三条院の息女である当子内親王と恋に落ちるが、三条院の怒りに触れ悲恋に終わる。この内親王はかつて伊勢の斎宮であり、身を清らかに保たねばならぬ存在だった。二人の仲を引き裂かれた道雅は、今また、あなたが斎宮であったその頃に戻ってしまったかのようです、と嘆くのだ。
 手の届かぬ人に、戻ってしまったのだと。

……このような歌は、返せたものではないな。

 なんと情けないことを仰せになる、と憤慨する姫の姿が目に浮かび、また苦い笑いが浮かぶ。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の……

 別の歌が浮かびかけたのを、はっとして打ち消す。
 こんな歌を返して、どうする。
 胸の疼きを抑え込み、行灯の明かりを睨む。
 仄かに瞬く黄味がかった明かりが、心を映すように揺らいでいた。
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