上 下
1 / 19

雷風(一)(独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖番外編)

しおりを挟む
 二の丸御殿の奥の庭に、耳をつんざくばかりの蝉の声が響き渡る晩夏のことだった。
 盂蘭盆会にあわせて山辺家祖先の法要を執り行うため、十七の宗靖むねやすは義父・彰久あきひさの名代として江戸中屋敷を離れて舞田にいた。

「今、何と申した。佐々岡」

 蝉声と共に、蒸し暑い風が開いた障子から入り込む。その不快さを忘れ、宗靖は平伏する佐々岡次郎三郎を怪訝な目で見詰めた。
 今年十九になる佐々岡は、は、と頭をさらに下げ、

「江戸へは急ぎお戻りいただく必要はございませぬゆえ、しばしの間舞田にご滞在くださいますように、と江戸表より知らせが……」
「しばし、とは?」

 近習頭が沈黙する。固い表情で言葉を探す様子に、宗靖は秀眉をぐっと寄せる。

「余は父上の名代にて法要のために参ったのだ。終われば江戸へ戻るのが当然。当地に留まれとはいかなるわけだ」

 大名家の嫡子は江戸に居住せねばならない。国元に戻る際には公儀の許可を得なくてはならないし、期日以内に江戸へ戻ることが厳格に定められている。
 にもかかわらず、舞田に留まれとはいかなる理由なのか。

「──若君はご病気にて、江戸ではなく当地にてご静養あそばすのがお体によろしかろうと、御前が仰せだそうにございます」
「病? 余は患ってなどおらぬぞ。一体、何の話を……」

 混乱しながら言いかけて、宗靖は言葉を切った。
 ざっと血が足元まで下がる。閃くように、覚った。

「……病。そうか、余は、病みついたか」

 端正な顔が表情を失い、虚ろな声が座敷に響く。下を向いた佐々岡の背中が、痛みをこらえるように硬直する。

「つまり、余はもはや嫡子ではあらぬと……そういうことか」
「若君、そのようなことは」

 耐えかねたように言いかけて、佐々岡は言葉を飲む。

 余は、江戸から追い払われたということか。
 そこまで、状況は悪くなっていたか……。

 目の前が暗くなる。取り乱すまいと下腹に力を入れ、膝に置いた両手を握り締める。
 今年のはじめに彰則あきのりが生まれて以来、己ではなく彰則を嫡子に、と望む声が家中に現れていることは耳に届いていた。
 彰久や夕御前、彰則と顔を合わせる機会が減っていることにも、気づいていた。
 だが、まさか。騙し討ちのように江戸から追われるなどと、誰が思うだろうか。
 動揺を抑え込んでいる意思の力が、ふと緩みそうになる。緩んだ箇所から、焦げるような激情が滲み出てくる。
 世子に、やがては山辺家当主となるべく、養子に望まれたのではなかったのか。
 二年前に多喜浜たきはま清野きよの家から江戸へと連れてこられたというのに、今度は厄介払いのごとく追い払おうというのか……。
 清野家は、清野山辺とも称される山辺家の内分分家で、小槇南東部にある多喜浜二万石を治めている。現在の当主は宗靖の七つ年上の兄・宗長むねながで、正室は連綿家老の饗庭あえば家息女だ。山辺の分家は他にも存在するものの、清野が最大の領地と石高を有する分家筆頭である。
 主藩と支藩の関係は国によって有り様が大きく異なるが、清野と山辺のかかわりはこれまで穏当なものであった。彰久に長い間子がなかったことから、亡き父母や兄・宗長は、宗靖がいずれ養子に入ることを見越して彼を育てた。それが当然の役目であると宗靖自身もごく自然に心得て、己を磨く努力を惜しまなかった。
 山辺宗家を臣下として支え、時にはまつりごとを代理することもある家であれば、山辺家に次代藩主として迎えられることは誇りであり、名誉なことだ。
 彰則が生まれたことは、驚きではあった。だが家中の大部分は宗靖を歓迎し、その大器に心酔する者が少なくない。彰久と夕御前も、神童の異名を取った宗靖を嫡子として遇してきたはずだった。

──が、余が甘かったというわけだ。

 病や不行跡を理由に嫡子を廃嫡することは、武家においてはそう珍しいことではない。しかし、まさか己がそのような目に遭おうとは。十七の宗靖には、俄には受け入れがたい運命の変転だった。
 清野家にもほどなく事態が知れるだろう。兄がどれほど心を痛めることだろうか。
 そこまで考えた途端、制御を失った怒りが胸を突き上げた。よくも、と身のよじれそうな憤怒に目が眩む。

「饗庭家老を呼べ。今、すぐ。余の前に連れて参れ」

 吼えるように命じると、

「ただちに」

 佐々岡が目を吊り上げ、小姓に指図する。小姓が退出しようと後ずさるのを、燃えるような目で凝視した宗靖は、次の瞬間瞼を閉じた。

「……待て」

 脇息に肘を置いて、片手で額を覆う。胸に燃え上がった怒りが掻き消えていた。代わりに、冷たく空虚な風が腹の中を通り抜ける心地がする。

「若君?」
「もう、よい」

 訝しむ近侍たちに、ぼそりと言う。

「……もう、手遅れであろう。饗庭を呼びつけたところで、無為なことよ」

 平素溌剌はつらつとしている体から、精気が抜けていく。
 決定は下されたのだ。饗庭がどれだけこの企みに噛んでいるのか計りかねるが、十七の宗靖が饗庭にいくら怒りをぶつけようと、彰久の意志が覆ることなどない。聡明な少年であるだけに、自らの置かれた状況は残酷なほど明瞭に理解ができた。

「……礼子どのに、何と詫びればよいものか」

 障子を焦がすばかりの日差しをぼうっと見やり、虚ろに呟く。
 上野国こうずけのくに高崎藩主、松平輝延てるのぶの息女である礼子は、来春に輿入れすることとなっていた。二つ年下の十五歳、並々ならぬ書画の腕前の持ち主で、琴や鼓にも秀でるという。それから、実はまことに活発な姫君で乗馬を好むらしい。馬術に抜きん出ている宗靖はこれを大いに喜んで、

「江戸にてご一緒に遠乗り致したく候」

 と文を認めた。すると、

御思おんおぼめしかたじけなく候。じゃじゃ馬にて跳ねてよろこび候」

 などという無邪気な返事が即座にあった。
 お美しく慎ましやかな姫君にて、と文を運んできた大河内松平家の使者が必死に取り繕うのを前に、笑いを堪えるのに苦労したものだ。
 面白い姫君だ。
 姿の美醜にはさして関心の無い宗靖だが、高貴の身分の女らしからぬ飾り気の無さが好ましいと思った。
 それからも、折に触れて他愛のない文を交わした。軽妙な受け答えには賢さと率直さとが同居していて、何と返そうかと頭をひねるのも愉快だ。姫が手ずから認めた筆跡は美しく、次の文が届くのを知らず心待ちにするようになっていた。
 吹輪の髪に打掛の裾を引いた姫の姿が、目に浮かぶ。
 見たこともない、想像でしかない姿だ。だが、文を読む度、頭の中でその姫が笑い、語り、こちらを見詰める気がした。
 恋と呼ぶにはあまりにも淡い。しかし、それでも恋には違いなかった。
 失った今にして、胸の痛みにそれを知る。

「──遠乗りの約束は、果たせなくなったな」

 佐々岡が、若君、と絞り出し、啜り泣く声を遠くに聞く。
 晩夏を生き急ぐように、狂気のごとく叫ぶ蝉の声が、鋭く耳を刺していた。
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

出雲屋の客

笹目いく子
歴史・時代
短篇です。江戸堀留町の口入屋『出雲屋』は、乳母奉公と養子縁組ばかりを扱う風変わりな口入屋だった。子を失い、横暴な夫に命じられるまま乳母奉公の口を求めて店を訪れた佐和は、女店主の染から呉服商泉屋を紹介される。 店主の市衛門は妻を失い、乳飲み子の香奈を抱えて途方に暮れていた。泉屋で奉公をはじめた佐和は、市衛門を密かに慕うようになっていたが、粗暴な夫の太介は香奈の拐かしを企んでいた。 夫と離縁し、行き場をなくした佐和を、染は出雲屋に雇う。養子縁組の仕事を手伝いながら、佐和は自分の生きる道を少しずつ見つけて行くのだった。

深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子
歴史・時代
第8回歴史·時代小説大賞特別賞受賞。コメディタッチのお江戸あやかしミステリー。連作短篇です。 大店の次男坊・仙一郎は怪異に目がない変人で、深川の屋敷にいわく因縁つきの「がらくた」を収集している。呪いも祟りも信じない女中のお凛は、仙一郎の酔狂にあきれながらも、あやしげな品々の謎の解明に今日も付き合わされ……。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

新選組誕生秘録ー愛しきはお勢ー

工藤かずや
歴史・時代
十八才にして四十人以上を斬った豪志錬太郎は、 土方歳三の生き方に心酔して新選組へ入る。 そこで賄い方のお勢の警護を土方に命じられるが、 彼の非凡な運と身に着けた那智真伝流の真剣術で彼女を護りきる。 お勢は組の最高機密を、粛清された初代局長芹沢 鴨から託されていた。 それを日本の為にとを継承したのは、局長近藤ではなく副長の土方歳三であった。 機密を手に入れようと長州、薩摩、会津、幕府、朝廷、明治新政府、 さらには当事者の新選組までもが、お勢を手に入れようと襲って来る。 機密は新選組のみならず、日本全体に関わるものだったのだ。 豪士は殺到するかつての仲間新選組隊士からお勢を護るべく、血みどろの死闘を展開する。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。