上 下
5 / 19
1巻

1-2

しおりを挟む
 黒髪の結ぼれたる思いには
 けて寝た夜の枕とて ひとり寝る夜のあだ
 袖は片敷く妻じゃと云うて 愚痴な女子の心も知らず
 しんとけたる鐘の声 夕べの夢の今朝覚めて
 床し懐かしやるせなや
 積もるとしらで積もる白雪


 次第に影を濃くする庭に、哀調に満ちた唄と旋律が切々と染みていく。
 長唄のめりやす、『黒髪』である。めりやすとは唄方うたかた一人に三味線一ちょうで合わせる短い下座げざ音楽をいい、ゆったりとした曲調に手も単純だが、それでいて胸に迫る叙情じょじょうがある。
 少年が微動だにせずこちらを見ている。白々しらじらとしていた顔に血が上り、大きな双眸が稲妻いなずまに打たれたかのように見開かれていた。わびしく湿った余韻よいんを引く糸の音が、唄を追って消えていくのに耳を傾け、久弥はゆっくりと口を開いた。

「……父は武家だったが、母は三味線の師匠をしていてな。子供の時分から三味線ばかり弾いてきた。幸い才があったようで、こうして芸で身を立てている」

 そう語って、小さな白い顔を眺める。

「三味線は初めてか?」

 子供がわずかに頷くのを見て、驚くよりも、やはり、という暗い気持ちが勝った。普通の育ち方をしているとは思えなかったが、三味線の音も知らないというのはいよいよ尋常ではない。

「……もっと聴きたいか」

 そう言った途端、みるみる頬を赤らめせわしく頷くので、久弥は思わず破顔した。人形のように無反応であったとは思えぬほど、つぶらな瞳が輝いている。
 久弥は再び三味線を構え、一挙一動を見詰める視線を感じながら、撥を糸に打ち付けた。


 もみじ葉の 青葉に茂る夏木立こだち 春は昔になりけらし
 世渡るなかの品々に われは親同胞はらからの為に沈みし恋の淵……


 めりやす『もみじ葉』の悲哀に満ちた美しい調べに、少年が息をするのも忘れて聴き入っている。久弥はそっと目をみはった。なんという表情を浮かべているのだろうか。三味線という未知との邂逅かいこうに、おののきながら魅了されている。体と心のすべてで旋律に没入している。年端としはもいかぬ子供とは思われぬほど、心を震わせている。
 まるで、今目覚めたばかりの赤子のようだ。世界がそこにあることを初めて知ったかのように、あどけない両目を見開いている。そしておずおずと、胸を躍らせて、その世界を見回している。
 不思議な子供だ。撥を翻しながら、久弥はその顔にじっと見入っていた。



 翌日になっても、少年は相変わらず夜着にくるまっていて、おっかなびっくり風呂に入り、飯を食べる他は、久弥の演奏を聴いて過ごした。
 門人への稽古も休みにして、久弥は少年の求めるまま三味線をかなで続けた。
 楽しかった。三味線のことなどまるでわからぬ子供に、弾いてくれと求められるのが無性むしょうに嬉しかった。
 入相いりあいかねが鳴る。開いた障子から見上げた空に雲が広がり、夕闇ゆうやみが濃さを増していた。
 行灯あんどんに灯りを入れるのも忘れて奏でていた久弥は、段切りの余韻を聴きながらようやく手を止めた。己でもあきれるほどよく弾いたものだ。心地よい疲労を感じながら、驚くべき集中力を見せて聴き入っていた子供に笑いかける。

「腹が減っただろう。夕餉ゆうげにしようか」

 そう言いながら、三味線を稽古部屋へ戻そうと膝を立てた時。

「……三味線」

 かすれた細い声が耳をで、久弥は動きを止めた。――しゃべった。心ノ臓しんのぞうはずむのを覚えながら子供を凝視ぎょうしする。

「……三味線、俺にも……弾けるでしょうか。稽古をすれば、お師匠さんみたいに、弾けるように、なりますか……?」

 自分を抑えきれぬように、ぎこちなく、しかし懸命に言葉をつむぐ。
 少年のだったように赤い顔が、薄闇越しでも見て取れる。思いがけない言葉に久弥が戸惑っていると、子供は蒲団を出て膝をそろえた。

「三味線が、好きです。……必死にやります。教えて、もらえますか……?」

 今にも気を失いそうな風情ふぜいで答えを待っている少年を、静かに見詰めた。どこの誰とも知れぬ子供であるし、いつまで導いてやれるか、才があるかどうかも判然とはしない。
 ――だが……。
 小刻こきざみに揺れる瞳が、胸に食い入る心地がする。無下むげにはできない切実さがあった。これほど音曲おんぎょくに心震わせる少年を、三味線から引き離すことが躊躇われた。
 三味線は、死や孤独のつきまとう人生をいられてきた久弥のすべてだった。芸の道は果てしない。けれども生きるにあたいするものだ。その思いが己を支えてきた。
 同じ道を求める少年の気持ちが、わかる気がする。

「才があるかどうかは稽古してみないことにはわからない。だが、弾きたいのなら教えよう。芸の道は長い。……精進しょうじんすることだ」

 少年が両目を瞠り、息を止める。そのまま硬直しているのでやわらかく目で頷くと、あえぐように息を吸った。かちかちと歯が鳴り出す。勇気をかき集めて、決死の覚悟で言ったのだろう。

「――あ……ありがとう存じます……」

 少年はぶるぶる震えながら、がばと畳にひたいをつけた。

「お前、名は何という? どこから来た」

 もう訊ねてもいいだろうと思って口にした途端、子供はぎくりとして顔を上げた。それきりこおりついたかのごとく固まっている。

「……言いたくないのなら、いい。気にするな」

 安心させるように言うと、

「ないんです」

 と軋んだ声が返ってきた。

「な……ないのです。名は、ありません。あ、あいすみません……」

 久弥は答えの異様さに絶句した。耳朶みみたぶまで真っ赤にした子供が、つっかえつっかえ言う。

「家ではいつも、おい、とか、餓鬼がきとか、与三郎よさぶろうとか、そういうふうに呼ばれていたので」

 与三郎が自分の名前かとも思ったが違うらしい、と付け加える。
 久弥は呆気あっけに取られてから唇を歪めた。歌舞伎かぶきの『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、切られ与三郎か。やくざの親分、赤間源左衛門あかまげんざえもんめかけのおとみれあって、源左衛門に三十四カ所もなます斬りにされ、体中傷だらけになった若旦那わかだんなのことだ。そんな渾名あだなで痣だらけの子を呼ぶなど悪趣味にもほどがある。

「在所は、室町むろまち二丁目の呉服商の、『春日かすが』といいます」

 一度たどたどしく話しはじめると、少年の喉に詰まっていたものが取れたかのように、次々言葉があふれ出した。


『春日』の内儀ないぎ正吉しょうきちという若い手代てだいと密通してできた子で、十になるのだという。
 少年が生まれると、乳飲ちのの間のみ女中が最低限の世話をしただけで、母である内儀は何の関心も示さなかった。店主夫婦にはもう二人の息子がいて、少年は厄介者やっかいものでしかなかったのだ。幼い頃から奉公人たちに下働き同然に扱われ、店の外へは出してもらえず、誰かの勘気かんきこうむれば食事を抜かれ、冬でも井戸端いどばたで水をかぶって体を清める生活だった。
 それで済めばまだいいものの、店主と手代からの陰惨いんさん折檻せっかんにもさらされた。内儀は美しい女だったが勝気で気位きぐらいが高く、店の番頭ばんとうから婿養子むこようしとなった店主は何かと鬱屈うっくつを溜めていた。そこに、妻が奉公人と不義を働いたうえに身籠みごもったのだから、店主の怨念おんねんがすさまじかったのも当然の成り行きだった。父である手代は奉公を解かれることこそなかったが、店主から罵詈雑言ばりぞうごんを投げつけられ、あるいは当てつけのようにこき使われた。その鬱憤うっぷんを晴らすかのごとく、正吉は店主からかばうどころか同じくらいに容赦なく少年をいたぶったという。
 ここ数年酒癖さけぐせが悪くなっていた店主は、折檻が度を越すことが多くなっていた。木刀で腰やもも手酷てひどく打たれて、翌日足を引きずって過ごすこともあった。昨年末に背中を打ち据えられた後は、あまりの痛みに息をするのにも難儀したという。

「腕を打たれた時はすごく腫れたのでびっくりして、今度殴られたら死ぬのかな、と思いました。次の日に、火事が起きたんです。昼頃には半鐘はんしょうが鳴って、真っ黒い煙がどんどん近づくのが見えました。みんな逃げる支度に追われていて、俺のことなんて誰も気にしてなくて。それで……」

 唐突に、まったく突然に、逃げよう、と思った。
 そう思ったら、重い足枷あしかせが外れたかのように体が軽くなった。
 混乱した店と屋敷を忍び出て、庭の木戸から外へ出た。戸に手をかけた瞬間、誰かが飛んできて殴りつけるかと思ったが、誰にもとがめられることなく、あっさりと戸は開いた。
 店の敷地の外へ出たのは初めてのことで、何だか気持ちがふわふわする。
 近火を知らせる半鐘ばんしょうに混じって、隣近所から殺気立った喧騒が聞こえてくるのが物珍しく、胸がどきどきと高鳴り、掌には汗が滲んだ。店主や手代たちに見つかったら、きっとひどくしかられる。ただの折檻ではすまないかもしれない。
 けれど、木戸を出た裏道は静かで、誰も追ってくる気配はなかった。
 誰も己がここにいることに気づかない。咎めないし、止めない。
 切羽詰せっぱつまった半鐘の音が狂ったように鳴り響き、遠くの悲鳴を乗せたきな臭い風が顔を撫でる。
 恐怖はなかった。心は、ただ穏やかだった。
 青空を覆い尽くそうとする禍々まがまがしい煙を見上げながら、伸び伸びと深呼吸をした。

「嬉しくなって、どんどん店から離れて歩いていました」

 万が一にも店の者が追ってこないように、方角を変えながら逃げた。
 炎と煙が押し寄せる中を、逃げ惑う人々の波を避けるようにして、歩いて、走って、また歩く。天水桶てんすいおけや井戸を見つけては水をかぶり、夕刻なのか夜なのかも定かではない闇の中、燃え残った稲荷神社の木の下でうずくまって過ごした。そして早朝にまた歩き出し、気がつくと灰燼と化した町跡にぽつんと佇んでいた。
 無数の灰が花びらのように舞っている。
 自由で、空虚で、時が止まったかのごとく感じられた。
 お江戸の町は全部燃えてしまったのだろうか。店も燃えたかな、とぼんやり考える。
 それでも構わない気がした。
 足が疲れて棒のようだ。目も腕も痛くて、喉もひりひりして腹も減ったけれど、店にいても大差ない暮らしなのだ。もう怖い思いをしなくてすむのだから、別にいい。
 そんなことを考えつつ、どこともわからぬ橋の上で濁った川面を眺めていると、花吹雪のような灰の向こうから、黒ずくめの着物に二本差しの青年が音もなく現れた。


 藍を溶かしたような闇が、寝間に満ちていた。
 少年がどんな表情を浮かべているのか、もうおぼろにしか見て取れない。ただ、半纏に埋もれる華奢きゃしゃな影が、青い闇の中に辛うじて見て取れるばかりだ。ともすれば見失いそうなその影に、久弥はぽつりと言った。

「……名前がないのは不便だな。まずは名を考えよう。どう呼ばれたい」
「名前……」

 戸惑ったように少年が首をかしげる。

「あの……よくわかりません。名前って……どうやって付けるのですか。自分で付けるものなんですか」

 久弥はものの形も判別できない暗い庭に目をって、しばらく考えた。

「そうだな、私も子供の名付けなぞしたことはないし……私の知己ちきの幼名で良ければ使うか。もっと成長した時に変えたくなったら、好きに変えたらいい」
「はい、そうします。何という名ですか」
「青い馬と書いて青馬そうまという。白い馬のことを青馬あおうまと呼ぶんだがね。青馬を見ると吉兆を呼ぶという故事から取ったそうだ」
「……そうま」

 少年はゆっくり繰り返した。
 それから、そうま、そうま、と大事そうに、言葉を覚えたての幼子のように幾度もとなえる。
 その顔が、不意に月明かりに淡く浮かび上がった。雲が切れたらしい。明るいと思ったら、今夜は満月であったはずだ。白いあやに似た月光が、縁側をつやつやしく濡らしている。
 たった今、青馬と名付けられた少年は、そうま、と一心につぶやいていた。ほんのり白く輝く頬が新雪を思わせる。青く見えるほど澄んだ双眸には、月光を映し込んだ清らかな光が躍っている。人形が生身の子供となったと見紛うばかりに、それは鮮やかな変化に思えた。

「青馬」

 呼びかけると、一呼吸置いて少年がぱっと顔を上げた。
 両目を瞠り、頬をじわりと赤くする。躊躇うように唇を動かすのを見下ろしながら、久弥は静かに待った。束の間浅い呼吸を繰り返した少年は、こくりと喉を動かすと、

「……はい」

 そうっと返事をして、笑った。
 月明かりを宿した目をほころばせ、青馬は初めて、はにかみながら笑っていた。



     二


 格子窓こうしまどから差し込む幾筋もの朝日が、煮炊にたきの湯気に淡く浮かび上がる。
 納豆売りやしじみ売りの威勢のいい声が松坂町にこだましている。それを聞きながら、襷掛けをした久弥は熱々のかまの飯をおひつへ移していた。頭の中では、青馬と名付けた少年をどう世話しようかと考えを巡らせている。まずは体をなおして、少しずつ三味線に慣れさせよう。『春日』がどうなったのかも確かめねば……などと思料するうち、廊下の奥から慌てふためいた足音が聞こえてきた。

「お師匠様」

 半纏を引きずるようにして現れるなり、青馬が板敷に両手をつく。

「お、おはようございます。寝過ごして相すみません」

 切羽詰まった顔で言うので、久弥はしゃもじを持ったままぽかんとした。

朝餉あさげなら俺が拵えます。水汲みずくみも掃除も洗濯もやります。教えていただければ、使いにも出ます。本当に申し訳ありません……」
「待て、待て」

 片手を上げてさえぎると、久弥は苦笑いした。

「謝ることなんぞない。ここは商家ではないし、お前は奉公人でもないんだから、そんなふうに働く必要もない。傷だってまだ痛むだろう」
「このくらい平気です。腕は動きます」

 平然として答える少年に、久弥の胸が強張った。『春日』ではってでも働くよう強いられていたのだろう。

「いいんだ。子供がそんな無理をするものじゃない」

 低く言うと、ですが、と青馬がもどかしげに身を乗り出す。

「助けていただいたお礼もまだ……稽古の束脩そくしゅうも払えないので……」
「そんなことは気にするな。お前から金を取ろうなんて思っちゃいないよ」
「……でも……それじゃあ、何をしたらいいんでしょうか……?」

 途方に暮れて口籠もるので、久弥はおかしいような哀れなような気持ちで眉を下げた。

「他の子供がすることをしていたらいいさ。飯を食って、手習いをして、表で友達と遊んで、三味線の稽古をすればいい」

 とんでもない無理難題を言いつけられたといわんばかりに、青馬が目をく。

「……だけど、あのう、そんなわけには……」

 しじみが口を開いた鍋に味噌みそを溶きながら、久弥は肩越しに振り返った。

「とりあえず、体がつらくなければ外で遊んできたらどうだ。天気もいいしな」
「はい。わかりました。遊んできます」

 悲愴な顔つきで頷いた後、青馬は所在なげに目を瞬かせ、おずおずと言う。

「……お師匠様、遊ぶって、何をしたらいいのですか」

 久弥は思わず、ふ、と笑った。毎日働き詰めに働かされ、遊んだことなどないのだろう。笑うことではないのだが、青馬の言動は妙に人の心をなごませる。外の世界から隔絶されていたせいなのか、もともとの美質なのか、この少年には早熟な琴線きんせんがある一方で、幼子のように無邪気むじゃきで素直なところがあるらしい。
 笑みを含んだ目で己を眺める久弥を、青馬は不思議そうにちらちらと見上げていた。


「お師匠、邪魔するよ」

 居間で朝餉を食べ終えた頃、庭から声がかかった。
 はい、と応じて障子を開くと、憂い顔の医者が縁側の前に立っている。

「お師匠、あの坊主……」

 言いかけた橋倉の両目が、青馬を見て丸くなった。

「えっ、お前……あの坊主か?」

 大きすぎる半纏にくるまったままだが、風呂に入り小ざっぱりとした少年を穴が開くほど見詰め、

「へぇ、こいつは魂消た。まるで別人だぜ」

 と笑み崩れる。
 青馬は顔を火照ほてらせて膝を揃えると、両手をついて口を開いた。

「あ、あのう……手当てしていただきありがとう存じます。お礼が遅くなり相すみません」

 細く澄んだ声を聞いた途端、橋倉は手にしていた薬箱を取り落とさんばかりに仰天し、

「なんだ、喋ったじゃねぇか!」

 と頓狂とんきょうな声を上げて呵々大笑かかたいしょうしたのだった。
 縁側にかけた橋倉に、青馬の出自を手短に打ち明けた。橋倉は痛ましげな視線を青馬へ向けていたが、

「……青馬か。うん、いきな名前だ。いい名前をもらってよかったな、青馬」

 鼻をすすりながら明るく言い、そうだ、とかたわらの風呂敷包ふろしきづつみを手にした。

「こいつはお前さんに持ってきたんだよ。お師匠は子供の着物なんぞ用意がなかろうと思ってな」

 内儀のお三津みつが、七つの息子の着物を仕立て直したのだという。

「ありがとうございます。勝手がわからないもので、助かります」

 久弥がありがたく受け取る横で、青馬も慌てて頭を下げるのを、橋倉はにこにこしながら眺めていた。
 青地に亀甲文様きっこうもんようの子供らしいあわせに着替えると、青馬は金魚のように頬を赤くして、ありがとう存じます、と言いながらうっとりと着物を見下ろした。
 が、どういうわけか半纏を手放すのは気が進まぬらしく、

「……着ていてもいいですか」

 と小声で訴えてきた。
 この家に来てからずっと着ていたので安心するのかもしれない。いいよ、と久弥が言うが早いかいそいそと半纏を羽織り、袖を引きずりながら満足そうにする。その様子に、二人は肩を揺らして小さく笑った。


 橋倉が去った後、三人の門人が稽古に訪れた。その間、青馬は隣の寝間で息をひそめて稽古を聴いていた。ことりとも音がしないので、眠くなったのだろうかと唐紙を開けてみると、青馬は唐紙の前で膝を揃えて座ったままだった。

「ずっとそうしていたのか」

 なかば呆れて訊ねると、少年は白い頬を紅潮させてこっくりと頷く。

「三味線は難しいんですね。みんなお師匠様のように唄ったり弾いたりできるのかと思っていました。お師匠様はとても上手じょうずなんですね」

 久弥は横を向いて笑いをこらえた。師匠と比べられたら弟子でしたちが気の毒な話である。

「まぁ、教える人間が上手うまくなくては話にならんからな。それに、あの三人がさらっている曲は、どれもなかなか難しいんだよ」

 どの曲が好きだったかと訊ねると、

「どれも好きですが、最後の人の曲は特に好きです」

 と言って耳朶を赤くする。
越後獅子えちごじし』だ。『越後獅子』は『遅桜手爾波七字おそざくらてにはのななもじ』のうちの舞踏曲の一つで、三下りの旋律が美しく、唄も華やかで調子がいい。
 なるほど、あの曲は初めて聴いても面白いだろうと思いながら、ふと悪戯心が湧いた。

「そうか。どういう曲だったか唄えるか?」

 虚をかれたように目を瞬かせた青馬は、袂をもてあそびながらうつむいた。初めて聴いたのだから土台無理な話ではある。いや、気にするな、と久弥が口を開こうとした途端。
 青馬が唄い出した。


 打つや太鼓の音も澄み渡り 角兵衛かくべえ角兵衛と招かれて
 居ながら見する石橋しゃっきょうの 浮世を渡る風雅者
 うたふも舞ふもはやすのも 一人旅寝の草枕……


 肌が粟立あわだった。身を乗り出し、息を詰めて耳を澄ませる。子供ゆえ声は伸びないが、音にも調子にもほとんど狂いがない。唐紙を隔てた隣の部屋で、久弥が唄うのを聴きながら覚えたというのか。
 久弥はさっと稽古部屋の三味線に手を伸ばし、音を抑えて合わせはじめた。青馬はびっくりしたように一瞬声を小さくしたが、すぐに笑顔になって唄い続ける。


 おらが女房をほめるぢゃないが 飯も炊いたり水仕事
 麻るたびの楽しみを 独り笑みして来りける
 越路潟こしじがた お国名物は様々あれど 田舎いなかなまりの片言まじり
 しらうさになる言の葉を 雁の便りに届けてほしや……


 初段のさらし合方あいかたを奏でていた手が、止まっていた。
 もう弾かないのだろうか、というように、軽く息を弾ませた青馬が目を輝かせてこちらを見る。
 ――すべて頭に入っている。完全に、覚えている。

「お前、もしや」

 久弥はごくりと喉を鳴らした。

一昨日おとといから弾いて聴かせた曲も、同じように覚えているのか?」

 はい、と青馬が当然のごとく首肯するのを見て、軽い眩暈めまいを覚えた。
 三味線は、唄もげんも耳で聴き、体で覚える口伝くでんによって習得する。つまり見取り稽古が基本だ。そのためめりやす一曲でも、三味線の初心者が覚えるのは相当に苦労する。正確で繊細な耳と覚えのよさがなければ、技倆ぎりょう以前の問題で三味線を弾くことは覚束おぼつかないのだ。
 六つで岡安派おかやすはの母に弟子入りした時から、久弥にはそれが苦にもならなかった。三味線の師匠がしばしば弟子に言う言葉に「調子三年、勘八年」というものがあるが、これは三味線演奏の基礎である調弦と勘所の習得にさえ、かように長い年月を要することを表したものだ。しかし久弥は、七つを待たずに調子合わせも勘所も完全に習得して母を驚愕させた。
 十五の時に杵屋きねや派に師事して頭角を現し、唄方の芳村よしむら派にも弟子入りして名を上げ、十七の年に中村座なかむらざで最年少のタテ三味線となった頃には、久弥はすでに名手の名をほしいままにしていた。
 見取りに長けていることは、芸事において重要な素養である。そのうえで、ずば抜けた技術を備え、絃と唄の間を自在にし、音曲に命を吹き込む境地に至る者が名手と呼ばれる。指使いや撥捌ばちさばきは、多少器用ならどうにかなる。だが耳のよさと勘のよさ、これだけは天稟てんぴんだ。

「あの……」

 凝然ぎょうぜんとして黙り込んだ久弥を、青馬が訝しげに見上げている。
 久弥はふっと肩を下げて嘆息してから、

「……腕が辛くなければ、弾いてみるか」

 と三味線を差し出した。青馬ははじかれたように腰を浮かせ、おろおろしながら三味線と久弥を見比べていたが、やがて頬を上気させて頷いた。

「はい。はい、弾いてみたいです」

 三味線を持たせ、どうさおの構え方、撥の持ち方、本調子・二上にあがり・三下りといった基本的な調絃を教える。さらに勘所の押さえ方と奏法も一通りさらった。呑み込みが早いのにはいまさら驚かなかった。雲を掴むかのごとく覚束なかった調弦と勘所の押さえ方も、繰り返し合わせるたびにみるみる精度が上がっていく。手首がやわらかく、指先の力が強く切れがあるうえに、実にこまやかに動く。子供とは思えぬ集中力で、少しも気がれない。何より、三味線が生み出す音色と旋律の美しさを、たましいを震わすようにして楽しんでいる。
 ――これは、ものになる。
 夢中で手を動かす少年を見詰めながら、久弥は胸が高鳴るのを感じた。


「まぁ、あの火事で。さぞ怖かったことでしょうね。迷子だなんてかわいそうに」

 中食ちゅうじきの後、稽古に訪れた真澄ますみはそう言って嘆息した。

柳橋やなぎばしの芸者仲間の家や、お世話になっている置屋さんも焼けてしまいました。むごいこと……」

 真澄は弟子入りして三年目になる門人で、名妓めいぎと名高い柳橋芸者だ。置屋の者や芸者衆は幸い無事で、浅草千束あさくさせんぞくの寮へ避難したのだという。娘のなめらかな白い頬が心なしかやつれて見え、久弥は眉を曇らせた。

「真澄さん、大丈夫ですか。今日の稽古は休みにしては……」

 思わず小声で言うと、真澄の濡れたように艶やかな双眸が、慕わしげな色を浮かべた。

「ありがとうございます。でも、いつも通りにしていた方が気が休まるんです。それに……お師匠のお顔が見たかったし」

 やわらかな丸い声が耳を撫でる。久弥は娘の顔を直視できず目を伏せた。小さな稽古部屋に二人でいるのが、急に息苦しくなる。自分も会いたかったのだと、そう返してやれない己が歯痒はがゆかった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】呪われ王子は生意気な騎士に仮面を外される

りゆき
BL
口の悪い生意気騎士×呪われ王子のラブロマンス! 国の騎士団副団長まで上り詰めた平民出身のディークは、なぜか辺境の地、ミルフェン城へと向かっていた。 ミルフェン城といえば、この国の第一王子が暮らす城として知られている。 なぜ第一王子ともあろうものがそのような辺境の地に住んでいるのか、その理由は誰も知らないが、世間一般的には第一王子は「変わり者」「人嫌い」「冷酷」といった噂があるため、そのような辺境の地に住んでいるのだろうと言われていた。 そんな噂のある第一王子の近衛騎士に任命されてしまったディークは不本意ながらも近衛騎士として奮闘していく。 数少ない使用人たちとひっそり生きている第一王子。 心を開かない彼にはなにやら理由があるようで……。 国の闇のせいで孤独に生きて来た王子が、口の悪い生意気な騎士に戸惑いながらも、次第に心を開いていったとき、初めて愛を知るのだが……。 切なくも真実の愛を掴み取る王道ラブロマンス! ※R18回に印を入れていないのでご注意ください。 ※こちらの作品はムーンライトノベルズにも掲載しております。 ※完結保証 ※全38×2話、ムーンさんに合わせて一話が長いので、こちらでは2分割しております。 ※毎日7話更新予定。

稀代の癒し手と呼ばれた婚約者を裏切った主様はすでに手遅れ。

ぽんぽこ狸
BL
 王太子であるレオンハルトに仕えているオリヴァーは、その傍らでにっこりと笑みを浮かべている女性を見て、どうにも危機感を感じていた。彼女は、主様に婚約者がいると知っていてわざわざ恋仲になったような女性であり、たくらみがあることは明白だった。  しかし、そんなことにはまったく気がつかないレオンハルトはいつもの通りに美しい言葉で彼女を褒める。  レオンハルトには今日デビュタントを迎える立派な婚約者のエミーリアがいるというのに、それにはまったく無関心を決め込んでいた。  頑ななその姿勢が何故なのかは、オリヴァーもわからなかったけれども、転生者であるオリヴァーはどこかこんな状況に既視感があった。それはネットで流行っていた痛快な小説であり、婚約者を裏切るような王子は破滅の未知をたどることになる。  そういう王子は、何故か決まって舞踏会で婚約破棄を告げるのだが、まさかそんなことになるはずがないだろうと考えているうちに、レオンハルトの傍らにいる女性が彼を煽り始める。  それを皮切りに小説のような破滅の道をレオンハルトは進み始めるのだった。  七万文字ぐらいの小説です。主従ものです。もちろん主人公が受けです。若干SMっぽい雰囲気があります。エロ度高めです。  BL小説は長編も沢山書いてますので文章が肌に合ったらのぞいていってくださるとすごくうれしいです。

全ての悪評を押し付けられた僕は人が怖くなった。それなのに、僕を嫌っているはずの王子が迫ってくる。溺愛ってなんですか?! 僕には無理です!

迷路を跳ぶ狐
BL
 森の中の小さな領地の弱小貴族の僕は、領主の息子として生まれた。だけど両親は可愛い兄弟たちに夢中で、いつも邪魔者扱いされていた。  なんとか認められたくて、魔法や剣技、領地経営なんかも学んだけど、何が起これば全て僕が悪いと言われて、激しい折檻を受けた。  そんな家族は領地で好き放題に搾取して、領民を襲う魔物は放置。そんなことをしているうちに、悪事がバレそうになって、全ての悪評を僕に押し付けて逃げた。  それどころか、家族を逃す交換条件として領主の代わりになった男たちに、僕は毎日奴隷として働かされる日々……  暗い地下に閉じ込められては鞭で打たれ、拷問され、仕事を押し付けられる毎日を送っていたある日、僕の前に、竜が現れる。それはかつて僕が、悪事を働く竜と間違えて、背後から襲いかかった竜の王子だった。  あの時のことを思い出して、跪いて謝る僕の手を、王子は握って立たせる。そして、僕にずっと会いたかったと言い出した。え…………? なんで? 二話目まで胸糞注意。R18は保険です。

五国王伝〜醜男は美神王に転生し愛でられる〜〈完結〉

クリム
BL
 醜い容姿故に、憎まれ、馬鹿にされ、蔑まれ、誰からも相手にされない、世界そのものに拒絶されてもがき生きてきた男達。 生まれも育ちもばらばらの彼らは、不慮の事故で生まれ育った世界から消え、天帝により新たなる世界に美しい神王として『転生』した。  愛され、憧れ、誰からも敬愛される美神王となった彼らの役目は、それぞれの国の男たちと交合し、神と民の融合の証・国の永遠の繁栄の象徴である和合の木に神卵と呼ばれる実をつけること。  五色の色の国、五国に出現した、直樹・明・アルバート・トト・ニュトの王としての魂の和合は果たされるのだろうか。  最後に『転生』した直樹を中心に、物語は展開します。こちらは直樹バージョンに組み替えました。 『なろう』ではマナバージョンです。 えちえちには※マークをつけます。ご注意の上ご高覧を。完結まで、毎日更新予定です。この作品は三人称(通称神様視点)の心情描写となります。様々な人物視点で描かれていきますので、ご注意下さい。 ※誤字脱字報告、ご感想ありがとうございます。励みになりますです!

美味しく食べてね

丸井まー(旧:まー)
BL
ある日突然『フォーク』になったローランと、そのローランに恋をしている『ケーキ』のラザール。ラザールは夜な夜なローランの部屋に忍び込み、眠るローランに、こっそり自分の血肉を食わせ、自分の味を覚えさせようと試みた。割と頭がぶっとんでいる『ケーキ』ラザールと真面目な常識人『フォーク』ローランの、理性を取っ払って貪り合う愛の物語の始まり。 ※リバです。嘔吐、失禁あります。 ※猫宮乾様主催の『ケーキバースアンソロジー』に寄稿させていただいたものをweb用に編集したものです。 ※ムーンライトノベルズさんでも公開しております。

モブに転生したはずが、推しに熱烈に愛されています

奈織
BL
腐男子だった僕は、大好きだったBLゲームの世界に転生した。 生まれ変わったのは『王子ルートの悪役令嬢の取り巻き、の婚約者』 ゲームでは名前すら登場しない、明らかなモブである。 顔も地味な僕が主人公たちに関わることはないだろうと思ってたのに、なぜか推しだった公爵子息から熱烈に愛されてしまって…? 自分は地味モブだと思い込んでる上品お色気お兄さん(攻)×クーデレで隠れМな武闘派後輩(受)のお話。 ※エロは後半です ※ムーンライトノベルにも掲載しています

ヒーローの末路

真鉄
BL
狼系獣人ヴィラン×ガチムチ系ヒーロー 正義のヒーロー・ブラックムーンは悪の組織に囚われていた。肉体を改造され、ヴィランたちの性欲処理便器として陵辱される日々――。 ヒーロー陵辱/異種姦/獣人×人間/パイズリ/潮吹き/亀頭球

【完結】転生王子は、今日も婚約者が愛しい

珊瑚
恋愛
前世、ビジュアルに惹かれてプレイした乙女ゲームの世界に攻略対象として転生した事に気がついたステファン。 前世の推しで、今世の婚約者である悪役令嬢・オリヴィアを自分は絶対に幸せにすると誓った。 だが無常にも、ヒロインはステファン攻略ルートに入ってしまったようで……

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。