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1巻
1-2
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黒髪の結ぼれたる思いには
解けて寝た夜の枕とて ひとり寝る夜の仇枕
袖は片敷く妻じゃと云うて 愚痴な女子の心も知らず
しんと更けたる鐘の声 夕べの夢の今朝覚めて
床し懐かしやるせなや
積もるとしらで積もる白雪
次第に影を濃くする庭に、哀調に満ちた唄と旋律が切々と染みていく。
長唄のめりやす、『黒髪』である。めりやすとは唄方一人に三味線一挺で合わせる短い下座音楽をいい、ゆったりとした曲調に手も単純だが、それでいて胸に迫る叙情がある。
少年が微動だにせずこちらを見ている。白々としていた顔に血が上り、大きな双眸が稲妻に打たれたかのように見開かれていた。侘しく湿った余韻を引く糸の音が、唄を追って消えていくのに耳を傾け、久弥はゆっくりと口を開いた。
「……父は武家だったが、母は三味線の師匠をしていてな。子供の時分から三味線ばかり弾いてきた。幸い才があったようで、こうして芸で身を立てている」
そう語って、小さな白い顔を眺める。
「三味線は初めてか?」
子供がわずかに頷くのを見て、驚くよりも、やはり、という暗い気持ちが勝った。普通の育ち方をしているとは思えなかったが、三味線の音も知らないというのはいよいよ尋常ではない。
「……もっと聴きたいか」
そう言った途端、みるみる頬を赤らめ忙しく頷くので、久弥は思わず破顔した。人形のように無反応であったとは思えぬほど、円らな瞳が輝いている。
久弥は再び三味線を構え、一挙一動を見詰める視線を感じながら、撥を糸に打ち付けた。
もみじ葉の 青葉に茂る夏木立 春は昔になりけらし
世渡るなかの品々に われは親同胞の為に沈みし恋の淵……
めりやす『もみじ葉』の悲哀に満ちた美しい調べに、少年が息をするのも忘れて聴き入っている。久弥はそっと目を瞠った。なんという表情を浮かべているのだろうか。三味線という未知との邂逅に、おののきながら魅了されている。体と心のすべてで旋律に没入している。年端もいかぬ子供とは思われぬほど、心を震わせている。
まるで、今目覚めたばかりの赤子のようだ。世界がそこにあることを初めて知ったかのように、あどけない両目を見開いている。そしておずおずと、胸を躍らせて、その世界を見回している。
不思議な子供だ。撥を翻しながら、久弥はその顔にじっと見入っていた。
翌日になっても、少年は相変わらず夜着にくるまっていて、おっかなびっくり風呂に入り、飯を食べる他は、久弥の演奏を聴いて過ごした。
門人への稽古も休みにして、久弥は少年の求めるまま三味線を奏で続けた。
楽しかった。三味線のことなどまるでわからぬ子供に、弾いてくれと求められるのが無性に嬉しかった。
入相の鐘が鳴る。開いた障子から見上げた空に雲が広がり、夕闇が濃さを増していた。
行灯に灯りを入れるのも忘れて奏でていた久弥は、段切りの余韻を聴きながらようやく手を止めた。己でも呆れるほどよく弾いたものだ。心地よい疲労を感じながら、驚くべき集中力を見せて聴き入っていた子供に笑いかける。
「腹が減っただろう。夕餉にしようか」
そう言いながら、三味線を稽古部屋へ戻そうと膝を立てた時。
「……三味線」
掠れた細い声が耳を撫で、久弥は動きを止めた。――喋った。心ノ臓が弾むのを覚えながら子供を凝視する。
「……三味線、俺にも……弾けるでしょうか。稽古をすれば、お師匠さんみたいに、弾けるように、なりますか……?」
自分を抑えきれぬように、ぎこちなく、しかし懸命に言葉を紡ぐ。
少年の茹だったように赤い顔が、薄闇越しでも見て取れる。思いがけない言葉に久弥が戸惑っていると、子供は蒲団を出て膝を揃えた。
「三味線が、好きです。……必死にやります。教えて、もらえますか……?」
今にも気を失いそうな風情で答えを待っている少年を、静かに見詰めた。どこの誰とも知れぬ子供であるし、いつまで導いてやれるか、才があるかどうかも判然とはしない。
――だが……。
小刻みに揺れる瞳が、胸に食い入る心地がする。無下にはできない切実さがあった。これほど音曲に心震わせる少年を、三味線から引き離すことが躊躇われた。
三味線は、死や孤独のつきまとう人生を強いられてきた久弥のすべてだった。芸の道は果てしない。けれども生きるに値するものだ。その思いが己を支えてきた。
同じ道を求める少年の気持ちが、わかる気がする。
「才があるかどうかは稽古してみないことにはわからない。だが、弾きたいのなら教えよう。芸の道は長い。……精進することだ」
少年が両目を瞠り、息を止める。そのまま硬直しているのでやわらかく目で頷くと、喘ぐように息を吸った。かちかちと歯が鳴り出す。勇気をかき集めて、決死の覚悟で言ったのだろう。
「――あ……ありがとう存じます……」
少年はぶるぶる震えながら、がばと畳に額をつけた。
「お前、名は何という? どこから来た」
もう訊ねてもいいだろうと思って口にした途端、子供はぎくりとして顔を上げた。それきり凍りついたかのごとく固まっている。
「……言いたくないのなら、いい。気にするな」
安心させるように言うと、
「ないんです」
と軋んだ声が返ってきた。
「な……ないのです。名は、ありません。あ、相すみません……」
久弥は答えの異様さに絶句した。耳朶まで真っ赤にした子供が、つっかえつっかえ言う。
「家ではいつも、おい、とか、餓鬼とか、与三郎とか、そういうふうに呼ばれていたので」
与三郎が自分の名前かとも思ったが違うらしい、と付け加える。
久弥は呆気に取られてから唇を歪めた。歌舞伎の『与話情浮名横櫛』の、切られ与三郎か。やくざの親分、赤間源左衛門の妾のお富と惚れあって、源左衛門に三十四カ所もなます斬りにされ、体中傷だらけになった若旦那のことだ。そんな渾名で痣だらけの子を呼ぶなど悪趣味にもほどがある。
「在所は、室町二丁目の呉服商の、『春日』といいます」
一度たどたどしく話しはじめると、少年の喉に詰まっていたものが取れたかのように、次々言葉が溢れ出した。
『春日』の内儀が正吉という若い手代と密通してできた子で、十になるのだという。
少年が生まれると、乳飲み子の間のみ女中が最低限の世話をしただけで、母である内儀は何の関心も示さなかった。店主夫婦にはもう二人の息子がいて、少年は厄介者でしかなかったのだ。幼い頃から奉公人たちに下働き同然に扱われ、店の外へは出してもらえず、誰かの勘気を被れば食事を抜かれ、冬でも井戸端で水をかぶって体を清める生活だった。
それで済めばまだいいものの、店主と手代からの陰惨な折檻にも晒された。内儀は美しい女だったが勝気で気位が高く、店の番頭から婿養子となった店主は何かと鬱屈を溜めていた。そこに、妻が奉公人と不義を働いたうえに身籠もったのだから、店主の怨念がすさまじかったのも当然の成り行きだった。父である手代は奉公を解かれることこそなかったが、店主から罵詈雑言を投げつけられ、あるいは当てつけのようにこき使われた。その鬱憤を晴らすかのごとく、正吉は店主から庇うどころか同じくらいに容赦なく少年をいたぶったという。
ここ数年酒癖が悪くなっていた店主は、折檻が度を越すことが多くなっていた。木刀で腰や腿を手酷く打たれて、翌日足を引きずって過ごすこともあった。昨年末に背中を打ち据えられた後は、あまりの痛みに息をするのにも難儀したという。
「腕を打たれた時はすごく腫れたのでびっくりして、今度殴られたら死ぬのかな、と思いました。次の日に、火事が起きたんです。昼頃には半鐘が鳴って、真っ黒い煙がどんどん近づくのが見えました。みんな逃げる支度に追われていて、俺のことなんて誰も気にしてなくて。それで……」
唐突に、まったく突然に、逃げよう、と思った。
そう思ったら、重い足枷が外れたかのように体が軽くなった。
混乱した店と屋敷を忍び出て、庭の木戸から外へ出た。戸に手をかけた瞬間、誰かが飛んできて殴りつけるかと思ったが、誰にも咎められることなく、あっさりと戸は開いた。
店の敷地の外へ出たのは初めてのことで、何だか気持ちがふわふわする。
近火を知らせる擦り半鐘に混じって、隣近所から殺気立った喧騒が聞こえてくるのが物珍しく、胸がどきどきと高鳴り、掌には汗が滲んだ。店主や手代たちに見つかったら、きっとひどく叱られる。ただの折檻ではすまないかもしれない。
けれど、木戸を出た裏道は静かで、誰も追ってくる気配はなかった。
誰も己がここにいることに気づかない。咎めないし、止めない。
切羽詰まった半鐘の音が狂ったように鳴り響き、遠くの悲鳴を乗せたきな臭い風が顔を撫でる。
恐怖はなかった。心は、ただ穏やかだった。
青空を覆い尽くそうとする禍々しい煙を見上げながら、伸び伸びと深呼吸をした。
「嬉しくなって、どんどん店から離れて歩いていました」
万が一にも店の者が追ってこないように、方角を変えながら逃げた。
炎と煙が押し寄せる中を、逃げ惑う人々の波を避けるようにして、歩いて、走って、また歩く。天水桶や井戸を見つけては水をかぶり、夕刻なのか夜なのかも定かではない闇の中、燃え残った稲荷神社の木の下で蹲って過ごした。そして早朝にまた歩き出し、気がつくと灰燼と化した町跡にぽつんと佇んでいた。
無数の灰が花びらのように舞っている。
自由で、空虚で、時が止まったかのごとく感じられた。
お江戸の町は全部燃えてしまったのだろうか。店も燃えたかな、とぼんやり考える。
それでも構わない気がした。
足が疲れて棒のようだ。目も腕も痛くて、喉もひりひりして腹も減ったけれど、店にいても大差ない暮らしなのだ。もう怖い思いをしなくてすむのだから、別にいい。
そんなことを考えつつ、どこともわからぬ橋の上で濁った川面を眺めていると、花吹雪のような灰の向こうから、黒ずくめの着物に二本差しの青年が音もなく現れた。
藍を溶かしたような闇が、寝間に満ちていた。
少年がどんな表情を浮かべているのか、もう朧にしか見て取れない。ただ、半纏に埋もれる華奢な影が、青い闇の中に辛うじて見て取れるばかりだ。ともすれば見失いそうなその影に、久弥はぽつりと言った。
「……名前がないのは不便だな。まずは名を考えよう。どう呼ばれたい」
「名前……」
戸惑ったように少年が首を傾げる。
「あの……よくわかりません。名前って……どうやって付けるのですか。自分で付けるものなんですか」
久弥はものの形も判別できない暗い庭に目を遣って、しばらく考えた。
「そうだな、私も子供の名付けなぞしたことはないし……私の知己の幼名で良ければ使うか。もっと成長した時に変えたくなったら、好きに変えたらいい」
「はい、そうします。何という名ですか」
「青い馬と書いて青馬という。白い馬のことを青馬と呼ぶんだがね。青馬を見ると吉兆を呼ぶという故事から取ったそうだ」
「……そうま」
少年はゆっくり繰り返した。
それから、そうま、そうま、と大事そうに、言葉を覚えたての幼子のように幾度も唱える。
その顔が、不意に月明かりに淡く浮かび上がった。雲が切れたらしい。明るいと思ったら、今夜は満月であったはずだ。白い綾に似た月光が、縁側をつやつやしく濡らしている。
たった今、青馬と名付けられた少年は、そうま、と一心に呟いていた。ほんのり白く輝く頬が新雪を思わせる。青く見えるほど澄んだ双眸には、月光を映し込んだ清らかな光が躍っている。人形が生身の子供となったと見紛うばかりに、それは鮮やかな変化に思えた。
「青馬」
呼びかけると、一呼吸置いて少年がぱっと顔を上げた。
両目を瞠り、頬をじわりと赤くする。躊躇うように唇を動かすのを見下ろしながら、久弥は静かに待った。束の間浅い呼吸を繰り返した少年は、こくりと喉を動かすと、
「……はい」
そうっと返事をして、笑った。
月明かりを宿した目を綻ばせ、青馬は初めて、はにかみながら笑っていた。
二
格子窓から差し込む幾筋もの朝日が、煮炊きの湯気に淡く浮かび上がる。
納豆売りやしじみ売りの威勢のいい声が松坂町に谺している。それを聞きながら、襷掛けをした久弥は熱々の釜の飯をお櫃へ移していた。頭の中では、青馬と名付けた少年をどう世話しようかと考えを巡らせている。まずは体を治して、少しずつ三味線に慣れさせよう。『春日』がどうなったのかも確かめねば……などと思料するうち、廊下の奥から慌てふためいた足音が聞こえてきた。
「お師匠様」
半纏を引きずるようにして現れるなり、青馬が板敷に両手をつく。
「お、おはようございます。寝過ごして相すみません」
切羽詰まった顔で言うので、久弥はしゃもじを持ったままぽかんとした。
「朝餉なら俺が拵えます。水汲みも掃除も洗濯もやります。教えていただければ、使いにも出ます。本当に申し訳ありません……」
「待て、待て」
片手を上げて遮ると、久弥は苦笑いした。
「謝ることなんぞない。ここは商家ではないし、お前は奉公人でもないんだから、そんなふうに働く必要もない。傷だってまだ痛むだろう」
「このくらい平気です。腕は動きます」
平然として答える少年に、久弥の胸が強張った。『春日』では這ってでも働くよう強いられていたのだろう。
「いいんだ。子供がそんな無理をするものじゃない」
低く言うと、ですが、と青馬がもどかしげに身を乗り出す。
「助けていただいたお礼もまだ……稽古の束脩も払えないので……」
「そんなことは気にするな。お前から金を取ろうなんて思っちゃいないよ」
「……でも……それじゃあ、何をしたらいいんでしょうか……?」
途方に暮れて口籠もるので、久弥はおかしいような哀れなような気持ちで眉を下げた。
「他の子供がすることをしていたらいいさ。飯を食って、手習いをして、表で友達と遊んで、三味線の稽古をすればいい」
とんでもない無理難題を言いつけられたといわんばかりに、青馬が目を剝く。
「……だけど、あのう、そんなわけには……」
しじみが口を開いた鍋に味噌を溶きながら、久弥は肩越しに振り返った。
「とりあえず、体が辛くなければ外で遊んできたらどうだ。天気もいいしな」
「はい。わかりました。遊んできます」
悲愴な顔つきで頷いた後、青馬は所在なげに目を瞬かせ、おずおずと言う。
「……お師匠様、遊ぶって、何をしたらいいのですか」
久弥は思わず、ふ、と笑った。毎日働き詰めに働かされ、遊んだことなどないのだろう。笑うことではないのだが、青馬の言動は妙に人の心を和ませる。外の世界から隔絶されていたせいなのか、もともとの美質なのか、この少年には早熟な琴線がある一方で、幼子のように無邪気で素直なところがあるらしい。
笑みを含んだ目で己を眺める久弥を、青馬は不思議そうにちらちらと見上げていた。
「お師匠、邪魔するよ」
居間で朝餉を食べ終えた頃、庭から声がかかった。
はい、と応じて障子を開くと、憂い顔の医者が縁側の前に立っている。
「お師匠、あの坊主……」
言いかけた橋倉の両目が、青馬を見て丸くなった。
「えっ、お前……あの坊主か?」
大きすぎる半纏にくるまったままだが、風呂に入り小ざっぱりとした少年を穴が開くほど見詰め、
「へぇ、こいつは魂消た。まるで別人だぜ」
と笑み崩れる。
青馬は顔を火照らせて膝を揃えると、両手をついて口を開いた。
「あ、あのう……手当てしていただきありがとう存じます。お礼が遅くなり相すみません」
細く澄んだ声を聞いた途端、橋倉は手にしていた薬箱を取り落とさんばかりに仰天し、
「なんだ、喋ったじゃねぇか!」
と素っ頓狂な声を上げて呵々大笑したのだった。
縁側にかけた橋倉に、青馬の出自を手短に打ち明けた。橋倉は痛ましげな視線を青馬へ向けていたが、
「……青馬か。うん、粋な名前だ。いい名前をもらってよかったな、青馬」
鼻をすすりながら明るく言い、そうだ、と傍らの風呂敷包みを手にした。
「こいつはお前さんに持ってきたんだよ。お師匠は子供の着物なんぞ用意がなかろうと思ってな」
内儀のお三津が、七つの息子の着物を仕立て直したのだという。
「ありがとうございます。勝手がわからないもので、助かります」
久弥がありがたく受け取る横で、青馬も慌てて頭を下げるのを、橋倉はにこにこしながら眺めていた。
青地に亀甲文様の子供らしい袷に着替えると、青馬は金魚のように頬を赤くして、ありがとう存じます、と言いながらうっとりと着物を見下ろした。
が、どういうわけか半纏を手放すのは気が進まぬらしく、
「……着ていてもいいですか」
と小声で訴えてきた。
この家に来てからずっと着ていたので安心するのかもしれない。いいよ、と久弥が言うが早いかいそいそと半纏を羽織り、袖を引きずりながら満足そうにする。その様子に、二人は肩を揺らして小さく笑った。
橋倉が去った後、三人の門人が稽古に訪れた。その間、青馬は隣の寝間で息をひそめて稽古を聴いていた。ことりとも音がしないので、眠くなったのだろうかと唐紙を開けてみると、青馬は唐紙の前で膝を揃えて座ったままだった。
「ずっとそうしていたのか」
半ば呆れて訊ねると、少年は白い頬を紅潮させてこっくりと頷く。
「三味線は難しいんですね。みんなお師匠様のように唄ったり弾いたりできるのかと思っていました。お師匠様はとても上手なんですね」
久弥は横を向いて笑いを堪えた。師匠と比べられたら弟子たちが気の毒な話である。
「まぁ、教える人間が上手くなくては話にならんからな。それに、あの三人がさらっている曲は、どれもなかなか難しいんだよ」
どの曲が好きだったかと訊ねると、
「どれも好きですが、最後の人の曲は特に好きです」
と言って耳朶を赤くする。
『越後獅子』だ。『越後獅子』は『遅桜手爾波七字』のうちの舞踏曲の一つで、三下りの旋律が美しく、唄も華やかで調子がいい。
なるほど、あの曲は初めて聴いても面白いだろうと思いながら、ふと悪戯心が湧いた。
「そうか。どういう曲だったか唄えるか?」
虚を衝かれたように目を瞬かせた青馬は、袂を弄びながら俯いた。初めて聴いたのだから土台無理な話ではある。いや、気にするな、と久弥が口を開こうとした途端。
青馬が唄い出した。
打つや太鼓の音も澄み渡り 角兵衛角兵衛と招かれて
居ながら見する石橋の 浮世を渡る風雅者
うたふも舞ふも囃すのも 一人旅寝の草枕……
肌が粟立った。身を乗り出し、息を詰めて耳を澄ませる。子供ゆえ声は伸びないが、音にも調子にもほとんど狂いがない。唐紙を隔てた隣の部屋で、久弥が唄うのを聴きながら覚えたというのか。
久弥はさっと稽古部屋の三味線に手を伸ばし、音を抑えて合わせはじめた。青馬はびっくりしたように一瞬声を小さくしたが、すぐに笑顔になって唄い続ける。
おらが女房をほめるぢゃないが 飯も炊いたり水仕事
麻撚るたびの楽しみを 独り笑みして来りける
越路潟 お国名物は様々あれど 田舎訛の片言まじり
しらうさになる言の葉を 雁の便りに届けてほしや……
初段の晒の合方を奏でていた手が、止まっていた。
もう弾かないのだろうか、というように、軽く息を弾ませた青馬が目を輝かせてこちらを見る。
――すべて頭に入っている。完全に、覚えている。
「お前、もしや」
久弥はごくりと喉を鳴らした。
「一昨日から弾いて聴かせた曲も、同じように覚えているのか?」
はい、と青馬が当然のごとく首肯するのを見て、軽い眩暈を覚えた。
三味線は、唄も絃も耳で聴き、体で覚える口伝によって習得する。つまり見取り稽古が基本だ。そのためめりやす一曲でも、三味線の初心者が覚えるのは相当に苦労する。正確で繊細な耳と覚えのよさがなければ、技倆以前の問題で三味線を弾くことは覚束ないのだ。
六つで岡安派の母に弟子入りした時から、久弥にはそれが苦にもならなかった。三味線の師匠がしばしば弟子に言う言葉に「調子三年、勘八年」というものがあるが、これは三味線演奏の基礎である調弦と勘所の習得にさえ、かように長い年月を要することを表したものだ。しかし久弥は、七つを待たずに調子合わせも勘所も完全に習得して母を驚愕させた。
十五の時に杵屋派に師事して頭角を現し、唄方の芳村派にも弟子入りして名を上げ、十七の年に中村座で最年少のタテ三味線となった頃には、久弥はすでに名手の名を恣にしていた。
見取りに長けていることは、芸事において重要な素養である。そのうえで、ずば抜けた技術を備え、絃と唄の間を自在にし、音曲に命を吹き込む境地に至る者が名手と呼ばれる。指使いや撥捌きは、多少器用ならどうにかなる。だが耳のよさと勘のよさ、これだけは天稟だ。
「あの……」
凝然として黙り込んだ久弥を、青馬が訝しげに見上げている。
久弥はふっと肩を下げて嘆息してから、
「……腕が辛くなければ、弾いてみるか」
と三味線を差し出した。青馬は弾かれたように腰を浮かせ、おろおろしながら三味線と久弥を見比べていたが、やがて頬を上気させて頷いた。
「はい。はい、弾いてみたいです」
三味線を持たせ、胴と棹の構え方、撥の持ち方、本調子・二上り・三下りといった基本的な調絃を教える。さらに勘所の押さえ方と奏法も一通りさらった。呑み込みが早いのにはいまさら驚かなかった。雲を掴むかのごとく覚束なかった調弦と勘所の押さえ方も、繰り返し合わせるたびにみるみる精度が上がっていく。手首がやわらかく、指先の力が強く切れがあるうえに、実に細やかに動く。子供とは思えぬ集中力で、少しも気が逸れない。何より、三味線が生み出す音色と旋律の美しさを、魂を震わすようにして楽しんでいる。
――これは、ものになる。
夢中で手を動かす少年を見詰めながら、久弥は胸が高鳴るのを感じた。
「まぁ、あの火事で。さぞ怖かったことでしょうね。迷子だなんてかわいそうに」
中食の後、稽古に訪れた真澄はそう言って嘆息した。
「柳橋の芸者仲間の家や、お世話になっている置屋さんも焼けてしまいました。むごいこと……」
真澄は弟子入りして三年目になる門人で、名妓と名高い柳橋芸者だ。置屋の者や芸者衆は幸い無事で、浅草千束の寮へ避難したのだという。娘の滑らかな白い頬が心なしかやつれて見え、久弥は眉を曇らせた。
「真澄さん、大丈夫ですか。今日の稽古は休みにしては……」
思わず小声で言うと、真澄の濡れたように艶やかな双眸が、慕わしげな色を浮かべた。
「ありがとうございます。でも、いつも通りにしていた方が気が休まるんです。それに……お師匠のお顔が見たかったし」
やわらかな丸い声が耳を撫でる。久弥は娘の顔を直視できず目を伏せた。小さな稽古部屋に二人でいるのが、急に息苦しくなる。自分も会いたかったのだと、そう返してやれない己が歯痒かった。
解けて寝た夜の枕とて ひとり寝る夜の仇枕
袖は片敷く妻じゃと云うて 愚痴な女子の心も知らず
しんと更けたる鐘の声 夕べの夢の今朝覚めて
床し懐かしやるせなや
積もるとしらで積もる白雪
次第に影を濃くする庭に、哀調に満ちた唄と旋律が切々と染みていく。
長唄のめりやす、『黒髪』である。めりやすとは唄方一人に三味線一挺で合わせる短い下座音楽をいい、ゆったりとした曲調に手も単純だが、それでいて胸に迫る叙情がある。
少年が微動だにせずこちらを見ている。白々としていた顔に血が上り、大きな双眸が稲妻に打たれたかのように見開かれていた。侘しく湿った余韻を引く糸の音が、唄を追って消えていくのに耳を傾け、久弥はゆっくりと口を開いた。
「……父は武家だったが、母は三味線の師匠をしていてな。子供の時分から三味線ばかり弾いてきた。幸い才があったようで、こうして芸で身を立てている」
そう語って、小さな白い顔を眺める。
「三味線は初めてか?」
子供がわずかに頷くのを見て、驚くよりも、やはり、という暗い気持ちが勝った。普通の育ち方をしているとは思えなかったが、三味線の音も知らないというのはいよいよ尋常ではない。
「……もっと聴きたいか」
そう言った途端、みるみる頬を赤らめ忙しく頷くので、久弥は思わず破顔した。人形のように無反応であったとは思えぬほど、円らな瞳が輝いている。
久弥は再び三味線を構え、一挙一動を見詰める視線を感じながら、撥を糸に打ち付けた。
もみじ葉の 青葉に茂る夏木立 春は昔になりけらし
世渡るなかの品々に われは親同胞の為に沈みし恋の淵……
めりやす『もみじ葉』の悲哀に満ちた美しい調べに、少年が息をするのも忘れて聴き入っている。久弥はそっと目を瞠った。なんという表情を浮かべているのだろうか。三味線という未知との邂逅に、おののきながら魅了されている。体と心のすべてで旋律に没入している。年端もいかぬ子供とは思われぬほど、心を震わせている。
まるで、今目覚めたばかりの赤子のようだ。世界がそこにあることを初めて知ったかのように、あどけない両目を見開いている。そしておずおずと、胸を躍らせて、その世界を見回している。
不思議な子供だ。撥を翻しながら、久弥はその顔にじっと見入っていた。
翌日になっても、少年は相変わらず夜着にくるまっていて、おっかなびっくり風呂に入り、飯を食べる他は、久弥の演奏を聴いて過ごした。
門人への稽古も休みにして、久弥は少年の求めるまま三味線を奏で続けた。
楽しかった。三味線のことなどまるでわからぬ子供に、弾いてくれと求められるのが無性に嬉しかった。
入相の鐘が鳴る。開いた障子から見上げた空に雲が広がり、夕闇が濃さを増していた。
行灯に灯りを入れるのも忘れて奏でていた久弥は、段切りの余韻を聴きながらようやく手を止めた。己でも呆れるほどよく弾いたものだ。心地よい疲労を感じながら、驚くべき集中力を見せて聴き入っていた子供に笑いかける。
「腹が減っただろう。夕餉にしようか」
そう言いながら、三味線を稽古部屋へ戻そうと膝を立てた時。
「……三味線」
掠れた細い声が耳を撫で、久弥は動きを止めた。――喋った。心ノ臓が弾むのを覚えながら子供を凝視する。
「……三味線、俺にも……弾けるでしょうか。稽古をすれば、お師匠さんみたいに、弾けるように、なりますか……?」
自分を抑えきれぬように、ぎこちなく、しかし懸命に言葉を紡ぐ。
少年の茹だったように赤い顔が、薄闇越しでも見て取れる。思いがけない言葉に久弥が戸惑っていると、子供は蒲団を出て膝を揃えた。
「三味線が、好きです。……必死にやります。教えて、もらえますか……?」
今にも気を失いそうな風情で答えを待っている少年を、静かに見詰めた。どこの誰とも知れぬ子供であるし、いつまで導いてやれるか、才があるかどうかも判然とはしない。
――だが……。
小刻みに揺れる瞳が、胸に食い入る心地がする。無下にはできない切実さがあった。これほど音曲に心震わせる少年を、三味線から引き離すことが躊躇われた。
三味線は、死や孤独のつきまとう人生を強いられてきた久弥のすべてだった。芸の道は果てしない。けれども生きるに値するものだ。その思いが己を支えてきた。
同じ道を求める少年の気持ちが、わかる気がする。
「才があるかどうかは稽古してみないことにはわからない。だが、弾きたいのなら教えよう。芸の道は長い。……精進することだ」
少年が両目を瞠り、息を止める。そのまま硬直しているのでやわらかく目で頷くと、喘ぐように息を吸った。かちかちと歯が鳴り出す。勇気をかき集めて、決死の覚悟で言ったのだろう。
「――あ……ありがとう存じます……」
少年はぶるぶる震えながら、がばと畳に額をつけた。
「お前、名は何という? どこから来た」
もう訊ねてもいいだろうと思って口にした途端、子供はぎくりとして顔を上げた。それきり凍りついたかのごとく固まっている。
「……言いたくないのなら、いい。気にするな」
安心させるように言うと、
「ないんです」
と軋んだ声が返ってきた。
「な……ないのです。名は、ありません。あ、相すみません……」
久弥は答えの異様さに絶句した。耳朶まで真っ赤にした子供が、つっかえつっかえ言う。
「家ではいつも、おい、とか、餓鬼とか、与三郎とか、そういうふうに呼ばれていたので」
与三郎が自分の名前かとも思ったが違うらしい、と付け加える。
久弥は呆気に取られてから唇を歪めた。歌舞伎の『与話情浮名横櫛』の、切られ与三郎か。やくざの親分、赤間源左衛門の妾のお富と惚れあって、源左衛門に三十四カ所もなます斬りにされ、体中傷だらけになった若旦那のことだ。そんな渾名で痣だらけの子を呼ぶなど悪趣味にもほどがある。
「在所は、室町二丁目の呉服商の、『春日』といいます」
一度たどたどしく話しはじめると、少年の喉に詰まっていたものが取れたかのように、次々言葉が溢れ出した。
『春日』の内儀が正吉という若い手代と密通してできた子で、十になるのだという。
少年が生まれると、乳飲み子の間のみ女中が最低限の世話をしただけで、母である内儀は何の関心も示さなかった。店主夫婦にはもう二人の息子がいて、少年は厄介者でしかなかったのだ。幼い頃から奉公人たちに下働き同然に扱われ、店の外へは出してもらえず、誰かの勘気を被れば食事を抜かれ、冬でも井戸端で水をかぶって体を清める生活だった。
それで済めばまだいいものの、店主と手代からの陰惨な折檻にも晒された。内儀は美しい女だったが勝気で気位が高く、店の番頭から婿養子となった店主は何かと鬱屈を溜めていた。そこに、妻が奉公人と不義を働いたうえに身籠もったのだから、店主の怨念がすさまじかったのも当然の成り行きだった。父である手代は奉公を解かれることこそなかったが、店主から罵詈雑言を投げつけられ、あるいは当てつけのようにこき使われた。その鬱憤を晴らすかのごとく、正吉は店主から庇うどころか同じくらいに容赦なく少年をいたぶったという。
ここ数年酒癖が悪くなっていた店主は、折檻が度を越すことが多くなっていた。木刀で腰や腿を手酷く打たれて、翌日足を引きずって過ごすこともあった。昨年末に背中を打ち据えられた後は、あまりの痛みに息をするのにも難儀したという。
「腕を打たれた時はすごく腫れたのでびっくりして、今度殴られたら死ぬのかな、と思いました。次の日に、火事が起きたんです。昼頃には半鐘が鳴って、真っ黒い煙がどんどん近づくのが見えました。みんな逃げる支度に追われていて、俺のことなんて誰も気にしてなくて。それで……」
唐突に、まったく突然に、逃げよう、と思った。
そう思ったら、重い足枷が外れたかのように体が軽くなった。
混乱した店と屋敷を忍び出て、庭の木戸から外へ出た。戸に手をかけた瞬間、誰かが飛んできて殴りつけるかと思ったが、誰にも咎められることなく、あっさりと戸は開いた。
店の敷地の外へ出たのは初めてのことで、何だか気持ちがふわふわする。
近火を知らせる擦り半鐘に混じって、隣近所から殺気立った喧騒が聞こえてくるのが物珍しく、胸がどきどきと高鳴り、掌には汗が滲んだ。店主や手代たちに見つかったら、きっとひどく叱られる。ただの折檻ではすまないかもしれない。
けれど、木戸を出た裏道は静かで、誰も追ってくる気配はなかった。
誰も己がここにいることに気づかない。咎めないし、止めない。
切羽詰まった半鐘の音が狂ったように鳴り響き、遠くの悲鳴を乗せたきな臭い風が顔を撫でる。
恐怖はなかった。心は、ただ穏やかだった。
青空を覆い尽くそうとする禍々しい煙を見上げながら、伸び伸びと深呼吸をした。
「嬉しくなって、どんどん店から離れて歩いていました」
万が一にも店の者が追ってこないように、方角を変えながら逃げた。
炎と煙が押し寄せる中を、逃げ惑う人々の波を避けるようにして、歩いて、走って、また歩く。天水桶や井戸を見つけては水をかぶり、夕刻なのか夜なのかも定かではない闇の中、燃え残った稲荷神社の木の下で蹲って過ごした。そして早朝にまた歩き出し、気がつくと灰燼と化した町跡にぽつんと佇んでいた。
無数の灰が花びらのように舞っている。
自由で、空虚で、時が止まったかのごとく感じられた。
お江戸の町は全部燃えてしまったのだろうか。店も燃えたかな、とぼんやり考える。
それでも構わない気がした。
足が疲れて棒のようだ。目も腕も痛くて、喉もひりひりして腹も減ったけれど、店にいても大差ない暮らしなのだ。もう怖い思いをしなくてすむのだから、別にいい。
そんなことを考えつつ、どこともわからぬ橋の上で濁った川面を眺めていると、花吹雪のような灰の向こうから、黒ずくめの着物に二本差しの青年が音もなく現れた。
藍を溶かしたような闇が、寝間に満ちていた。
少年がどんな表情を浮かべているのか、もう朧にしか見て取れない。ただ、半纏に埋もれる華奢な影が、青い闇の中に辛うじて見て取れるばかりだ。ともすれば見失いそうなその影に、久弥はぽつりと言った。
「……名前がないのは不便だな。まずは名を考えよう。どう呼ばれたい」
「名前……」
戸惑ったように少年が首を傾げる。
「あの……よくわかりません。名前って……どうやって付けるのですか。自分で付けるものなんですか」
久弥はものの形も判別できない暗い庭に目を遣って、しばらく考えた。
「そうだな、私も子供の名付けなぞしたことはないし……私の知己の幼名で良ければ使うか。もっと成長した時に変えたくなったら、好きに変えたらいい」
「はい、そうします。何という名ですか」
「青い馬と書いて青馬という。白い馬のことを青馬と呼ぶんだがね。青馬を見ると吉兆を呼ぶという故事から取ったそうだ」
「……そうま」
少年はゆっくり繰り返した。
それから、そうま、そうま、と大事そうに、言葉を覚えたての幼子のように幾度も唱える。
その顔が、不意に月明かりに淡く浮かび上がった。雲が切れたらしい。明るいと思ったら、今夜は満月であったはずだ。白い綾に似た月光が、縁側をつやつやしく濡らしている。
たった今、青馬と名付けられた少年は、そうま、と一心に呟いていた。ほんのり白く輝く頬が新雪を思わせる。青く見えるほど澄んだ双眸には、月光を映し込んだ清らかな光が躍っている。人形が生身の子供となったと見紛うばかりに、それは鮮やかな変化に思えた。
「青馬」
呼びかけると、一呼吸置いて少年がぱっと顔を上げた。
両目を瞠り、頬をじわりと赤くする。躊躇うように唇を動かすのを見下ろしながら、久弥は静かに待った。束の間浅い呼吸を繰り返した少年は、こくりと喉を動かすと、
「……はい」
そうっと返事をして、笑った。
月明かりを宿した目を綻ばせ、青馬は初めて、はにかみながら笑っていた。
二
格子窓から差し込む幾筋もの朝日が、煮炊きの湯気に淡く浮かび上がる。
納豆売りやしじみ売りの威勢のいい声が松坂町に谺している。それを聞きながら、襷掛けをした久弥は熱々の釜の飯をお櫃へ移していた。頭の中では、青馬と名付けた少年をどう世話しようかと考えを巡らせている。まずは体を治して、少しずつ三味線に慣れさせよう。『春日』がどうなったのかも確かめねば……などと思料するうち、廊下の奥から慌てふためいた足音が聞こえてきた。
「お師匠様」
半纏を引きずるようにして現れるなり、青馬が板敷に両手をつく。
「お、おはようございます。寝過ごして相すみません」
切羽詰まった顔で言うので、久弥はしゃもじを持ったままぽかんとした。
「朝餉なら俺が拵えます。水汲みも掃除も洗濯もやります。教えていただければ、使いにも出ます。本当に申し訳ありません……」
「待て、待て」
片手を上げて遮ると、久弥は苦笑いした。
「謝ることなんぞない。ここは商家ではないし、お前は奉公人でもないんだから、そんなふうに働く必要もない。傷だってまだ痛むだろう」
「このくらい平気です。腕は動きます」
平然として答える少年に、久弥の胸が強張った。『春日』では這ってでも働くよう強いられていたのだろう。
「いいんだ。子供がそんな無理をするものじゃない」
低く言うと、ですが、と青馬がもどかしげに身を乗り出す。
「助けていただいたお礼もまだ……稽古の束脩も払えないので……」
「そんなことは気にするな。お前から金を取ろうなんて思っちゃいないよ」
「……でも……それじゃあ、何をしたらいいんでしょうか……?」
途方に暮れて口籠もるので、久弥はおかしいような哀れなような気持ちで眉を下げた。
「他の子供がすることをしていたらいいさ。飯を食って、手習いをして、表で友達と遊んで、三味線の稽古をすればいい」
とんでもない無理難題を言いつけられたといわんばかりに、青馬が目を剝く。
「……だけど、あのう、そんなわけには……」
しじみが口を開いた鍋に味噌を溶きながら、久弥は肩越しに振り返った。
「とりあえず、体が辛くなければ外で遊んできたらどうだ。天気もいいしな」
「はい。わかりました。遊んできます」
悲愴な顔つきで頷いた後、青馬は所在なげに目を瞬かせ、おずおずと言う。
「……お師匠様、遊ぶって、何をしたらいいのですか」
久弥は思わず、ふ、と笑った。毎日働き詰めに働かされ、遊んだことなどないのだろう。笑うことではないのだが、青馬の言動は妙に人の心を和ませる。外の世界から隔絶されていたせいなのか、もともとの美質なのか、この少年には早熟な琴線がある一方で、幼子のように無邪気で素直なところがあるらしい。
笑みを含んだ目で己を眺める久弥を、青馬は不思議そうにちらちらと見上げていた。
「お師匠、邪魔するよ」
居間で朝餉を食べ終えた頃、庭から声がかかった。
はい、と応じて障子を開くと、憂い顔の医者が縁側の前に立っている。
「お師匠、あの坊主……」
言いかけた橋倉の両目が、青馬を見て丸くなった。
「えっ、お前……あの坊主か?」
大きすぎる半纏にくるまったままだが、風呂に入り小ざっぱりとした少年を穴が開くほど見詰め、
「へぇ、こいつは魂消た。まるで別人だぜ」
と笑み崩れる。
青馬は顔を火照らせて膝を揃えると、両手をついて口を開いた。
「あ、あのう……手当てしていただきありがとう存じます。お礼が遅くなり相すみません」
細く澄んだ声を聞いた途端、橋倉は手にしていた薬箱を取り落とさんばかりに仰天し、
「なんだ、喋ったじゃねぇか!」
と素っ頓狂な声を上げて呵々大笑したのだった。
縁側にかけた橋倉に、青馬の出自を手短に打ち明けた。橋倉は痛ましげな視線を青馬へ向けていたが、
「……青馬か。うん、粋な名前だ。いい名前をもらってよかったな、青馬」
鼻をすすりながら明るく言い、そうだ、と傍らの風呂敷包みを手にした。
「こいつはお前さんに持ってきたんだよ。お師匠は子供の着物なんぞ用意がなかろうと思ってな」
内儀のお三津が、七つの息子の着物を仕立て直したのだという。
「ありがとうございます。勝手がわからないもので、助かります」
久弥がありがたく受け取る横で、青馬も慌てて頭を下げるのを、橋倉はにこにこしながら眺めていた。
青地に亀甲文様の子供らしい袷に着替えると、青馬は金魚のように頬を赤くして、ありがとう存じます、と言いながらうっとりと着物を見下ろした。
が、どういうわけか半纏を手放すのは気が進まぬらしく、
「……着ていてもいいですか」
と小声で訴えてきた。
この家に来てからずっと着ていたので安心するのかもしれない。いいよ、と久弥が言うが早いかいそいそと半纏を羽織り、袖を引きずりながら満足そうにする。その様子に、二人は肩を揺らして小さく笑った。
橋倉が去った後、三人の門人が稽古に訪れた。その間、青馬は隣の寝間で息をひそめて稽古を聴いていた。ことりとも音がしないので、眠くなったのだろうかと唐紙を開けてみると、青馬は唐紙の前で膝を揃えて座ったままだった。
「ずっとそうしていたのか」
半ば呆れて訊ねると、少年は白い頬を紅潮させてこっくりと頷く。
「三味線は難しいんですね。みんなお師匠様のように唄ったり弾いたりできるのかと思っていました。お師匠様はとても上手なんですね」
久弥は横を向いて笑いを堪えた。師匠と比べられたら弟子たちが気の毒な話である。
「まぁ、教える人間が上手くなくては話にならんからな。それに、あの三人がさらっている曲は、どれもなかなか難しいんだよ」
どの曲が好きだったかと訊ねると、
「どれも好きですが、最後の人の曲は特に好きです」
と言って耳朶を赤くする。
『越後獅子』だ。『越後獅子』は『遅桜手爾波七字』のうちの舞踏曲の一つで、三下りの旋律が美しく、唄も華やかで調子がいい。
なるほど、あの曲は初めて聴いても面白いだろうと思いながら、ふと悪戯心が湧いた。
「そうか。どういう曲だったか唄えるか?」
虚を衝かれたように目を瞬かせた青馬は、袂を弄びながら俯いた。初めて聴いたのだから土台無理な話ではある。いや、気にするな、と久弥が口を開こうとした途端。
青馬が唄い出した。
打つや太鼓の音も澄み渡り 角兵衛角兵衛と招かれて
居ながら見する石橋の 浮世を渡る風雅者
うたふも舞ふも囃すのも 一人旅寝の草枕……
肌が粟立った。身を乗り出し、息を詰めて耳を澄ませる。子供ゆえ声は伸びないが、音にも調子にもほとんど狂いがない。唐紙を隔てた隣の部屋で、久弥が唄うのを聴きながら覚えたというのか。
久弥はさっと稽古部屋の三味線に手を伸ばし、音を抑えて合わせはじめた。青馬はびっくりしたように一瞬声を小さくしたが、すぐに笑顔になって唄い続ける。
おらが女房をほめるぢゃないが 飯も炊いたり水仕事
麻撚るたびの楽しみを 独り笑みして来りける
越路潟 お国名物は様々あれど 田舎訛の片言まじり
しらうさになる言の葉を 雁の便りに届けてほしや……
初段の晒の合方を奏でていた手が、止まっていた。
もう弾かないのだろうか、というように、軽く息を弾ませた青馬が目を輝かせてこちらを見る。
――すべて頭に入っている。完全に、覚えている。
「お前、もしや」
久弥はごくりと喉を鳴らした。
「一昨日から弾いて聴かせた曲も、同じように覚えているのか?」
はい、と青馬が当然のごとく首肯するのを見て、軽い眩暈を覚えた。
三味線は、唄も絃も耳で聴き、体で覚える口伝によって習得する。つまり見取り稽古が基本だ。そのためめりやす一曲でも、三味線の初心者が覚えるのは相当に苦労する。正確で繊細な耳と覚えのよさがなければ、技倆以前の問題で三味線を弾くことは覚束ないのだ。
六つで岡安派の母に弟子入りした時から、久弥にはそれが苦にもならなかった。三味線の師匠がしばしば弟子に言う言葉に「調子三年、勘八年」というものがあるが、これは三味線演奏の基礎である調弦と勘所の習得にさえ、かように長い年月を要することを表したものだ。しかし久弥は、七つを待たずに調子合わせも勘所も完全に習得して母を驚愕させた。
十五の時に杵屋派に師事して頭角を現し、唄方の芳村派にも弟子入りして名を上げ、十七の年に中村座で最年少のタテ三味線となった頃には、久弥はすでに名手の名を恣にしていた。
見取りに長けていることは、芸事において重要な素養である。そのうえで、ずば抜けた技術を備え、絃と唄の間を自在にし、音曲に命を吹き込む境地に至る者が名手と呼ばれる。指使いや撥捌きは、多少器用ならどうにかなる。だが耳のよさと勘のよさ、これだけは天稟だ。
「あの……」
凝然として黙り込んだ久弥を、青馬が訝しげに見上げている。
久弥はふっと肩を下げて嘆息してから、
「……腕が辛くなければ、弾いてみるか」
と三味線を差し出した。青馬は弾かれたように腰を浮かせ、おろおろしながら三味線と久弥を見比べていたが、やがて頬を上気させて頷いた。
「はい。はい、弾いてみたいです」
三味線を持たせ、胴と棹の構え方、撥の持ち方、本調子・二上り・三下りといった基本的な調絃を教える。さらに勘所の押さえ方と奏法も一通りさらった。呑み込みが早いのにはいまさら驚かなかった。雲を掴むかのごとく覚束なかった調弦と勘所の押さえ方も、繰り返し合わせるたびにみるみる精度が上がっていく。手首がやわらかく、指先の力が強く切れがあるうえに、実に細やかに動く。子供とは思えぬ集中力で、少しも気が逸れない。何より、三味線が生み出す音色と旋律の美しさを、魂を震わすようにして楽しんでいる。
――これは、ものになる。
夢中で手を動かす少年を見詰めながら、久弥は胸が高鳴るのを感じた。
「まぁ、あの火事で。さぞ怖かったことでしょうね。迷子だなんてかわいそうに」
中食の後、稽古に訪れた真澄はそう言って嘆息した。
「柳橋の芸者仲間の家や、お世話になっている置屋さんも焼けてしまいました。むごいこと……」
真澄は弟子入りして三年目になる門人で、名妓と名高い柳橋芸者だ。置屋の者や芸者衆は幸い無事で、浅草千束の寮へ避難したのだという。娘の滑らかな白い頬が心なしかやつれて見え、久弥は眉を曇らせた。
「真澄さん、大丈夫ですか。今日の稽古は休みにしては……」
思わず小声で言うと、真澄の濡れたように艶やかな双眸が、慕わしげな色を浮かべた。
「ありがとうございます。でも、いつも通りにしていた方が気が休まるんです。それに……お師匠のお顔が見たかったし」
やわらかな丸い声が耳を撫でる。久弥は娘の顔を直視できず目を伏せた。小さな稽古部屋に二人でいるのが、急に息苦しくなる。自分も会いたかったのだと、そう返してやれない己が歯痒かった。
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