独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖

笹目いく子

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1巻

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     一


 はいが音もなく、雪のように降りしきっていた。
 焦土しょうどと化した町のあちらこちらで焼け落ちた町家の残骸ざんがいくすぶり、狼煙のろしに似た細い煙が幾筋も立ち上っているのがそれを透かして見える。
 無音の世界に灰が降る。黒焦げの大地を慰撫いぶするかのごとく、すべてを覆っていく。とうに日は昇っているはずだ。けれども、空はすみを流したように黒煙で覆われ、辺りはきな臭く薄暗い。
 静かだ。
 江戸下町の大半を焼き払い、破壊の限りを尽くした炎は、ようやく満足して気怠けだるい眠りについたらしかった。
 生きるものの姿のえた、この世の果てを思わせる景色の中を、久弥ひさやは一人黙々と歩いていた。右手の浜町堀はまちょうぼりの対岸には日本橋にほんばしの焼け野原が広がり、左手には燃え残った武家屋敷の黒ずんだへいが延びている。大川おおかわ目指して重い足を運んでいた久弥は、ふと灰の間に目をらした。
 行く手に見える組合橋くみあいばしの上に、ぽつんとたたずむ人影がある。
 大人数を相手にり合ってきたばかりだった。極度に神経が張り詰めていて、敵か、と思わず身構える。しかし刀に手を伸ばしかけたところで、小さな子供だとさとった。
 死に覆われた風景の中に忽然こつぜんと現れた童子どうじの姿は、うつつのものとは思われず、まぼろしでも見ているのかと一瞬我が目を疑った。だが夢でも幻でもないらしい。何をするでもなく、欄干らんかんの側でにごった川面かわもをぼんやりと見下ろしている。灰の積もった橋板を踏んで近づいていくと、少年はやおら久弥に顔を向けた。
 こぼれそうに大きな目をした子供だった。とおかそこらという年頃だろうか。すすに汚れ憔悴しょうすいした顔に、炎熱にさらされ充血した双眸そうぼうだけが無防備に光っている。後頭部で一つに縛った髪は灰まみれで、あちこち焦げてちぢれていた。真っ黒に汚れたひとえは元の色も判然とせず、黒ずんだ裸足はだしの足元が痛々しい。
 総髪に黒ずくめの小袖袴こそでばかま、腰に二刀を差す長身の青年を見て、少年が身を硬くした。

「……こんなところで、どうした? おとっつぁんかおっかさんは一緒じゃないのか」

 少年はどこか虚ろな目で見上げたまま、答えない。

「家族とはぐれたか。名は? 家はどこだ」

 重ねて訊ねてもやはり答えようとしない。警戒するように着物を握り締めるのを見て、久弥は腰を屈めて笑みを浮かべた。

「別に取って食いやしない。私は岡安おかやす久弥という。本所ほんじょ松坂町まつざかちょうで三味線を教えている三味線弾きだ」

 少年が驚いたように凝視してくる。久弥のはっきりとした眉目びもくと鼻筋の通った容貌ようぼうは、端整だがどこか厳しく近寄りがたい。長身の体は無駄むだがなく引き締まり、静かなたたずまいにはすきがない。しかし、静謐せいひつな双眸は笑うと意外なほど柔和な光を浮かべ、まされたおもての印象がたちまち和らいだ。
 三味線弾きという言葉に意表を突かれたのか、穏やかな笑みに安堵あんどしたのか、子供の肩からわずかに力が抜けた。

「家をさがしてやりたいが、今すぐには難しいようだ。ひとまず私と来るか。落ち着いたら捜してやろう」

 黒目がちの大きな両目が久弥を見詰める。心の内まで見通すかのような眼差しに、体からにじみ出す殺気の名残なごりと、返り血を浴びた着物に気づくのではないかとひやりとする。少年は、納得したのかしないのか、やがて生気にとぼしい顔をうなずかせた。

「……では、行くとしようか」

 みょうな道行きになったなと思いながら、きびすを返して歩き出す。
 途端、ごとり、と背後で物音がした。
 悪い予感に振り向けば、今の今まで立っていた子供が欄干の足元にくずおれている。

「どうした……!」

 慌てて抱き起こし、人形のようにだらんと脱力した感触に、死んでしまったのかときもを冷やした。だが目を閉じてはいるものの、息が止まったわけではないようだ。この大火の中を逃げまどい、精もこんも尽き果てたのだろう。
 ――早く連れ帰らねば。
 少年を腕に抱え、気合を入れて立ち上がった久弥は、次の瞬間はっとした。
 意識のない体というのは、子供であっても驚くほどに重いものだ。しかしこの少年は、あっけないほど軽かった。着物の下の体はひどく薄くて頼りない。当年二十四で独り身の久弥であっても、十あまりの子供にしてはせすぎているとわかるほどだ。
 少年は久弥の腕に体を預け、肩に頭をもたせかけてぴくりとも動かない。あまりにも非力でちっぽけな姿に、胸の奥がきしんだ。
 それでも、あるかなきかの呼吸はかすかに、けれども確かに久弥のあごの先に触れている。ぐにゃりとした体はか細いが、ほのかな体温を伝えてくる。久弥はしっかりと子供を抱え直すと、大川へ向かって大股おおまたに歩き出した。

「――頑張れよ」

 つい先刻、大勢の血で汚した手が、今は見知らぬ子供を固く抱いている。名前もわからぬ衝動が体を突き動かすのを感じながら、久弥は灰色の雪の中を一心不乱に歩いていた。


 江戸下町の中心部を丸ごと灰燼かいじんと化す未曽有みぞうの大火が起きたのは、文政十二年(一八二九年)三月二十一日午前のことだった。神田佐久間町かんださくまちょう二丁目の材木小屋から出火した炎は、強い北西風によりまたたく間に燃え広がり、外神田そとかんだの一部と内神田うちかんだの大部分をたちまち火の海に変えた。夜になっても火勢はおとろえず、丸一日が過ぎた今朝、両国りょうごくから日本橋、さらに京橋きょうばししばまでもを焼失させてようやく鎮火ちんかを見たのだった。
 渡し船で大川を渡り本所に辿たどり着いた頃には、日はすっかり昇りきって磨いたような晴天が広がっていた。いつも通りの町並みにはうぐいすの声が時折響き、家々の庭をのぞけば白く愛らしい小手毬こでまりや、薄紅色の乙女おとめ椿つばきが今を盛りと花を咲かせている。しかし、そののどかな春の情景を裏切るように、大川に近い本所・深川ふかがわの一帯は、焼け出されて避難してくる疲れきった様子の人々や、慌ただしく救援に向かう火消したちでごった返していた。
 その混乱の中を、子供を抱き無我夢中で歩いていた久弥は、松坂町二丁目の自邸の生垣いけがきが目に入るとようよう気をゆるめた。
 久弥の家は武家の隠居住まいであったところで、玄関土間の正面に四畳の稽古部屋けいこべや、その右隣に六畳の寝間と八畳の居間が庭を向いて並び、居間の続きに台所の板敷と納戸なんどかわや、そして風呂がついている。本所には珍しく、真水のく井戸もあった。
 久弥は半分眠り込んでいる子を居間の縁側にそうっと寝かせ、通り向かいの町人を訪ねて医者のところへ使いを頼んだ。

「火事場で子供を拾ったと、亀沢町かめざわちょう橋倉はしくら先生に伝えてくれるか。えらく弱ってるんだ」
「そいつはてぇへんだ。お師匠も煤だらけじゃねぇか。すぐ行ってきまさぁ」

 隣人は魂消たまげながらそう言うと、しりをからげて二ちょう先の亀沢町へとすっとんでいく。
 家へとんぼ返りした久弥は、慌ただしく手足を洗い、着流しに着替えてから、手桶ておけと手ぬぐいを掴んで少年の許へ取って返した。顔を少しぬぐっただけで、手ぬぐいと手桶の水が真っ黒になる。ようやく白い顔が汚れの下から現れた頃、子供はゆっくりと両目を開けた。

「わかるか。水が欲しくないか?」

 久弥の問いかけに、子供ののどがごくりと鳴る。土瓶どびんの水を湯飲みに注いで抱え起こすと、少年は思わぬ力でそれを掴んだ。あごを濡らしながらがぶりがぶりとむさぼって、息も継がずに必死に飲み干す。水を足してやるが早いか、あっという間にからにする。それを幾度か繰り返すと、人心地ついたのか深い息をき、初めて家の中に視線をゆらゆら巡らせた。

「……ここは私の家だ。今お医者が来るからな。どこか苦しくはないか」

 充血した赤い目が、あどけない眼差まなざしを向けてくる。この年格好にはそぐわぬ、幼子のように無垢むくな表情を浮かべる子だった。しかし声を出そうとする気配はなく、そのまままぶたを閉じるなり、またくたりと眠り込んでしまった。
 疲れ果ててはいるが、見える範囲に大怪我おおけがを負っている様子はなさそうだ。そう安堵しながら右手の汚れを拭っていると、突然少年が苦しげにうめいた。腕をかばう仕草を不審に思い、右の袖を慎重にまくり上げる。
 途端、ひじのすぐ上辺りが青紫色にれ上がっているのが目に入り、久弥は鋭く息をんだ。よく見ると、無残な腫れの真ん中に、青黒い打撲だぼくあとがある。
 ――何だ、これは。
 異様な傷にほお強張こわばる。火に追われて転んだり、ぶつけたりしてできた傷には見えない。
 だが、こんな痣をつくるものに覚えがあった。つえか、あるいは木刀ぼくとうだ。頭を守ろうと腕を上げ、二の腕を打たれたのに違いない。
 頭に血が上る。年端としはもいかぬ子供をそんなものでなぐりつけるなど、正気の沙汰さたではない。胸騒ぎに襲われながら袖をさらにたくし上げ、久弥は険しい表情で唇を引き結んだ。少年の右肩と上腕には、いくつもの痣や傷があった。古いものもあれば新しいものもある。
 ――なんてことだ。
 縁側を照らすうらうらとした春の日が、急にぬくもりを失った気がした。

「お師匠、子供の怪我人だって? どんな具合だい」

 息せき切った声が近づき、薬箱をげた男が枝折戸しおりどを開けて庭に入ってくる。

「――先生」

 久弥の顔色を見て、浅黒い顔を汗だくにした橋倉は眉を曇らせた。
 無言で近づいてきた医者に、目で少年の腕を指す。はっと両目を見開いた橋倉は、しばしの間、声もなくその場に立ち尽くした。


「どこのどいつか知らねぇが、子供相手に鬼みてぇな真似しやがる」

 寝間の蒲団ふとんに寝かせた子供の傷をあらためながら、医者が呻いた。
 元御家人で、橋倉林乃介りんのすけという。三十そこそこの若さだが、本道ほんどうと外科のどちらも腕が立つうえ、子供の診療も専門にする腕利うでききだ。久弥とは旧知の仲でもある。
 恐れていた通り、少年の体は傷痕だらけだった。それも大火による火傷やけどよりも、殴打おうだの痕の方がよほど多いのだからひどいものだ。背中にも重い打撲の痕跡があり、肋骨ろっこつが折れたか、ひびが入っていたのではないかと医者が言うのを、石を呑んだような心地で聞いた。
 腕に薬を塗布とふしてさらしを巻いている最中、少年が顔をしかめて瞼を開いた。

「気づいたか。こちらの方は橋倉先生といって、腕のいいお医者様だ。安心してお任せして大丈夫だ」

 子供は少し不安げに久弥を見上げ、こっくりと頷く。

「よく頑張ったな、坊主ぼうず。いい人に拾ってもらってよかったよ。このお師匠は三絃さんげんの名手でな、糸もいいがのどもいいときてる。三座にも招かれるお人なんだぜ、えれぇもんだろう?」

 二児の父でもある橋倉が、子供の扱いに慣れた様子でほがらかに言う。

「おっと、眠いだろうがちっと我慢してくれるか。今、薬をせんじているんでな」

 橋倉の言葉に、少年は落ちかけた瞼を持ち上げて、また小さく首肯しゅこうした。
 手当てを終えると、焦げ跡と煤だらけの着物の替わりに、久弥の細縞ほそじま半纏はんてんを着せて角帯で縛ってやった。大きすぎるが、ぼろ切れ同然の着物よりはましだろう。大急ぎでこしらえた玉子雑炊ぞうすいを食べさせ、煎じた薬を飲ませる頃には、警戒心が緩んだのか少年は目をとろんとさせていた。そして、眠っていいぞ、と橋倉が言うが早いか、もぞもぞと夜着よぎにくるまって瞼を閉じてしまった。
 飯と薬のお陰か、先ほどよりも血色がよくなり、寝息も安らかになった気がする。汚れの取れた顔は整っていて、長い睫毛まつげが人形を思わせた。

「……先生、この子は口がきけないのだと思いますか」

 火のついていない煙管キセルんで物思いにふけっていた橋倉は、久弥の問いかけに、ああ、と薄いくちびるゆがめた。

「お師匠も気になったかい。いいや、俺の見たところ話せるはずだぜ。だが……」

 話したくないのだ。
 久弥はひざの上で強くこぶしを握り締める。
 何があったのかも、どこから来たのかも。身内の名も、おのれの名さえも。
 帰りたい場所があるなら、頼りたい人があるなら、とうにそう告げているはずだ。しかし、この少年にはそれがない。あの凄惨せいさんな傷痕には、背筋のうそ寒くなるような冷血な悪意があった。
 ――身内の仕業しわざなのだろうか。
 陰鬱いんうつな気分で橋倉を見遣り、同じことを考えているらしいと表情から察する。

「……どうするね、お師匠。町方まちかたへ届けるかい?」

 重苦しい沈黙の後、橋倉が躊躇ためらいがちに口を開いた。
 返答に迷った。本来であれば、迷子まいごは自身番に届け出て、町役人の預かりとしたうえで身内を捜すことが定められている。とはいえ、事情を話したがらない子供を、問答無用もんどうむようで役人に引き渡すのが最善なのだろうか。
 だが、行きがかり上拾ったとはいえ赤の他人だ。まして自分は独り身で、あまりにも血腥ちなまぐさい人生を生きている。久弥がしてやれることはここまでだ。後は役人に託す他にない。少年の顎の下まで夜着を引き上げてやりながら、

「そうですね……」

 と言いかけた時、右手に違和感を覚えた。手元を見てどきりとする。少年の手が、いつの間にか久弥の袖の端を握っていた。
 細い指には大した力もない。袖を引けばすぐに解けてしまうだろう。それなのに、なぜかそうすることが躊躇われた。少年にしては白すぎる寝顔に、ちらちらとまたたく春の光がおどっている。久弥に預けてきた体の頼りなさが、妙にはっきりと両腕によみがえった。

「……少し、様子を見ます。自身番へ届けるのは簡単ですが、あまりいいことはなさそうな気がしますしね。まぁ、子供一人食べさせるくらいは何とでもなりますから、そのうち口をきいてくれたら話をしてみましょう」

 らしくもないと思いつつ、気づけばそう言っていた。



 灰が吹雪ふぶきのように躍りくるっている。
 まだ明けきらぬ藍色あいいろの空の底が、炎に炙られ血の色に染まっていた。その空の下を、久弥は脇目わきめも振らず、通りに積もった灰を蹴散けちらしながら小走りに進む。
 浜町堀左岸にある、下総小槇山辺しもうさこまきやまべ家上屋敷の表門がおぼろげに見えてきた。長大な白い海鼠なまこかべは黒く煤け、邸内の建物からも黒煙が上がっているのが見て取れるものの、どうにか焼失をまぬかれたようだ。
 怒声と悲鳴、それに鏘然しょうぜんとした剣戟けんげきの音が、吹きつける熱風に乗って聞こえてくる。無数の刃がちかちかと薄闇にひらめく。表門の前で、鉢金はちがね鎖手甲くさりてっこう襷掛たすきがけという装束しょうぞくの一団を相手に、小袖袴の小槇藩士たちがはげしく斬り結んでいるのを灰の吹雪の中に見る。
 刹那せつな、久弥は飛ぶように疾走していた。
 潮のうねりに似た戦いの音がたちまち迫る。久弥は襷掛けの男の背後で体を沈め、次の瞬間すさまじい勢いで抜刀ばっとうした。
 瞬速の抜き打ちが、男の背を真っ二つに斬り上げる。
 あっ、と周囲の男たちが息を呑む間に、返す刀で隣にいた男の肩口を深々と斬り下げた。上段からうなりを上げて落ちかかる敵の剣を体を開いてかわし、踏み込みながら一瞬で胴を抜く。中に鎖襦袢くさりじゅばんを着込んでいるらしいが、久弥の斬撃ざんげきは紙を断つように易々やすやすとそれを切り裂いた。そのまま霜髪そうはつ老侍おいざむらいと切り結んでいた男に駆け寄り、すれ違いざまの一閃いっせんで首根をぐ。血煙が巻き上がり、瞬く間に四人がたおれた。
 鉢金姿の男たちが唖然あぜんとして死体を見下ろし、次いで殺気をみなぎらせて血走った目を一斉にこちらへ向ける。一方の藩士たちも、突如とつじょ躍り込んできた若い浪人の修羅しゅらのごとき技に顔を強張らせ、喜ぶべきか恐れるべきか迷っている。

「おお、かたじけない!」

 老侍が驚喜の声を上げ藩士を見回した。

「こちらはお味方ぞ! 者どもひるむな!」

 藩士たちの間に、おお、という安堵と興奮の入り交じった歓声が広がっていく。

「久弥様、ご助勢まことに恐縮至極しごく

 肩で喘ぎつつ老侍がささやく。

頼母たのも、舟か?」

 きっさきで目の前の男たちを牽制けんせいしながら低く応じると、江戸家老の諏訪すわ頼母は血走った目を見開いて頷いた。
 やはり。舟で脱出するつもりなのだ。
 味方はすでに多数がたれ、四十名ばかりと少ないうえに、実戦の経験など皆無に等しいはずだ。対する鉢金に襷掛けの男たちはざっと倍以上はおり、腕においても圧倒しているのが見て取れる。追撃を振り切るには、舟を使って浜町堀から大川に逃れる他にないのだ。

小川橋おがわばしが燃え落ち川をふさいでおります。牧野豊前守ぶぜんのかみ様の下屋敷まで下らねばなりませぬ」

 諏訪の声を背中で聞きながら地を蹴ると、久弥は目の前の男と刃を噛み合わせた。刀を引いて相手の体が泳いだところを袈裟懸けさがけに斬り倒す。血しぶきを上げて斃れる男の向こうに、見覚えのある人影を捉えた。側近の輪の中心に佇むその人は、小槇藩主の山辺伊豆守いずのかみ彰久あきひさに違いなかった。
 ――父上。
 門前から大川へ向かう浜町河岸はまちょうがしに、次々と敵味方のむくろが転がった。
 執拗しつように追いすがる敵を斬り伏せ、苦戦する藩士を見れば助太刀すけだちに走る。斬って捨て、また切り結ぶ間に、何人斃したかもわからなくなっていた。

逆賊ぎゃくぞくどもめが!」

 諏訪家老のえる声が、熱を帯びた大気を震わせる。

御前ごぜんをお乗せしろ!」
はよう!」

 河岸の舟に至った手勢が叫び交わすのを聞き、敵が色めき立った。あせりと怒気どきふくれ上がらせ、狂気のごとく斬り込んでくる。
 はげしい戦闘に消耗し、藩士の動きがにぶっていた。視界の隅で、打ち下ろされた剣を受けきれず、侍がぐらりと膝を崩すのが見える。久弥は猛然と走り寄るなり、侍の脳天を拝み打ちにしようとしている男の両腕を一刀の下に叩き斬った。
 わっとさけぶ男には目もくれず反転し、倒れた侍にとどめを刺そうとしている男に食らいつく。片手突きで相手の脇腹を鍔元つばもとまで貫いた次の瞬間、ぱっとつかから手を離して身をらすと、新手あらての斬撃が鼻先をかすめた。
 素早く左手を伸ばして相手の腕をむずと捉え、右手で脇差わきざしを抜きながら一瞬で喉笛をき斬る。吹き上がった血が雨のごとく降り注ぎ、灰色の道を真紅のまだらに染める。返り血を浴びながら腰を落とし、脇差を中段に構えると、男たちが気魄きはくに呑まれたように後退あとずさった。
 猪牙舟ちょきぶねが水を蹴立てて進む音が背後に起こり、すみやかに遠ざかっていく。

「御前はご無事じゃ」
「ようやった!」

 響いてきた声に、藩士たちの活気が戻った。気力を奮い起こして襷掛けの男たちに相対し、両者は降りかかる灰をかしてにらみ合う。
 やがて、敵は忌々いまいましげにじりじりと後退すると、申し合わせたかのごとく無言で身をひるがえし、次々に薄闇の中へと走り去っていった。
 ――雪のように灰が降る。
 戦いの後、人目を避けて上屋敷を去った久弥は、灰色の景色の中を一人歩いていた。
 耳が痛くなるほどの静寂が、体を押し包んでいる。
 大勢の血を吸った腰の刀がひどく重かった。己へのえも言われぬおぞましさを呑み込んで、三味線に触れることばかりを考える。早く糸の音を聴きたい。ここはあまりにも静かすぎる。それだけを思ってを運んでいた久弥は、つと足を止めた。
 いぶかしげに細めた目に、橋の上にぽつんと立つ、幻かと見紛う子供の姿がうつった。



 やわらかな葉音がやさしく耳をくすぐっていた。瞼を開けば、斜陽に染まった障子しょうじと、飛び立つすずめの影が視界に入る。たたみに延べた蒲団の上で、久弥は大きく嘆息した。体を休めているうちに眠り込んでいたらしい。
 体を起こすと、衣桁いこうの後ろに置いた三味線箱に視線がまった。つつましい稽古部屋には不釣り合いな、最高級の総桐そうぎりで作られた仄かに白く輝く箱だ。ふたを飾る丸に剣片喰紋けんかたばみもんの彫金と、見事な細工さいくを施された隅金具すみかなぐが、繊細でまばゆ黄金こがねいろを放っている。久弥は物憂ものうい眼差しをそれにそそいだ。
 昨夜、小槇藩江戸家老である諏訪頼母からふみを受け取った時のことが思い出された。十五万ごくを誇る小槇藩主の山辺彰久は、次席家老家木陣やぎじん右衛門えもん謀反むほんによって、数日前から上屋敷の奥に軟禁されていた。諏訪は大火の混乱に乗じて藩主を救出すべく、断腸の思いで久弥の一刀流いっとうりゅうの腕を頼ってきたのだった。……だが、久弥は即答を躊躇った。
 そんないきさつは知ったことではない。己は三味線弾きなのだ。山辺家の争いに巻き込まれるのはまっぴらだと叫びたかった。
 ――しかし、彰久はじつの父だ。
 父子おやことはいえ、彰久と庶子しょしである久弥の縁など薄いものでしかない。顔を合わせたことさえ数えるほどしかなかった。それでも、父の危機とあらば力を貸さぬわけにはいかない。迷った末に腹を決めた久弥は、未明に深川側の新大橋しんおおはしたもとで猪牙舟を雇い、熱風が吹きすさぶ大川を渡り、ひそかに対岸の菖蒲河岸しょうぶがしに上がったのだった。
 騒動の原因は跡目争いである。
 彰久と正室の実子である彰則あきのりと、支藩からの養子である宗靖むねやすのどちらを世子せいしとするかをめぐって、藩主である父と次席家老が対立し、家中を二分にぶんする泥沼の政争が続いていた。
 昨年まで大坂城代おおさかじょうだいを務めていた彰久は、今年若年寄わかどしよりを拝命し、大名小路だいみょうこうじに拝領屋敷を与えられることとなっていた。浜町に位置する上屋敷は屋敷替えの準備に追われていて、浮き足立っていた隙を突かれた。
 百人近い番士が反旗を翻し、上屋敷は突如占拠された。そして彼らは、宗靖を世子に指名するよう武力で父に迫ったのだった。
 久弥と藩士たちの必死の働きにより、彰久は浜町堀を舟で下り、無事大川へとのがれたはずだ。その後は筋違御門すじかいごもん前の、青山あおやま下野守しもつけのかみ忠裕ただやすの上屋敷に保護を求める手筈てはずだという。老中首座ろうじゅうしゅざとして辣腕らつわんをふるう下野守は縁戚でもあり、野心家の彰久を若年寄の地位へと押し上げるために便宜べんぎをはかってきたと聞くから、ここで見捨てることはすまい。
 ――……だが、ことはこれで収まらんだろうな。
 物思いに沈んでいた久弥は、耳を澄ました。少年が眠っているはずの隣の寝間に物音が立つ。ごそごそと夜着の下で身じろぎしているらしい。
 こんなふうに、己以外の気配を家の内で感じるのは久しぶりだ。それも幼い子供がいるというのは、何だか奇妙でくすぐったい心地がする。
 向島むこうじまに暮らしていた十八の時以来、本所のこの屋敷へきょを移して六年になるが、門人やわずかな友人が出入りする他は、女中じょちゅう下男げなんも置かなかった。まして、家族を持つことなど考えもしなかった。望まなかったと言えばうそになる。だが、いつ討たれるかもわからぬ身でそんなことができるものか。思いを寄せてくれる人に、同じものを返してやることもできない。誰かと共に生きることなど、望めない人生だ。
 ……それなのに、死に覆われた焼け跡でなく佇む子供を抱え上げたら、何かが心をき立てた。

「……目が覚めたのか。気分はどうだ」

 唐紙からかみ越しに声をかけた途端、物音がんだ。そのまま息を殺しているらしい。相変わらずの反応に苦笑にがわらいを浮かべ、久弥は唐紙を大きく開いた。

「腹が減っただろう。飯にするか」

 夜着の下にこんもりしたふくらみができていて、小さな顔が半分ばかり覗いていた。困り顔で目をまたたかせている様子は、悪戯いたずらがばれた子犬か何かのようだ。視線がうろうろと宙をさまよう。その目が、不意に何かの上に留まった。
 少年の視線を辿り、立箱に収まった三味線を見ているらしいと察した。
 表情の乏しかった瞳が強い好奇心を浮かべている。久弥は少し思料すると、箱に歩み寄り紫檀したんの三味線とばちを取り上げた。そのまま寝間の縁側の近くに座る様子を、少年が目で追っている。
 三味線を膝に乗せ、左手で糸巻を調整し三下さんさがりに合わせた。背筋を伸ばして撥を構え、すっと息を吸う。
 空気が鋭く引き締まった。
 チャン、とあざやかな糸の音がえ渡り、少年が息を呑む。力強くつやのある声で空気を震わせながら、久弥はうたい出した。


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