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1巻
1-1
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一
灰が音もなく、雪のように降りしきっていた。
焦土と化した町のあちらこちらで焼け落ちた町家の残骸が燻り、狼煙に似た細い煙が幾筋も立ち上っているのがそれを透かして見える。
無音の世界に灰が降る。黒焦げの大地を慰撫するかのごとく、すべてを覆っていく。とうに日は昇っているはずだ。けれども、空は墨を流したように黒煙で覆われ、辺りはきな臭く薄暗い。
静かだ。
江戸下町の大半を焼き払い、破壊の限りを尽くした炎は、ようやく満足して気怠い眠りについたらしかった。
生きるものの姿の絶えた、この世の果てを思わせる景色の中を、久弥は一人黙々と歩いていた。右手の浜町堀の対岸には日本橋の焼け野原が広がり、左手には燃え残った武家屋敷の黒ずんだ塀が延びている。大川目指して重い足を運んでいた久弥は、ふと灰の間に目を凝らした。
行く手に見える組合橋の上に、ぽつんと佇む人影がある。
大人数を相手に斬り合ってきたばかりだった。極度に神経が張り詰めていて、敵か、と思わず身構える。しかし刀に手を伸ばしかけたところで、小さな子供だと覚った。
死に覆われた風景の中に忽然と現れた童子の姿は、現のものとは思われず、幻でも見ているのかと一瞬我が目を疑った。だが夢でも幻でもないらしい。何をするでもなく、欄干の側で濁った川面をぼんやりと見下ろしている。灰の積もった橋板を踏んで近づいていくと、少年はやおら久弥に顔を向けた。
こぼれそうに大きな目をした子供だった。十かそこらという年頃だろうか。煤に汚れ憔悴した顔に、炎熱に晒され充血した双眸だけが無防備に光っている。後頭部で一つに縛った髪は灰まみれで、あちこち焦げて縮れていた。真っ黒に汚れた単は元の色も判然とせず、黒ずんだ裸足の足元が痛々しい。
総髪に黒ずくめの小袖袴、腰に二刀を差す長身の青年を見て、少年が身を硬くした。
「……こんなところで、どうした? おとっつぁんかおっかさんは一緒じゃないのか」
少年はどこか虚ろな目で見上げたまま、答えない。
「家族とはぐれたか。名は? 家はどこだ」
重ねて訊ねてもやはり答えようとしない。警戒するように着物を握り締めるのを見て、久弥は腰を屈めて笑みを浮かべた。
「別に取って食いやしない。私は岡安久弥という。本所の松坂町で三味線を教えている三味線弾きだ」
少年が驚いたように凝視してくる。久弥のはっきりとした眉目と鼻筋の通った容貌は、端整だがどこか厳しく近寄りがたい。長身の体は無駄がなく引き締まり、静かな佇まいには隙がない。しかし、静謐な双眸は笑うと意外なほど柔和な光を浮かべ、研ぎ澄まされた面の印象がたちまち和らいだ。
三味線弾きという言葉に意表を突かれたのか、穏やかな笑みに安堵したのか、子供の肩からわずかに力が抜けた。
「家を捜してやりたいが、今すぐには難しいようだ。ひとまず私と来るか。落ち着いたら捜してやろう」
黒目がちの大きな両目が久弥を見詰める。心の内まで見通すかのような眼差しに、体から滲み出す殺気の名残と、返り血を浴びた着物に気づくのではないかとひやりとする。少年は、納得したのかしないのか、やがて生気に乏しい顔を頷かせた。
「……では、行くとしようか」
妙な道行きになったなと思いながら、踵を返して歩き出す。
途端、ごとり、と背後で物音がした。
悪い予感に振り向けば、今の今まで立っていた子供が欄干の足元に頽れている。
「どうした……!」
慌てて抱き起こし、人形のようにだらんと脱力した感触に、死んでしまったのかと肝を冷やした。だが目を閉じてはいるものの、息が止まったわけではないようだ。この大火の中を逃げ惑い、精も根も尽き果てたのだろう。
――早く連れ帰らねば。
少年を腕に抱え、気合を入れて立ち上がった久弥は、次の瞬間はっとした。
意識のない体というのは、子供であっても驚くほどに重いものだ。しかしこの少年は、あっけないほど軽かった。着物の下の体はひどく薄くて頼りない。当年二十四で独り身の久弥であっても、十あまりの子供にしては痩せすぎているとわかるほどだ。
少年は久弥の腕に体を預け、肩に頭をもたせかけてぴくりとも動かない。あまりにも非力でちっぽけな姿に、胸の奥が軋んだ。
それでも、あるかなきかの呼吸はかすかに、けれども確かに久弥の顎の先に触れている。ぐにゃりとした体はか細いが、仄かな体温を伝えてくる。久弥はしっかりと子供を抱え直すと、大川へ向かって大股に歩き出した。
「――頑張れよ」
つい先刻、大勢の血で汚した手が、今は見知らぬ子供を固く抱いている。名前もわからぬ衝動が体を突き動かすのを感じながら、久弥は灰色の雪の中を一心不乱に歩いていた。
江戸下町の中心部を丸ごと灰燼と化す未曽有の大火が起きたのは、文政十二年(一八二九年)三月二十一日午前のことだった。神田佐久間町二丁目の材木小屋から出火した炎は、強い北西風により瞬く間に燃え広がり、外神田の一部と内神田の大部分をたちまち火の海に変えた。夜になっても火勢は衰えず、丸一日が過ぎた今朝、両国から日本橋、さらに京橋と芝までもを焼失させてようやく鎮火を見たのだった。
渡し船で大川を渡り本所に辿り着いた頃には、日はすっかり昇りきって磨いたような晴天が広がっていた。いつも通りの町並みには鶯の声が時折響き、家々の庭を覗けば白く愛らしい小手毬や、薄紅色の乙女椿が今を盛りと花を咲かせている。しかし、そののどかな春の情景を裏切るように、大川に近い本所・深川の一帯は、焼け出されて避難してくる疲れきった様子の人々や、慌ただしく救援に向かう火消したちでごった返していた。
その混乱の中を、子供を抱き無我夢中で歩いていた久弥は、松坂町二丁目の自邸の生垣が目に入るとようよう気を緩めた。
久弥の家は武家の隠居住まいであったところで、玄関土間の正面に四畳の稽古部屋、その右隣に六畳の寝間と八畳の居間が庭を向いて並び、居間の続きに台所の板敷と納戸と厠、そして風呂がついている。本所には珍しく、真水の湧く井戸もあった。
久弥は半分眠り込んでいる子を居間の縁側にそうっと寝かせ、通り向かいの町人を訪ねて医者のところへ使いを頼んだ。
「火事場で子供を拾ったと、亀沢町の橋倉先生に伝えてくれるか。えらく弱ってるんだ」
「そいつはてぇへんだ。お師匠も煤だらけじゃねぇか。すぐ行ってきまさぁ」
隣人は魂消ながらそう言うと、尻をからげて二町先の亀沢町へとすっとんでいく。
家へとんぼ返りした久弥は、慌ただしく手足を洗い、着流しに着替えてから、手桶と手ぬぐいを掴んで少年の許へ取って返した。顔を少し拭っただけで、手ぬぐいと手桶の水が真っ黒になる。ようやく白い顔が汚れの下から現れた頃、子供はゆっくりと両目を開けた。
「わかるか。水が欲しくないか?」
久弥の問いかけに、子供の喉がごくりと鳴る。土瓶の水を湯飲みに注いで抱え起こすと、少年は思わぬ力でそれを掴んだ。顎を濡らしながらがぶりがぶりと貪って、息も継がずに必死に飲み干す。水を足してやるが早いか、あっという間に空にする。それを幾度か繰り返すと、人心地ついたのか深い息を吐き、初めて家の中に視線をゆらゆら巡らせた。
「……ここは私の家だ。今お医者が来るからな。どこか苦しくはないか」
充血した赤い目が、あどけない眼差しを向けてくる。この年格好にはそぐわぬ、幼子のように無垢な表情を浮かべる子だった。しかし声を出そうとする気配はなく、そのまま瞼を閉じるなり、またくたりと眠り込んでしまった。
疲れ果ててはいるが、見える範囲に大怪我を負っている様子はなさそうだ。そう安堵しながら右手の汚れを拭っていると、突然少年が苦しげに呻いた。腕を庇う仕草を不審に思い、右の袖を慎重に捲り上げる。
途端、肘のすぐ上辺りが青紫色に腫れ上がっているのが目に入り、久弥は鋭く息を呑んだ。よく見ると、無残な腫れの真ん中に、青黒い打撲の痕がある。
――何だ、これは。
異様な傷に頬が強張る。火に追われて転んだり、ぶつけたりしてできた傷には見えない。
だが、こんな痣をつくるものに覚えがあった。杖か、あるいは木刀だ。頭を守ろうと腕を上げ、二の腕を打たれたのに違いない。
頭に血が上る。年端もいかぬ子供をそんなもので殴りつけるなど、正気の沙汰ではない。胸騒ぎに襲われながら袖をさらにたくし上げ、久弥は険しい表情で唇を引き結んだ。少年の右肩と上腕には、いくつもの痣や傷があった。古いものもあれば新しいものもある。
――なんてことだ。
縁側を照らすうらうらとした春の日が、急にぬくもりを失った気がした。
「お師匠、子供の怪我人だって? どんな具合だい」
息せき切った声が近づき、薬箱を提げた男が枝折戸を開けて庭に入ってくる。
「――先生」
久弥の顔色を見て、浅黒い顔を汗だくにした橋倉は眉を曇らせた。
無言で近づいてきた医者に、目で少年の腕を指す。はっと両目を見開いた橋倉は、しばしの間、声もなくその場に立ち尽くした。
「どこのどいつか知らねぇが、子供相手に鬼みてぇな真似しやがる」
寝間の蒲団に寝かせた子供の傷を検めながら、医者が呻いた。
元御家人で、橋倉林乃介という。三十そこそこの若さだが、本道と外科のどちらも腕が立つうえ、子供の診療も専門にする腕利きだ。久弥とは旧知の仲でもある。
恐れていた通り、少年の体は傷痕だらけだった。それも大火による火傷よりも、殴打の痕の方がよほど多いのだからひどいものだ。背中にも重い打撲の痕跡があり、肋骨が折れたか、ひびが入っていたのではないかと医者が言うのを、石を呑んだような心地で聞いた。
腕に薬を塗布して晒を巻いている最中、少年が顔をしかめて瞼を開いた。
「気づいたか。こちらの方は橋倉先生といって、腕のいいお医者様だ。安心してお任せして大丈夫だ」
子供は少し不安げに久弥を見上げ、こっくりと頷く。
「よく頑張ったな、坊主。いい人に拾ってもらってよかったよ。このお師匠は三絃の名手でな、糸もいいが喉もいいときてる。三座にも招かれるお人なんだぜ、えれぇもんだろう?」
二児の父でもある橋倉が、子供の扱いに慣れた様子で朗らかに言う。
「おっと、眠いだろうがちっと我慢してくれるか。今、薬を煎じているんでな」
橋倉の言葉に、少年は落ちかけた瞼を持ち上げて、また小さく首肯した。
手当てを終えると、焦げ跡と煤だらけの着物の替わりに、久弥の細縞の半纏を着せて角帯で縛ってやった。大きすぎるが、ぼろ切れ同然の着物よりはましだろう。大急ぎで拵えた玉子雑炊を食べさせ、煎じた薬を飲ませる頃には、警戒心が緩んだのか少年は目をとろんとさせていた。そして、眠っていいぞ、と橋倉が言うが早いか、もぞもぞと夜着にくるまって瞼を閉じてしまった。
飯と薬のお陰か、先ほどよりも血色がよくなり、寝息も安らかになった気がする。汚れの取れた顔は整っていて、長い睫毛が人形を思わせた。
「……先生、この子は口がきけないのだと思いますか」
火のついていない煙管を噛んで物思いに耽っていた橋倉は、久弥の問いかけに、ああ、と薄い唇を歪めた。
「お師匠も気になったかい。いいや、俺の見たところ話せるはずだぜ。だが……」
話したくないのだ。
久弥は膝の上で強く拳を握り締める。
何があったのかも、どこから来たのかも。身内の名も、己の名さえも。
帰りたい場所があるなら、頼りたい人があるなら、とうにそう告げているはずだ。しかし、この少年にはそれがない。あの凄惨な傷痕には、背筋のうそ寒くなるような冷血な悪意があった。
――身内の仕業なのだろうか。
陰鬱な気分で橋倉を見遣り、同じことを考えているらしいと表情から察する。
「……どうするね、お師匠。町方へ届けるかい?」
重苦しい沈黙の後、橋倉が躊躇いがちに口を開いた。
返答に迷った。本来であれば、迷子は自身番に届け出て、町役人の預かりとしたうえで身内を捜すことが定められている。とはいえ、事情を話したがらない子供を、問答無用で役人に引き渡すのが最善なのだろうか。
だが、行きがかり上拾ったとはいえ赤の他人だ。まして自分は独り身で、あまりにも血腥い人生を生きている。久弥がしてやれることはここまでだ。後は役人に託す他にない。少年の顎の下まで夜着を引き上げてやりながら、
「そうですね……」
と言いかけた時、右手に違和感を覚えた。手元を見てどきりとする。少年の手が、いつの間にか久弥の袖の端を握っていた。
細い指には大した力もない。袖を引けばすぐに解けてしまうだろう。それなのに、なぜかそうすることが躊躇われた。少年にしては白すぎる寝顔に、ちらちらと瞬く春の光が躍っている。久弥に預けてきた体の頼りなさが、妙にはっきりと両腕に蘇った。
「……少し、様子を見ます。自身番へ届けるのは簡単ですが、あまりいいことはなさそうな気がしますしね。まぁ、子供一人食べさせるくらいは何とでもなりますから、そのうち口をきいてくれたら話をしてみましょう」
らしくもないと思いつつ、気づけばそう言っていた。
灰が吹雪のように躍り狂っている。
まだ明けきらぬ藍色の空の底が、炎に炙られ血の色に染まっていた。その空の下を、久弥は脇目も振らず、通りに積もった灰を蹴散らしながら小走りに進む。
浜町堀左岸にある、下総小槇山辺家上屋敷の表門が朧げに見えてきた。長大な白い海鼠壁は黒く煤け、邸内の建物からも黒煙が上がっているのが見て取れるものの、どうにか焼失を免れたようだ。
怒声と悲鳴、それに鏘然とした剣戟の音が、吹きつける熱風に乗って聞こえてくる。無数の刃がちかちかと薄闇に閃く。表門の前で、鉢金に鎖手甲、襷掛けという装束の一団を相手に、小袖袴の小槇藩士たちがはげしく斬り結んでいるのを灰の吹雪の中に見る。
刹那、久弥は飛ぶように疾走していた。
潮のうねりに似た戦いの音がたちまち迫る。久弥は襷掛けの男の背後で体を沈め、次の瞬間すさまじい勢いで抜刀した。
瞬速の抜き打ちが、男の背を真っ二つに斬り上げる。
あっ、と周囲の男たちが息を呑む間に、返す刀で隣にいた男の肩口を深々と斬り下げた。上段から唸りを上げて落ちかかる敵の剣を体を開いて躱し、踏み込みながら一瞬で胴を抜く。中に鎖襦袢を着込んでいるらしいが、久弥の斬撃は紙を断つように易々とそれを切り裂いた。そのまま霜髪の老侍と切り結んでいた男に駆け寄り、すれ違いざまの一閃で首根を薙ぐ。血煙が巻き上がり、瞬く間に四人が斃れた。
鉢金姿の男たちが唖然として死体を見下ろし、次いで殺気を漲らせて血走った目を一斉にこちらへ向ける。一方の藩士たちも、突如躍り込んできた若い浪人の修羅のごとき技に顔を強張らせ、喜ぶべきか恐れるべきか迷っている。
「おお、かたじけない!」
老侍が驚喜の声を上げ藩士を見回した。
「こちらはお味方ぞ! 者ども怯むな!」
藩士たちの間に、おお、という安堵と興奮の入り交じった歓声が広がっていく。
「久弥様、ご助勢まことに恐縮至極」
肩で喘ぎつつ老侍が囁く。
「頼母、舟か?」
鋒で目の前の男たちを牽制しながら低く応じると、江戸家老の諏訪頼母は血走った目を見開いて頷いた。
やはり。舟で脱出するつもりなのだ。
味方はすでに多数が討たれ、四十名ばかりと少ないうえに、実戦の経験など皆無に等しいはずだ。対する鉢金に襷掛けの男たちはざっと倍以上はおり、腕においても圧倒しているのが見て取れる。追撃を振り切るには、舟を使って浜町堀から大川に逃れる他にないのだ。
「小川橋が燃え落ち川を塞いでおります。牧野豊前守様の下屋敷まで下らねばなりませぬ」
諏訪の声を背中で聞きながら地を蹴ると、久弥は目の前の男と刃を噛み合わせた。刀を引いて相手の体が泳いだところを袈裟懸けに斬り倒す。血しぶきを上げて斃れる男の向こうに、見覚えのある人影を捉えた。側近の輪の中心に佇むその人は、小槇藩主の山辺伊豆守彰久に違いなかった。
――父上。
門前から大川へ向かう浜町河岸に、次々と敵味方の骸が転がった。
執拗に追いすがる敵を斬り伏せ、苦戦する藩士を見れば助太刀に走る。斬って捨て、また切り結ぶ間に、何人斃したかもわからなくなっていた。
「逆賊どもめが!」
諏訪家老の吼える声が、熱を帯びた大気を震わせる。
「御前をお乗せしろ!」
「早う!」
河岸の舟に至った手勢が叫び交わすのを聞き、敵が色めき立った。焦りと怒気を膨れ上がらせ、狂気のごとく斬り込んでくる。
はげしい戦闘に消耗し、藩士の動きが鈍っていた。視界の隅で、打ち下ろされた剣を受けきれず、侍がぐらりと膝を崩すのが見える。久弥は猛然と走り寄るなり、侍の脳天を拝み打ちにしようとしている男の両腕を一刀の下に叩き斬った。
わっと叫ぶ男には目もくれず反転し、倒れた侍にとどめを刺そうとしている男に食らいつく。片手突きで相手の脇腹を鍔元まで貫いた次の瞬間、ぱっと柄から手を離して身を反らすと、新手の斬撃が鼻先をかすめた。
素早く左手を伸ばして相手の腕をむずと捉え、右手で脇差を抜きながら一瞬で喉笛を掻き斬る。吹き上がった血が雨のごとく降り注ぎ、灰色の道を真紅の斑に染める。返り血を浴びながら腰を落とし、脇差を中段に構えると、男たちが気魄に呑まれたように後退った。
猪牙舟が水を蹴立てて進む音が背後に起こり、速やかに遠ざかっていく。
「御前はご無事じゃ」
「ようやった!」
響いてきた声に、藩士たちの活気が戻った。気力を奮い起こして襷掛けの男たちに相対し、両者は降りかかる灰を透かして睨み合う。
やがて、敵は忌々しげにじりじりと後退すると、申し合わせたかのごとく無言で身を翻し、次々に薄闇の中へと走り去っていった。
――雪のように灰が降る。
戦いの後、人目を避けて上屋敷を去った久弥は、灰色の景色の中を一人歩いていた。
耳が痛くなるほどの静寂が、体を押し包んでいる。
大勢の血を吸った腰の刀がひどく重かった。己へのえも言われぬおぞましさを呑み込んで、三味線に触れることばかりを考える。早く糸の音を聴きたい。ここはあまりにも静かすぎる。それだけを思って歩を運んでいた久弥は、つと足を止めた。
訝しげに細めた目に、橋の上にぽつんと立つ、幻かと見紛う子供の姿が映った。
やわらかな葉音がやさしく耳をくすぐっていた。瞼を開けば、斜陽に染まった障子と、飛び立つ雀の影が視界に入る。畳に延べた蒲団の上で、久弥は大きく嘆息した。体を休めているうちに眠り込んでいたらしい。
体を起こすと、衣桁の後ろに置いた三味線箱に視線が留まった。慎ましい稽古部屋には不釣り合いな、最高級の総桐で作られた仄かに白く輝く箱だ。蓋を飾る丸に剣片喰紋の彫金と、見事な細工を施された隅金具が、繊細で眩い黄金色を放っている。久弥は物憂い眼差しをそれに注いだ。
昨夜、小槇藩江戸家老である諏訪頼母から文を受け取った時のことが思い出された。十五万石を誇る小槇藩主の山辺彰久は、次席家老家木陣右衛門の謀反によって、数日前から上屋敷の奥に軟禁されていた。諏訪は大火の混乱に乗じて藩主を救出すべく、断腸の思いで久弥の一刀流の腕を頼ってきたのだった。……だが、久弥は即答を躊躇った。
そんないきさつは知ったことではない。己は三味線弾きなのだ。山辺家の争いに巻き込まれるのはまっぴらだと叫びたかった。
――しかし、彰久は実の父だ。
父子とはいえ、彰久と庶子である久弥の縁など薄いものでしかない。顔を合わせたことさえ数えるほどしかなかった。それでも、父の危機とあらば力を貸さぬわけにはいかない。迷った末に腹を決めた久弥は、未明に深川側の新大橋の袂で猪牙舟を雇い、熱風が吹きすさぶ大川を渡り、密かに対岸の菖蒲河岸に上がったのだった。
騒動の原因は跡目争いである。
彰久と正室の実子である彰則と、支藩からの養子である宗靖のどちらを世子とするかをめぐって、藩主である父と次席家老が対立し、家中を二分する泥沼の政争が続いていた。
昨年まで大坂城代を務めていた彰久は、今年若年寄を拝命し、大名小路に拝領屋敷を与えられることとなっていた。浜町に位置する上屋敷は屋敷替えの準備に追われていて、浮き足立っていた隙を突かれた。
百人近い番士が反旗を翻し、上屋敷は突如占拠された。そして彼らは、宗靖を世子に指名するよう武力で父に迫ったのだった。
久弥と藩士たちの必死の働きにより、彰久は浜町堀を舟で下り、無事大川へと逃れたはずだ。その後は筋違御門前の、青山下野守忠裕の上屋敷に保護を求める手筈だという。老中首座として辣腕をふるう下野守は縁戚でもあり、野心家の彰久を若年寄の地位へと押し上げるために便宜をはかってきたと聞くから、ここで見捨てることはすまい。
――……だが、ことはこれで収まらんだろうな。
物思いに沈んでいた久弥は、耳を澄ました。少年が眠っているはずの隣の寝間に物音が立つ。ごそごそと夜着の下で身じろぎしているらしい。
こんなふうに、己以外の気配を家の内で感じるのは久しぶりだ。それも幼い子供がいるというのは、何だか奇妙でくすぐったい心地がする。
向島に暮らしていた十八の時以来、本所のこの屋敷へ居を移して六年になるが、門人やわずかな友人が出入りする他は、女中も下男も置かなかった。まして、家族を持つことなど考えもしなかった。望まなかったと言えば嘘になる。だが、いつ討たれるかもわからぬ身でそんなことができるものか。思いを寄せてくれる人に、同じものを返してやることもできない。誰かと共に生きることなど、望めない人生だ。
……それなのに、死に覆われた焼け跡で寄る辺なく佇む子供を抱え上げたら、何かが心を急き立てた。
「……目が覚めたのか。気分はどうだ」
唐紙越しに声をかけた途端、物音が止んだ。そのまま息を殺しているらしい。相変わらずの反応に苦笑いを浮かべ、久弥は唐紙を大きく開いた。
「腹が減っただろう。飯にするか」
夜着の下にこんもりしたふくらみができていて、小さな顔が半分ばかり覗いていた。困り顔で目を瞬かせている様子は、悪戯がばれた子犬か何かのようだ。視線がうろうろと宙をさまよう。その目が、不意に何かの上に留まった。
少年の視線を辿り、立箱に収まった三味線を見ているらしいと察した。
表情の乏しかった瞳が強い好奇心を浮かべている。久弥は少し思料すると、箱に歩み寄り紫檀の三味線と撥を取り上げた。そのまま寝間の縁側の近くに座る様子を、少年が目で追っている。
三味線を膝に乗せ、左手で糸巻を調整し三下りに合わせた。背筋を伸ばして撥を構え、すっと息を吸う。
空気が鋭く引き締まった。
チャン、と鮮やかな糸の音が冴え渡り、少年が息を呑む。力強く艶のある声で空気を震わせながら、久弥は唄い出した。
灰が音もなく、雪のように降りしきっていた。
焦土と化した町のあちらこちらで焼け落ちた町家の残骸が燻り、狼煙に似た細い煙が幾筋も立ち上っているのがそれを透かして見える。
無音の世界に灰が降る。黒焦げの大地を慰撫するかのごとく、すべてを覆っていく。とうに日は昇っているはずだ。けれども、空は墨を流したように黒煙で覆われ、辺りはきな臭く薄暗い。
静かだ。
江戸下町の大半を焼き払い、破壊の限りを尽くした炎は、ようやく満足して気怠い眠りについたらしかった。
生きるものの姿の絶えた、この世の果てを思わせる景色の中を、久弥は一人黙々と歩いていた。右手の浜町堀の対岸には日本橋の焼け野原が広がり、左手には燃え残った武家屋敷の黒ずんだ塀が延びている。大川目指して重い足を運んでいた久弥は、ふと灰の間に目を凝らした。
行く手に見える組合橋の上に、ぽつんと佇む人影がある。
大人数を相手に斬り合ってきたばかりだった。極度に神経が張り詰めていて、敵か、と思わず身構える。しかし刀に手を伸ばしかけたところで、小さな子供だと覚った。
死に覆われた風景の中に忽然と現れた童子の姿は、現のものとは思われず、幻でも見ているのかと一瞬我が目を疑った。だが夢でも幻でもないらしい。何をするでもなく、欄干の側で濁った川面をぼんやりと見下ろしている。灰の積もった橋板を踏んで近づいていくと、少年はやおら久弥に顔を向けた。
こぼれそうに大きな目をした子供だった。十かそこらという年頃だろうか。煤に汚れ憔悴した顔に、炎熱に晒され充血した双眸だけが無防備に光っている。後頭部で一つに縛った髪は灰まみれで、あちこち焦げて縮れていた。真っ黒に汚れた単は元の色も判然とせず、黒ずんだ裸足の足元が痛々しい。
総髪に黒ずくめの小袖袴、腰に二刀を差す長身の青年を見て、少年が身を硬くした。
「……こんなところで、どうした? おとっつぁんかおっかさんは一緒じゃないのか」
少年はどこか虚ろな目で見上げたまま、答えない。
「家族とはぐれたか。名は? 家はどこだ」
重ねて訊ねてもやはり答えようとしない。警戒するように着物を握り締めるのを見て、久弥は腰を屈めて笑みを浮かべた。
「別に取って食いやしない。私は岡安久弥という。本所の松坂町で三味線を教えている三味線弾きだ」
少年が驚いたように凝視してくる。久弥のはっきりとした眉目と鼻筋の通った容貌は、端整だがどこか厳しく近寄りがたい。長身の体は無駄がなく引き締まり、静かな佇まいには隙がない。しかし、静謐な双眸は笑うと意外なほど柔和な光を浮かべ、研ぎ澄まされた面の印象がたちまち和らいだ。
三味線弾きという言葉に意表を突かれたのか、穏やかな笑みに安堵したのか、子供の肩からわずかに力が抜けた。
「家を捜してやりたいが、今すぐには難しいようだ。ひとまず私と来るか。落ち着いたら捜してやろう」
黒目がちの大きな両目が久弥を見詰める。心の内まで見通すかのような眼差しに、体から滲み出す殺気の名残と、返り血を浴びた着物に気づくのではないかとひやりとする。少年は、納得したのかしないのか、やがて生気に乏しい顔を頷かせた。
「……では、行くとしようか」
妙な道行きになったなと思いながら、踵を返して歩き出す。
途端、ごとり、と背後で物音がした。
悪い予感に振り向けば、今の今まで立っていた子供が欄干の足元に頽れている。
「どうした……!」
慌てて抱き起こし、人形のようにだらんと脱力した感触に、死んでしまったのかと肝を冷やした。だが目を閉じてはいるものの、息が止まったわけではないようだ。この大火の中を逃げ惑い、精も根も尽き果てたのだろう。
――早く連れ帰らねば。
少年を腕に抱え、気合を入れて立ち上がった久弥は、次の瞬間はっとした。
意識のない体というのは、子供であっても驚くほどに重いものだ。しかしこの少年は、あっけないほど軽かった。着物の下の体はひどく薄くて頼りない。当年二十四で独り身の久弥であっても、十あまりの子供にしては痩せすぎているとわかるほどだ。
少年は久弥の腕に体を預け、肩に頭をもたせかけてぴくりとも動かない。あまりにも非力でちっぽけな姿に、胸の奥が軋んだ。
それでも、あるかなきかの呼吸はかすかに、けれども確かに久弥の顎の先に触れている。ぐにゃりとした体はか細いが、仄かな体温を伝えてくる。久弥はしっかりと子供を抱え直すと、大川へ向かって大股に歩き出した。
「――頑張れよ」
つい先刻、大勢の血で汚した手が、今は見知らぬ子供を固く抱いている。名前もわからぬ衝動が体を突き動かすのを感じながら、久弥は灰色の雪の中を一心不乱に歩いていた。
江戸下町の中心部を丸ごと灰燼と化す未曽有の大火が起きたのは、文政十二年(一八二九年)三月二十一日午前のことだった。神田佐久間町二丁目の材木小屋から出火した炎は、強い北西風により瞬く間に燃え広がり、外神田の一部と内神田の大部分をたちまち火の海に変えた。夜になっても火勢は衰えず、丸一日が過ぎた今朝、両国から日本橋、さらに京橋と芝までもを焼失させてようやく鎮火を見たのだった。
渡し船で大川を渡り本所に辿り着いた頃には、日はすっかり昇りきって磨いたような晴天が広がっていた。いつも通りの町並みには鶯の声が時折響き、家々の庭を覗けば白く愛らしい小手毬や、薄紅色の乙女椿が今を盛りと花を咲かせている。しかし、そののどかな春の情景を裏切るように、大川に近い本所・深川の一帯は、焼け出されて避難してくる疲れきった様子の人々や、慌ただしく救援に向かう火消したちでごった返していた。
その混乱の中を、子供を抱き無我夢中で歩いていた久弥は、松坂町二丁目の自邸の生垣が目に入るとようよう気を緩めた。
久弥の家は武家の隠居住まいであったところで、玄関土間の正面に四畳の稽古部屋、その右隣に六畳の寝間と八畳の居間が庭を向いて並び、居間の続きに台所の板敷と納戸と厠、そして風呂がついている。本所には珍しく、真水の湧く井戸もあった。
久弥は半分眠り込んでいる子を居間の縁側にそうっと寝かせ、通り向かいの町人を訪ねて医者のところへ使いを頼んだ。
「火事場で子供を拾ったと、亀沢町の橋倉先生に伝えてくれるか。えらく弱ってるんだ」
「そいつはてぇへんだ。お師匠も煤だらけじゃねぇか。すぐ行ってきまさぁ」
隣人は魂消ながらそう言うと、尻をからげて二町先の亀沢町へとすっとんでいく。
家へとんぼ返りした久弥は、慌ただしく手足を洗い、着流しに着替えてから、手桶と手ぬぐいを掴んで少年の許へ取って返した。顔を少し拭っただけで、手ぬぐいと手桶の水が真っ黒になる。ようやく白い顔が汚れの下から現れた頃、子供はゆっくりと両目を開けた。
「わかるか。水が欲しくないか?」
久弥の問いかけに、子供の喉がごくりと鳴る。土瓶の水を湯飲みに注いで抱え起こすと、少年は思わぬ力でそれを掴んだ。顎を濡らしながらがぶりがぶりと貪って、息も継がずに必死に飲み干す。水を足してやるが早いか、あっという間に空にする。それを幾度か繰り返すと、人心地ついたのか深い息を吐き、初めて家の中に視線をゆらゆら巡らせた。
「……ここは私の家だ。今お医者が来るからな。どこか苦しくはないか」
充血した赤い目が、あどけない眼差しを向けてくる。この年格好にはそぐわぬ、幼子のように無垢な表情を浮かべる子だった。しかし声を出そうとする気配はなく、そのまま瞼を閉じるなり、またくたりと眠り込んでしまった。
疲れ果ててはいるが、見える範囲に大怪我を負っている様子はなさそうだ。そう安堵しながら右手の汚れを拭っていると、突然少年が苦しげに呻いた。腕を庇う仕草を不審に思い、右の袖を慎重に捲り上げる。
途端、肘のすぐ上辺りが青紫色に腫れ上がっているのが目に入り、久弥は鋭く息を呑んだ。よく見ると、無残な腫れの真ん中に、青黒い打撲の痕がある。
――何だ、これは。
異様な傷に頬が強張る。火に追われて転んだり、ぶつけたりしてできた傷には見えない。
だが、こんな痣をつくるものに覚えがあった。杖か、あるいは木刀だ。頭を守ろうと腕を上げ、二の腕を打たれたのに違いない。
頭に血が上る。年端もいかぬ子供をそんなもので殴りつけるなど、正気の沙汰ではない。胸騒ぎに襲われながら袖をさらにたくし上げ、久弥は険しい表情で唇を引き結んだ。少年の右肩と上腕には、いくつもの痣や傷があった。古いものもあれば新しいものもある。
――なんてことだ。
縁側を照らすうらうらとした春の日が、急にぬくもりを失った気がした。
「お師匠、子供の怪我人だって? どんな具合だい」
息せき切った声が近づき、薬箱を提げた男が枝折戸を開けて庭に入ってくる。
「――先生」
久弥の顔色を見て、浅黒い顔を汗だくにした橋倉は眉を曇らせた。
無言で近づいてきた医者に、目で少年の腕を指す。はっと両目を見開いた橋倉は、しばしの間、声もなくその場に立ち尽くした。
「どこのどいつか知らねぇが、子供相手に鬼みてぇな真似しやがる」
寝間の蒲団に寝かせた子供の傷を検めながら、医者が呻いた。
元御家人で、橋倉林乃介という。三十そこそこの若さだが、本道と外科のどちらも腕が立つうえ、子供の診療も専門にする腕利きだ。久弥とは旧知の仲でもある。
恐れていた通り、少年の体は傷痕だらけだった。それも大火による火傷よりも、殴打の痕の方がよほど多いのだからひどいものだ。背中にも重い打撲の痕跡があり、肋骨が折れたか、ひびが入っていたのではないかと医者が言うのを、石を呑んだような心地で聞いた。
腕に薬を塗布して晒を巻いている最中、少年が顔をしかめて瞼を開いた。
「気づいたか。こちらの方は橋倉先生といって、腕のいいお医者様だ。安心してお任せして大丈夫だ」
子供は少し不安げに久弥を見上げ、こっくりと頷く。
「よく頑張ったな、坊主。いい人に拾ってもらってよかったよ。このお師匠は三絃の名手でな、糸もいいが喉もいいときてる。三座にも招かれるお人なんだぜ、えれぇもんだろう?」
二児の父でもある橋倉が、子供の扱いに慣れた様子で朗らかに言う。
「おっと、眠いだろうがちっと我慢してくれるか。今、薬を煎じているんでな」
橋倉の言葉に、少年は落ちかけた瞼を持ち上げて、また小さく首肯した。
手当てを終えると、焦げ跡と煤だらけの着物の替わりに、久弥の細縞の半纏を着せて角帯で縛ってやった。大きすぎるが、ぼろ切れ同然の着物よりはましだろう。大急ぎで拵えた玉子雑炊を食べさせ、煎じた薬を飲ませる頃には、警戒心が緩んだのか少年は目をとろんとさせていた。そして、眠っていいぞ、と橋倉が言うが早いか、もぞもぞと夜着にくるまって瞼を閉じてしまった。
飯と薬のお陰か、先ほどよりも血色がよくなり、寝息も安らかになった気がする。汚れの取れた顔は整っていて、長い睫毛が人形を思わせた。
「……先生、この子は口がきけないのだと思いますか」
火のついていない煙管を噛んで物思いに耽っていた橋倉は、久弥の問いかけに、ああ、と薄い唇を歪めた。
「お師匠も気になったかい。いいや、俺の見たところ話せるはずだぜ。だが……」
話したくないのだ。
久弥は膝の上で強く拳を握り締める。
何があったのかも、どこから来たのかも。身内の名も、己の名さえも。
帰りたい場所があるなら、頼りたい人があるなら、とうにそう告げているはずだ。しかし、この少年にはそれがない。あの凄惨な傷痕には、背筋のうそ寒くなるような冷血な悪意があった。
――身内の仕業なのだろうか。
陰鬱な気分で橋倉を見遣り、同じことを考えているらしいと表情から察する。
「……どうするね、お師匠。町方へ届けるかい?」
重苦しい沈黙の後、橋倉が躊躇いがちに口を開いた。
返答に迷った。本来であれば、迷子は自身番に届け出て、町役人の預かりとしたうえで身内を捜すことが定められている。とはいえ、事情を話したがらない子供を、問答無用で役人に引き渡すのが最善なのだろうか。
だが、行きがかり上拾ったとはいえ赤の他人だ。まして自分は独り身で、あまりにも血腥い人生を生きている。久弥がしてやれることはここまでだ。後は役人に託す他にない。少年の顎の下まで夜着を引き上げてやりながら、
「そうですね……」
と言いかけた時、右手に違和感を覚えた。手元を見てどきりとする。少年の手が、いつの間にか久弥の袖の端を握っていた。
細い指には大した力もない。袖を引けばすぐに解けてしまうだろう。それなのに、なぜかそうすることが躊躇われた。少年にしては白すぎる寝顔に、ちらちらと瞬く春の光が躍っている。久弥に預けてきた体の頼りなさが、妙にはっきりと両腕に蘇った。
「……少し、様子を見ます。自身番へ届けるのは簡単ですが、あまりいいことはなさそうな気がしますしね。まぁ、子供一人食べさせるくらいは何とでもなりますから、そのうち口をきいてくれたら話をしてみましょう」
らしくもないと思いつつ、気づけばそう言っていた。
灰が吹雪のように躍り狂っている。
まだ明けきらぬ藍色の空の底が、炎に炙られ血の色に染まっていた。その空の下を、久弥は脇目も振らず、通りに積もった灰を蹴散らしながら小走りに進む。
浜町堀左岸にある、下総小槇山辺家上屋敷の表門が朧げに見えてきた。長大な白い海鼠壁は黒く煤け、邸内の建物からも黒煙が上がっているのが見て取れるものの、どうにか焼失を免れたようだ。
怒声と悲鳴、それに鏘然とした剣戟の音が、吹きつける熱風に乗って聞こえてくる。無数の刃がちかちかと薄闇に閃く。表門の前で、鉢金に鎖手甲、襷掛けという装束の一団を相手に、小袖袴の小槇藩士たちがはげしく斬り結んでいるのを灰の吹雪の中に見る。
刹那、久弥は飛ぶように疾走していた。
潮のうねりに似た戦いの音がたちまち迫る。久弥は襷掛けの男の背後で体を沈め、次の瞬間すさまじい勢いで抜刀した。
瞬速の抜き打ちが、男の背を真っ二つに斬り上げる。
あっ、と周囲の男たちが息を呑む間に、返す刀で隣にいた男の肩口を深々と斬り下げた。上段から唸りを上げて落ちかかる敵の剣を体を開いて躱し、踏み込みながら一瞬で胴を抜く。中に鎖襦袢を着込んでいるらしいが、久弥の斬撃は紙を断つように易々とそれを切り裂いた。そのまま霜髪の老侍と切り結んでいた男に駆け寄り、すれ違いざまの一閃で首根を薙ぐ。血煙が巻き上がり、瞬く間に四人が斃れた。
鉢金姿の男たちが唖然として死体を見下ろし、次いで殺気を漲らせて血走った目を一斉にこちらへ向ける。一方の藩士たちも、突如躍り込んできた若い浪人の修羅のごとき技に顔を強張らせ、喜ぶべきか恐れるべきか迷っている。
「おお、かたじけない!」
老侍が驚喜の声を上げ藩士を見回した。
「こちらはお味方ぞ! 者ども怯むな!」
藩士たちの間に、おお、という安堵と興奮の入り交じった歓声が広がっていく。
「久弥様、ご助勢まことに恐縮至極」
肩で喘ぎつつ老侍が囁く。
「頼母、舟か?」
鋒で目の前の男たちを牽制しながら低く応じると、江戸家老の諏訪頼母は血走った目を見開いて頷いた。
やはり。舟で脱出するつもりなのだ。
味方はすでに多数が討たれ、四十名ばかりと少ないうえに、実戦の経験など皆無に等しいはずだ。対する鉢金に襷掛けの男たちはざっと倍以上はおり、腕においても圧倒しているのが見て取れる。追撃を振り切るには、舟を使って浜町堀から大川に逃れる他にないのだ。
「小川橋が燃え落ち川を塞いでおります。牧野豊前守様の下屋敷まで下らねばなりませぬ」
諏訪の声を背中で聞きながら地を蹴ると、久弥は目の前の男と刃を噛み合わせた。刀を引いて相手の体が泳いだところを袈裟懸けに斬り倒す。血しぶきを上げて斃れる男の向こうに、見覚えのある人影を捉えた。側近の輪の中心に佇むその人は、小槇藩主の山辺伊豆守彰久に違いなかった。
――父上。
門前から大川へ向かう浜町河岸に、次々と敵味方の骸が転がった。
執拗に追いすがる敵を斬り伏せ、苦戦する藩士を見れば助太刀に走る。斬って捨て、また切り結ぶ間に、何人斃したかもわからなくなっていた。
「逆賊どもめが!」
諏訪家老の吼える声が、熱を帯びた大気を震わせる。
「御前をお乗せしろ!」
「早う!」
河岸の舟に至った手勢が叫び交わすのを聞き、敵が色めき立った。焦りと怒気を膨れ上がらせ、狂気のごとく斬り込んでくる。
はげしい戦闘に消耗し、藩士の動きが鈍っていた。視界の隅で、打ち下ろされた剣を受けきれず、侍がぐらりと膝を崩すのが見える。久弥は猛然と走り寄るなり、侍の脳天を拝み打ちにしようとしている男の両腕を一刀の下に叩き斬った。
わっと叫ぶ男には目もくれず反転し、倒れた侍にとどめを刺そうとしている男に食らいつく。片手突きで相手の脇腹を鍔元まで貫いた次の瞬間、ぱっと柄から手を離して身を反らすと、新手の斬撃が鼻先をかすめた。
素早く左手を伸ばして相手の腕をむずと捉え、右手で脇差を抜きながら一瞬で喉笛を掻き斬る。吹き上がった血が雨のごとく降り注ぎ、灰色の道を真紅の斑に染める。返り血を浴びながら腰を落とし、脇差を中段に構えると、男たちが気魄に呑まれたように後退った。
猪牙舟が水を蹴立てて進む音が背後に起こり、速やかに遠ざかっていく。
「御前はご無事じゃ」
「ようやった!」
響いてきた声に、藩士たちの活気が戻った。気力を奮い起こして襷掛けの男たちに相対し、両者は降りかかる灰を透かして睨み合う。
やがて、敵は忌々しげにじりじりと後退すると、申し合わせたかのごとく無言で身を翻し、次々に薄闇の中へと走り去っていった。
――雪のように灰が降る。
戦いの後、人目を避けて上屋敷を去った久弥は、灰色の景色の中を一人歩いていた。
耳が痛くなるほどの静寂が、体を押し包んでいる。
大勢の血を吸った腰の刀がひどく重かった。己へのえも言われぬおぞましさを呑み込んで、三味線に触れることばかりを考える。早く糸の音を聴きたい。ここはあまりにも静かすぎる。それだけを思って歩を運んでいた久弥は、つと足を止めた。
訝しげに細めた目に、橋の上にぽつんと立つ、幻かと見紛う子供の姿が映った。
やわらかな葉音がやさしく耳をくすぐっていた。瞼を開けば、斜陽に染まった障子と、飛び立つ雀の影が視界に入る。畳に延べた蒲団の上で、久弥は大きく嘆息した。体を休めているうちに眠り込んでいたらしい。
体を起こすと、衣桁の後ろに置いた三味線箱に視線が留まった。慎ましい稽古部屋には不釣り合いな、最高級の総桐で作られた仄かに白く輝く箱だ。蓋を飾る丸に剣片喰紋の彫金と、見事な細工を施された隅金具が、繊細で眩い黄金色を放っている。久弥は物憂い眼差しをそれに注いだ。
昨夜、小槇藩江戸家老である諏訪頼母から文を受け取った時のことが思い出された。十五万石を誇る小槇藩主の山辺彰久は、次席家老家木陣右衛門の謀反によって、数日前から上屋敷の奥に軟禁されていた。諏訪は大火の混乱に乗じて藩主を救出すべく、断腸の思いで久弥の一刀流の腕を頼ってきたのだった。……だが、久弥は即答を躊躇った。
そんないきさつは知ったことではない。己は三味線弾きなのだ。山辺家の争いに巻き込まれるのはまっぴらだと叫びたかった。
――しかし、彰久は実の父だ。
父子とはいえ、彰久と庶子である久弥の縁など薄いものでしかない。顔を合わせたことさえ数えるほどしかなかった。それでも、父の危機とあらば力を貸さぬわけにはいかない。迷った末に腹を決めた久弥は、未明に深川側の新大橋の袂で猪牙舟を雇い、熱風が吹きすさぶ大川を渡り、密かに対岸の菖蒲河岸に上がったのだった。
騒動の原因は跡目争いである。
彰久と正室の実子である彰則と、支藩からの養子である宗靖のどちらを世子とするかをめぐって、藩主である父と次席家老が対立し、家中を二分する泥沼の政争が続いていた。
昨年まで大坂城代を務めていた彰久は、今年若年寄を拝命し、大名小路に拝領屋敷を与えられることとなっていた。浜町に位置する上屋敷は屋敷替えの準備に追われていて、浮き足立っていた隙を突かれた。
百人近い番士が反旗を翻し、上屋敷は突如占拠された。そして彼らは、宗靖を世子に指名するよう武力で父に迫ったのだった。
久弥と藩士たちの必死の働きにより、彰久は浜町堀を舟で下り、無事大川へと逃れたはずだ。その後は筋違御門前の、青山下野守忠裕の上屋敷に保護を求める手筈だという。老中首座として辣腕をふるう下野守は縁戚でもあり、野心家の彰久を若年寄の地位へと押し上げるために便宜をはかってきたと聞くから、ここで見捨てることはすまい。
――……だが、ことはこれで収まらんだろうな。
物思いに沈んでいた久弥は、耳を澄ました。少年が眠っているはずの隣の寝間に物音が立つ。ごそごそと夜着の下で身じろぎしているらしい。
こんなふうに、己以外の気配を家の内で感じるのは久しぶりだ。それも幼い子供がいるというのは、何だか奇妙でくすぐったい心地がする。
向島に暮らしていた十八の時以来、本所のこの屋敷へ居を移して六年になるが、門人やわずかな友人が出入りする他は、女中も下男も置かなかった。まして、家族を持つことなど考えもしなかった。望まなかったと言えば嘘になる。だが、いつ討たれるかもわからぬ身でそんなことができるものか。思いを寄せてくれる人に、同じものを返してやることもできない。誰かと共に生きることなど、望めない人生だ。
……それなのに、死に覆われた焼け跡で寄る辺なく佇む子供を抱え上げたら、何かが心を急き立てた。
「……目が覚めたのか。気分はどうだ」
唐紙越しに声をかけた途端、物音が止んだ。そのまま息を殺しているらしい。相変わらずの反応に苦笑いを浮かべ、久弥は唐紙を大きく開いた。
「腹が減っただろう。飯にするか」
夜着の下にこんもりしたふくらみができていて、小さな顔が半分ばかり覗いていた。困り顔で目を瞬かせている様子は、悪戯がばれた子犬か何かのようだ。視線がうろうろと宙をさまよう。その目が、不意に何かの上に留まった。
少年の視線を辿り、立箱に収まった三味線を見ているらしいと察した。
表情の乏しかった瞳が強い好奇心を浮かべている。久弥は少し思料すると、箱に歩み寄り紫檀の三味線と撥を取り上げた。そのまま寝間の縁側の近くに座る様子を、少年が目で追っている。
三味線を膝に乗せ、左手で糸巻を調整し三下りに合わせた。背筋を伸ばして撥を構え、すっと息を吸う。
空気が鋭く引き締まった。
チャン、と鮮やかな糸の音が冴え渡り、少年が息を呑む。力強く艶のある声で空気を震わせながら、久弥は唄い出した。
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