証なるもの

笹目いく子

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あの夜へ(一)

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 市ヶ谷で一度駕篭を替え、牛込に至る頃には、空が熟した柿のような橙に燃えていた。
 馬場下横町の表店の前で駕篭を飛び降りると、揚戸はすでに下ろされていた。店の脇から奥へと走り、小さな母屋の縁側から内へと飛び上がった。
 座敷にも縁側にも、人の気配がない。
 台所も、茶の間も、寝間も、しんと静まりかえっている。店も母屋も、もぬけの殻だった。
 茶道具や煙草盆は使いかけのまま放り出されてあった。
 茜色に染まった無人の茶の間に佇んだまま、紀堂は胸を刺す不安に身震いした。
 どこだ。皆どこへ行ったのだ。
 楽其楽園か? しかし、なぜ。
 はっと顔をはね上げて耳を澄ませた。静かな足音が、廊下の奥から近づいていた。
 紀堂が見つめる唐紙が開いて、黒羽織姿の大番頭が部屋に入ってきた。

「……藤五郎」

 無言のまま目の前に立った男を、呆然と見上げた。

「ここで、何をしている。……小島様らは、先生はどこだ? 藤五郎、なぜ答えない。皆、どこへ行った?」

 喉の奥で、心ノ臓の音がやけに大きく響きだす。どす黒い恐れがこみ上げる。自分の声が次第に強張り、乱れていくのを感じながら、紀堂は大番頭の前に立ちはだかっていた。

「考えておりました」

 藤五郎が鋭く整った顔を持ち上げ、奇妙なほどに落ち着いた声を発した。
 
「どうすべきなのかを、考えておりました……」
「何を……何の話だ。藤五郎」

 束の間の、しかし永久に思えるような沈黙の後、藤五郎が言った。

「野月様と皆様方は、楽其楽園へ向かわれました」

 音を立てて血の気が引いた。混乱が一気に押し寄せ、視界がぐらぐらと揺れる。凍えるような予感に全身がふるえ出す。まさか。……まさか。

「先刻、ねずみの弥之吉がやってきました。……小石川の方角から火盗改が沸いて出て、神田上水に沿って遡っていくのを見たと。騎馬の侍は柳井対馬守に違いないと……」

 殴られたような衝撃で目の前が白くなる。次の瞬間、紀堂は慄然として叫んでいた。

「──広衛を殺しに向かう気か!」
「ご公儀の命であるのかはっきり致しません。広衛様の居場所が伝わり、柳井が独断で動いているのかも……」

 藤五郎が感情の読み取れぬ声で言う。

「柳井は若殿様を討ち漏らしましたから……。失点を挽回しろとでも命じられたのかもしれません」

 がちがちと鳴っているのが自分の歯であることを、紀堂はおぼろげに覚った。

「なぜ、言わなかった。なぜ、すぐに、俺に」

 いや、そんなことを言っている場合ではない。千川家が無実であると、広衛の口から漏れてはならぬのだ。柳井は島津の老公は元より、林肥後守、その背後にいる大御台の不興をも買っているはずだ。何としてでも広衛を亡き者としたいに違いなかった。
 踵を返し、縁側へ向かって走ろうとした。途端、藤五郎が動いて行く手を阻んだ。

「藤五郎!」

 かっと両目を見開くなり吼えた。

「広彬様は決してお連れしてはならぬと、弥之吉が皆様のご伝言を伝えて参りました」

 鋼のような眼差しで大番頭が低く言う。

「藤五郎、そこをどけ!」

 殺気混じりの大声を上げたのにも、藤五郎は怯まなかった。

「若殿様をお守りできなければ、お血筋を残すのはあなた様しかおられない。決して千川様のお血筋を絶やしてはならぬと、小島様や加納様が仰いましたのです」

 言葉が出ない。拳を握り締め、激怒のあまり息を上ずらせた。

「……広衛は、死なせぬ。お前であっても許さん。どかぬか!」
「旦那様」

 ずいと藤五郎が前に出た。紀堂は五尺七寸ほど背丈があるが、藤五郎の方が上背がある。だが武芸の心得がある紀堂にはものの数ではないと、藤五郎もわかっているはずだ。

「冗談じゃありません」

 紀堂は息を飲んだ。
 大番頭の双眸から流れるものが、夕日を映して血のように赤い。
 藤五郎が涙を流すのを見るのは初めてだった。義父と、実父の平五郎が亡くなった時でさえ、涙を見せなかった男だった。

「手前は侍じゃございません」

 ふるえる声で唸るように言う。

「こんなところで死なせるために、あなた様をお育てしたんじゃございません。私はそんなに、潔くなんぞないんです。商人ってのは、しぶとくなけりゃ務まらないんですよ」

 黒羽織の肩を波打たせ、きりきりと歯を噛み締める大番頭の姿を、紀堂は張り裂けそうな目で見詰めた。

「おわかりですか、旦那様。……おわかりですか」

 紀堂と大鳥屋を、命のように守ってきた男だった。
 地獄までついてこいと言えば、黙々と従うだろう。手を汚せと言えば、躊躇わぬだろう。
 紀堂が大鳥屋店主である限り。
 だがこの若い店主は、藤五郎が行くことのできぬ場所へ、大鳥屋も、五代目紀堂であることも捨てて死にに行くという。そんなことが受け入れられるわけがないと、濡れた両目が叫んでいる。
 行かねばならないと思うのに、一歩も動くことができなかった。
 藤五郎の悲しみが、岩のように重い業が、背にのしかかっていた。
 広衛。
 窒息しそうになりながら瞼を閉じた時、嘘のように静まった声が耳に届いた。

「弥之吉の知らせを受けた後、手前は花筏へ参りました」

 思わず耳を疑った。大番頭の曇った目を、凍りついたように見詰めた。

「私は……若女将にお伝え致しました。その上で、お訊ねしましたのです。旦那様を引き止めることをお望みになるかと。……何も知らなかったふりをすれば、旦那様を危険に晒すことはないと、申し上げました」

 呼吸が上ずり、息ができない。藤五郎の顔から、目を逸らせなかった。

「そうしましたら……」

 藤五郎の瞳が射抜くようにこちらを見ている。

「若女将は、私に頭をお下げになりました。申し訳ない、しかし、どうか旦那様を行かせて差し上げて下さいと……涙を流しておっしゃいました」

 自分の喉が、鋭く軋む音を聞いた。

「藤五郎さん、本当に申し訳ありません。でも、この通りです。紀堂さんを許して差し上げて下さい。どうか、行かせてあげて下さい。この通り、後生です……」

 畳に顔を伏した有里は、藤五郎さん、この通りです、と声をふるわせて繰り返したという。
 力の抜けそうな足を踏みしめて堪えた。後悔するなと言った娘の顔が眼前に浮かぶ。
 痛みと共に目頭から伝い落ちたものが、引き結んだ唇を濡らしていた。
 旦那様、と呼ぶ声に、ゆっくりと目を上げた。
 水のように穏やかな表情で、藤五郎がこちらを見ている。哀しみを押し殺した、静謐に満ちた目が、頷いた気がした。
 目の奥が、苦い疼きと共に熱くなった。許すというのか。こんな風に捨てていく俺を、許すと。
 手に握り締めた刀袋を見下ろした。
 脳裏に映る、笑顔の義父に向かって、詫びた。
 袋の紐を解き、打刀の鞘を腰に差す様子を、藤五郎は黙したまま見詰めている。
 羽織を脱ぎ捨てて目を上げた時、紀堂はもう迷ってはいなかった。

「大鳥屋は、お前に預ける」

 藤五郎を見据えて背筋を伸ばすと、大番頭は静かに頷いた。

「……はい。承りました」

 頭の中に、己を呼ぶ遠い声が響いている。
 死に絶えた家の冷たい白壁が見える。絶叫と剣戟の中に、無数の松明が燃え盛っている。赤々とした明かりに浮かび上がる、累々と倒れた家臣の遺骸と、血染めの寝間着に身を包み、血刀を提げて立つ父が見える。
 あの夜が、呼んでいる。
 これは、己への復讐だ。無力であった己自身への、復讐なのだ。
 愚かであろうと、無力であろうと、今、行かなくては。
 
──あの夜へ、戻るのだ。

「藤五郎。──すまない」

 大番頭の横をすり抜けて走り出した紀堂の耳に、

「行ってらっしゃいませ」

 と言う藤五郎の声が、ひそやかに届いた。
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