証なるもの

笹目いく子

文字の大きさ
上 下
40 / 59

休息

しおりを挟む
 大鳥包の始末と平行して、藤五郎は飯田堀家への工作も進めていた。
 大伝馬町の生糸商から堀家への口利きを得ると同時に、見聞方にも藩財政や家政人事状況をあらかた探らせていた。持ち前の有能さを発揮して交渉相手となる家臣を調べ上げると、あの手この手で堀家の役人を口説き落とし、すぐに酒席の約束を取り付けてきたのだった。それを聞いた紀堂は、まだ傷が塞がっていない中、無理を押して饗応の場に出ていった。
「私だけでも用は足ります。いつまたあの連中が襲ってくるかわかりませんし、他出なさるのは危険です」と藤五郎は気が進まぬ様子だったが、役を得る以上の交渉をするのだから、店主が出向かねばならないと押し切った。薩摩の隠密衆のことといい、公用人らに会って話を聞き出さねばならない。無駄足になっても、この機会を逃すわけにはいかなかった。

「包金の件は片が付いたし、水野家が睨みをきかせていると知れれば、昨日の今日で大鳥屋と俺に手を出そうとはしないだろう」

 と言うと、藤五郎は渋々と承諾したのだった。
 二万石の小藩である飯田の財政は苦しく、紙や漆の生産の他、京の西陣を主として高値で取引される生糸の収入に大きく依存している。そのため生糸の売買は藩の厳しい統制下に置かれていた。糸荷は通常為替付きで国元から各地の生糸商へと運ばれ、為替金支払方が荷主に為替金を立て替えて支払う。支払いの立て替えを行うこの為替金支払方に、大鳥屋が名乗りを上げたのだった。立て替えの莫大な代金は、糸荷が実際に売買されるまで当然支払方のかかりとなるから、資金力がなければ為替金支払方の役は務まらない。大鳥屋のような大両替商の出番となるわけだ。
 生糸商は糸荷を売り捌き、利子を付けた上で為替金支払方に金を返済することになる。江戸南伝馬町の生糸商へ運ばれてくる糸荷は一箇五十きん入で、金百両の為替金を荷主に支払うことになっている。為替百両につき為替打料金は二分。大鳥屋と飯田側の交渉では、売り捌くまでの利子は一ヶ月一両と決まった。その他にも歩合による利益が入る予定で、飯田の生糸生産力と生糸価格の上昇を鑑みれば、向後大鳥屋には潤沢な利が見込めた。
 飯田藩側も大店大鳥屋の名乗りを歓迎し、取引の内容に終始満足げであった。
 紀堂はそれを逃さず、用人ら重役への目通りを願いたいのだが、と取締方の役人に申し出た。

「ご用人様の杉本様には、過日にもご芳情を賜ってございます。ぜひともお礼を申し上げたく……」

 大鳥屋店主の滴るような美男子ぶりに度肝を抜かれ、その如才なさにも魅了されていた役人たちは、紀堂の頼みを無下にもできず、後日上屋敷へ出向くよう伝えてきたのだった。

***

 葉月も終わりに近づいて、うだるようだった暑さが和らいでいた。
 有里は紀堂の傷が塞がるまで、毎日のように見舞いにやってきた。そうして、花筏で用意した滋養のある料理を差し入れては、紀堂が美味そうに食するのを嬉しげに眺めていた。

「私が戻りますとね、紀堂さんの傷はどうだ、熱は引いたかって兄さんが質問攻めにするんです。だから自分でお見舞いに行ってらっしゃいよって言うんですけれど……「絶交中なのに行かれるか」って言い張るんです」

 風に秋の気配を濃く感じるようになった葉月の晦日、昼前にやってきた有里が、卵豆腐の碗を手渡しながら眉を下げた。
 居間で寛ぎながらそれを受け取った紀堂は、唇を引いて笑った。
 花筏の男衆が運んできた傍らの岡持ちには、芝えびと枝豆の混ぜ飯や、すずきの幽庵焼き、それに水菓子やら葛きりやらがぎっしり納められている。花筏の卵豆腐と葛きりは紀堂の好物だ。卵豆腐は出汁をきかせた上品な味わいの上に、この時期には蓴菜じゅんさいの餡がとろりとかけてある絶品だった。葛きりは江戸ではところてんのように三杯酢、上方では黒蜜をかけて食するが、花筏ではひんやりと冷やしたぜんざいにする。葛きりの弾力とふっくら甘い小豆の感触が楽しい涼菓だ。

「葛きりのぜんざい、お好きでしょう? 兄さんがこっそり入れておいてくれたんです。でも、絶交中なんですって」

 子供みたい、と言って、有里はおかしそうに笑った。
 これから何をする気なのか、とは訊ねてこない。ただ以前のように側にいて、時折、父や弟のことを聞きたがった。それもずっと昔の、父と交わした会話だとか、幼い弟の様子だとか、そんなことを知りたがった。紀堂は丁寧に答えた。できる限り鮮明に思い出しながら、有里にそれが伝わるように語った。有里の心に応えるためにできることは、何でもしたかった。

「……有里さん。明後日、飯田堀家へ出向くことになった」

 有里と甘い葛きりを堪能した紀堂は、女中の出した茶を喫している娘に告げた。

「空振りになるかもしれないが、訊ねたいことがある」

 有里は湯飲みを置いてこちらを見上げると、

「そうですか。……お気をつけていってらしてくださいね」

 とかすかな緊張を浮かべた目で言った。

「うん。戻ったらすぐに知らせるから、案じないで待っていてくれ」

 そう付け加えると、娘は少し安堵したように、ゆっくりと頷いた。
 紀堂は右手を差し伸べ、有里の膝の上に置かれた細い手に重ねた。そうして、有里を安心させるように包み込んだ。  

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

出雲屋の客

笹目いく子
歴史・時代
短篇です。江戸堀留町の口入屋『出雲屋』は、乳母奉公と養子縁組ばかりを扱う風変わりな口入屋だった。子を失い、横暴な夫に命じられるまま乳母奉公の口を求めて店を訪れた佐和は、女店主の染から呉服商泉屋を紹介される。 店主の市衛門は妻を失い、乳飲み子の香奈を抱えて途方に暮れていた。泉屋で奉公をはじめた佐和は、市衛門を密かに慕うようになっていたが、粗暴な夫の太介は香奈の拐かしを企んでいた。 夫と離縁し、行き場をなくした佐和を、染は出雲屋に雇う。養子縁組の仕事を手伝いながら、佐和は自分の生きる道を少しずつ見つけて行くのだった。

深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子
歴史・時代
第8回歴史·時代小説大賞特別賞受賞。コメディタッチのお江戸あやかしミステリー。連作短篇です。 大店の次男坊・仙一郎は怪異に目がない変人で、深川の屋敷にいわく因縁つきの「がらくた」を収集している。呪いも祟りも信じない女中のお凛は、仙一郎の酔狂にあきれながらも、あやしげな品々の謎の解明に今日も付き合わされ……。

鎮魂の絵師

霞花怜
歴史・時代
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。 【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】 ※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)

時雨太夫

歴史・時代
江戸・吉原。 大見世喜瀬屋の太夫時雨が自分の見世が巻き込まれた事件を解決する物語です。

独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖

笹目いく子
歴史・時代
旧題:調べ、かき鳴らせ 第8回歴史·時代小説大賞、大賞受賞作品。本所松坂町の三味線師匠である岡安久弥は、三味線名手として名を馳せる一方で、一刀流の使い手でもある謎めいた浪人だった。 文政の己丑火事の最中、とある大名家の内紛の助太刀を頼まれた久弥は、神田で焼け出された少年を拾う。 出自に秘密を抱え、孤独に生きてきた久弥は、青馬と名付けた少年を育てはじめ、やがて彼に天賦の三味線の才能があることに気付く。 青馬に三味線を教え、密かに思いを寄せる柳橋芸者の真澄や、友人の医師橋倉らと青馬の成長を見守りながら、久弥は幸福な日々を過ごすのだが…… ある日その平穏な生活は暗転する。生家に政変が生じ、久弥は青馬や真澄から引き離され、後嗣争いの渦へと巻き込まれていく。彼は愛する人々の元へ戻れるのだろうか?(性描写はありませんが、暴力場面あり)

春雷のあと

紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。 その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。 太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

狐侍こんこんちき

月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。 父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。 そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、 門弟なんぞはひとりもいやしない。 寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。 かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。 のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。 おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。 もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。 けれどもある日のこと。 自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。 脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。 こんこんちきちき、こんちきちん。 家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。 巻き起こる騒動の数々。 これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。

処理中です...