証なるもの

笹目いく子

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駆け引き

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「旦那様、そろそろお見えです」

 その二日後の朝餉の後、傷の痛みをこらえながら紋付袴に身を包んでいると、藤五郎が唐紙の外から声をかけてきた。

「……わかった」

 羽織を纏いながら、紀堂は頬を引き締めた。
 熱が引いたとはいえ、まだ傷は塞がらず、油断すると膝から力が抜けそうになる。これから顔を合わせる客人のことを考えると、左胸の傷を嫌でも意識して身が竦む。だが、是が非でもこの場を切り抜けなければならない。自身の身の安全を確保し、大鳥屋の信用を守るために、今からはじまる駆け引きに勝たねばならないのだ。
 藤五郎がいつも通りの平静な顔で頷くのを見ながら、紀堂は背筋を伸ばし、大鳥屋店主の顔を作った。

 母屋でもっとも格式の高い奥座敷で、紀堂と藤五郎は上座に向かって拝跪していた。
 唐紙がすべり、きびきびとした足取りで客が入ってくる気配がある。
 床の間を背にして、重々しい音を立てながら着座した人物が、低く声を張り上げた。

「大鳥屋店主、紀堂であるな。面を上げよ」

 は、と小声で応じて顔を上げると、ぎょろりとした目と大きな口の目立つ、太り肉の男がこちらを見下ろしていた。薩摩江戸屋敷勝手方役人の、馬場宗太郎という。

「大鳥包について、申し開きがあるとのこと。その方の加減が優れぬということゆえ、わざわざ出向いた」
「ありがたき幸せに存じます。ご足労を賜り、まことに恐縮至極にございます」

 畳に額をすりつけると、冷やかな声が降ってくる。

「申し開きであれば当方屋敷にてせよ。駕篭ならば表に仕立ててある。すぐに参れ」
「それはどうかお許し下さいまし。まだ傷が癒えぬ身でございますれば……」
「口さえ利けるのであれば構わぬ。即、支度をせよ。参らぬのであれば面倒なことになるぞ」

 男が腰の脇差に手をかけながら、ねっとりとした口調で言った。

「……過日おいでになられた八代様と申されるお方も、そのように仰せでございました」

 紀堂は涼しげな声を上げた。

「大鳥包の真贋について、上役方の御前にて申し開きをせよと、大層なご剣幕であられました」

 馬場の目が無表情に見下ろしている。ぎょろりとした目玉になんの感情も浮かばぬ様子は、男の得体の知れない雰囲気を際立たせる。おそらく、この男も隠密であるのかもしれない。

「この傷は、八代様が手前に刀をふるわれた時のもの。三田へ参上すれば、この上いかなる厳しいご処罰を賜るのかと、恐ろしゅうてなりませぬ。どうかお屋敷への参上はお許しをお願い申し上げたく……」
「貴様、立場をわきまえておるのか」

 かっと男の大きな口が気焔を吐いた。だが、その怒り方はどこか作り物めいて白々しい。

「八代などという者は、当家には仕えておらぬ。島津家中を騙る慮外者の仕業なれば、心配は無用」
「しかし……」
「くどいぞ、貴様。大鳥屋が贋金を掴ませているとの評判が立っても構わぬのか?」

 馬場が黒々とした毒気を口から吐き出すようにして、身を乗り出した時。

「その話、聞き捨てならぬの」

 すらりと奥の唐紙が開き、男がひとり入ってきた。さっと紀堂と藤五郎が平伏するのを、馬場が怪訝そうにうかがう気配を感じる。

「……そこもとは」

 呟きかけて、はっと息を飲んだらしかった。

「は。水野越前守様がご公用人であらせられる、牧田幾右衛門様にございます」

 平伏したまま恭しく紀堂が言うと、「なに」と弾かれたように馬場が腰を浮かせた。そのまま、上座に坐る牧田に押しだされるように脇へと下がり、慌てて頭を下げている。

「これは、越前守様の……」

 押し出しのいい姿で泰然と坐した牧田は、

「馬場どの、お初にお目にかかる。牧田でござる」

 とゆっくりと言った。

「馬場宗太郎にございます。よもやご公用人様がおいでであったとは夢にも思わず……」

 鰻のようにぬらぬらとつかみ所のなかった声が、動揺を浮かべている。まさかこの場に、水野老中の公用人が出張ってくるとは、夢にも思っていなかったに違いない。
 水野越前守は薩摩の不倶戴天の敵だ。薩摩は密貿易によって巨大な利を得ていたが、越前守の強力な後押しで長崎貿易を封じられ、他の港へ船を迂回させたり、より巧妙な手立てを講じなくてはならなくなったりと、多大な不利益を被っているらしい。ただでさえ苦しい藩財政はますます窮乏し、恨みは骨髄に徹しているに違いない。しかし、水野家とことを構えるには時期が悪かった。莫大な借金に喘ぐ薩摩は、飛ぶ鳥を落とす勢いの水野越前守の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。

「本日は大鳥包に贋金の疑いありとの報せを受け、馳せ参じた。大鳥屋は水野家に出入りの店ゆえ、当家との取引に瑕瑾があれば一大事。ぜひとも委細をうかがわねばならぬと思料した次第。馬場どの、ぜひとも拙者の同席をお許しいただけますかな」

 すでにどっかりと上座に着いているにもかかわらず、今更に許しを乞うて見せる。

「いえ、その……それはもちろんでございますが」
「どうなされた。贋金の詳細、とくとお聞かせ下され。必要ならば当家が借り入れた包金も真贋鑑定にかけますぞ。うむ、それがよろしかろう。その方も異存はなかろうな、大鳥屋」
「はい。仰せの通りにございます」

 すかさず紀堂は顔を上げた。

「畏れながら、金座に持ち込み、溶解して調べるのが公正公明にございましょう。さっそく手配致します」
「──あいや、お、お待ちを。牧田様」
「いかがなされた」

 鋼のような光を浮かべた両目で、牧田が馬場をすうっと見遣る。
 馬場の大きな唇が妙な具合に歪んでいた。

「どうやらその、行き違いがあった様子。それがしは贋金があったとは言いきってはございませぬ。そのような事実があるのかないのかと、確かめに参っただけでありますれば……真贋鑑定などは、いささか性急に過ぎるかと」
「ほう。と、申されると、大鳥包に瑕瑾があったという事実はないと」公用人が腹に響く声で畳み掛ける。
「……さようにござる。あくまでも、そのう、噂を確かめに参っただけにございまして。ご公用人様のお手を煩わすようなことは……」
「なるほどのう。相わかり申した。それは重畳。まことに祝着なことだ」

 大きく頷き、絶妙な呼吸で「のう、大鳥屋」と切れ長の目で紀堂をじっと見下ろす。

「はい、牧田様。畏れながら、当店は奉公人一同、誠心誠意を第一に、お客様へ尽そうと励んで参りました。このような噂が出回るとはまさに驚天動地の事態にございますれば、身も細る思いで、夜も眠れず過ごしておりました。まことに、まことに安堵致してございます」

 眩いほどの微笑を白皙の美顔に浮かべると、馬場はぞろりとした殺気を両目に漲らせた。が、すぐにそれを消し去り、牧田に向かって神妙に頭を下げた。

「牧田様のお墨付きを頂戴致しましたならば、これほど心強きことはございませぬ。わざわざのお出まし、心より感謝申し上げまする。その……どうぞ、穏便にお願い申し上げます」

 ゆったりと頷く牧田に、ではこれにて、と馬場は居心地悪げに言って、長居は無用とばかりにそそくさと去っていった。

「……これでよいのか」

 しばしの沈黙の後、牧田が口を開いた。
 紀堂と藤五郎は、深々と叩頭した。

「牧田様。かような願いをお聞き届け下さりまして、ありがたき幸せにございます」
「まったくよ。この私を店にまで呼びつけおって。……礼に年利を引き下げるだと、小賢しいことを申す」

 牧田はそう詰りつつ、楽しげに笑った。
 貸し付けた五千両の年利を下げるから、大鳥屋までお運びいただき薩摩の使者と同席願いたい、というのが、藤五郎が紀堂に認めさせた牧田宛ての文の内容であった。老中の公用人を店に呼びつけるなどという暴挙であるが、牧田は体面よりも実益を取る男だ。必ず応じてくる、と藤五郎は言いきった。ことはどうやら藤五郎の筋書き通りに運んだらしい。つくづく恐ろしい大番頭だ、と紀堂はまたも舌を巻いていた。

「恐れ入ってございます。店の存亡にかかわる事態なれば、なりふりかまってもおられませず……返す返すも、ご無礼仕りました」
「よい。あの男の顔は見物であった。それに、薩摩には大人しくしておいてもらわねばならぬのだ」

 牧田は目にひんやりとした笑みを浮かべ、それにしても、と続けた。

「あの馬場とやら、役人とは見えぬな」

 紀堂が目を上げると、公用人は思案顔でこちらを見ていた。

「つい三日ほど前に両国広小路で刃傷騒ぎがあり、薩摩の隠密の死体が見つかったとかいう噂を耳にした。その時、その方は何者かに拉致されかけたそうだな。で、今日もまた薩摩か。これは偶然か? いったいどういった次第で、薩摩が大鳥屋に近づいておるのだ?」
「……さて、それが手前共にもはっきり致しませぬので……ご用立てを幾度もお断り致しましたのがお怒りに触れたのかと」
「今の薩摩へ金を用立てたい者なぞ、いなかろうな」

 にやりと牧田が笑う。いい性格をしている。この男も相当な曲者だ、と紀堂は内心首をすくめた。

「だが、それにしてはことが大袈裟である気もするが……」

 そう言いながら、探るようにこちらを凝視する。紀堂も藤五郎も無言を貫き、素知らぬ顔を装った。

「──食えぬのう。まぁ、大鳥屋に何かがあっては当家も困る。薩摩にはくれぐれも注意することだ」

 と、公用人は含みのある目を向けたまま言った。

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